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☆ はなび 花火 (両国)浮世絵事典
 ◯『再板増補/江都総鹿子名所大全』巻七 奥村玉華子撰 藤木久市板 寛延四年(1751)   (国書データベース)    〝 花火屋 両国吉川丁 玉屋    花火と云もの夷狄の戯玩(けがん)にて漢土にもむかしはなかりしにや。近世明人呉寛が火花(こか)を詠    せし詩あり。元朝迄は一向其の名も聞へず。されば東武にても夏より秌の半まで、隅田川の下流、両国    橋と新大橋の間に舫(ふね)を泛べ 暗に乗じて此の戯(げ)をなすに、万華たちまちに開、須臾にして春    苑を見る。実(まこと)に一時の奇景なり。此の家其術に妙を得たり〟   ◯『寝惚先生文集』〔南畝〕①352(陳奮翰子角(大田南畝)著 明和四年(1767)九月刊)   〝江戸四季の遊び 四首 夏    川は長し両国橋 花火は前後に燃(トボ)る 歌は響く屋形舟 皆妓子(オドリコ)の袖を翻す〟  ◯『江戸名物詩』初編 方外道人狂詩 天保七年刊〔国書DB〕   〝玉屋花火  両国吉川町    流星虎の尾雲に入て鳴る  十二挑灯水を照して明なり    両国年年大花火      満城喚(よ)び囃す玉屋の声〟  ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)   (ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉   〝花火    両国は軽わざのみかからくりの花火もやはりつなわたりしつ    狐火のやうにいくつももえるのは玉屋かぎ屋の合はな火なり    稲つまの鍵屋がはな火空ならで人のむらたつ両こくのはし    うつくしき貴妃の牡丹のより花火かみにもあかく紅粉をさしけり    これほどの人をまねくか両ごくのはしのたもとのすゝき花火は〈「すゝき」は手持ち〉    むさし野のすゝきの花火打なびく風にあつさも逃る水ちや屋    連城の玉屋の名ある草はな火これらもあしをきりて作りぬ    朝㒵の花火を夜ことあげさせてさかり久しき両こくの茶屋(画賛)    帰る◯もあぐる花火に落付て人の工夫もちかふからくり    やいとより子供にはさてきゝのよいせん香花火にわやくやみけん    江戸絵図の総とむさしの玉境あかきいとひく花火みすらん    少女子が三升格子のゆかたきて手ぼたんといふ火あげけり〟  ◯『五月雨草紙』〔新燕石〕③15 (喜多村香城・慶応四年(1868)記)   (寛政改革以前の両国の花火光景)   〝毎年五月廿八日を期して、揚初と唱へ、江戸川々の屋形舟、屋根舟はいふに及ばず、其外大小の舟々、    橋の南北の工下に密比して、左ながら大陸の如く、又、橋上には見物の人々、未だ夕ならざる頃より詰    掛けて、進むもならず、退もならず、両岸の涼棚、茶榻は、所狭き迄に張り連ね、往来は押し合ひへし    合ひて、殆んど人の山をなす、されば、最寄酒肆、茶店の込み合、押て知るべし、偖、此揚初の済む後    は、御三卿方の花火、諸侯方の花火とて、今日もあり、あすもと引続き、川縁りに邸宅ある家には、百    金も二百金も一刻の花火に費して、共宴を催す事なれば、玉屋、鍵屋の二商、此に共時を得て、喝采の    声と共に巨利を得しなり、(玉屋は、慎廟日光御社参の御留守中、火の元別て念入る可しの命を粗略に    し、自火を出したる罪を以て、居所を逐れたれば、他所に移りて業を営みしが、皆再び顧る者なきより、    終に断て他業に遷れり)〟    〈この日光社参は天保14年(1843)で将軍は徳川家慶。参詣当日の四月十七日、両国吉川町の玉屋から失火、玉屋はこの科で     所払に処せられた〉