Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ えぞうしや 絵双紙屋浮世絵事典
   錦絵や合巻・読本のような版本は絵草紙屋や糶(せり)売り(行商)や貸本屋を通して市中に流通して    いく。寺門静軒(1796-1868)の『江戸繁盛記』三編(天保五年・1834刊)「書舗(ホンヤ)」記事によれば、    絵草紙屋五十、貸本屋八百とある(絵草紙屋の数は版元も兼ねる地本問屋も含まれている)錦絵など    の一枚絵は個々人が買うのだろうが、合巻などの版本は貸本屋から借りて読むのだろう  ☆ 天明四年(1784)  ◯『髪手本通人蔵』黄表紙(北尾政美画 里山作 西村屋与八板 天明四年刊)   〝わたしみせには げいしゃかほより うつくしき 花のお江戸のあづまにしきゑ 似かほのしんいた    くさそうし おい/\ごらんねがひあげ申候〟    〈天明期の絵草紙屋の光景。大判の遊女絵、細判の役者似顔絵、黄表紙などが見え、吊るし売りもあり。暖簾に山形     +「半」の屋号紋があるが、これはこの黄表紙の出版元西村屋与八の紋とは異なる〉    絵草紙屋の店先光景 北尾政美画(早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」)  ☆ 天明年間(1781~1788)  ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥61(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝役者の一枚絵、天明比迄は西之内紙三つ切、今は二つ切也、三つ切の時分は、新板の絵は一枚八文、古    板の絵は一枚六文、又は糊入紙三つ切にて、一枚二文三文と売たるもの也、今の二つ切は、一枚価何程    なるや予不知〟    〈「今」は「序」の天保二年頃と思われる〉  ☆ 寛政九年(1797)  ◯『東海道名所図会』巻六 北尾政美画 小林新兵衛他板 寛政九年刊   (早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」)   〝画肆(えのみせ)(※路上の看板に「錦絵/さうし問屋/泉屋市兵衛」とあり)    画(ゑ)は原(もと)史星より発(おこ)りて、王献子が牛、楊子華が馬、呉道子が龍、包鼎が虎、みな精妙    也。名にしおふ江戸絵は此地の名物にして、芝居・歌舞伎・新吉原の花魁(たゆふ)、あるはすまひ取の    立すがた、いづれも彩色(さいしき)濃(こまやか)にして、動くが如く笑ふが如く、今はむかしにかはり    て種々(くさ/\)の画多くありて、海内(かいだい)これを賞して、土産(とさん)の第一とす     丹青(たんせい)の妙手(めうしゆ)生(いけ)る如くなり 絵空(ゑそら)ごとゝはきつい空言(そらごと)〟    署名は「政美写」〈北尾(蕙斎)政美は神奈川宿~日本橋の挿絵を担当している〉    泉屋市兵衛店 芝神明前三島町 甘泉堂 北尾政美画(早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」)  ☆ 享和二年(1802)    蔦屋重三郎店 日本橋通油町 耕書堂(『画本東都遊』中巻所収 北斎画・享和二年刊)          (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    糶(セリ)売り(黄表紙『的中地本問屋』十返舎一九作・画 村田屋治兵衛板 享和二年刊)         (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    芝三島町絵草紙屋(黄表紙『的中地本問屋』十返舎一九作・画 村田屋治兵衛板 享和二年刊)            (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)  ◯ 文化三年(1806)    『街談文々集要 三』   ◇「都婦商錦絵」p67   〝文化三丙寅五月、糀町平川町三丁目に、池田といへる錦画売見世出たり、娘は十七八歳ニて、其の名を    さとゝいふ、容義うるハしくして、衣類甚だ異様なり、緋ぢりめんの下帯ニ、縫などして着し、はなや    かに粧ふて、見世ニ出て商ひをする、此母も同さまにて、ともに見世ニて手伝ふて居る、錦画を求る人、    又往来の人も立どまり、見世先キ群集して、恰市のごとし、江戸中殊の外なる評ばんニて、天神の縁日    など夕方よりやすみたり、此池田親子三人の者ハ、皆上方者なり、去る丑年の頃より、京橋銀座三丁目    ニ見世を出しける、此節も上方女なれば、皆珍しく人々群集せしが、当三月四日類焼後、糀町へ引移り    し也、此後神田新石町ぇ引越し、其後いかゞなりしや〟  ◯ 文化十四年(1817)    絵草紙屋(文化期)(合巻『気替而戯作問答』歌川豊国画 山東京伝作 森治板・文化十四年刊)(国書データベース)  ☆ 文政十一年(1828)  ◯『【猿猴庵】江戸循覧記』猿猴庵(高力種信)作・画   〝芝 三島町    此町は芝神明の辺にして繁昌の地なり。