Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ はやりもの 流行物浮世絵事典
 ☆ 明和七年(1770)    ◯『役者裏彩色』役者評判記(八文字屋八左衞門著・『歌舞伎評判記集成』第二期十巻p28)   〝江戸之巻目録    矢口の神霊中の芝居へ影向ありて、参詣くんじゆす。笠森の仙女羽衣なくて飛行して其行所をしらず。    勝川春章といふ画師役者似顔といふ書を顕はす。湯島へ飛んだ茶釜出る日時天鵞縅のうし顕るゝ。    森田坐へ里虹と云虹日ことに出る月をこへて評判きへず、見る人おびたゝし、この時仕切場の銭、山と    なる。町々へ竹わり甘露とうふる大キサ土平が飴のごとし。東叡山のふもと山下が原にて茶釜やくわん    の二色を堀出ス。嵯峨しやか如来回向院にて開帳時ならすむく鳥渡り幾世餅をおふく喰らふ。六月あわ    ゆき売るゝ。吉原美人揃の書成る。呂のかたびら加賀紋はじめて売ひろむ。なつよりあきまで日てりつ    ゞき、下駄のはな緒二足三文もせず〟    〈この役者似顔の書とは勝川春章・一筆斎文調画の『絵本舞台扇』、吉原美人揃の書は鈴木春信画の『青楼吉原美人合』     ともにこの七年の刊行。福内鬼外(平賀源内)作人形浄瑠璃『神霊矢口渡』はこの年の一月初演。二月頃、笠森お仙の     出奔と湯島の飛んだ茶釜女の出現が話題となる。天鵞絨の牛とは三月の湯島天神開帳時の奉納物。嵯峨釈迦如来の開     帳は六月〉    ☆ 寛政八年(1796)頃    ◯『半日閑話』巻二十一(『大田南畝全集』⑪p621)    〝寛政八年丙辰の頃江戸流行のもの    長大小に網代笠、麻着肩衣に藁草履、大胴乱にとふこ柄、御厩平に麻羽織、軍学皆伝惣免許、諸芸の見    分むださわぎ、武芸先生御役替、免許目録金次第、替るが早ひ諸役人、昨日の立身今日不首、役人四ッ    時差控、御番御免小普請入、そりさげ奴の御小納戸、なで付あたまの御役人、天狗咄に弄指沙汰、惣納    金に年賦沙汰、昔の役替金次第、当時の役替禄次第、禄有たわけ御小納戸、無禄でならぬ御番人、明和    の御趣意は御倹約、今では諸向取締、となへは替る借金公事、中から下に金はなし、大町人と御役人、    銭金たまる御奉公、堅ひも極めて不人柄、おんみつ風聞きゝ違ひ、江戸中見廻る勤仕並、草臥足の廻り    衆、帳面張札組合辻、安売引札せり呉服、能なしに小普請息子株、誹諧十種香花の会、植木唐鳥軍書読、    内々碁将棋酒もあり、何れも手弁六時限り、連中不残若隠居、又四ッ時の御役人、再勤替に抱らす、旧    悪そゝぎの古免許、近所の息子にむりおしへ、逢対定日惣皆勤、お影で武芸の御肝煎、家督小普請運次    第、宅番出精物入損、出家が穿人儒者揚り屋、朱子学古学いじり合、後世古法の医師問答、蔵板著述大    おどし、待合会読むだ咄し、聖堂御吟昧十五以下、奥の衆御吟味惣おやじ、明地は残らず的揚となり、    高ひくあるは植付揚、焼後の門に屋根はなし、あるのは残らず長屋住、大名旗本仮玄関、町屋は裏迄数    寄屋風、団扇は画づくしはんじ物、千社の張札皆石摺、引ケなし札付古道具、七色茶潰手打蕎麦、扨又    町中減じ方、七分の積と入蔵建、四文屋運上五文ヅヽ、きり見世運上弐割増、田舎親見世大当り、大見    せ残らずさへかへり、地主迷惑道普請,家主難義の木戸の番、店借きびしき火の廻り、家賃年貢は矢の    如し、塩味噌薪皆高直、下直にこまる米相場、世問よい/\はやり歌、きん玉堂の娘が来る、かゝる目    出度世渡りは、      ありがたや物見遊山は御法度で銭金持ず死る日を待つ      長生をすればくるしき責をうくめでた過たる御代の静さ〟    ☆ 文化六年(1809)    ◯『街談文々集要』p133(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)   (文化六年(1809)「時世為変化」)   〝我衣 五ノ巻 文化六ッの己の巳どし    近来流行する物、小倉の帯、今ニ至て十ヶ年廃らず、染色も紅・鳶、今年より少くなる、島縮緬もうる    さし、黒八丈・七ゝ子じま尤おくれたり、女中の黒裏、あまりドットせず、鼠色勿論おそまきなり、小    紋も今ハ高上になりて、金閣寺の、長楽寺のとて、往古の金襴もよふを、木綿の小紋におく、是を着す    る人、何の故をいふ事を知らず、只其名目を唱るのミ、南部縞、紬しま徳用向とて用ゆれど価貴し、又    二三年以来、地染手拭、大ニ流行して、下り物一向ニ売ず、夫ゆへ地染手拭屋の見世、多く出ル、予幼    年の頃、手拭安売、五十六文夫より六十八文ト、売歩行、或ハ両国橋の上抔ニて、売りし事なり。        寛政の末ニ、山東京伝子著せし忠臣水滸伝といへる、五冊物、絵入読本ニ、通俗水滸伝の如く口絵とい    ふ物を附て、世ニ流布せしより、近来五冊ものゝ大ニ行れて、初春を待兼て、来ル年の冬の初より争ひ    求て視る事はやる。作者は馬琴【滝沢清右衛門】一九【重田】振鷺亭【猪苅】焉馬【大和屋和助】芍薬    亭【本あミ】真顔【北川嘉右衛門】六樹園【ぬりや七兵へ/宿や飯もり】鬼武・小枝繁・三馬・種彦・    京山其外猶あるべし、或ハ中本・小本夥しく、画ハ名におふ豊国・北斎・豊広・国貞、是等其英傑成ル    ものなり、夫に付て、近年初春の草ぞうしも、敵討のミて、七八年已然の晒本一切なし、夫も南杣笑楚    満人といへる者、敵打の趣向を永々しく三冊物を六冊とせしより、此後沢山に売工ミにて、板元の欲心    より、今年ハ九冊物、十二冊とて合冊となしたるものばかり、価は弐百文の上なり、表紙の画ニ彩色を    なす事、甚だ奇麗也、前ニ云五冊物も、多くの作者肺肝を砕くといへ共、京伝・馬琴の右ニ出るものな    し、其中に浮牡丹といへるハ、夏祭の浄るりを工夫して、山東京伝子の戯作なり、正月十九日、年の嘉    儀ニ罷たる折ふし、此本の画をなしたる豊広【名与四郎/芝口門前】其座にあり、京伝子喩して曰ク、    今流行する読本、口絵多きをよしとす、見る人の飽ざる為なり、高上なる事を五分、下賤なる事を五分    とせる事、作意なり、是は上中下共ニト網にし、悦ばしめんためなり、尤撰に彫刻を精密にす、漢字杜    撰ニ仮名をふる事宜しからずと云へり、凡此本の仕立、奇々妙々にして、其画又他の本に比すべからず、    画面の趣向、文面のあやどり、余人の作と同日の談ニあらず、予も甚だ感称してかへりし、後来見る人、    心を止めずんばあるべからずト云々。    右は曳尾庵随筆より抄書して、爰にしるす。     因ニ云、文化七午とし新板、今とし秋売出せし京桜本町文酔トいふ草ぞうし十二冊を、合巻二冊とな     し、錦絵表紙トせり、山東京伝工風して、此已後、外作者の双紙も皆錦画表紙とかハりしなり〟    〈この記事は加藤曳尾庵の随筆『我衣』から引いたもの。「浮牡丹」とあるのは山東京伝作・歌川豊広画の読本『浮牡丹     全伝』で、この文化六年に刊行された〉    ☆ 文化十年(1813)     ◯『藤岡屋日記 第一巻』①140(藤岡屋由蔵・文化十年(1813)記)   〝文化十奥酉年    対州風説近来休 地震又生破損愁 井伊退役難難有 松緑出勤誠不収    結綿環菊冥途旅 浅艸深川仮宅遊 金蔵謾莫誇三子、八歳小児安産秋     其二    二分減少響諸方 人似金魚浮熱湯 出役空帰銀拝領 豊年弥落米相場    遊行十念誰先戴 影富一番曾不当 積物唯聞拍戸噂 