◯『娯息斎詩文集』(闇雲先生作 当筒房 明和七年(1770)刊)
(新日本古典藉総合データベース画像)
〝初午に題す
社頭覡(みこ)美しふして神楽頻りなり 祝(いさ)め奉る稲荷大明神
太鼓音高(たかふ)して童子(こども)集まり 行燈(あんどう)地口(ぢぐち)年々新(あらた)なり
◯『【寛保延享】江府風俗志』〔続大成・別巻〕⑧7(著者未詳・寛政四年(1792)十一月記)
(寛保(1741~1743)~延享(1744~1747)年間の風俗記事)
〝二月初午諸所稲荷祭り、ねり物出し事、大方子供腰付馬にて、何の故もなく義経主従五人、或は頼光の
四天王杯とて、母衣(ホロ)負(シヨイ)等にて母衣の上に花籠置て、紅白のない縄 絹 左右に付、是を持て振
也、衣装はあふぎ屋染、上に袖なしの陣羽織、筋金の小手すね当等也、此衣装も手前にて拵る者は稀也、
大方損料也、【堺町にて中村屋と云、芝居装束借し屋あり、是にてかりる事也。母衣の脊に札付、是に
坂田金時或は弁慶抔、各木札を付る、扨左右警固の若者は、女のもよふの小袖をかり着す、腰帯を〆同
しごき、腰帯を肩に筋違にかけて、脇の下にてむすぶ、【女中きとうに成とて、われもわれもとかした
る事也】杖をつき、【杖のかしらをふくさにてつゝむ】子供母衣の左右に二三人づゝ付、日傘床机持に、
赤坂奴といふてつり髭の者也、【日傘の内に守袋ふくなど多くさげ、へりにはちりめん一はゞのきれを
引廻し付る、是も大かたしごき腰帯也、出し車には子供四五人乗て太鼓を打ち、【拍子はどん/\かち
かちとうち、折々ありや/\とはやす】今(寛政年間)の如き祇園ばやしおどり抔といふ事は曾て無之、
衣裳は甚麁服の事也。【此小供は常の衣ふくなり〟
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸末期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝初午
九郎助のいなりまつりにかしましきたいこ大勢まゐるはつ午(画賛)
色紙の幟の空ははつ午に鳥居の石を根とやなしけん
はつ午の王子みやげをわらわべにやるにも袖をうごかして出す
稲荷山同じ末葉の杉の森もとつはよりも今は栄へつ
明つぐる烏森とてはつ午に日の出役者のかぎりものしつ
三めぐりや五色幟のかすみにてけふは鳥居もねからみえざる
烏森初午かけて出る子らもうかれてあそぶ燈篭の月
はつ午にかけ燈篭のかゞやきて日影町とはよめぬ夜まつり
初午の日はいつもよりにぎはひて詣る人のそですり稲荷
更るまで老も若きもうかされて夜宮賑ふ茶の木のいなり
初午に人のつどひてもとつはの杉のもりこそにぎはひにけり
油あげはきつねはめ?なんくたかけの鳥居の数のふゆるはつ午
はつ午にそなふこはだは新らしくやき直せしは地口燈篭
〈幟 地口灯篭 九郎助(吉原) 王子 杉の森(日本橋) 烏森(芝日影町) 三囲(向島) 袖摺(浅草)
茶の木(市ヶ谷・芝・人形町か)〉
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十六「春時」④184
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝二月初午日
江戸にては、武家および市中稲荷祠ある事、その数知るべからず(武家、および市中巨戸、必ずこれあ
り。また一地面、専ら一、二祠これあり。これなき地面はなはだ稀とす)。諺に、江戸に多きを云ひて、
伊勢屋・稲荷に犬の糞、と云ふなり。今日、必ず皆、この稲荷祠を祭る。正月下旬以来、太鼓を担ひ、
