☆ 文化元年(享和四年・1804)
筆禍『絵本太閤記』寛政九年~享和二年(1797-1802)刊(読本)
処分内容 絶板
◎作者 竹内確斎(記載なし)◎画工 岡田玉山(記載なし)
◎板元 小林六兵衛等(記載なし)
処分理由 天正年間以降の武将を題材としたこと
◯「絵本太閤記」(『半日閑話 巻八』〔南畝〕⑪245・文化一年五月十六日明記)
(「絵本太閤記絶板仰付らる」の項)
〝文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元に被仰渡、江戸にて右太閤記の中より抜き
出し錦画に出候分を不残御取上、右錦画書候喜多川歌麿、豊国など手鎖、板元を十五貫文過料のよし、
絵草子屋への申渡書付有之〟
〈「絵本太閤記」は武内確斎作・岡田玉山画。寛政九年(1797)から享和二年(1802)にかけて七編八十四冊出版された〉
◯「絵本太閤記」(『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥76・喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)
(文化元年・1804)
〝五月十六日、難波画師玉山が図せる絵本太閤記、絶版被仰付候趣、大坂の板本被仰渡、是は江戸ニて喜
多川歌麿、歌川豊国等一枚絵に書たるを咎られて、絵本太閤記を学びたりといひしよりの事也、画師共
手鎖、板本は十貫文過料之由、絵草紙屋へ申渡書付有、右之太閤記之絵本惜しむべし
〈岡田玉山画『絵本太閤記』の絶版処分は、江戸の歌麿・豊国が咎められたとき、「絵本太閤記」に習ったと、白状し
たために下ったもののようである〉
◯「絵本太閤記」(『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥130・無名子(馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)
〝文化二年乙丑の春より、絵本太閤記の人物を錦絵にあらはして、是に雑るに遊女を以し、或は草冊子に
作り設けしかば、画師喜多川歌麿は御吟味中入牢、其他の画工歌川豊国事熊右衛門、勝川春英、喜多川
月麿、勝川春亭、草冊子作者一九等数輩は、手鎖五十日にして御免あり、歌麿も出牢せしが、こは其明
年歿したり、至秋一件落着の後、大坂なる絵本太閤記も絶板仰付られたり
〈読本『絵本太閤記』は、武内確斎作・岡田玉山画で、寛政九年から享和二年にかけて出版された。この「絵本太閤記」
一件、諸本、文化元年のこととするが、馬琴が文化二年としているのは不審。ともあれ、大坂の玉山画『絵本太閤記』
はこれまで咎められることもなく無事出版できていた。それでおそらくそれに触発されたのであろう。江戸の歌麿、
豊国、春英・月麿・春亭・一九たちも便乗するように「太閤記」ものを出版してみた。ところが案に相違して、摘発
を受け入牢・手鎖に処せられてしまった。しかも累は『絵本太閤記』にまで及び、絶版処分になってしまった。どう
も大坂と江戸では禁制事項にずれがあるらしく、江戸の方がそれを読み違えたのかもしれない〉
◯「絵本太閤記」(『摂陽奇観』巻四四・浜松歌国著・文化元年記事)
(国立国会図書館デジタルコレクション『浪速叢書』第五より)
「文化元年」
〝絵本太閤記【法橋玉山画寛政九丁巳秋初編出板七篇ニ至ル】江戸表より絶板仰せ付けらる、其趣意は右
の本江戸にても流行致し、往昔源平の武者を評せしごとく婦女小児迄夫々の名紋所など覚候様に相成、
一枚絵七枚つゞき或は三枚続きをここは何国の戦ひなど申様に相成候ところ、浮世絵師歌麿と申すもの
右時代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候、
太閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい
清正酒えん甲冑の前に朝鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい、其外さま/\の戯画あり
右の錦絵 公聴に達し御咎にて、絵屋は板行御取上げ、絵師歌麿入牢仰せ付けられ、其の上天正已来の
武者絵紋所姓名など顕し候義、相ならざる趣御触流し之有り、猶亦大坂表にて出板の絵本太閤記も同様
に絶板に相成候、初篇開板已来七編迄御許容有り候処、かゝる戯れたる紅摺絵にうつし本書迄絶板に及