高於評判賀蘭糖     きり/\すつゞれさせもせ/\よまたくるための秋の小夜ぎぬ     きり/\すなくやさせもせ/\よさせもが露を命なりけり         右二首  蜀山人〟    ☆ 文化十二年(1815)    ◯『大田南畝全集』「書簡」⑲279(蜀山人詠・文化十二(1815)年三月二十六日付書簡)   〝詩は五山役者は杜若傾はかの芸者はおかつ料理八百善    五山 菊地左太夫、名桐孫、字無絃、号五山、有五山堂詩話八編、住霊岸島坂本町    杜若 おやま若女形、岩井半四郎    かの 私衣(ナレギヌ)事【秘伝故名ヲアラハサズ】       遊女私衣、新吉原江戸町二丁目、若菜屋、初百川楼娘、名そよ    歌妓(ゲイシヤ)おかつ 駿河町、越後屋隣住、妹に梅、ふさ、其外多し。一年纏頭凡五百金    八百善 八百や善四郎、千寿に住、諸侯之仕出しをもいたし日々来客不絶、一年勘定三千六百七金、料        理屋多しといへども此上に出るものなし〟    〈当時全盛を誇った詩家・役者・遊女・芸者・料亭を詠み込んだもの。駿河町の売れっ子芸者お勝の年間祝儀が五百両と     は驚きである。蜀山の酒席にしばしば呼んで贔屓にしていた芸者である〉    ☆ 文政八年(1825)    ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑨138(塵哉翁著・文政十二年(1829)自序)   (文政八年・1825)   〝流行編     捨子噂罷三子生【指の頭こと/\く小蛇なる女児を捨たるよし評判せり、谷中三崎町に             て三ツ子を産、女子なり】     駱駝談尽蟒蛇盛【駱駝且蟒蛇の作り物、両国にて見する、評判高し】     延寿最期町内歎【浄璃瑠清本延寿、和国橋にて突殺さる】     宮戸頓死座中驚【竹本宮戸太夫】     藤八五文尤奇妙【藤八五文奇妙といゝて、丸薬を売ありく、藤八と云る者の製薬のよし            一粒五文なり】     笹雪六銅益流行【根岸にて笹の雪といへる豆腐を製出し、専ら流行】     請看両国神事舞【神事舞は出雲の祭のよし、色々の出立装束して、くる/\と巡る事奇妙也】     評判高於千本桜【市村座当り狂言】〟    ☆ 天保十一年(1840)    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p136(藤岡屋由蔵・天保十一年(1840)記)   〝当夏中流行    黒川盗賊   飯倉敵討   榎町流玉   本郷蔵陥   藤橋切捨   霞関身投    荒井紙屑買  合羽坂大馬鹿 押合入替   高輪落馬   品川入水   石町児舂    方丈建直   浅草出奔   千束軍揃   藤間大浚   池端隠居会  神田金拾ひ    石原花火   石原(右京カ)町櫛かたり    奥山大仕掛  百文書画会  常磐津浴衣揃    宮様豊年   秋田大蛙   市川二百年忌 高田揚羽   十二社角乗り 目白聞違    葺屋町実長   以上三十〟    ☆ 弘化三年(1846)    ◯『藤岡屋日記 第三巻』③43(藤岡屋由蔵・弘化三年(1846)記)     (流行るもの・流行らぬもの)   〝閏五月朔日改     当時流行もの    深川仮宅、はじけ豆、島やだんよ、稲荷ずし、都々一坊扇歌、八文じや安いもんだ、川色ゆかた。     