両がわの家毎に江戸絵・草双紙を商ふ。此店には艶(ゑん)なる    娘を出して男は出ず。これ端出(はで)にする為ばかりにあらず。もとめに来る人々には、諸国の入込地    なるがゆへに、強気(がうぎ)にかれこれと、りきみ口論などする輩(ともがら)もあり。されば女とは、    からかいなどすれば、世の笑艸(わらいぐさ)と思ひて、おのづから過言を云はず。とかく店に事なき様    (やう)にする由なり。江戸広しといへど此ごとく見事なるさまは、不忍の池の端まる中町と当所のみに    して他にはなし。絵本・紅画而己(のみ)ならず、小間物、或はもちあそびほしひものだらけなれば、三    島町へ子供をつれては一足(ひとあし)も動けぬと里読(ことわざ)にさへ云へり。実(まこと)尤(もつと    も)ぞかし〟
   芝三島町(『猿猴庵江戸循覧記』猿猴庵作・画(東洋文庫画像データベース)  ☆ 天保五年(1834)        鶴屋喜右衛門店 仙鶴堂 日本橋大伝馬町(『江戸名所図会』巻一所収 長谷川雪旦画 天保五年刊)           (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)   ☆ 天保十年(1839)      山本平吉店 栄久堂 日本橋芳町親仁橋角(合巻『豊年武都英』渓斎英泉画 天保十年刊)(国書データベース)  ☆ 天保十三年(1842)    蔦屋吉蔵店 紅英堂 京橋南伝馬町一丁目(合巻『絵巻物今様姿』口絵一声斎芳鶴画 天保十三年刊)(国書データベース)  ☆ 嘉永三年(1850)  ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇懸り名主・絵双紙屋への通達 p158   〝七月十七日、通三丁目寿ぇ絵双紙懸名主八人出席、絵双紙屋へ申渡之一条     去ル丑年御改革、市中取締筋之儀、品々御触被仰渡御座候処、近来都而相弛、何事も徒法ニ成行候哉、    畢竟町役人之心得方相弛候故之義と相聞候旨御沙汰ニ而、此上風俗ニ拘り候義ハ不及申、何ニ不限新工    夫致候品、且無益之義ニ手を込候義ハ勿論、仮令誂候者有之候共、右体之品拵候義は致無用、事之弛ニ    不相成様心付、其当座限ニ不捨置様致世話、此上世評ニ不預、御咎等請候者無之様、心得違之者共ハ教    訓可致旨、先月中両御番所ニ而、各方ぇ被仰渡御坐候由、絵(一字欠)之義ハ前々より之御触被仰渡之趣、    是迄度々異失不仕様御申聞有之、御請書等も差出置候処、近来模様取追々微細ニ相認候故、画料・彫工    ・摺手間等迄差響、自然直段ニも拘、近頃高直之売方致し候者も有之哉、右ハ手を込候と申廉ニ付、勿    論不可然、銘々売捌方を競、利欲ニ泥ミ候より被仰渡ニ相触候義と忘れ候仕成ニ至、万一御察斗(当)請    候節ハ、元仕入損毛而已ニハ無之、品ニ寄、身分之御咎も可有之、錦絵・草双紙・無益之品迄取締方御    世話も被成下、御咎等不請様、兼而被仰論候は御仁恵之至、難有相弁、此上風俗ニ可拘絵柄は勿論、手    を込候注文不仕、篇数其外是迄之御禁制(二字欠)候様、御申論之趣、得と承知仕候、万一心得違仕候    ハヾ、何様ニも可被仰立候間、其印形仕置候、以上     錦絵壱枚摺ニ和歌之類并草花・地名又ハ角力取・歌舞妓役者・遊女等之名前ハ格別、其外之詞書認申    間敷旨、文化子年五月中被仰渡御坐候処、錦絵ニ歌舞妓役者・遊女・女芸者等開板仕間敷旨、天保十三    寅年六月中被仰渡之、已来狂言趣向之絵柄差止候ニ付、手狭ニ相成差支候模様ニ付、女絵而已ニ而は売    捌不宜敷、銘々工夫致、狂画等之上ぇ聊ヅヽ詞書書入候も有之候得共、是迄為差除候而は難渋可仕義と、    差障ニ不相成程之詞書ハ其儘ニ被差置候処、是も売方不宜敷趣ニ付、踊形容之分、御手心を以御改被下    