☆ 弘化四年(1847)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p131(藤岡屋由蔵・弘化四年記)
〝三月六日夜
四ッ谷内藤新宿浄土宗大宗寺閻魔大王の目の玉を盗賊抜取候次第
右之一件大評判ニ相成、江戸中絵双紙やへ右の一枚絵出候、其文ニ曰、
四ッ谷新宿大宗寺閻魔大王ハ運慶作也、御丈壱丈六尺、目之玉ハ八寸之水晶也、これを盗ミ取んと、
当三月六日夜、盗賊忍び入、目玉を操(ママ)抜んとせしニ、忽ち御目より光明をはなしける故ニ盗人気絶
なし、片目を操(ママ)抜持候まゝ倒レ伏たり、此者ハ親の目を抜、主人の目をぬき、剰地獄の大王の目を
ぬかんとなせしニ、目前の御罰を蒙りしを、世の人是ニこりて主親の目をぬすむ事を謹しミ玉へと、教
の端ニもなれかしとひろむるにこそ。
亦閻魔と盗人と坊主、三人拳之画出ル。
(歌詞)さても閻魔の目を取ニ、這入る人こそひよこ/\と、夜るそろ/\目抜ニ参りましよ、しや
ん/\かん/\念仏堂、坊さまニどろ坊がしかられた、玉ハ返しましよ、おいてきなせへ人の目を、
抜て閻魔の目をぬひて腰がぬけたで、きもと気がぬけ。
めを二(一)ッ二ッまなこで盗ミとリ
三ッけられたる四ッ谷新宿
五く悪で六で七(ナ)し身の八じ不知
九るしき身となり十分のつミ
右閻魔の目を操抜候一件、種々の虚説有之候、一説ニ同処質屋の通ひ番頭忰、当時勘当の身、閻魔堂
ニ入、左りの目の玉を操抜取、右之方を取んとする時、閻魔の像前ぇ倒レ候ニ付、下ニ成て動く事なら
ずして被捕し共云、亦一説ニハ、同処ニ貧窮人有之、子供二人疱瘡致し候故、閻魔ぇ願懸致し候処、子
供二人共死したり、右故ニ親父乱心致して、地蔵ハかハいゝが閻魔がにくいとて、目の玉を操抜しとぞ、
是ハ昼の事ニて、子供境内ニ遊び居しが、是を見付て寺へ知らせし故ニ、所化来りて捕しともいふなり、
亦一説ニハ、近辺のやしき中間三人ニて閻魔堂ぇ押入、二人は賽銭箱をはたき逃出し、一人は残り、目
玉を抜取し故、被捕し共いふ也。
閻魔の目を抜候錦絵一件
未ノ三月六日夜、四ッ谷新宿大宗寺閻魔の目玉を盗賊抜取候次第、大評判ニて、右之絵を色々出板出
(致)し、名主之改も不致売出し候処、大評判ニ相成売れ候ニ付、懸り名主より手入致し、四月廿五日、
同廿六日、右板元七軒呼出し御吟味有之、同廿七ニ右絵卸候せり并小売致候絵双紙屋九軒御呼出し、御
吟味有之、五月二日、懸り名主村田佐兵衛より右之画書、颯与(察斗)有之。
南御番所御懸りニて口書ニ相成、八月十六日落着。
過料三〆文ヅヽ 板元七人
世利三人
絵草紙屋
同断 小売
但し、右之内麹町平川天神絵双紙屋京屋ニてハ、閻魔の画五枚売し計ニて三〆文の過料也。
板行彫ニて橋本町彫元ハ過料三〆文、当人過料三〆文、家主三〆文、組合三〆文、都合九〆文上ル也。〟
〈国輝画の一枚絵である。画工への処罰はなかったようだ。この絵は、同時大流行中の三竦みの拳(この場合は閻魔と
盗人と坊主)と新宿太宗寺の閻魔の目抜き取り事件とを組み合わせた戯作戯画。犯人をめぐって、番頭の倅とか貧窮
人などの浮説が生じた。参考までに、「錦絵の諷刺画」の画像を下に引いておくが、『藤岡屋日記』が記録する一枚
絵の文言と下出画像の文言は同一ではない。「錦絵の諷刺画」の方は「おいてきなせへ人の目を」の「おいてきなせ
へ」まで同じだが、「人の目を」以降の文と数尽くしの狂歌がない。なお「颯与(察斗)」とは「察度」とも書き、意
味はお咎め〉
「内藤新宿太宗寺」貞重改国輝画
(ウィーン大学東アジア研究所FWFプロジェクト「錦絵の諷刺画1842-1905」)
◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩35(塵哉翁著・弘化四年(1847)記事)
〝焔魔の眼
武の四ツ谷なる内藤新宿大総寺に、安置の焔魔王あり、其像大にして凡一丈余り、年古き像と云、文化
の頃火災にみぐし計持退て、体は其後あらたに建立せしとぞ、今年三月半頃、此焔王の眼を彫抜し者あ
り、片眼抜取ていかにしけん、高きより落て気絶し、その物音に人々折合て捕らへしに、最寄なる鳶の
者といへる職人成よし、水晶の玉とこゝろえ、盗取たる成べしと、様々諸説ありしか共、実は愛児の疱
瘡全快を焔王に祈願せし甲斐もなく、失ひぬる歎の余り狂乱して、其恨をかへせし由也、元より玉眼に
もあらざれど、焔魔王なる故に、さま/\の浮説有しもおかし、
舌をぬく焔魔が娑婆で眼をぬかれうそで内藤評判は大総寺〟