流行ニおくれたもの尽し    黒縮緬頭巾、まかしよ、無袖羽織、あせで〆ルふんどし、しんちうかんなべ、三ツ足の燭台、箱でおし    た酢、こなの付たいまさか、幼遊びのあやつり、小娘の茶せん髪、にやけた色男、黄表紙の敵討、銀ぎ    せるのやに下り、わひ/\天王、茶表紙のしやれ本、五分月代のいさミ、五寸だるミもゝ引、たばこ入    の銀かなもの、づんと遣ひ習ひと扇を顔へ当る声色、ひたひを抜た通人、麦のすげ笠、巾広の前だれ、    日傘の紺張、いたこぶし、しがミ火鉢、盃の酒盛、帯へはさむ羽織〟    ◯『藤岡屋日記 第三巻』③77(藤岡屋由蔵・弘化三年(1846)記)   〝新板伊予節葉うた    両国橋夜見世八景    〽これは両国盛り場の名寄、咄講釈、浄るりや万作踊ニ子供芝居や操り人形、軽業師や子供新内、たま     遊び、楊弓茶見世ニ花火船、〽つゞいてかげ芝居、さつて賑ふ夕すゞみ、江戸の花。    〽是は御贔屓噺家名寄、余多拙の有中ニ、〽いきな円生、可楽可上は割看板でわかれても、玉助扇太郎     中のよし、ありやりやん柳枝のかけごへで、〽金馬の纏ひふり込、さつても揃た大よせは江戸の花。    〽是は御贔屓講釈師の名寄、あまた上手のあるそのなかに、〽龍馬一口馬琴貞山、何れも端物の名人じ     や、記録南鶴南鷺南玉、〽曾我物語や赤穂記は、〽凌潮凌雨凌舎ニいつでもはづさぬ燕凌の大当り。    〽夏の売ものいろ/\あれど、日よけ敷がミ竹障子、萌黄のかや/\ござやもんぜんござ、引出しがた     /\定斎売、本家烏丸枇杷葉湯、目だか金魚やところてん、〽すゞしき声を張上げて、さつてもいさ     まし氷水、売らしやんせ。    〽花の御江戸の湯屋の名寄、はうた二上り三下り、〽常盤津富本清元新内、一中節ニ河東ぶし、都々一     とつちりこなや節、きやりそうばん大さわぎ、〽芸者ないのは木魚の声色はめたゝき、うめしやんせ    〽これは御江戸の女湯の名寄、中はしづかでいたの間は、〽さても賑やか、寄ると世上のうわさ咄しを     しやべるやら、せなか流してあげませふと、夫からたがいニ流し合、〽少桶(ママ)を尋るニ、赤子を故     郷のふたニしてたづねます。    〽京で辻君大坂でそうか、江戸で夜鷹と夕化粧、〽いきは本所あだは両国、うかり/\とひやかせば、     爰に名高き御蔵前、ひと足渡しニ乗おくれ、〽夜たかの舟ときがつかず、あぶなさこわさきミわるく     さおゝいれ。    〽花のお江戸の七本ざくら、ぬしの心を組太夫、〽おもひ染太夫、はだ着仕立て早くおまへニ喜勢太夫、     日数かぞへていわた帯、ほどなくやゝうそだてあげ、〽名尾太夫とつけて、芝居を豊前太夫とあらた     めてつとめ升ス、〽ふつと御ゑんで清元はじめ、それから心も染太夫、〽わたし計が喜美太夫さんを、     ひゞニこゝろが政太夫、ぬしハ妻夫に志津太夫、栄喜太夫でいしやんすが、〽いつもの志喜太夫で、     深い延寿とあきらめてそはしやんせ。    〽廿八文がらくた見世よ、臼にひよつとこいぬはり子、〽太鼓三昧線千両箱から、まないたがら/\せ     ふの笛、ふらり/\と虎のくび、だるまニみゝづく般若面、〽大八牛の車にぐる/\まわるが風車、     かわしやんせ。    〽今の浮世にならないものは、塗家博奕高利がし、隠売女に女髪結、岡場所いゝべべなりません、まだ     もならぬが女浄るり、かげまに高買かこひもの、〽わたしが女房さんをして、七十五日のそのあいだ、     なりません。    〽舟もかず/\ある其中ニ、麒麟鳳凰や天下丸、〽茶船川一宝船とや、玉屋ニ鍵屋の花火舟、高瀬家根     舟しるこぼし、たぬきが乗のはつちのふね、〽うさぎのかたきうち舟、おさんのこぐのもふねのうち、     こがしやんせ〟      ◯『藤岡屋日記 第三巻』p101(藤岡屋由蔵・弘化三年(1846)記)   〝十一月、此節専流行にて、おたふく・金太郎其外の面形、飴の中より出る、大坂下り細工飴売大勢出る    也、背中におかめの面付候、花色木綿の半天を着し、     