ぶこと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり
〈大坂の浜松歌国は玉山の『絵本太閤記』を絶板に追い込んだのは浮世絵師・歌麿だという。その歌麿画の絵柄は「太
閤御前へ石田児にて目見への図に、手を取り居給ふところ、長柄の侍女袖を覆ひゐるてい。清正酒えん甲冑の前に朝
鮮の婦人三絃ひき舞ゐるてい」である。
さて、享和三年の「一枚絵紅ずりに長篠武功七枚つづき」の記事がよく分からない。「紅ずり」という言い方が気に
なる。享和三年の一枚絵に対して、当時の江戸は「紅ずり」という呼び方をするであろうか。「浮世絵師歌麿と申す
もの右時代の武者に婦人の画をあしらひ紅摺にして出し候」とも「かゝる戯れたる紅摺絵もうつし本書迄絶板に及ぶ
こと、憎き浮世絵師かなと諸人いひあへり」ともある。この「紅摺絵」は歌麿に対して使っているのであるから、宝
暦頃の石川豊信たちの「紅摺絵」とは思えない。すると江戸でいう「錦絵」を大坂では「紅摺絵」と呼んでいたのだ
ろうか〉
◯「絵本太閤記」その他(『街談文々集要』p29・石塚豊芥子編・万延元年(1860)序)
(文化元(1804)年記事「太閤記廃板」)
〝一 文化元甲子五月十六日絵本太閤記板元大阪玉山画同錦画絵双紙
絶板被仰渡 申渡 絵草紙問屋
行事共
年番名主共
絵草紙類の義ニ付度々町触申渡候趣有之処、今以以何成品商売いたし不埒の至りニ付、今般吟味の
上夫々咎申付候
以来右の通り可相心得候
一 壱枚絵、草双紙類天正の頃以来の武者等名前を顕シ書候儀は勿論、紋所、合印、名前等紛敷認候義
決て致間敷候
一 壱枚絵に和歌之類并景色の地名、其外の詞書一切認メ間敷候
一 彩色摺いたし候義絵本双紙等近来多く相見え不埒ニ候 以来絵本双紙等墨計ニて板行いたし、彩色
を加え候儀無用ニ候
右の通り相心得、其外前々触申渡趣堅く相守商売いたし行事共ノ入念可相改候。
此絶板申付候外ニも右申渡遣候分行事共相糺、早々絶板いたし、以来等閑の義無之様可致候
若於相背ハ絵草紙取上ケ、絶板申付其品ニ寄厳しく咎可申付候
子五月
此節絶板の品々
絵本太閤記 法橋玉山筆 一編十二冊ヅヾ七編迄出板
此書大に行ハる。夫にならひて今年江戸表ニて黄表紙ニ出板ス
太閤記筆の聯(ツラナリ)【鉦巵荘英作 勝川春亭画 城普請迄 寛政十一未年三冊】
太々太平記【虚空山人作 藤蘭徳画 五冊 柴田攻迄 享和三亥】
化物太平記【十返舎一九作自画 化物見立太閤記 久よし蜂すか蛇かつぱ】
太閤記 宝永板【画工近藤助五郎、清春なり 巻末ニ此度歌川豊国筆ニて再板致候趣なりしか相止ム】
右玉山の太閤記、巻中の差画を所々擢て錦画三枚つゞき或ハ二枚、壱枚画に出板、画師ハ勝川春亭・歌
川豊国・喜多川哥麿、上梓の内太閤、五妻と花見遊覧の図、うた麿画ニて至極の出来也、大坂板元へ被
仰渡候は、右太閤記の中より抜出し錦画ニ出る分も不残御取上之上、画工ハ手鎖、板元ハ十五貫文ヅヽ
過料被仰付之。
「賤ヶ嶽七本槍高名之図」石上筆 (模写あり)
絵本太閤記絶板ノ話
寛政中の頃、難波の画人法橋玉山なる人、絵本太閤記初編十巻板本、大に世にもてはやし、年をかさね
て七編迄出せり。江戸にも流布し、義太夫浄瑠りにも作り、いにしへ源平の武者を評する如く、子供迄
勇士の名を覚て、合戦の噺なとしけり、享和三亥年、一枚絵紅ずりに、長篠武功七枚つゞきなど出せり。
然ルに浮世絵師哥麿といふ者、此時代の武者に婦人を添て彩色の一枚絵をだ(ママ)出せり。
太閤御前へ、石田、児子髷にて、目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正
甲冑酒、妾の片はらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形。
是より絵屋板本絵師御吟味ニ相成り、夫々に御咎めに逢ひ候て、絶板ニ相成候よし、其節の被仰渡、左
の通。
一 絵双紙類の義ニ付、度々町触申渡之趣在之処、今以如何敷品売買致候段、不埒之至ニ付、今般吟味
の上、夫々咎申付候、以来左之通、可相心得候
一 壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・合印・名前等紛敷認候
儀、決て致間敷候
一 壱枚絵に、和歌の類、并景色之絵、地名又ハ角力取、歌舞伎役者・遊女之名等ハ格別、其外詞書一
