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☆ はんしたえ 板下絵(しゃほん 写本)浮世絵事典
 ◯『馬琴書翰集成』年不詳五月二十三日(馬琴宛・葛飾北斎 第六巻・書翰番号-来54)⑥273   (文化五年と推定される)    〝(表書「曲亭先生 机下  かつしか北斎拝」)    昨日は京橋へ御出之由、御空庵へ下画差上申候。今日御校合相済候へば、何卒此ものへ被進可被下候。    当年中出来之積りニ相認メ可申候。明朝は平林主人被参候間、其節為朝之写本三丁斗り持参被致候間、    是又御差図可被下候。御遠慮等、決而御無用ニ御座候。以上〟    〈北斎が馬琴の許に届けた「下画」は「為朝之写本」「平林主人」とあるから『椿説弓張月』の「板下絵」である。校     合が済んだら、早速使いのものに渡してほしい、明日は「為朝之写本」を持参するので、遠慮無く「指図」をしてほ     しいというもの。この「写本」とは画工が作者作成の「下絵」を基に画く「板下絵」をいう。「板下絵」は画工が自     由に作画するのではなく、あくまでも作者の「指図」を前提とするのである〉  ◯『職人尽』(十返舎一九作 歌川広重画 文政十年(1827)刊)(国書データベース)   〝版木師 かせげたゞ小刀細工ながらにも黄金(こがね)彫出す板木師の業(わざ)       「しやほん(写本)がくどいとほね(骨)がおれる/\」〈彫師のいう写本は画工が画いた版下絵をいう〉    版木師(彫師)(国書データベース)  ◯「稗史原稿に就いて〔附戯作者尺牘〕」(林若樹著『集古』所収 明治四十二年九月刊)   ◇歌川国貞宛、式亭三馬、写本を督促   〝拙蔵三馬尺牘中「(前略)然らば兼て御約束申置候つる金様合巻元祖「高尾世之助」六冊出来上り 此    節改めに出し有之候 さがり次第早々差上可被申候間 兼約の如く早拵(こしらえ)に御染筆被下候やう    奉希(ねがいたてまつり)候 二ヶ年ながら延引にて 売出し遅(おそな)はり 板元・画・作三人とも勝    利を得不申候 たてひきと思召(おぼしめし) 当年ばかりは兼約の如く御急ぎ可被下候 先は御案内旁    (かたがた)早々頓首 六月十五日認置 国貞大兄 つる金さまへは下拙 請人に罷立(まかりたち) 貴    殿御写本早拵(はやこしらえ)の起請文を入れぬはかり 仍如件(よつてくだんのごとし)」    〈三馬の国貞宛書簡。「高尾世之助」とは『却説浮世之助話』三馬作・国貞画 鶴屋金助板 文化七年刊か。ここにい     う「写本」とは板下(絵)をいう。内容は、稿本が改め(検閲)を通ったら早速板下に取りかかってほしいというもの〉   ◇歌川国貞宛、山東京伝の督促   〝(前略)岩戸や写本追々御したゝめ被下(くださり) 大慶(に)奉存候 且又残り種本二冊    外々のをさし置(き) 相したゝめ全部出来仕候 さだめていろ/\御取込と奉存へ共 さしくり御し    たゝめ可被下候 売出しあまりおそくなりては ひやうばんもいかゞと案じ申候 何分御頼申上候(下    略)九月十九日 国貞様 京伝〟    〈作者が作成する「下絵」を「種本」と呼び、画工が画く「板下絵」を「写本」と呼んでいたようである。京伝は国貞     に、自分の稿本(下絵)を優先して板下絵を画いてほしいと頼んでいる〉   ◇画工宛、曲亭馬琴の口上    (中略。天保十二年、馬琴失明に関する林若樹の記事。以下『新編金瓶梅』(曲亭馬琴作・香蝶楼国貞     画)の九集一巻の末尾に朱筆でもって記された馬琴の画工宛口上)   〝画工様へ口上 一、作者旧冬より老眼衰(え) 当春より書き候事も画き候事も 少しも致(し)難(く)候    間 筆工は女わらべに代筆申(し)付(け)綴り立(て)候へ共、画わりは代筆致難候もの之(これ)無く候間    是非無く人物の形計りさぐり書に致し 朱にて注文書致させ置(き)候間 本文共に御熟読の上 此人物    に宜敷(よろしく)御書き成し可被下候 校合も女童に読せ 耳にて校合致候間 格別日間(ひま)入申候    跡二冊も稿本引続き出来致候間 御くり合成 当年は画写本早々御出来成可被下候(以下略)〟    〈「画わり」等の下絵作成は本来作者がすべきだが、もはやそれも出来なくなってしまった。