☆ 文政十年(1827)
◯『馬琴日記』第一巻 ①213 文政十年十一月三日
〝美濃屋甚三郎来ル。八犬伝六之上巻・同下巻画割四丁、被為成御渡候。今日、甚三郎不埒之事自慢、申
上候ニ付、被遊御腹立、被為御呵候事ハ、八犬伝七輯第一の御趣向、犬村大角、鮮血明証、父之真偽を
知る事を、芝居ニ取組、狂言ニ致候様、尾上菊五郎ニ勧候由。未開板前、大切之事を不顧、二年之御苦
労を無ニし、戯場より思ひ付しなど被思候事、御心外故也。既ニ当顔見セニ、髑髏ニ鮮血滴り、父を知
る事を、狂言致候由。嘆息之外なし。甚三郎恐入、帰去〟
〈馬琴の立腹は理解出来る。犬村大角がどういう趣向で実の父赤岩一角と出会うのか、それを出版に先立って読者が知
ってしまっては、馬琴、苦心の趣向も水の泡である。それどころか、これではまるで馬琴の方が芝居から趣向を奪い
取ったかのように誤解される恐れすらある。馬琴にとってこれ以上の屈辱はあるまい。そんな愚を、板元美濃屋は軽
率にも犯してしまったのである。ところで、この尾上菊五郎の芝居は実際に「髑髏ニ鮮血滴り」の趣向取りで興行さ
れたのであろうか。八犬伝では一角の髑髏と大角の鮮血は実の父子関係であることを認知する趣向として使われてい
る〉
☆ 嘉永二年(1820)
◯『藤岡屋日記 第三巻』(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1850)記)
◇里見八犬伝、後日話 p544
〝爰ニ故人曲亭馬琴が老筆をふるひて、初篇より九篇迄百八冊書残し置里見八犬伝、大評判ニて流行致し
当時丁子屋平兵衛板元ニ候処、南伝馬町一丁目蔦屋吉蔵板元ニて、右の本を丸取ニ致、馬琴のちからを
盗て、為永春水作、国芳画ニて、芳談犬の双紙と題号し、弘化四年未秋ニ合巻出板致し、当酉迄十三篇
迄出、流行也、丁平ニて是を聞て立腹致し、余り残念故ニ自分も同未年暮ニ同様之合巻ヲ出板致し、仙
果作・豊国の画ニて、仮名読八犬伝と表題致し、是も当時九篇出、流行致し候得共、元々の八犬伝ハ丁
平の株ニ候を蔦吉ニて類板致し候ニ付、今迄中之宜敷処不和ニ相成候よし
芳談と其仮名読ハわかれ共
心の犬がいがみ合けり
又、侠客伝・美少年録も馬琴ニて、丁平板元ニ是も又々おつかぶせ、蔦吉板元ニて、一九作・豊国画ニ
て、御年玉美少年始と題号し出板致し、当時ハ四篇迄出ル也。
又 侠客伝仦(ヲサナ)画説と題号し、是も当時三篇迄出ル也、右故ニ弥々中悪敷なりけれバ
丁平のたいらもこぶがいでるとは
さて蔦吉もよくなひと見へ〟
〈『南総里見八犬伝』(馬琴作・柳川重信、二世重信、英泉、貞秀画)は文化十一年(1814)から天保十三年(1842)まで
二十九年に及ぶ読本のロングセラー。「日本古典籍総合目録」は『犬の草紙』を笠亭仙果作・三代豊国画とし、『仮
名読八犬伝』を為永春水二世作・国芳画とする。前者は嘉永元年の初編から途中絵師を替えながらも明治以降に及ぶ。
後者もまた嘉永元年の初編から作画者共に替えながら慶応三年(1867)まで刊行された。『南総里見八犬伝』が文字通
り『犬の草紙』と『仮名読八犬伝』という「犬(似て非なるもの)」を生んだのである〉