船の中からおたやんがにこ/\笑てとんで出る、と云て売歩行なり〟    ☆ 嘉永五年(1852)      ◯『藤岡屋日記 第五巻』p66(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)     ◇はやり物    〝壬子年春流行角力    鉄棒   割竹   大宗山  番太郎      稲荷鮓  茶飯野  翁山   三途川      万久山  玉子豆  ほらヶ嶽【引分】  土場講釈     三ッ星  玉水   鹿裏   吾妻下駄     居夜鷹  引張   柳川   竹沢       淡嶋   権渕   赤大黒  袴屋       木地新【引分】  箱清  夏鴨  正覚坊      富士松  鶴賀峰  経木山  竹の皮      端唄川  江戸節  雁鍋   立場山      住吉   紅勘   おてゝ山 軽業       源氏画  八犬士  七分屋  百膳       海老屋  河邑   宇治川  都一       成田山  小団次  塙野   夏かけ    矢の倉【引分】 玉ヶ池  角筈  今井谷      多紀音  伊東山  有馬川【引分】  丸亀    三十番〟    ☆ 嘉永六年(1853)    ◯『藤岡屋日記 第五巻』p238(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)   ◇時世の有様   〝嘉永六丑年三月、当時世の有様    去春より鉄棒の音ちやんから/\にて、商内もなく仕事もなくてちやんからになり、其上かんから太鼓    の流行にて、弥々身上かんからとなり仕舞候所に、当春に相なり上野の花も咲初て、毎日栄当/\の見    物出候処、今度不忍弁天の池へ新土手出来致し候とて、池の浚に相懸り候処、池の主おこり候に哉、毎    日/\の雨天、こまり候者は上野野(ママ)茶やと、相撲勧進元の伊勢海村右衛門、右之者共ぴつ/\と苦    しがり居り候より心付にて、爰に木曾の薮原より江戸表へ罷出候相模屋栄左衞門といへる櫛屋、当時堺    町に住宅致し候処に、此者お六すき櫛の出来そこなひのぴつ/\となるより思ひ付て、さくら笛と名付、    一本四文と売出し候処に、はやるまいものか、皆々ぴつ/\と苦しがり居候時節なれば、天に口なし人    を以いわしむるの道理にて、子供等是を求て人の耳元へ来り、ぴつ/\と吹て苦るしがらせ悦ぶは、去    年かんしやく玉にて人に肝を潰させ楽が如し、上の御政道も御尤至極なり、冨士講が差留られ、木魚講    がはびこり、此方は浅草観音の御花講にて、東叡山宮様の御支配にて、念仏だからいゝおかひ(ママ)とい    ふかけ声を高らかに張上げ、大木魚の布団を天鵞絨縮緬にて拵へ、是へ金糸にて縫を致し、二重に敷重    ね、信心は脇のけにて、是見よがしと大行にたゝき歩行、又師匠の花見も段々と仰山に相成、娘子供は    振袖の揃ひ、世話人は黒羽弐重の小袖に茶宇の袴を着し、大拍子木をたゝき、先へ縮緬染抜の幟を押立    て、祭礼年番之附祭り気取りにて、甚敷は種々さま/\の姿にやつし、途中道々茶番狂言を致し歩行、    往来を妨げ候故に、是も差留られ、又錦絵も役者は差留られ候処、右名前を不書候ても釣す事はならず    候処に、少々緩み、去年東海道宿々に見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評    判と相成、板元は大銭もふけ致し候所、益々増長致し、右画を大奉書へ金摺に致し、壱枚にて価二匁宛    に商ひ候より御手入に相成、板木を削れら候仕儀に相成候、右之通り万事が兎角上みへさからへ(ママ)候    故、天道是をにくませ給ひて、降通し吹通しも、尤の事也。      