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☆ えいりしんぶん(こしんぶん) 絵入新聞(小新聞)浮世絵事典
 ☆ 明治八年(1875)  ◯「絵入新聞」『早稲田文学』26号「雑俎」(明治30年(1897)1月刊)   「【新聞挿画鼻祖】落合芳幾氏経歴談(下)」(記者はS.S.とあるのみ)   〝絵入り新聞発刊はまだ日報社に在りし頃なりき、大蔵省にて始めて証券界紙を定められ、印刷を日報社    に托されしが、一日四万枚づゝ摺上げねば間に合はぬとの事にて、新たに脚転機械を買入れ、職人をせ    りたて大混雑をせい、此の罫紙は朱色なりしが、横浜の商館にて此の事を聞くや否や、朱のインキを非    常に直上げして、従前の倍にも至りければ、吾等和製の朱を練りて、手製のインキを製し、これにて印    刷する事とせりき。然るに印刷局出来てより従来日報社が引受けし政府の印刷物は悉く彼方へ奪はれ、    折角色摺りの経験に熟せし職工もムダとなりぬ。吾等此の事を残念に思ひ、何とかして彼等を利用せん    と工夫の末、終に日報社より絵入新聞を発行する事となりたり。    〈日報社は下出『日々』(『東京日々新聞』)の発行所。「絵入り新聞」は下出『平仮名絵入新聞』〉    当時は岸田氏在社中にて、『日々』の傍ら絵入新聞にの筆を執られしが、福地氏入社されてより、同氏    いたく絵入新聞を卑み、吾が社体面にの関するゆゑ、望み人あらば譲渡すが宜(し)からんとのい事に、    吾等及び辻伝右衛門氏(元金座役人)競うて之れを望みければ、たとひ社名は別になるとも、日報社関    係の人が持主にては、是れまでと同じ理屈なり、とて容易に承諾なかりしが、いろ/\相談の後、吾等    に札が落ち即ち日報社のほか別に『平仮名絵入新聞』社を立てゝ、双方兼帯の身分となりぬ。    〈『日々』とは『東京日々新聞』(明治5年2月、条野伝平、西田伝助、落合幾次郎が創刊、東京最初の日刊新聞)。『平     仮名 絵入新聞』(同8年4月、高畠藍泉と落合芳幾が創刊、日報社発行・画工は芳幾)。前者がいわゆる「大新聞」後     者は「小新聞」と呼ばれた。岸田吟香の入社は明治6年(1873)、福地源一郎(桜痴)の入社は明治7年、社説を掲載して     紙面を一新する。なお『平仮名絵入新聞』は明治8年9月『東京平仮名絵入新聞』と改題して隔日刊から日刊となる〉    さて記者は、岸田氏ひいてより、高畠藍泉(種彦)及び前田健次郎(香雪)二氏を聘せしに、高畠氏は    中途より退社し、代はりに染崎八郎(春水)氏を招きぬ。此の人、明治前より合巻で御馴染の春水なれ    ば、読者にも大受けならんと思ひしに、戯号は其の筋よりやかましく、本名ならでは叶はずとの事、せ    めて、「春水」事と肩書つけんといひしに、こたびは旧藩主対州侯より故障起こり、詮方なく只染崎延    房とばかり署名したれば、これが戯作者の春水とは見物に通ぜず、昔し売込みし名前もムダとなりにき。    されども続き物の初めの頃は、此の人の作風最も行はれ、他の記者もそれをまねたるが多かりき。右の    次第にて、前田氏も夏蔭といふ是れまでの雅号は遣はれず、健次郎の通称にて筆を執られき。    〈高畠藍泉の退社は明治8年12月。染崎延房(春水)は入社は明治9年。染崎の生まれは対馬藩士の家〉    仮名垣魯文氏は当時横浜にて『毎日新聞』に筆を揮ひ、同社の記者は今の島田三郎氏を首め、成島柳北、    栗本鋤雲、塚原靖など諸氏なりき、吾等染崎氏を聘する前に、仮名垣氏を頼まんと思ひ、わざ/\横浜    の編輯局を訪れしが、同氏の答へに、知らるゝ通り当地にて段々世話になり居れば、急には此処を引取    り難し、しかし、折を見て帰京したき心願なれば、其の砌は貴社へ参るべし、と言葉を番ひられ、これ    より心待ちに帰京を待ち居りしに、同氏は間もなく該地にて『仮名読新聞』を起こし、折角の約束も反    故となりしゆゑ、此方へが染崎氏を招き入れしなり。