Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ はやし ただまさ 林 忠正浮世絵事典
 ◯『浮世絵』第十六号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「日本の錦絵を欧米に紹介してくれた 林忠正氏の活動振」石井研堂   〝  歌麿が八厘の時代     今日では、猫も杓子も錦絵々々といふて、ヤレ歌麿がどうの清長がどうのと、受売の美術論乃至堀出    咄を真面目にやつて居るが、林氏が、早くも此の錦絵を目を著け、人知れずコツソリ儲けて居たのは、    もう二三十年前のことだ、当時は、歌麿も淸長もあつたものでなく、自分は巴里(パリ)に居て売る方に    骨を折り、東京の仕入は其の細君がやつて、それで十分仕入れが出来て居たのであつた。細君の仕入ぶ    りが又極めて幼稚なもので、背取や屑屋に言ひつけておき、こんなのが有つたら持つておいでと、画師    の名を言ふでもなく、落款を指し示す位の注文に過ぎず、歌麿を八厘から買ひ始めて、仕舞には十五銭    位まで出したといふ話だ、それが、あちらへ往つて、幾らに売れたのか誰も知らない、少なくも数百フ    ランづゝに羽が生えて飛んだに違ひ無い。     これ等が先駆となつて追々内地の錦絵熱を煽り、終に今日のやうな全盛期にしてくれた、で、ある一    部の人々は、林氏を徳として日本錦絵界の大恩人だといふて居るが、無論それは、大の儲けた人々の口    から出る言葉で、予輩貧乏書生から言ふならば、林氏さへ無かりせば、日本の版画はあれまでに海外へ    出なかつたらうと悔まざるを得ないのである     それは兎も角、林氏は、錦絵の為めに巨万の富を成したに違ひ無い、併しそれは、林氏独特の腕で売    つた訳で、その商業には、約二三十年間の予備修業の有つたことを知るものは少いやうだ、また巴里を    見たこともなく、言葉も碌に通じない者が今日日本で仕入れて、突然巴里へ持つて往つた処で、さう売    れる筈は無い、売るには売るだけの予備行為が必要である、たとひ同一の商品にもせよ、林氏が売れば    売れるが、他の者が売らうとしても売れないかも知れない、其の間の原因結果を一通り調べておいたも    のがあるが 憾むらくは紙面が狭いから、僅に其の予備時代の活動談を綴り、錦絵売込は、之を後号に    譲つておかう      士族の商法     林忠正氏は、実業に成功したには相違無いが、尚髭を蓄へ洋服を着る方の実業家で、時には半官半民    の人でもあつた。これ、明治維新後に行はれた「士族の商法」てふ諺に支配されずに仕舞つた一因で、    氏の賢い処も亦こゝに在つたのだ、氏は元、越中高岡なる長崎言定といふ医者の二男として生れた人で    あつた、この長崎といふ人は、一地方の学者として、医者の家業の外に、近郷子弟の為めに漢学と蘭学    の教授もやつて居た     言定の親族に、林太仲といふ人有り、富山県の志士で、肥前の長崎に亡命し、蘭学を修めて居たが、    維新後に帰藩し、越後柏崎県の知事や富山藩の大参事などを勤め、過激な改革派のチヤキ/\であつた、    此の人に養はれて嗣子となつたのが即ち忠正氏で、後ち藩の貢進生として大学南校に入り、語学を学ぶ    べき書生となつた、氏も、後年「私は、業成るの暁には、藩に帰つて政柄を執る了簡で、道具屋になら    うとは心に期しなかつた」と言ふて居るが、これは実際の述懐なのだ      博覧会の通弁にて渡航す     林氏は、斯る身分で、南校に入り、仏語科を修めて居た この時に撰んだ仏語が、何ぞ知らん 氏一    生の境遇を開くことにならんとは、当時の南校は英仏独の三科に分れて居て 仏独科生徒が少いので、    今後は新に募集しないといふ有様 官費留学生なども、どうやら仏語科からは出そうも無かつた     当時の学生は、何れも西洋留学を望まないものは無く、其の平生学ぶ所を、もう一層仕上げをしなけ    れば、何の役にも立たないことを知つて居つた。