節季候は霜をも待ず早く出て有顔見せる春に延けり     さくら笛    何廼家桜顔見    うか/\といきたかい有初さくら、今年も春のうらゝかに、日あしものびて糸遊の、曳や霞の花見まく、    花がそふか桜が呼哉、招きまねかれする中に コレハ笛で御座イ ヲイ笛屋さん、なぜ是をさくら笛と    言やす、ハイさくらが吹ますから、コレ/\花見の中で桜が吹とはわりい、花に風はさはりだろう、    イエ/\、竹細工の宇九比寿笛は梅が香こぼさず、桜が吹ても花は散りません、はてなあ。      さくら咲桜の山のさくら笛風哉いとはで吹れこそすれ〟    〈「去年東海道宿々に見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評判と相成、板元は大銭もふけ致     し候」とあるのは、三代目歌川豊国の「東海道五十三次の内(駅名)(役名)」という形式の標題をもつ作品群をい     うのであろう〉
   「東海道五十三次内 まり子 田五平」 三代目歌川豊国画 (東京都立図書館・貴重資料画像データベース)  ◯「江戸時代の流行と人気役者(中)」斎藤隆三著(『錦絵』第廿二号所収 大正八年一月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   (第一 帯)   〝吉弥結  延宝年間に美貌を以て世に聞えたる女形の元祖玉村吉弥が、工夫した帯の結方で、恰も唐犬    の耳の垂れた様に、三寸幅の帯の二つ結びの両端をだらりと垂れさせたもので、後には両端の隅々へ鉛    を入れて重みを付けるやうになつた、又帯屋は此結び方に適するやうに、特に帯の幅の尺長いのをこし    らへて、売り出したという程で、元禄頃まで、東西を通じて盛んににはやつたのである、後世には腰元    結を吉弥結といふやうになつたが、これは初めのとは全く変つて居る     吉弥結 菱川師宣画「見返り美人」部分(国立国会図書館デジタルコレクション)    幅広の帯 元禄年間の女形役者荻野沢之丞が、元禄九年の江戸中村座で、女鳴神の狂言をした時に、当    時の通例の帯の幅であつた三寸五六分といふのでは、如何にも見栄がしないといふので、特に幅広の帯    にしたのが、漸次に一般婦女子の幅広の帯を要求する様になつた動機であるとのことである    水木結  元禄の初年京都から江戸に下り、猫の所作事槍踊で、江戸中の喝采を得た、水木辰之助が、    背丈の並勝れて高いのを、まぎらす為めに、結び始めたもので、後帯の結びの手先の長く垂れた結び方    だとしてある、これも元禄の流行である      平十郎結 村山平十郎といふ立役の役者が始めたもので、竪に結んだのだとあるが、どんな結び方か分    らない       路考結  宝暦頃から文化頃まで、東西に亘り非常な勢で流行したのが、路考結である。これは王子路    考の名を以て世に知られ絶世の美貌を唄はれた、二代目瀬川菊之丞が、宝暦十三年八百屋のお七の狂言    の時に、橋懸りで、帯の結び目の解けかゝつたのを、結び直す暇がなかつたので、取敢へず取つて挿み、    芸をしたが、その無造作にした帯の形が、ひどくよかつたとて、はやり出したのである。謂ゆるまをと    こ結びの類で『都風俗化粧伝』には、図の様な結び方としてある、これは之に比べると幾分の修飾やら    変化やらがあるらしい。         