候ニ付、売買之差支も無之、前々より之被仰渡可相守之処、詞書之類も追々長文ニ相認、又は天正已来    之武者紋所・合印・名前等紛敷認候義致間敷之処、是又相弛ミ候哉、武者之伝記認入、右伝記之武者は    源平・応仁之人物名前ニ候得共、内実ハ天正已後之名将・勇士と推察相成候様認成候分多相成、殊ニ人    之家筋・先祖之事相違之義書顕し候義御停止、其子孫より訴出候ハヾ御吟味可有之筈、寛政度被仰渡有    之、仮令天正已前之儀ニ候共、伝記ニハ先祖之系図ニ至り候も有之、御改方御差支ニも相成候間、其者    之勇略等、大略之分ハ格別、家筋微細之書入長文ニ相成候而は、御改メ被成兼候段承知仕、向後右之通    相心得、草稿可差出候〟     〈天保十二(丑)年以来の改革で強化した市中取締に弛みが生じているので、改(アラタメ)を行う名主と絵草紙屋に対して、     もう一度趣旨を確認し徹底させようという通達である。時の風俗に拘わる絵柄は勿論、彫り・摺りに手間のかかる高     直のもの、そして是まで禁制であったもの、これらを再度禁じたのである。そのうえ万一お咎めを受けた場合には原     材料の損ばかりでなく、身分上の処罰も覚悟せよという圧力まで加えた。文化元年(1804)五月、錦絵・一枚摺に和歌     の類、草花・地名・力士・歌舞伎役者・遊女等の名前を除いて、それ以外の詞書きを禁止。天保十三年六月、歌舞伎     役者・遊女・女芸者の出版を禁止して統制を強化した。商売に差し支えが生じた板元達は銘々工夫して、詞書き入り     の狂画などを出してみたがあまり売れ行きがよくない、それで歌舞伎と言わず「踊形容」として、手心を加え許可し     たところ商売が持ち直しのはよいが、今度は、詞書が長くなるなど、また弛み始めた。特に武者絵の弛みは甚だしく、     天正年間以降の武士の紋所・合印・名前等の使用を禁じられているのに、それらと紛らわしいものが出始め、伝記絵     に至って、表向き源平・応仁時代の名前にして、内実は天正以降の名将・勇士に擬えるのものまで出回っている。も     っと検閲を強化せよというのである。当時『太閤記』を擬えた武者絵が、国芳・貞秀・芳虎等によって画かれている。     いうまでもなく、この通知は、こうした出版動向と改名主の弛みに対する牽制である〉    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇大筒一件 p170    〝八月八日 通三丁目寿ぇ絵草紙懸り名主八人出席致、市中絵草紙屋を呼出し、大筒一件之書付を取也。     大筒之狼烟相発候傍ニ、驚怖之人物臥居候体之錦絵、内々売々(買)致候者は勿論、彫刻并ニ摺立候者    有之哉之旨、厳重之御尋ニ御座候、前書被仰含候絵柄之義は、市中ニ験(ママ)類に携候者共、蜜々精々探    索仕候得共、決而無御座候、何様押隠取扱候共、私共不存義ハ無御座候処、右図柄ニ限り及見聞候義無    御座候、若向後見聞仕候ハヾ早々可申上候、外より相知候義も御座候節ハ、何様ニ被仰立候共、其節一    言之義申上間敷候、為後日御請印形仕置候、以上。                            絵草紙屋糶       絵草紙懸名主                     廿四人        佐兵衛殿初                       印        同外七人 名前    一 八月三日、通三丁目寿ニ於て、町方定廻り衆二人出席有之候て、絵草紙屋を呼出し御詮義有之候ハ      富士山の下ニ石火矢の稽古有之、見分之侍五六人床机をひつくり返シ倒れる処の画出候ニ付、御奉      行よりの御下知ニて買上ゲニ参り候よし申され候ニ付、懸り名主より絵草紙やを銘々吟味有之候処      ニ、一向ニ手懸り無之候ニ付、右之由申上候。    一 是ハ先達浦賀表ニ而、大筒のためし有之、其時出役之内、石河土佐守・本多隼之助両人、三拾六貫      目大筒の音の響にて床机より倒れ気絶致し候由の噂、専ら街の評判ニ付、右之画を出せしよし。    一 然ル処、右之絵、所々を穿鑿致候得共、一向ニ相知れ申さず、見たる者も無之候ニ付、八月八日、      寿ニて寄合、前書之通、書面を取也。    一 但し、大筒ためし横画一枚絵出候よし、是ハ浅草馬道絵双紙や板屋清兵衛出板致し候よし。    一 又一枚絵ニて、大鰒の腹の下へ大勢たおれ居り候処の画出ル、是ハ大きなる鉄炮故ニ大筒なり、大      筒の響にて倒れ候と云なぞのはんじものなり、板元芝神明町丸屋甚八なり、是の早々引込せ候よし。    