☆ 明和二年(1765)
◯『反故籠』〔大成Ⅱ〕⑧252(万象亭(森島中良)著・文化初年成立)
(「江戸絵」の項)
〝明和二申の歳、大小の会といふ事流行て、略暦に美を尽し、画会の如く勝劣を定むる事なり。此時より
七八遍摺の板行を初てしはじむ。彫工は吉田魚川、岡本松魚、中出斗園なり。夫より以前は、摺物も今
と違ひざつとしたるものなり。其時、風来先生の大小は、一円窓の真中に沢村宗十郎【後亀音】奴姿の
鬼王にて立て居る、左に松本幸四郎【四代目団十郎】羽織工藤にて横向に立て居る。右に市川雷蔵五郎
時宗上下衣裳にて睨んで居る。何れも半身宛にて大場豊水が画なり。似顔の画といふ物無きころなれば、
大に評判にて有りしなり。是等より思ひ付きて鈴木春信【神田白壁町の戸主にて画工なり。画は西川を
学ぶ。風来先生と同所にて常に往来す。錦絵は翁の工夫なりといふ】〟
〈風来先生は平賀源内。大場豊水は風来山人作『天狗髑髏(シヤレカウベ)鑑定(メキキ)縁起』の序を書いた人で、源内の門人で
ある。同戯作は安永五年(1774)の刊行だが、大場豊水が天狗の髑髏のような異物を拾って源内宅に持ち込んだのは、
明和七年(1770)のこと〉
☆ 明和三年(1766)
◯『金曽木』〔南畝〕⑩309(惰農子(大田南畝)著・文化六~七年記)
〝明和三四年比、予が十八九歳の時に作りし狂詩あり。その時の事を記せり、
大小会終テ錦絵新ナリ 又見ル洲崎ニ塩浜ヲ闢クヲ
天台ノ上ニ新暦ヲ調へ 医学館ノ前ニ古人ヲ哀シム
宗ハ滅ス出山ノ御蔵講 参リハ多シ稲荷大明神
又聞巣鴨ニ提灯集ル 応ニ是当時立身ヲ挊
明和の初、旗下の士大久保氏、飯田町薬屋小松屋三右衛門等と大小のすり物をなして、大小の会をなせ
しよりその事盛になり、明和二年より鈴木春信吾妻錦絵といふをゑがきはじめて、紅絵の風一変す〟
☆ 寛政十一年(1799)
◯『江戸町触集成』第九巻 p371・触書番号10786(近世史料研究会編・塙書房・1998年刊)
(寛政十一年(1799)十二月二十五日付触書)
〝花美成壱枚絵并大小を翫ニ拵候板行、右之品板木彫刻候者、書もの屋草双紙屋其外商売人より誂候も、
素人より誂候も、其名前相認、下絵ニ彩色を加へ、摺上候形ニ致、右下絵を以、御奉行所様江其度々訴
出、御一覧相済候上ニ而彫刻可致候、已来無伺彫刻致間鋪候〟
〈大小とは、大の月・小の月を配した絵柄を摺物にして配ったもの。鈴木春信の錦絵はこの大小の制作に興ずる中から
生まれてきた。この触書は大小に関する統制令の初出であろう。板木師宛に出されたもので、一枚絵及び大小の彫り
注文を受けた場合、注文主が商売人か素人かを問わず、すべからく下絵に彩色を加え、摺り上がりの状態が分かるよ
うにして奉行所へ差し出し、その許可を受けた上で彫刻せよというのである。幕府は大小という好事家の私的な出版
まで統制下に置こうというのである。なおこれ以降、大小に関する触書は、寛政十二年(1800)、文化十一年(1814)
に出ている〉
☆ 文政四年(1821)
◯『仮寝の夢』〔百花苑〕⑦57(諏訪頼武記・文政四年序)
〝今の錦画ハ明和の初、大小の摺物殊外流行、次第に板行種々色をまじへ、大惣になり、牛込御籏本大久
保甚四郎俳名巨川、牛込揚場阿部八之進砂鶏、此両人専ら頭取に而、組合を分け大小取替会所々に有之、
後は湯島茶屋などをかり大会有之候。一両年に而相止。右之板行を書林共求メ、夫より錦繪を摺、大廻
に相成候事〟
☆ 文政十年(1827)
◯『道聴塗説』〔鼠璞〕中(大郷信斎著・文政十年(1827)記)
◇「第七編」p253
〝来年の大小
例年十月にもなれば、道路にて来年の大小柱暦を売る。好事の輩は、略暦を私刻して知友の人に伝ふ。
此程久留米侯の製し給ふ略暦を、其親家の貴族より贈らる。是は俗にいふはしりなるべし〟
◇「第十二編」p283
〝戯作の来(ママ)暦
例年の大小柱暦、春画の大小など数多ある中に、武鑑に作りなせし一枚、殊に手際よし〟