今後は朱で注文書きするほ     かないが、ついては本文ともどもに熟読したうえで「写本」を画いてほしいという、馬琴の苦渋に満ちたお願いである〉  ◯『戯作六家選』〔燕石〕②72(岩本活東子著・安政三年(1856)序)   (式亭三馬の項)   〝文化のはじめ、合巻、読本、俱に流行し頃は、三馬、豊国等は、諸方の書肆に、種本、写本を乞需らる    ゝに、その約束の期に後れ譴らるゝに苦しみて、五日或は七日ばかりづゝ書肆の許に至り、一間を借り    て草稿を成し、または絵を画きぬとなり〟    〈三馬が作成するのは本文と「下絵」からなる「稿本」でこれを「種本」と称し、それをもとに豊国が作画した「板下(絵)」を     「写本」という〉  ◯「近世錦絵製作法(二)」石井研堂著(『錦絵』第廿二号所収 大正八年一月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝 版下     画稿定つて後ち、之を浄写したものが所謂版下である、即ち版下絵の略言である、版下は、白描にし    て古来の所謂白描画とは異り、墨版に属する分を全部一紙上に描いたものである、版下を一名写本とい    ふは、薄い紙に浄写したものに限るより出たる名であらう。     版下は、其の画面を木版に糊付し、紙背より彫刻する為めに、紙背を透して画の見えるのが便利であ    る、故に、古来の版下画は、紙質の強靱で薄いものを多く使ひ、薄美濃紙又は良質天狗帖など、明治に    入つて後は、薄葉雁皮紙も多く用ひられた。     版下画は、型の一定した或る部分は、彫工の巧みにまかせ、之を細写密描しないこともあつた、人体    の髪の生え際や毛筋など即ちこれで、版下には唯大体の見当を示すに止つて居る、建築物中、障子の骨    割りなども、亦其の骨の交叉部の各線の連接と断絶などは、総て彫工の自由に彫り成すにまかせてあつ    た、併し、明治年代のものは、版下通りに彫らせるといふ風なので、版下も、其の積りで描いてある。     版下は、板に糊付して彫刻して仕舞ふものであるから、錦絵と成つたものゝ版下は、その時限り無く    なつて仕舞ふ、今日に存在する幾多の版下は、元々上木する予定で描き上げたものながら、何かの都合    で上木しないで仕舞つたものに限る筈である     (中略)     版下は白描であつて、其の刻成の版は墨版を成すものである、然るに現存の版下には、人物ならば目    くま口紅を入れ襟袖口を赤くし、景色ならば遠洋上空を薄く彩色したものなどがある、これ等の目口襟    袖口遠洋上空等の施彩は、彫刻には何の関係も無く、唯版下に生気を発し、一時版下を好く好く見する    様に、「売り物に花を飾つた」絵師のお愛相に過ぎない、俗に之を「御祝儀」と称するは、売れ行の好    きを寿く名でも有らう〟  ◯『錦絵の彫と摺』石井研堂 芸艸堂 昭和四年(1929)刊   (第四章 原画 甲、画工と版下)p19   〝原画即ち版下の第一稿は、白描の粗画である、全図の位置結構大小を、稿本上に活殺取捨し、稿定つて    後に浄写して原画(はんした)とするのである、明治以前の稿本を見るに、多くは墨一色であるが、明治    後のものにあつては、先づ鉛筆で当りを付け、次に薄朱で其活線だけを描き、更に墨筆で稿を定めるの    が多い、(中略)画稿定つて後、之を薄紙に浄写したものが、原画となるので、所謂版下である、即ち    版下画の略である。    版下は、其画面を木板に糊着し、紙背より彫るものなので、紙背を透かして画が見えなければならない、    故に、古来の版下画は、紙質強靱で且つ薄美濃紙、又は良質天具帖などを使ひ、明治に入つて後は、多    く薄葉雁皮紙の類を用ひた。    版下画は、型の一定した或る部分は、彫師の巧みに任せ、之を細写密描しない、たとへば(中略)娼婦    の顔面部などは(中略)之を繊細にほるのが、彫師の自由であつて、又其の髪の生際や毛筋などは、唯    大体の当りを描くだけである、障子の骨の交叉部なども亦然りで、彫師の彫分けにまかせて、始めて絵    となるのである〟