一 雷の屁ひりの画も出候よし、是の大筒のなぞ故ニ、引込せ候よし。         ねをきけバたんと下りて扨つよく           長くこたゆる仕入かミなり〟    〈早速改の懸かり名主達の詮議が厳しくなった〉    ☆ 嘉永五年(1852)  ◯『藤岡屋日記 第五巻』p155(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)   ◇押込強盗    〝(九月十二日)其頃、人形町絵双紙屋上州屋重蔵・具足屋加兵衛、同夜に押込入候由〟  ☆ 安政四年(1857)      魚屋栄吉店 下谷新黒門町(「今様見立士農工商内商人」三枚続 三代目歌川豊国画 魚栄板 安政四年刊)         (国立国会図書館デジタルコレクション)  ☆ 慶応三年(1867)    絵草紙屋(合巻『鼠祠通夜譚』三編下 二世柳亭種彦二世歌川国貞画 蔦屋吉蔵板 慶応三年(1867)刊)        (早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」)    〈見開きの左頁。店の内側から描写。客の頭上にあるのが吊った錦絵〉  ☆ 幕末~明治初年  ◯「行楽の江戸」淡島寒月著(『新公論』第三十二巻第一号 大正六年一月)   (『梵雲庵雑話』岩波文庫本 p89)※(カナ)は原文の振り仮名   〝一月 お正月の遊びといえば、先ず「羽根突」に「歌留多」は今も昔も変わりはない。殊にこの「羽根    突」は、私の子供時代即ち安政から文久、慶応、明治の初年にかけては、非常に盛んであって、子供の    遊びというよりもむしろ大供(おおども)の遊びで、内儀も出れば下女も出る下男も出るで、負けたもの    には顔に墨を塗るとか尻を叩くとかして大いに騒いだものである。(中略)    羽子板は役者の似顔の押絵で、今のように綺麗ではなかったけれども、それも古い狂言に出た顔ではな    い、顔見世したばかりの新らしいのを拵えて売出した。それに使ってある緋鹿子なども縮んだままのも    ので、柄には本天鵞絨(ビロード)を巻いたのなどもあった。値段は一円位から一両(十円)位の随分思    切って高いものあった。良い物は主に若松屋とか鼠屋とか勝文とかへ誂えたものである〟  ◯「行楽の江戸」淡島寒月著(『新公論』第三十二巻第一号 大正六年一月)   (『梵雲庵雑話』岩波文庫本 p105)※(カナ)は原文の振り仮名   〝別嬪というと、この頃はよく何の店でも女の店の者がおるが、当時は女は店は出なかった。女が店に出    ていると日蔭町じゃあるめいしと笑った位で、別嬪が座っていたのは絵草紙屋位のものであった。そし    て不思議に別嬪のいたもので、かや町の森本という絵草紙屋のお玉さんという娘は、その頃一枚絵に出    たほどの評判娘であった。当時は評判の女があるとすぐに一枚絵(錦絵)に拵えたものだ。一体当時は    絵草紙はなかなか盛んなもので、馬喰町二丁目の山口、四丁目目の木屋、横山町の辻文、両国の大黒屋、    人形町の具足屋、日本橋の大倉孫兵衛などは主なるもので、浅草見附から雷門の間にも三、四軒の絵草    紙があった〟  ◯「幕末時代の錦絵」淡島寒月著(『浮世絵』第二十一号 大正六年二月)   (『梵雲庵雑話』岩波文庫本 p120)   〝(維新当時)その時分横山町三丁目に、辻岡屋文助という錦絵屋がありました。この店は辻文といって    通っていました。主に百姓相手の店でして、馬喰町の旅館に泊っている百姓たちが、国元への土産にこ    の店から錦絵を求めて帰ったものです。    馬喰町の旅館を中心として、両国へかけてこの辺には昔から錦絵の版元がありました。私の覚えていま    すのは、辻文、木屋、大平、加賀屋などというのがありました。    木屋というのは馬喰町四丁目にありました店で、大平は両国です。この大平というのは相撲の画で売出    した店でした。それから加賀屋というのは、大平の向側で芭蕉膏という生薬屋の少し手前でしたが、い    づれもかなりに繁昌したものです。    新版の錦絵を刷出しますと、必ずそれを糸に吊るし竹で挟み、店頭に陳列してみせたものです。大道な    どで新らしい錦絵を売るという事はありませんでした〟  ☆ 明治十年(1877)  ◯「明治十年前後の書店配置図 日本橋から芝まで」浅野文三郎著   (『明治初年より二十年間 図書と雑誌』洗心堂書塾・昭和十二年刊)   〝通壱丁目の角が瀬戸物店、続いて大倉書店、萬孫絵双紙、いつも店先は錦絵の見物で一ぱい。