此『仮名読』といふ表題は、吾等が『平仮名絵入』    の「仮名」と『読売』の「読」とを合せたるものなりし由。    〈魯文は明治7年『横浜毎日新聞』に入社、翌8年11月横浜にて『仮名読新聞』(画工は河鍋暁斎)創刊。さて『平仮名絵     入新聞』は明治8年9月の『東京平仮名絵入新聞』への改題を経て、明治9年(1876)3月『東京絵入新聞』と再改題され     る〉    それのみならず、吾が『絵入』をまねて大坂に『朝日』出来、東京にも自由党の機関とやらにて『絵入    自由』発行の企てあり、その時、同新聞の挿画を吾等へ頼み来たりしゆゑ、いろ/\先方を説得して、    資本を五分づゝ出し合はす事とし、印刷、下画、彫刻だけを此方へ托し、合資営業とする筈なりしとこ    ろ、丁度、成島氏が各新聞記者を説きて改進党へ引入れんと運動最中にて、吾が社の前田氏も既に其の    仲間に加れるを、吾等は少しも知らず、いよ/\『絵入自由』と合併の事を語りしに、異議を唱へて承    諾されぬゆゑ、余儀なく先方とは物分れとなり、結局両社競争の有様となりしが、紙面は此方勝ちなれ    ば、先方は配達などに気を配り、必ず午前六時にするなど、なか/\物凄じき事なりき。    〈『大阪朝日新聞』(画工・武部芳峰)の創刊は明治12年1月。『絵入自由新聞』(画工・芳年)は明治15年9月創刊〉    明治九年には『平仮名』を改めて『東京絵入新聞』となりしが、翌年西南事件より、大きに売れ高を増    し、其れまで七千が高なりしに、忽ち小二万にも上ぼり、利益莫大なりしより、日報社同僚の嫉み一方    ならず、吾等、到底一人にて旨い事は出来ぬものと諦め、これより日報社と同じく株組織にして、加入    者十幾人に至りぬ。さて人数多ければ相談折合はず、『絵入自由』との競争も思はしく出来ぬゆゑ、こ    れではならずと再び一人持ちの方針を取り、そろ/\株主を買ひつぶして、丁度吾等一人の持物となり    し頃は、はたに『絵入朝野』など同種類のもの多く出来、得意を此等へ吸上げられて、吾が社の運は見    る影もなくなりぬ。また一方にては政党さはぎの為め、新聞記者の禁獄さるゝ者引きも切らず、日々差    入れ物の世話やら、或は牢へ行く人間を傭ひ置くなど、穏かならぬ事ばかりなるに、吾等おぢけ立ちて    最早新聞商売も此処がより切上時と覚悟して、株は残らず他人に譲り、今日にては再び手を出さぬなり。    〈『東京絵入新聞』は明23年6月終刊。『絵入朝野新聞』明治16年1月創刊(画工・尾形月耕・歌川豊宣・歌川国松・小     林永濯画)〉     話頭は更に一転して明治初年の戯作者に及ぶ。    曲亭馬琴以後の戯作者は京山、小三馬なれど、いづれも既に明治前に歿り、次いで仙果の種彦あれども、    維新当時に物故したりき。維新後の作者といへば、魯文、春水、金鵞、有人なれど、恰も新聞紙といふ    もの出来しため、魯文は『毎日』へ買はれ、有人は吾等と『日々』に従事し、金鵞は『團珍』へ入り、    春水も前にいひし如く続き物に筆を執りたれば、合巻物は自づと廃れぬ。まづ『白縫譚』などが殿りな    るべし。金鵞の作意は昔し風なりしも、書林うけ至つてよかりき。    〈瓜生政和(金鵞)の妻、亭主が戯作者の金鵞であることをしらず、来訪者を不審がらせる挿話あり。略〉         再び転じて絵草紙の談にうつる    彩色も彫刻も昔とさほど変れりと思はねど、只驚かるゝまで変りしは画風なり。今では北斎風、豊国風    は殆ど姿を止めず、只一本槍の容斎風と化けしこそ可笑しけれ。そは浮世絵ばかりには非で、土佐画、    四條派などの此の傾き多し。種類について言へば、役者絵は写真に押されて滅切り流行らず。角力絵の    如きは皆無となりぬ。