路考結 速水春暁斎画 合巻『都風俗化粧伝』佐山半七丸作(国立国会図書館デジタルコレクション)   (第二 被(かぶ)り物)    沢之丞帽子 荻野沢之丞が野郎帽子の左右に鉛の錘をつけ、左右を垂れさせたものである     荻野沢之丞と松本勘太郎の草紙洗い 伝鳥居清信筆(東京国立博物館)    瀬川帽子 享保十九年、江戸中村座「十八公今様曽我」の狂言で、初代瀬川菊之丞が、座敷女中に扮し    て、かむつたのが初めで、後の世まで知られて著しいものである    宗十郎頭巾 享保十九年の春、京都の芝居で、初代沢村宗十郎が、梅の由兵衛に扮して被り出してから、    世に流行したのである、         今様押絵鏡 梅の由兵衛 三代目歌川豊国画(演劇博物館デジタル)    大明頭巾 宝暦元年に、慶子と呼ばれた初代中村富十郎が、若女形として大阪から江戸に下り、寒風を    防ぐ為めに、紫縮緬で一種の帽子をこしらへて被つたのが、時の婦人間の流行になつたのである、やが    て男女通じて之を用ひたといはれて居る、後の世のお高祖頭巾はこの頭巾の少し変つたものである     お高祖頭巾 宗十郎頭巾 三代目歌川豊国画(演劇博物館デジタル)  ◯「江戸時代の流行と人気役者(下)」斎藤隆三著(『錦絵』第廿三号所収 大正八年二月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   (第三 模様柄)    小太夫鹿の子 玉村吉弥時代の女形で、伊藤小太夫といふ役者の好みから出たもので、一に小太夫染と    もいはれたものであるが、ドンナ柄か今分りにくい    千弥染  中村千弥から出たもので、享保元年、千弥が江戸中村座へ下り、三巴家督関といふ狂言で、    樋口女房の役で、花車方二人腰元三人とも之を着せ、又木戸若い者にまでも、其の綿入羽織を着せてか    らはやり出したので、江戸はいふに及ばず、京阪に亘り一時の大流行をなしたものである。紫の大絞り    とのことである    市松染  寛保元年、江戸中村座で、若衆形の鹿野川市松が、高野心中の狂言に、小姓粂之助を勧め、    石畳に染めた袴を着けたのから一世の大流行となつたので、之れが為めに爾来石畳の名は追ひやられて、    此型を市松染又は市松小紋といふやうになつたのである    小六染  左り巻きの手綱染で、延享頃の嵐小六が好みである、初め小六、延享二年に中村座に下り、    二代目市川海老蔵を請けに女暫を演じ、其の時に小六が鶴菱の着付で出たのが一枚絵となつて世に出て、    「かほ見世や、鶴の巣ごもり小六染」といふ賛の句があれば、初めは鶴菱繋ぎを小六染といつたのであ    らうと『後昔物語』などに書いてあるが、兎に角これは後の手綱染に推されて消えてしまつたものと見    へる。左り巻手綱の小六染は、延享四年お初徳兵衛の狂言で「夢結ねくらの蝶」といふ浄瑠璃所作事に    中村七三郎と両人して、右の肩から左にかけ、紅白のたり巻(ママ)した着付をなし、肌抜ぎで出たのが評    判になり、遂に大流行となつたのだといふ。同時に紅白の紐を小六紐といつて共に流行つたとのこと    亀蔵小紋 小六等と同時代で、所作事の名人と呼ばれた九代目市村羽左衛門が、まだ亀蔵といつた折、    (宝暦十二年羽左衛門襲名)所作事の着付に遣つた模様で、渦巻の小紋である。これがひどく評判にな    つたので、遂に渦巻は後年に市村家の替紋にまでなつたのである。    伝九郎染 宝暦年間、中村伝九郎が全盛の当時に、其の贔屓客に、三十間堀の材木屋和泉屋甚助俳名表    徳太申といふものがあつた、甚だ虚名を喜び、曾つて己が名の著書として、江島大双紙太申夜話といふ    ものを出し、又書家烏石に千字文を書かし、太申書と落款して板行せしめたこともある。又浅草観音境    内へ桜を植えて太申桜と称へさせ、道中の雲介に金を呉れて「お江戸の太申様は桜がお好き」と唄はせた    といふこともいはれて居る。