絵双紙に    見とれて懐中を抜かれて青くなる人もあつた〟  ☆ 明治十一年(1878)  ◯「東京新誌」112号   〝店頭三間数竹竿を横へて、各色の錦画を挿み、以て儘行人の縦覧に任す。新聞雑誌の如(き)は累々積ん    で其の下に推く、又絵草紙の如き上木未だ久(し)からざるは下し招紙(ビラ)を掲(げ)、或(は)錦画と共    に之を挿んで、以て其の新板を示す。乃ち某氏著(はす)所(の)『夜嵐阿絹花廼仇夢』、何氏著(はす)所    (の)『鳥追阿松海上新話』の如き、各鋪共に之を店頭に掲ぐ〟    〈『夜嵐阿絹花廼仇夢』(岡本勘造綴・永島孟斎画・金松堂)『鳥追阿松海上新話』(久保田彦作著・楊洲周延画・錦栄     堂)は共に明治十一年刊。原漢文。(カナ)は原文の読み。(ひらがな)は本HPが補った「かな」〉  ☆ 明治十九年(1886)  ◯「読売新聞」(明治19年11月30日付)   〝絵双紙組合 府下の彫画製造販売者が協議して 横山町三丁目辻岡文助外八名が総代となり 同業組合    規約の事を其筋へ願ひ出しが 昨日許可になりしゆゑ 事務所を通り三丁目へ設立されるといふ〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『東京市中案内大全』東京 磯江潤他編 哲学書院 明治二十三年三月   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「第四章 諸商店 錦絵商」43/170 コマ   〝木屋  日本橋馬喰町三丁目  近江屋 日本橋小伝馬町三丁目    辻岡屋 日本橋横山町     小野口 京橋八丁堀仲町〟    〈木屋 小森宗次郎・近江屋 長谷川園吉か・辻岡屋 辻岡文助・小野口 未詳〉  ☆ 明治二十七年(1893)  ◯『早稲田文学』第76号p54「彙報」(明治27年(1893)11月刊)   〝絵草紙店の近況 も美術界の一現象として報道するの価値あるべし。錦絵、石版画、写真石版画、小冊    子類みな世間に連れて戦争に因めい、従来俳優の肖像、新古風俗などを主題とせりし錦絵、今は一変し    て殆ど日清戦争及び之れに縁故ある歴史上の人物事件のみにて、普通の風俗画、肖顔画も多くは戦争芝    居のにて普通の風俗画、肖顔画は目下大店ならでは品切れの姿となれり。錦画(ママ)には上下二種ありて、    下の品は婦幼の眼を喜ばしむるため只管濃彩を施したるもの、上の品は之れに比すれば、趣向用筆共に    やゝ美術的なり。例へば同じく戦争の景を画けるにも、一は只人馬剣銃の縦横する様を写し、他は全幅    の釣合、場面の結構等にも注意せるが如し。又戦争画の局面大なるに随ひて、小国の太孤山沖海戦図六    枚続き、年英の平壌激戦図九枚続き等の大物も現れたり。    石版画はもと/\写真を以て優れるもの故、絵草紙の範囲は肖像画、景色画の小部に止まりたれど、戦    争画行はれ初めしより稍々盛に刷出するに至れり、此にも上下の二等ありて、上等のものは往々名家の    筆に成るを見る。要するに戦争画の実に近きは無論石版の方なれど、概して趣味に乏しきため、錦絵に    消しおさるゝおもむきあり。また一般に錦絵は背景の心を用ふること少なけれど、石版画は此の用意深    し、而して画題が兎角剣銃格闘の一面に傾きて「垂死の喇叭手」「定遠は沈まずや」など裏面の好題目    に及ばざるは二者同轍なり。其他写真石版は原版が絵画の複写なるため、写真の名に副ふもの尠し、又    小冊子にては、端唄、都々逸、はやり唄、仮声独稽古などいへるもの跡を潜め『絵入日清戦記』『ちや    ん/\ぶし』『支那征伐軍歌』『日清韓会話独稽古』のたぐひ之れに代れり。双六、かるた、落話集、    謎づくしの如き、はた日清事件に因みて仕組めるが多し〟    ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『早稲田文学』第2号p60「彙報」(明治29(1896)年1月21日刊)   〝絵艸紙屋の店頭に立ちて目につくは錦絵の変遷なり、維新以前に錦絵の大部分を占めし芸娼妓の美人画    の著く減少せしこと、芝居の流行の甚しきにも似ず役者絵の割合に尠くなりしこと、美術石版と称する    古画伯(応挙探幽等)の名画の翻刻流行すること、石版肖像画の殖えしこと、幼年者流のもてあそびに    供する小冊子類のいちじるしく殖えしこと、遊芸独稽古用のクダラヌ書類のおびたゞしきこと、『造化    機論』やうの書類今のあまた陳列しあること、錦絵の彩具及び紙質のわるくなりしこと、浄瑠璃本稽古    の売足よきこと、其の他は今思ひいださず〟    〈「幼年者流のもてあそびに供する小冊子類」とは子供向け絵本のいわゆる「赤本」。