Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ はごいた 羽子板浮世絵事典
   ☆ 明治初年(1868~)  ◯「行楽の江戸」淡島寒月著(『新公論』第三十二巻第一号 大正六年一月)   (『梵雲庵雑話』岩浪文庫本 p89)※(カナ)は原文の振り仮名   〝一月 お正月の遊びといえば、先ず「羽根突」に「歌留多」は今も昔も変わりはない。殊にこの「羽根    突」は、私の子供時代即ち安政から文久、慶応、明治の初年にかけては、非常に盛んであって、子供の    遊びというよりもむしろ大供(おおども)の遊びで、内儀も出れば下女も出る下男も出るで、負けたもの    には顔に墨を塗るとか尻を叩くとかして大いに騒いだものである。(中略)    羽子板は役者の似顔の押絵で、今のように綺麗ではなかったけれども、それも古い狂言に出た顔ではな    い、顔見世したばかりの新らしいのを拵えて売出した。それに使ってある緋鹿子なども縮んだままのも    ので、柄には本天鵞絨(ビロード)を巻いたのなどもあった。値段は一円位から一両(十円)位の随分思    切って高いものあった。良い物は主に若松屋とか鼠屋とか勝文とかへ誂えたものである〟  ◯「羽子板の顔」『明治東京逸聞史』②p106 明治三十六年(1903)(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   〝羽子板の顔〈東京朝日新聞三六・一・一〇〉     この間までは、団十郎、菊五郎、左団次、芝翫など、押絵の羽子板を見ても、錦絵を見ても、はっき    り見分けが附いたのに、今の羽子板や錦絵では、若手の役者は見分けが附けかねる。画工の方で、まだ    若手を描き馴れないのであろうが、紋を描き添えて、誰れと分るようにしたのなどもある〟    ◯「羽子板」『明治東京逸聞史』②p182 明治三十八年(1905)(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   〝羽子板〈東京朝日新聞三八・一二・二五〉    「羽子板の市況」という記事を載せているが、羽子板の押絵にも、時代の変遷がある。明治十六七年ま    では、押絵も平たく板に附いたのが喜ばれたが、十九年頃から次第に変って、盛上ったのが歓迎せられ    るようになった。顔絵師も、国周が去って、周政(後に国延)となったなどとしてある。国周、周延等    の浮世絵師は、錦絵の外に、羽子板の顔をも画いたのである〟