それが恰も三井親和の篆書を模様にした親和染流行の折柄であつたので、    之に擬して太申の二字を篆書繋ぎに染めさせ、馴染の吉原遊女豊里に着せ、之を一枚絵に画かして世に    出し、又宝暦八年森田座の狂言に伝九郎にも着せて舞台に上らせたが、却つて伝九郎の名に押されて、    世間では太申染とはいはずに、伝九郎染といつてはやつたといふことである    かまわぬ模様 文化九年六月市村座の二番目「散書仇かしこ」の狂言に、七代目市川団十郎が、まだ二    十二歳の若盛り、大工六賛の役に扮し鎌と輪と「ぬ」の字を、大きく染め抜いたのを着たのが、江戸中    にはやり出し、衣裳模様は素より、手拭手遊にまでも応用されて、大流行となつたのである。此模様は    古く侠客などの間に喜ばれたものであるが、此時に復活されたのである。これから市川男女蔵は、鎌と    井桁と枡を列ねて「かまいます」の意味をうつし、又尾上菊五郎は斧と琴を配して「よきこときく」の    意を宴するなど、いろ/\の工夫したものを出したが、「かまわぬ」程にはやつたものはない    蝙蝠模様及び三升格子 天保初年に、八代目市川団十郎の希代の人気につれて、夥しく江戸中に流行し    夏衣の染模様はいふまでもなく、簪の挿込、櫛の蒔絵、手拭などにも、盛んに用ひられた。市川家の家    紋に一輪牡丹があり、之を福牡丹といつて居たが、此「福」字を「蝙」に通じて蝙蝠模様としたのであ    る。又三筋格子は同じく家紋の三升を格子に崩したのである   (第四 染色)    路考茶  鶸萌黄の少し黒味がゝつた色で、先づ鴬の羽色といつたやうなものである。宝暦十三年 市    村座でした「八百屋お七」の下女お杉の役で着たのが初めだとも、又銀杏娘の時からだともいつて居る。    路考の人気の旺盛なると共に、非常な勢で流行し婦人の着物はこの色に限るやうな有様であつたのであ    る。其の大阪に流行したのは、ズツト降つて享和二年三代目菊之丞(此前年路考と改む)が大阪に下り、    「東金草浪花着綿」の狂言に腰元のお百となり、此茶染を着てからのことゝいはれて居る、兎も角も文    化文政から天保頃までの長い間 東西通じて娘子供の間に歓迎されたのは驚くべきことである    升花色  縹色(はないろ)の薄いので、五代目市川団十郎の好みから、安永天明の江戸に流行したもの    である。     梅幸茶  初代尾上菊五郎俳名梅幸が好みで、草柳色である。この人特に衣裳の物好きがあり、花やか    なのを好んだとのこと、天明三年に没した人であ(る)から、安永頃の流行であらうが、文化頃まで及ん    で居る    岩井茶  大太夫として知られた、杜若岩井半四郎の好みで、路考茶のやゝ薄いやうな色合である。之    も寛政から文化頃まで及んで居る        璃寛茶  藍媚色で、文化年中京阪に盛んに流行したものだが、江戸にも及んで居る    芝翫茶  三代目中村歌右衛門即ち梅玉歌右衛門の好みで、栗梅色の変態である。    同時代に市川団蔵から出た市紅茶なども、上方で一時流行つたが、上の二色とは比すべきでない。明治    時代になつてからは、今の中村歌右衛門が福助時代に、薄い草色を福助色と称へて流行つたことがあつ    た(中略)     以上の外、頭髪の結ひ方に影響したものに、三枡徳太郎から出た三徳髷、姉川大吉から出た大吉髷、    芳沢いろはが信夫の役から始めた信夫かへし、路考から出た路考髷といつたやうなものもあるし、又男    の髪には、山中平九郎から出た平九郎鬢などといふものもある。     それから役者の名前を売物に冠して、それによつて売弘めたものゝ内に、元禄頃の団十郎艾、寛政頃    の団十郎煎餅、岩井せんべいなどとの類もある。役者の屋号を仮りて直に屋号とし白粉油や又煙草店飲    食店などを出したものも少なくない〟