『造化機論』の「造化機」     とは生殖器のことで、明治9年(1876)図版入りで出版されて以来、隠れた性のベストセラーであったようである〉  ☆ 明治四十年(1907)  ◯「錦絵問屋」東京朝日新聞 明治40/10/4   (『明治東京逸聞史』②p252 森銑三編・東洋文庫・平凡社・昭和44年刊)   〝錦絵問屋     錦絵は振わなくなった。画く人もなければ、彫る人もないという有様だ。それで錦絵問屋も、つぎつ    ぎと閉店し、今は両国の大平と、室町の滑稽堂との二軒が残っているだけだ。この二軒とても、アメリ    カから美人画の註文のあるのを頼りに商売を続けているに過ぎぬ。人形町の具足屋は、役者の似顔絵の    板木も売って、今は石版画を商っている。安物の千代紙や切抜き絵は、夏季にだけ売行きがあるけれど    も、秋口からは下火になる。これらの安絵も、以前は半紙に刷っていたけれども、それでは算盤が持て    ぬので悉く西洋紙を用いる。それを一枚一銭で売るのだから、利益は二三厘を出ない。錦絵問屋には、    秋風が吹き渡っている〟  ◯『梵雲庵雑話』「行楽の江戸」「七」(淡島寒月著・大正六年(1917)一月『新公論』第三十二巻第一号)   〝別嬪というと、この頃はよく何の店でも女の店の者がいるが、当時は女は店に出なかった。女が店に出    ていると日蔭町(ヒカゲチヨウ)じゃあるめいしと笑った位で、別嬪が座っていたのは絵双紙(エゾウシ)屋位のも    のであった。そして不思議に別嬪のいたもので、かや町の森本という絵双紙屋のお玉さんという娘は、    その頃一枚絵に出たほどの評判娘であった。当時は評判の女があるとすぐ一枚絵(錦絵(ニシキエ))に拵え    たものだ。一体当時は絵双紙はなかなか盛んなもので、馬喰町二丁目の山口、四丁目の木屋、横山町の    辻文、両国の大黒屋、人形町の具足屋、日本橋の大倉孫兵衛などは主なるもので、浅草見附から雷門ま    での間にも三、四軒の絵双紙屋があった〟    〈「かや町の森本」とは、円泰堂・森本順三郎か。以下、馬喰町二丁目の山口は、錦耕堂(春錦堂)山口屋藤兵衛。同四     丁目の木屋は、紅木堂(木宗)木屋宗次郎。横山町の辻文は、金松堂(金港堂)辻岡屋文助。両国の大黒屋は、松寿堂     (大平)大黒屋平吉。人形町の具足屋は、具足屋嘉兵衛。日本橋の大倉孫兵衛は、万屋孫兵衛(万孫)〉    ◯『明治の東京』「新富座」p74(鏑木清方著・昭和八年三月記)   〝今の見物が絵はがきを買うように、その頃(明治十年代)の見物は錦絵を買ったものだ。それは芝居の    中で売るのではない、賑やかな町には絵双紙屋があって、そこには国周、国政などという絵師のかいた    似顔絵の一枚絵、三枚続き、芝居帰りに気に入った場面、ひいき役者の顔、それに絵としての鑑賞も加    えて、店の框(カマチ)に腰を下して、板下ろしの紙の匂い、絵の具のにおいを味(アジワ)いながら、こばを    揃えてきちんん積んだ中から出してくれるのを手に取って見入る気もちは、私たちの何代か前の祖先が、    写楽や春章、または豊国の錦絵を、やはりこうして絵双紙屋の店先で手に取り上げたのと、なんの変り    もなかったろう〟    〈この国政は四代目(三代目国貞)か。この風景は江戸の残照というより、江戸そのものなのであろう〉    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝惜しいのは絵双紙屋、江戸以来の東みやげ、極彩色の武者画や似顔絵、乃至は双六、千代紙、切組画な    どを店頭に掲げ、草双紙、読本類を並べて、表には地本絵双紙類と書いた行灯型の看板を置き、江戸気    分を漂わした店構えが明治時代には市中到るところに見られたが、絵葉書の流行に追われて、明治の中    頃からポッポツ退転。    両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、もっばら役者絵    に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。