切認間敷候
一 彩色摺の絵本・双紙、近来多く相見へ、不埒ニ候、以来絵本・双紙墨斗ニて板行可致候
文化元甲子五月十七日
右ニ付、太閤記も絶板の由、全く浮世ゑしが申口故ニや、惜むべき事也〟
〈「日本古典籍総合目録」によると、竹内確斎著・岡田玉山画『絵本太閤記』は寛政九年(1797)~享和二年(1802)に
かけての出版。つまり、歌麿たちの「太閤記」が出版される文化元年以前、大坂での「太閤記」ものの出版は禁制で
はなかったのである。(これは大坂という土地がらが影響しているのだろうか。大坂町奉行は看過してきたのである。
しかし寛政九年、もし玉山画『絵本太閤記』が江戸で出版されたら、江戸町奉行は摘発しなかっただろうか。やはり
処罰されたように思うのだが……。江戸だからこそ問題視されたともいえる)ともあれ、「太閤記」ものが江戸で評
判になるや否や画工・板元ともども処罰され、そのとばっちりが大坂出版の『絵本太閤記』に及んだのである。その
因となった作品を見ておくと、荘英作・勝川春亭画『太閤記筆の連』は寛政十一年刊。虚空山人作・藤蘭徳(蘭徳斎
春童)画『太々太平記』は天明八年(1788)刊。『街談文々集要』には「柴田攻迄 享和三亥」との書込があるから、
あるいは『絵本太閤記』の評判にあやかって、この年、再版本を出したものとも考えられる。十返舎一九作・画『化
物太平記』は享和四年(1804)(文化元年)の刊行。さて最後、宝永板、近藤助五郎清春画の「太閤記」とある(東北
大学附属図書館・狩野文庫の目録に、近藤清春画『太閤軍記 壹之巻』なるものがあるが、あるいはそれをいうか)
それに初代歌川豊国「再板致候趣なりしが相止む」と続く。清春の「太閤記」を下敷きに、豊国が新趣向で再板する
という意味なのであろうか。結局のところ、『絵本太閤記』絶版の余波で沙汰止みになったようだが。以上が草双紙。
次に錦絵の方だが、勝川春亭のは未詳。豊国の錦絵は、この記事に言及はないが、『増訂武江年表』の〔筠補〕(喜
多村筠庭の補注)を参照すると、絶板に処せられたのは「豊国大錦絵に明智本能寺を囲む処」の絵柄らしい。また、
『筆禍史』の宮武外骨は、関根金四郎編の『浮世画人伝』を引いて「豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図
にして」とする。「豊国等」とあるから「太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図」が必ずしも、豊国画とも断定できないのだが。
参考までに言うと、『街談文々集要』には「賤ヶ嶽七本槍高名之図」という挿絵があり、これには「石上筆」とある。
さて、歌麿だが、『街談文々集要』は「太閤五妻と花見遊覧の図」をあげ、「絵本太閤記絶板ノ話」のところでは
「太閤御前へ石田児子髷ニて目見への手をとり給ふ處、長柄の侍女袖をおおひたる形、加藤清正甲冑酒の片ハら朝鮮
の妓婦三弦ヒキ舞たる形」の絵をあげる。(「絵本太閤記絶板ノ話」は『摂陽奇観』の記事と内容がほぼ同じである
から、『街談文々集要』の石塚豊芥子が、大坂から来た『摂陽奇観』の記事を書き留めたのかもしれない)ともあれ、
『街談文々集要』の歌麿画「太閤五妻と花見遊覧の図」(これは宮武外骨著『筆禍史』の「太閤五妻洛東遊覧之図」
に同定できよう)が絶版になったことは確かである。問題は「太閤記絶板ノ話」の記事の方にある。これは二つの錦
絵を取り上げたものと考えられる。すなわち「太閤御前へ、石田、児子髷ニて目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女
袖をおおひたる形」の錦絵と「加藤清正甲冑酒、妾の片ハらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形」の錦絵と。「太閤記絶
板ノ話」の記事にも、そのもとになった『摂陽奇観』にも「太閤五妻と花見遊覧の図」の画題はないが、前者の「太
閤御前へ、石田、児子髷ニて目見への手をとり給ふ処、長柄の侍女袖をおおひたる形」こそ、その絵柄からして「太
閤五妻と花見遊覧の図」に相当するのではないか。すると、歌麿が手鎖に遭ったのは複数の「太閤記」ものというこ
となるのだが、実際のところはどうだろうか。なお、後者の方「加藤清正甲冑酒、妾の片ハらニ朝鮮の妓婦三弦ヒキ