林氏亦、熱心の留学希望者で、日夕渡航の道を考へて    居つたが、恰も好し明治十一年に、仏国に万国大博覧会があつて、本邦でも協賛し、出品することを耳    にした林氏 雀躍(こおどり)して喜び、どうかして渡航が成るまいか、渡航さへして仕舞へば、あとは    どうにかなろう位の了簡で、時の博覧会の幹部たる塩田真、平山成信氏等に頼み込み、通弁として雇い    入れらるゝことゝなつた 学校の方は もう六ヶ月で卒業といふ間際であつたので、校長の浜尾新氏が、    懇ろに説諭をしたが、好機を逸したくないからといふて断然退学し、次で仏国に渡り、会場内日本出品    部の通弁兼売子となつた、これが後年正五位勲四等といふ肩書つきの林忠正氏の少年時代なのだ〟  ◯『浮世絵』第十七号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「日本の錦絵を欧米に紹介してくれた 林忠正氏の活動振(二)」石井研堂   〝  △起立(きりふ)商工会社     当時、わが国の美術工芸品を、海外に輸出するを目的とし、各製作家を一団とした商社があつた、起    立商工会社即ちこてで、若井兼三郞といふ人が其の副社長であつた、若井氏も仏国に渡つたので、林氏    も相知るの間となり、博覧会閉会後、其の起立会社の支店を巴里におく計画なので、林氏は其の事務員    に使つてくれと懇請したが、志望者が多いので、すげなく断られ、どうしても帰国しなければならぬこ    とゝなつた。     が、折角こゝまで来て、空しく帰国するのは得策でない 石に囓りついても、二三年間滞留して、志    す所の工学を修めたいと、かう決心し、僅かばかりの帰朝旅費を得たのを力に、其のまゝ巴里に踏み止    まつた。     此の時、起立会社の事務員にはならなかつたが、林氏が後日骨董及び錦絵商として大発展をしたのは、    博覧会及びこの起立会社が因をなしたのであつた      △警監制度の取調助手     巴里といふ所では、今日でも日本の青年などの、小遣取の仕事などの無い所である、そこへ、言葉は    不十分、土地の様子も不案内といふ青年が、ぼんやり残つた処で、学問は愚、日々に糊口にも差支へ、    大窮迫に陥つた、時恰も、本邦政府の命を奉じ、警察監獄等の実施の状態や制度の取調べに着払した一    行があつた、大警視川路利良を筆頭として随行員が三四名であつた。その中に、佐和正といふ林氏の旧    友もあつたので、早速尋ねて往つて、各窗に一別以来の積る話をした。すると、川路氏は、中途より大    病にかゝり、取調べの方は手不足で困つて居る処だ、一つ手伝つてくれまいかといふ話、こちらは、無    業で苦しで居る矢さきなので、早速之を承諾し、それよりは、日々警察や監獄を尋ね、或は翻訳をなし、    力一杯努力したが、川路氏は病勢益々悪くて帰朝し、其の後は、一行中の三人と共に、白耳義(べるぎ)    和蘭(おらんだ)、独乙(どいつ)、魯西亜(ろしあ)、伊太利(いたり)等各国を順行して 視察調査をなし、    其の後、大山綱昌氏が憲兵制度取調に再び来仏した時も、それに手伝ひ、心ならずも二三年は、商業違    ひの方面に日を送つて仕舞つた。      △始めて商業に手を着く     記事は前に戻つて、彼の起立商工会社の巴里支店はどうなつたらうか、月給を取る外には何もわから    ない人々に任せてあつて、どうして仕事が出来やう、営業状態はてんで物にならないので、若井氏が再    び来仏し、今度は若井氏の方から、林氏に入社を勧め、是非一奮発をして貰ひたい、十分君の活動に打    任せるからとの相談を受けた。     