◯『賤のをだ巻』〔燕石〕①257(森山孝盛著・享和二年(1802)序)
〝画家は余り世に鳴りたるもの見えざりしが、近来に至りて、狩野栄川が法印になりて、殊の外世に鳴り
たり【是もわざ/\田沼家の隣に屋敷を拝領したる位なれば、こゝろあるものには底澄はせず、尤画も
よかりけり】其の弟子に隣松とて、前に記す画を書て歩行人ありて、大小家ともにもてはやしたり、画
もよく書たり〟
〈森山孝盛は栄川院を高く評価していたようである。「底澄はせず」の意味がよく分からない。隣松に関する「前に記
す画を書て」云々の記事は「浮世絵師総覧」の鈴木隣松の項を参照のこと〉
◯『塵塚談』〔燕石〕①294(小川顕道著・文化十一年(1814)成立)
〝狩野栄川院画の事、現在にして、絹地三幅対書放しにして、価拾両位也、扇面墨絵にて、金壱歩宛の売
買也、我等草画山水の扇を持ける所、骨董舗来り、壱分に払くれよと望みけり、然に、死後は賞翫する
人さらに無し、骨董舗にかけありて、至て賤售なれど、求る人なし、書画共、死後には高価なるに、栄
川に限り、あちらこちらに成、其由来を尋るに、栄川院、千賀道隆両人は、田沼侯の側さらず、昼夜出
入せしにより、青雲の志有人には、此両人を珍重せし事也、画上手にての価にあらず、田沼の光りにて
の価也〟
〈生前、栄川院の絵を高い値段で買い求めたのは、出世を目論む青雲の志士たちが田沼意次に近づくためであった。つ
いでに云うと、平賀源内は千賀道隆を介して田沼意次と繋がっていた〉