舞たる形」の画題は未詳。現存するものがあるかどうかも定かではない。
いずれにせよ、この「太閤記」一件で「壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋字・
合印・名前等紛敷認候儀、決て致間敷候」という禁制は、出版界に重くのしかかってゆくことになったのである〉
◯「絵本太閤記及絵草紙」」(宮武外骨著『筆禍史』p100)
〝是亦同上の理由にて絶版を命ぜられ、且つ著画者も刑罰を受けたり『法制論簒』に曰く
文化の始、太閤記の絶版及び浮世絵師の入獄事件ありき、是より先、宝永年間に近藤清春といふ浮世
絵師、太閤記の所々へ挿絵して開板したるを始にて、寛政の頃難波に法橋玉山といふ画工あり、是も
太閤記の巻々を画き
〔署名〕「法橋玉山画図」〔印刻〕「岡田尚友」(白文方印)「子徳(一字未詳)」(白文方印)
絵本太閤記と題して、一編十二巻づゝを発兌し、重ねて七篇に及ぶ、此書普く海内に流布して、遂に
は院本にも作為するものあり、又江戸にては享和三年嘘空山人著の太々太閤記、十返舎一九作の化物
太閤記など、太閤記と名づくる書多く出来て、後には又勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、喜多川歌麿、
喜多川月麿などいふ浮世絵師まで、彼の太閤記の挿画を選び、謂はゆる三枚続きの錦絵に製せしかば、
犬うつ小童にいたるまで、太閤記中の人物を評すること、遠き源平武者の如くなりき、斯くては終に
徳川家の祖および創業の功臣等にも、彼れ是れ批判の波及すらん事を慮り、文化元年五月彼の絵本太
閤記はもとより、草双紙武者絵の類すべて絶版を命ぜられき、当時武者絵の状体を聞くに、二枚続三
枚続は事にもあらず、七枚続などまで昇り、頗る精巧を極めたりとぞ、剰へ喜多川歌麿武者絵の中に、
婦女の艶なる容姿を画き加ふる事を刱め、漸く風俗をも紊すべき虞あるに至れり、例へば太閤の側に
石田三成児髷の美少年にて侍るを、太閤その手を執る、長柄の銚子盃をもてる侍女顔に袖を蔽ひたる
図、或は加藤清正甲冑して、酒宴を催せる側に、挑戦の妓婦蛇皮線を弾する図など也、かゝれば板元
絵師等それ/\糾問の上錦絵は残らず没収、画工歌麿は三日入牢の上手鎖、その外の錦絵かきたるも
の悉く手鎖、板元は十五貫つゝの過料にて此の一件事すみたり云々
又『浮世絵画人伝』には左の如く記せり
喜多川歌麿と同時に、豊国、春亭、春英、月麿及び一九等も吟味を受けて、各五十日の手鎖、版元は
版物没収の上、過料十五貫文宛申付られたり
豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図にして、一九は化物太閤記といふをものし、自画を加
へて出版せしによるなり
〔頭注〕喜多川歌麿
歌麿手鎖中、京伝、焉馬、板元西村などの見舞に来りし時、歌麿これ等の人々に向ひ、己れ吟味中、恐
怖のあまり、心せきて玉山が著したる絵本太閤記の事を申述べたりしによりて、同書も出板を禁ぜられ
たるは、此道のために惜むべく、且板元に対して気の毒にて、己れ一世の過失なりと語れりといふ、さ
れば絵本太閤記が七編までにて絶版になりしは、これが為なりと『浮世絵画人伝』にあり
歌麿絵本太閤記の図を出して御咎を受たり、其後尚又御咎の事ありて獄に下りしが、出て間もなく死す
と『浮世絵類考』にあれども、其再度の御咎といふ事真否不詳なり
化物太閤記 十返舎一九作画 黄表紙二冊 山口屋忠兵衛版
享和四子初春(即文化元年)出版
全編悉く化物の絵と物語のみなれど、其化物の紋所又は旗印等に戦国次代の諸将即ち織田、明智、
真田、豊臣等の紋又は合印を附けて諷刺の意を寓しあるなり
『絵本太閤記』 法橋玉山画 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
◯『徳川幕府時代書籍考』牧野善兵衛編述 東京書籍商組合事務所 大正元年十一月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇文化元年(1803)
〝五月廿七日、大阪東町奉行より絵本太閤記絶板命ぜられ、六月四日、製本并に板木共取上らる、其の著
者及び出板人は
著者 法橋玉山
出板人 勝尾六兵衛 塩屋忠兵衛 海部屋勘兵衛
播磨屋新兵衛 播磨屋長兵衛 河内屋太助
因に云ふ、此書、維新後大阪にて再板に附し販売せり〟