Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ えかき 絵かき浮世絵事典
 ◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)   (『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った   ◇巻七(歌川国芳と弟子たち)p185   〝絵かきの収入といへば 板下や地口行燈等であるが 吉原の灯籠は一種の広告故 これは身銭を切つて    画いたものだ     浮世絵師は凡て絵かきと言つて 絵かきといへば浮世絵師を指したもので 本絵の方は絵師といつたも    のだ 又粉本は種(タネ)の名でとほつてゐた〟   〝浮世絵師即ち彼等が仲間でいう「絵かき」の中での仕事も 前にいふ玩具絵・武者絵・美人絵其他に凧    絵や又さしこ(刺子)絆纏(ばんてん)の絵や 一風違つて「文身(ホリモノ)」の絵をかいたものだ〟    〈以上は歌川芳兼の子・竹内久一の談〉   (参考)   『読売新聞』(明治29年3月25日記事)   〝彫刻の名家高村光雲氏客に語つて曰く(中略)現時の絵画を好む人は、多く古画を賞して新画に身を入    れず、注文主たる板元最も昔と相違せり、近々は三代豊国の存生せる頃までは其注文主たる各版元は、    自身下図を着け精々細かに注文して、其余を画工の意匠に委(まか)すのみなりしが、今は注文者に寸毫    の考案なく、画工に向て何か売れ相(さう)な品をと注文するが通例なり、夫ゆゑ画工も筆に任せてなぐ    り書きて、理にも法にも叶はぬ画を作りて識者の笑を受くるに至る、今江戸絵の最も抱腹すべきものを    挙げんに、歌川流の正統にして三代豊国の高弟として知られたる国周翁筆、山門の五右衛門は顔さへ俳    優(やくしや)に似れば夫(それ)にて善いとしたものか、久吉と個々別々の配置をなして更に何の照応も    なく、寺子屋の松王を首桶に頬杖つきて、さながら孑々(ぼうふら)を覗くかと怪まれ、源蔵は外方(そ    つぽう)向いて油揚を攫(さら)はれた鳶を恨むに似たり、正面向きの五右衛門はまた大なる所を骨とせ    しばかりにて、毫も古実に適(はま)らず、思ふに近来は更に演戯を見ずして筆を執るものゝ如し、又近    頃売出しの小梅堂の五右衛門遠見に出して、久吉を大きく書いたる趣向は至極よけれ共、桜の枝は少し    も分らず、恰も五右衛門の木登(きのぼり)かと怪まる、博識の国政翁傍(かたはら)に在りながら、何故    之を釣花瓶(つりはないけ)とはなさしめざりしや、要するに小梅堂の古実に乏しきは注文人の放任(な    げやり)に過ぎたる為めとするも、国周翁の滅茶々々なるは翁自身もまた放任に過ぎたるの責(せめ)を    免かれず、恁(かゝ)る勢(いきほひ)にて推す時は、今後十年を出ずして東錦(あづまにしき)てふ江戸絵    なるものは単に玩具(おもちや)屋の附属品となり、終に美術として賞玩するの価値無きに至るべし、江    戸絵の末路亦憐むべき哉(かな)云々(しかじか)〟    〈高村光雲によれば、維新以前の江戸では版画製作の主導権は版元にあって、版元自ら「下図を着け精々細かに注文し     て、其余を画工の意匠に委(まか)す」という役割を担っていたという。ところが現今はそうした自覚のある版元がい     なくなり「画工に向て何か売れ相(さう)な品をと注文するが通例なり」という有様になっている。これでは、版元の     注文を失った「絵かき(浮世絵師)」は「単に玩具(おもちや)屋の附属品」の製作を続けるほかなく「終に美術として     賞玩するの価値無きに至るべし」と、光雲は嘆く。これを逆にいうと、「美術として賞玩するの価値」ある作品を生     み出すためには、絵かきは自ら画稿をおこして作画する以外にないということになる。そうするならば、作品の制作     主体は画き手となり、「絵かき」は「画家」と呼ぶにふさわしいものに変身しているに違いないのである。明治末に     登場してきた鏑木清方などは「絵かき」の末裔でありながらも、その道をあゆんで一家をなした画家と呼ぶにふさわ     しいのであろう〉