☆ 文化元年(享和四年・1804)
筆禍『絵本拾遺信長記』享和元年(1801)~文化元年(1804)刊(読本)
処分内容 絶板、板木及び版本没収
◎著者 秋里籬島(記載なし)◎画工 丹羽桃渓(記載なし)
◎板元 播磨屋五兵衛ほか(記載なし)
(誉田屋伊右衛門)
処分理由 天正年間以降の武将を題材としたこと
◯「絵本拾遺信長記」(宮武外骨著『筆禍史』p99)
〝権現様(家康)の御儀は勿論総て御当家の御事、板行書本自今無用に可仕候といへるは、享保七年の幕
府令なりしが、文化元年に至りては、家康の事のみならず、天正以来の武将に関する事をも厳禁し、絵
草紙の武者絵に、名前紋所合印等を入るゝをも禁じたりしが、是亦前にいへるが如く、家康が譎詐奸計
を以て、天下を横領せし事実を、諸人に知らしめざらんとするにあり、此『絵本拾遺信長記』絶版のこ
とも亦これが為めなり、『大阪書籍商旧記類纂』に本屋行事より奉行所に出せし上書あり
一 絵本拾遺信長記、寛政十二年申年初編より後編迄追々新板の儀願上、同十三酉年御聞届の上追々
板行摺立売買罷在候処、此度於江戸表、右本売捌御差留右絵本御取上に相成候に付、元板も絶板
被仰付、摺立有し板本七十九冊并板木百五十枚御取上、以来板行仕間敷候、且是迄売捌候板本の
内、此後売先相分り候はゞ取集め可差出旨、被仰渡奉畏候
一旦許可せしものを、其出版後に至りて直ちに絶版を命ずるとは、御無理不尤の至極にして書肆の損害
も亦少からざりしなるべし
〔頭注〕絵草紙取締令
幕府が文化元年五月、絵草紙問屋行事に達したる令左の如し
絵草紙類之儀ニ付、度々町触申渡之趣有之候処、如何成品商売致不埒之至ニ付、今般吟味之上夫々咎
申付候、以来左之通可相心得候
一 壱枚絵草紙類、天正之頃以来之武者等名前を顕し画候儀は勿論、紋所合印名前等紛らは敷認め候
儀も決相致間敷候
一 壱枚絵に和歌之類並景色之地又は角力取歌舞伎役者遊女之名前等は格別、其外之詞書一切認間敷
候
一 彩色摺致し候絵本双紙等、近来多く相見え不埒ニ候、以来絵本双紙等は墨斗ニて板行致し、彩色
を加へ候儀無用ニ候〟
〈秋里籬島の『絵本拾遺信長記』は、初編が丹羽桃渓の画で享和三年(1803)の刊行、後編は多賀如圭(流光斎)の画で文
化元年(1804)の刊行である。大坂では問題なく流通していたものが、江戸では販売禁止となった。大坂での絶板・板木
版本の没収はそのとばっちりであった。宮武外骨の憤慨「一旦許可せしものを、其出版後に至りて直ちに絶版を命ずる
とは、御無理不尤の至極にして」はもっともである〉
『絵本拾遺信長記』 丹羽桃渓・多賀如圭画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
◯『徳川幕府時代書籍考』牧野善兵衛編述 東京書籍商組合事務所 大正元年十一月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇文化元年(1803)
〝九月、絵本拾遺信長記 絶板申付らる
著者 不詳
出板人 誉田屋伊右衛門〟