では入社してやりませうと、それから若井氏と共に努力し奮励した、其効果は空しからず、社運大に    見るべきものとなつて来た、只、本国との連絡が円滑ならず、売れる物が有つても本社からは送つてく    れず、注文もせないものを送つてくるといふ風で、矢張「士族の商法」たるを免れず 若井氏の帰朝、    続いて本社の瓦解となつて、この方も没落して仕舞つた、併し、林氏の努力は消滅せず、後年に其の実    を結んだ。      △三井支店の雑貨を引取る     此の頃、三井物産会社の巴里支店に、雑貨古美術品が山のやうにあつた、ごみだらけになつて山を為    して居た、同支店は、元来、天産物を輸入販売するのが主眼であつたが、支店開設の時に持つて来たも    のや、十一年の博覧会の依托残品などが、其のまゝとなつて居たのであつた。     この時、米国の三井支店から、巴里の支店となつて赴任したのが 昨年来北浜事件で評判の岩下清周    氏であつた、双者の間は意気契合、大に支店の発展方法を講じたが、三井支店は、専ら天産物を扱ひ、    雑貨古美術品やうのものは、断然見切売をやつて清掃することになり、林氏が之を引き取り、独力で営    業を始めることになつたのが、即ち明治十七年の元旦、渡仏以来満六年ばかり活動の報酬として、福の    神は舞ひ込んだのである。      △英仏より米国まで     商人か書生さんか分からないやうな林氏が、下宿屋の一間に、少しばかりの品物を陳列して、開業と    いへば開業、兎も角商法を始めたのは愍れなものであつた、が、前に三井や起立会社に来たお客の顔な    じみもあり、品物を貸してくれる商店もあり、外人の嗜好も追々分つてくるので、働き甲斐があつた。     同年七月から、若井氏との相談で、若井エンド林コンパニーの組織となし、若井氏は内地から送る、    林氏は巴里で売る合資組合にもやつて見た。     が、追々やつて居る間に、恰好の種はさう有るものでなし、客は一度見た物を再び見ないという風に    なるので、じつとして居たのでは面白くない、国が変れば又好みも変らう 一つ英国に渡つて新地を開    拓しやうと、数回往復して居る間に、懇意の米国人から、君はまだ米国を知らないのだ、僕は何時でも    御相談に乗るからと、親切に勧められるので 英仏で売れない品で、米国に向きさうな品を携へて紐育    (ニュウヨーク)に渡り、彼の友人の世話になつて、瀬踏をやつた。      △東洋品の先鞭者     米国人中には、日本品を好む者もあり、支那の陶磁器玉器銅器等を好む者も少くない、是に於て眼は    更に大きくなり、直ぐ引返して英仏二国から、支那品を集めて又渡米し之を売捌いて見ると、結果は悪    くない、それから其の米人の信用保証で、英仏と米国間を数回往復して支那物を漁つて往つたが、一回    は一回より品が少いので困つた。これは寧ろ支那本国に渡つて採集するに如(し)くは無しと、其の米人    に話しえ合併事業となし、直ちに支那に赴いて香港天津北京各地で買込み、この時八年振りで、始めて    日本に立寄つたのであつた。     其の後、毎年のやうに、支那に買出しに渡つたか、相変らず種不足を嘆ずるやうになり、本邦の物を    盛んに輸出した、氏が、我邦の錦絵を欧米に紹介したのも、此の時代が最も盛んであつた。     明治三十三年に、仏国に万国大博覧会が解設さるゝに際し、氏は、本邦政府より命ぜられて、巴里万    国博覧会事務官長となり、大に其の声価を挙げたが、さきに、氏が博覧会の通弁兼売子として渡仏した    当時を回想する時は、人生の感慨深からざるをえなかつたであらう〟    〈起立商工会社は明治7年設立。明治24年解散。若井・林商会の発足は明治17年7月〉