今も昔も変はらぬは美人絵なり、組上げ灯籠の類は昔のまゝ廃れず、甲冑の武者    絵売れ口わるくして、其の代はり、煉瓦つくりの家屋、軍艦、蒸気船など渡り物を描ける錦絵、景気よ    きも時勢のためなるべし。紙の形ちは遠き享保の昔より、次第に縮まりゆくやうなり、此の用紙は昔よ    り伊予柾(奉書)なれど、本場にて段々縦横を狭めるのみならず、裁ち屑がよき銭になるより、仕立屋    にて成るたけ其れを儲けにかゝりて、錦絵は狭くなるなり。明治前までの大さの種類も色々ありて、伊    予柾四ッ切りを中にしきといひ、丈長の四ッ切りもあり。又三ッ切り、八ッ切りなどもありしが、今は    二ッ切りばかりとなりぬ〟    〈「容斎」は菊池容斎(明治11年没・91歳)〉      参考   〈「【新聞挿画鼻祖】落合芳幾氏経歴談(上)」は『早稲田文学』第25号(明治30年1月刊)に出ている。談話の内容は    明治5年の『東京日々新聞』創刊経緯と資金等経営面の内情について。絵入新聞ではないので本HPでは収録しなかった〉  ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p33   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(明治八年四月創刊)絵入新聞はよい処へ着眼したもので、毎日の雑報へ絵を入れて出すといふのが同    社の誇りであつた。其絵は同社投資者の一人(ニン)落合芳幾氏が筆を把(ト)つたもので、新聞挿画(サシヱ)    の筆者は此人を以て鼻祖とすべきである。     新聞に絵を入れる順序はどうであるかと云へば、警察受持(ウケモチ)の探訪者が帰社して差出す原稿の内    から、絵を入れるべきものを択んで画工が直ちに版下(ハンシタ)を描き之を其夜の版活(ハンカツ)大組(オオグミ)    の終るまでに急いで彫刻させるので、絵入社では三人の彫刻師が雇入れてあつた。其頃は今の新聞の如    く地方へ宵出(ヨヒダ)しといふ事は無かつたけれども、八頁掛(ガケ)のロール二台で──一台で表、一台    で裏を──印刷するのである。而(シ)かも蒸気とか電気とかいふ動力もなく、人の手で車を廻させゴト    /\と印刷するのであるから、夜の十時前後から刷り始めねば翌朝の配達に間に合はぬので、どうして    も五六時間に彫上げねばならぬのである。(まだ版木(ハンギ)の出来上らぬ時に大組に取掛る場合はボー    ル紙などにて版木の寸法だけの型を取り、夫れだけを残して活字を組込み、あとで版木の出来上がつた    時之を嵌め込んで印刷するのである)かゝる急ぎの仕事の為めに其の版木を二ッにも三ッにも割り、彫    刻師が手別けをして彫刻し、あとで之を継合すといふ窮策を施す事もあつたが、かゝる急拵への版画ゆ    ゑ頭彫(カシラボ)り──彫刻師の腕利きが専ら人物の面部や頭髪の毛筋などを彫つたもので、之を頭彫りと    称し、其他の胴体や背景を彫上げるのは弟子分の仕事であつた──などは粗雑なもので、殊に版木の割    (ワ)り目(メ)が白い筋を引いたやうに、ハツキリと紙面に顕(アラ)はれるなどは不手際なものであつた。    そこで版木を丁寧に彫らせるにはどうしても一日以上の余裕を与へねばならぬという処から、同記者の    前田夏繁氏が明治十一年九月に(明治全小説戯曲大観に九年十一月とあるのは誤り)「金之助の話」と    いふ、三分の事実へ七分の潤色を加へた続き話を載せ始め、挿画も二三回づゝ前以(マエモツ)て版下をゑが    き、ゆる/\彫刻させる事となつたが、此続き話が恐らく新聞へ小説を載せはじめた嚆矢で、其後小新    聞は競うて続き物を紙上に掲げるやうになり、且其社では必ず一二の続き物担当の記者を聘するやうに    なつた。