一鴬斎国周を    筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流の達筆は新板    ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といった顔触れ。新    年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自慢の一名物。    国周、芳年の没後そろそろ下火、今は滅法珍重される清親の風景画も当時は西洋臭いとて一向さわがれ    ず、僅かに日清戦争の際物で気を吐いたが、その後は月耕、年方等一門が踏み止まって相当多教の作品    をだした。それも上品過ぎて却って一般には向かずじまい。日露戦争時代には俗悪な石版画が幅を利か    せて、錦絵は全く型なし。    これよりさき、明治二十一、二年頃、石版摺の裸体画が一時絵双紙屋の店頭に跋扈し、もちろん非美術    的の代物で後には禁止されたが、この時すでに錦絵ももう末だなと感じた。ことに彫工も摺師も老練の    名工が追い追い減少、そのうえ物価騰貴で三枚続き普通十銭、上物十五、六銭で売ったのが倍以上でも    引き合わず、随って仕事もいい加減になり、絵具も安物、せいぜい子供のおもちや絵程度、その中で夏    向きの組立灯籠画などはしゃれたものの一つ、これなどは今あっても面白かろう〟  ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・昭和三十六年刊)   ◇「鈴木学校」p25   〝 明治時代に東京で少年の時を送った人達は、宵闇が迫る夏の空に、蝙蝠(コウモリ)の飛び交う時分、絵双    紙屋に吊るされた数々の美しい錦絵に見惚れて、夜の遅くなるのも知らずに、我を忘れて立ち尽くした    昔の思い出を有つであろう〟     ◇「鈴木学校」p27    〝 暖簾の掛かった店の中には、右から左と幾筋も引き渡した細引の綱に、竹串で挟んで吊り下げた三枚    続は、二段、三段、役者絵あり、女絵あり、紅紫嬋娟、板数を重ねた刷色は鮮やかに、檐下に吊るした    ランプの照り返しに映えて見るものの魂を奪う。この照明具は他に見かけない形であった。店によって    は常の釣ランプだけのところもあったが、相当の店では、照り返しの為めもあろうし、また、風除の工    夫でもあったろう。丈、一尺四五寸、幅一尺足らずの格子に紙を張ってあるから小障子ともいえそうな    のを竪に二枚、骨を表に、屏風のように開いて、二枚の間には二寸五分ほどの竪板がはいる。この、云    って見れば「障子屏風」の懐にランプを置く仕組があって、これを店先の檐に、二つ、乃至、三つ、間    口に応じてこれを吊る。この時分電燈はまだ町中には見られなかったけれど、裸火の瓦斯(ガス)は有っ    たのだから、或いはこれを引いている店もあったろう。今は絶えて見るよしもないが、この照明は錦絵    を照らすにいかにもふさわしいものであった。     三枚続には、国周の役者絵も、芳年の風俗画もあったろうが、それと知ったのは十歳頃から後のこと    で、その前には只一枚物の横絵に、清親の、高輪の海岸を駛しる汽車の絵だの、向両国の火事、箱根、    木賀の風景などは店頭に見た覚えがある。一枚物にはこうした鑑賞向きの品とは別に、千代紙、手遊絵、    その他の切抜絵は殆ど竪判に限られているが、こういうのは斜にした右の隅を例の竹串で挟んで竪形(ナリ)    に吊るし下げてある。組立絵、影絵、写し絵、台所道具、衣裳の着せ換え、猫のお湯、武者人形、相撲    づくし、魚づくし、面づくし、楽屋の役者に好みの鬘を切り抜いて冠せるのもあれば、尻取文句、いろ    はかるた、かぞえ立てたらきりがない。幼い子にして見れば、上の方に吊った立派な三枚続も欲しくは    あるが、それよりも小遣い銭をねだって買おうという当座の目あてはこの手遊絵や千代紙の方にある。    店の框(カマチ)に腰を下ろすと、ついそこにはまだ吊るさない分が、真っ白がコバを揃えて堆(ウズタカ)く    積み上げてある。飾ってあるのよりこの積み上げた奥深く、もっと素晴らしいのが潜んでいるような気    がしてならないのを、売り手の方はよく知っているから、いくらでも抜き出した見せてくれる。絵双紙    屋にとって子供の客はまたとない定得意なので、町の駄菓子屋と同じく何処でも嫌な顔は見せない。買    い物が済むと千代紙の二三枚でも、三枚続の上物でも、クルクルと程よく巻いてそこの店の名が刷って    ある掛紙を掛け、その上から正の截(タ)ち落しを軽く廻わして、指先でちょっと捻って渡してくれる。    