◯『塵塚談』〔燕石〕①281(小川顕道著・文化十一年(1814)成立)
〝羽織長短の事、宝暦四五年頃は、伊達男は短羽織にて、袖より下はやう/\四五寸もありて、袖ばかり
やうにてありし、明和二三年の頃、大坂より、吉田文三郎、吉田文吾などゝいふ人形遣ひ下り、長羽織
を着せしを、皆人笑ひけるが、其時分より段々長くなり、文化七八年に至り、又も短く成しやうに見ゆ、
袖口の太細、帯の広狭も羽折(*ママ)に准じ、いろ/\に変化したり〟
◯『世のすがた』〔未刊随筆〕(百拙老人・天保四年(1833)記)
◇⑥35
〝明和の頃までは蝙蝠羽織とて、丈二尺一寸にして至て短きはをり、武家町人とも著用す、安永年中より
追々長くなり、寛政の中頃は膝の下に至る。丈ヶ二尺七八寸、前二三寸下りなるを著す、文化の末より
又短きを用ひ、坐しても折返らず、立ときは膝より上にとゞまる、襟幅も一寸余にして下りなきを用ゆ、
又寛政の頃は冬は木綿、夏は麻のさらしを用ひ、武家はぶつさきを専ら著す、文化中に至りては、弓馬
の稽古に出る輩も、おほく黒七子紋付、夏は絽小紋などを用ひて、ぶつさきを著するものは少し、近頃
はそれもすたりて、冬は毛織ごろふくりんの類、夏は紗の類にて、蝉の羽のごとき薄きを用ゆることゝ
はなりぬ〟
◇⑥36
〝寛政の頃より袖なし羽折流行せしが、其後変じて半てん羽折となり、文化の頃より町家にて男女とも皆
専に用ゆ、近頃武家にうつり、軽き御家人の妻女ども用ゆるもまゝ見ゆ〟
◯『世のすがた』〔未刊随筆〕⑥42(忍川老人・天保四年(1833)記)
〝羽織の紐、天明より寛政始までは長さ八九寸の細きひも数本よせたるもの流行せしが、寛政の末より丸
き打紐の長さ壱尺余のものとなり、文政中よりは平打、かの竜虎打などいふもの行はる〟