其続きものも最初の内は別立ての標題(ミダシ)ではなく其筆者も署名せず、謂はゞ長い雑報を連    載するやうなものであつたが、一二年後には外題を一行の別見出しとし、何某(ナニガシ)作(サク)とか何某    綴(ツヅル)とか其の筆者の作名を掲げ、外題も草双紙風の五字題七字題のものが用ひられるやうになり──    読売新聞のみは久しく絵も入れず続き物も載せなかつた、饗庭篁村氏が絵入らずの小説を署名もせずに    雑報の片隅へ載せ始めたのも、ズツと後の明治十五年頃である──それが後年には小新聞を卑俗だと譏    (ソシ)つて居た大新聞までが之に倣ひ、終(ツヒ)には講談ものまで連載して読者の御機嫌を取るやうになつ    た〟    〈落合芳幾の錦絵版「東京日々新聞」は明治七年創刊。月岡芳年の錦絵版「郵便報知新聞」は翌八年創刊。ここでいう     絵入新聞は現在では「錦絵新聞」あるいは「新聞錦絵」と呼ばれている〉    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p86   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   ◇「新聞挿画の沿革」1p86   〝 芳年氏と相並んで一方の頭目と仰がれたのは鮮斎永濯氏である。氏は通称小林秀次郎、名は徳宣(トクセ    ン)、幼時狩野(カノ)永悳(エイトク)の門に入(イ)り弱冠にして大老井伊家のお抱へ画師となつた事もあるが、    夫れより後諸名家の筆法を学んで一機軸を出すい至つたのである。同氏が始めて新聞挿画の筆を執つた    のは私も創業に与(アヅカ)つて居た絵入朝野で、その創刊の準備中挿画は誰に頼まうかとの問題が起つた    時一つは歌川国松氏に、今一つは是非とも永濯氏の筆を煩はしたいとの社中の希望であつた。其折此使    に当つたのが私で、小梅の宅を訪ひ懇々と依頼した処が、こちらの指名する彫刻師に彫らせるならば書    いて見ようとの承諾を得て其後下絵や画料を携へて屡々永濯氏を訪問した事があつたが、其の都度取次    に出られたのが今の小林永興(エイコウ)氏であつた事を、十数年後に至つて永興から聞かされ、アゝさうで    あつたかと坐(ソゾ)ろに懐かしく思つた事があつた。茲で又金銭問題を持出せば、其頃の挿画の画料が    芳年永濯の一流どころで一枚一円、第二流になると三四十銭で五十銭といふのが最高の相場であつた。    昨年京都から久し振りに上京して拙宅を訪れた歌川国松氏の直話(ジキワ)に拠ると、同氏が明治十三年ご    ろ有喜世新聞の挿画を一日二個づゝ書いて居た時の報酬が月給制度で一ヶ月十二円であつたとの事だ、    又同氏の話にやはり同じ有喜世新聞の表紙画として、地球図の中に諾冊(ダクサツ)二尊が立つて居るとこ    ろの絵を永濯氏に頼む事となり、其使を命じられたのが国松氏であつたが、社主の寺家村(ジケムラ)氏が    是れでよからうと包んで出した目録が金二十疋(五十銭)それは余り少なからうと再三押問答をしても    聞入れぬので、たうとう国松氏が自腹を切り一円にして持つて行つたとの事である。     永濯氏の筆は本画から出た丈(ダケ)あつて品も備はり且丁寧で、人物の容貌などは如何にも其人らし    く、殊に背景の樹木や山水は浮世絵派の及ばぬ処があつて、一点も投(ナゲ)やりに描いた処がなく、腕    はたしかに一段上だつたに拘はらず、芳年氏の如き奇抜な風もなく又芳幾氏の如き艶麗な赴(オモム)きに    乏しかつた為めに、俗受けを専らとする新聞の挿画としては気の毒ながら評判に上(ノボ)らず、芳年氏    の為めに、稍や圧倒せられた気味があつた。併し私の敬服したのは他の画家中には記者の下画に対して    人物の甲乙の位置を転倒したり、或は全く其の姿勢を変へたりして、下絵とは殆ど別物の図様(ヅヤウ)に    書き上げる人が多かつたのに、一人永濯氏のみは魯文翁や私の下絵通りに筆を着けて少しも其赴きを変    へなかつた一事で、是れは氏の筆力が自在であつた証拠だと思はれる。