鏡花作「三枚続」柳屋のお夏を知る読者があったら、そこに紅差した爪先を見出されるに違いない。     手遊絵でも芳藤のものなどは一時複刻を見たほどで、今でも何処にか好事(コウズ)の人の蒐集が残って    いればよいと思っている。私などは時折考えることだが、あの時分に絵草紙店もなく、従って身のまわ    りに手遊絵が無かったとしたら、生い立ちはいかに索莫を極めたであろうか。その作者達は多く「芳」    とか「国」とかを画号の頭字に置いていた。     時代の前後はあるが、版元を兼ねた店の中で私の見ているのは、人形町の具足屋、両国の大平、馬喰    町の綱島、室町の秋山、銀座の佐々木などだけれど、店売だけの家は店並の揃った町へ行けばいくらも    見られた。私は割に住居から手近かにあったので、新富座に近い大通の長谷川という、小体(コテイ)なが    ら蔵づくりの確(シツカ)りした店へ買いに行った。ちょうどその筋向こうの左り角に、初代左団次が住ん    でいたが、「め組の喧嘩」に書き下ろしからその持役だった、焚出し喜三郎が出て来そうな、どう見て    も芸人の住居には見えず、左団次その人の生活なり、芸風なりを思わせるいかにも手堅い外構えであっ    た。芝居の帰りにこの長谷川で、五代目菊五郎の仁木の、幕外一人立と、左団次の宮本無三四が白倉の    邸で湯殿を破って、柱を振り冠っている、これも一人立半身のもので、どっちも国周筆の三枚つづきを    自分で見立てて買って来たこともある。左団次の無三四は湯殿で浴衣姿の大立廻りが凛々しくて大層好    評だったもので、これは二十一年の夏狂言であった。     その後、芳年、年方、周延、月耕と、次々に新版は店頭を飾って、絵草紙屋はまだ庶民に親しまれて    いたようだったが、二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減っ    て行った。役者絵は何といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見    せて来たことと、三十四五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし    続けていた店も、絵葉書に席を譲らなければならなくなった。     東京で最後まで錦絵を吊っていた店は何処だったろう。私はずっと後に浅草雷門の取附(トツツキ)にあっ    た店で、勿論そこも雑誌その他の刊行物が主となって並んではいたけれど、「関の扉」の組立燈籠の切    抜絵を見つけて買ったことがある。本郷、本富士町で、牛肉店三枝の前にも一軒遅くまで、といっても    大正の期間、それが震災の後であったかどうか、定かでない〟    ◯『明治東京逸聞史』①p367(明治三十二年(1899)記事)   〝絵双紙屋     絵双紙屋では、新しく出来た錦絵を、三枚続きなら三枚揃えて店頭にぶら吊げて、道行く人々に示し    た。この年の子規の      春雨や傘さして見る絵双紙屋    は、その情景を巧みに捉えて、なつかし味のある句としている〟〈正岡子規の句〉  ◯『浮世絵』第一号 (浮世絵社 大正四年(1915)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇江戸の錦絵店  小島烏水(4/21コマ)    江戸の錦絵店 小島烏水著  ◯「涼台漫語」有山麓園 17/36コマ(『江戸文化』第三巻八号 昭和四年(1929)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「日陰町のやうだ」   〝 江戸時代の諺に女が商家の店番をして居ると 日陰町のやうだと云はれたものである、夫は当時芝の    日陰町には絵草紙屋が多くあつて 大概美貌(きれい)な娘が店番をして居つた 勤番者などがやつて来    てはあぶな絵などを買ふたものである、同じ頃であつたらう 浅草茅町にお玉といふ有名な美人があつ    た、これは森本といふ絵草紙屋の娘であつた。又浅草仲見世の茶店に大和屋のお幸(かう)といふも名高    かつた、何れも其頃の一枚絵(似顔画)にまで出されたのである…… 当時そこそこの美人と評判され    る娘はよく錦絵の一枚絵に出されたものだ、然し夫は堅気な深窓娘ではなく 多く絵草紙屋とか茶屋小    屋とか客商売をする家の娘で一枚絵にでも出されると、今で云ふ虚栄な誉れとも思ひ、又一面には店の    広告にもなつたのであらう〟