市中を売り巡る。これ屠児(トジ)らなり。太鼓と呼ばず、撥をもつて太鼓を拍ち行く。皆、今日の所用
なり。また貧家の小児五、七人連なり、狐描きたる絵馬板を携へ、市店戸口に来りて、十二銭あるひは
一銭、三銭を与ふ。その詞に、稲荷さんの御勧化(オカンゲ)、御十二銅おあげと云ふ。多くは一銭を与ふ
のみ。今日、江戸の稲荷祭の盛んにして数所なる、大坂七月二十四日の地蔵祭に似て、しかも百倍の祭
所なり〟
◯『絵本風俗往来』上編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(23/98コマ)
〝二月 市中の初午祭
江戸町中、稲荷社のあらぬ所はなく、地所あれば必ず稲荷社を按置して、地所の守り神とす、初午祭り
は盛不盛の別はあれども、必ず行ふまづ裏長屋の入口、露路木戸外へ染幟一対を左右に立て、木戸の屋
根へ武者を画がきし大行燈をつる。露路の両側なる長屋より、表家共地所中の借地借家の戸々(こゝ)に、
地口画(ぢくちゑ)田楽灯籠をかゝぐ、稲荷の社前にて、地所中の児童、太鼓を打鳴らして踊り遊ぶ、借
地借家の住み人より集金して、社前へ供物を奉つる、是れ最も下等の祭礼なり、歳費は皆地主の負担と
する所とす、其の外地所により盛祭の催しありて、実に繁昌したり〟
◯『絵本風俗往来』中編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(23/98コマ)
〝初午
武家邸内なる初午稲荷祭は、邸(やしき)の前町なる町家の子供等を、邸内に入ることを許して遊ばしめ
られ、邸内にて囃屋台をしつらへ、廿五座、三十五座の神楽を奏し、又は手踊りの催しより、種々(い
ろ/\)なる作り物あり、花傘掩へる地口画灯籠を数多く、庭裏より家中の長屋の門口へ立つ、夜に入
るや、武骨の武士、女子のいでたちして俄(にわか)踊りの余興など始まるもあり、殿君・奥方・若君・
姫君より御殿女中方の、透き見もし給ふあり、されば二月初午は例年市中賑はふことおびただし〟
◯『残されたる江戸』柴田流星 洛陽堂 明治四十四年五月
(国立国会図書館デジタルコレクション)(23/130コマ)
◇初午
〝初午に至つては東京市中行くとして地口行灯に祭り灯提(ママ提灯)、赤い鳥居の奥から太鼓の音の聞えぬ
はなく、伊勢屋と稲荷と犬の糞とは大江戸以来の名物だけに今もイヤ多いこと/\。
其の多い稲荷社の初午、朝からの勇ましい太鼓の音に、界隈の子供が一日を嬉しく暮らして、絵行灯
(あんどん)に灯(ひ)の点(とも)る頃になると、此等の小江戸ッ児は五人七人隊をなして、家々の門を祭
り銭をつなぎにまはる
「お稲荷様のお初穂、おあげの段から墜こつて………」
と膏薬代をねだるやうに口ではいふが、実はさら/\そんな風儀の悪いのではない、供物と蝋燭の代に
つないだ銭が、幾分子供達の舌鼓の料ともなりはするにしても、そこらは洒り(ママさっぱり)したもの、
見くびられては真ぞ心苦しからうと岡見ながらも弁へて置きたい〟
◯「行楽の江戸」淡島寒月著(『新公論』第三十二巻第一号 大正六年一月)
(『梵雲庵雑話』岩浪文庫本 p89)
〝二月(初午)湯殿に稲荷堂を拵えて締太鼓を飾って、近所の子供を集めて撥を一組ずつやって太鼓を叩
い騒いだ。路地には大行燈や地口行燈を建てる。それによく浅草の観音様の絵馬を模した小さな額を自
慢にして飾った。それは主に人形町の勝文で拵えた〟
〈淡島家はなぜか初午ではなく二の午でこれらを行ったという〉