只一度私が生来左利きの為めツ    イ間違へて左の手で楊枝を使つて居る人物を書いた時「これは左利きになつて居りますから楊枝を右の    手に持換へさせました」との断り書(ガキ)を添へて其絵を送られた事があつた〟     ◇「(八)新聞挿画の沿革」1p88   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズホトシカタ)、富    岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二期    に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟          ◯『増補 私の見た明治文壇2』「再び明治の小新聞に就て」2p187     (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝(明治十一年~十五年(1878~82)頃の小新聞の職員についての記事)    画家は挿画の執筆者で、読売と仮名読の最初の内とは画を加え無かつた為めに専属の画家は居なかつた    が、絵入には落合芳幾、有喜世には歌川国松、絵入自由には新井年雪(後芳宗と改む)いろはには稲野    年恒の諸氏があり、さきがけとあづまとは誰が画いて居たかを忘れたが、此外に山崎年信、後藤芳景な    ども当時の新聞挿画をかいて居たやうに記憶する、そして其頃の画料は挿画一個三四十銭(芳幾氏の画    料は不明、此人は絵入の資本主であつたから或は画料はとらなかつたものか)其画家を社員として定雇    ひにする場合は一ヶ月の俸給が十円から十五円までの間であつた〟    〈「読売」  読売新聞  (社長・子安峻   明治七年(1884)十一月創刊)     「絵入」  東京絵入新聞(主筆・高畠藍泉  同 八年(1885)四月創刊)     「仮名読」 仮名読新聞 (主筆・仮名垣魯文 同 八年十一月創刊)     「有喜世」 有喜世新聞 (社長・寺家逸雄  同十二年(1879)三月創刊)     「いろは」 いろは新聞 (社長・仮名垣魯文 同十二年十二月創刊)     「絵入自由」絵入自由新聞(主筆・植木枝盛  同十五年(1882)九月創刊)〉    ◯『増補 私の見た明治文壇1』「今日新聞と浪華新聞」1p122   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)   〝 私(野崎左文)は明治十九年に今日新聞を去つて大阪で発行する浪華新聞(明治九年頃の浪花新聞は    花の字この浪華新聞は華の字を用ひて居た)に聘せられ坂崎紫瀾氏と共に同地に赴いた。私が新聞の創    業に与(アヅカ)つたのは前記の今日新聞とこの浪華新聞であつたが、此の新聞は大阪の弁護士岡崎高厚氏    の経営で、紫瀾氏が主筆、私が雑報主任として乗込み本社を道修町に置き、其頃東京の万朝報が桃色の    用紙を使つて居たのに倣ひ薄緑色の用紙で刷り出したのであつた。其頃は俳優や芸人に限らず東京下り    といふのが幅の利いた時代ゆゑ新聞記者にしてもその前年には種彦氏の高畠藍泉氏が大阪に来て文壇を    賑はせ(此時は既に帰京後)胡蝶園わかな氏は大阪朝日に在り、巌谷漣山人(イハヤサザナミサンジン)も京都日    の出新聞に筆を執つて居られ、画家にも歌川国松、稲野年恒の二氏が来て居て、此の東京下りが物珍ら    しく且紙上へ嵯峨の屋おむろ氏の言文一致の続き物を載せたので評判よく、最初の内は各商店の店頭に    到る処緑色の新聞がチラ付いて居る程の売れ行きであつたが、後には朝日新聞の為めに圧倒せられ紫瀾    と私とは翌年退社し、(以下略)〟
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