Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ えどすなごさいせんき 江戸砂子細撰記浮世絵事典
   ☆ 嘉永六年(1853)    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二七三件 p167)   (絵草紙掛名主の町年寄・館市右衛門宛伺い書。「当十月中とあるから」嘉永六年十月以降の文書)   〝一 地本草紙問屋仮組之内、禁忌之品無改ニて隠売買致し候もの有之候間、以来此もの共総て無改之品     仕入隠売買致し候品、仲問行事共・私共取調申上候ハゝ、以来仕入御差留、仮組引除被仰付被下置候     様仕度、此取締方厳重ニ相立不申候由ては、一統右ニ相泥麤漏ニ成行可申候、     〈以下、禁制品の無断出版や密売をしていた板元のリスト〉                      甚左衞門町 弥七店 (佐野屋)富五郎    此富五郎儀ハ、江戸砂子細撰記と申小本出板致し、当時御吟味中ニ御座候、    〈佐野屋富五郎板『江戸砂子細撰記』吟味中〉  ◯『藤岡屋日記 第五巻』(藤岡屋由蔵・嘉永六年記)   〝【江戸砂子】細撰記    是は□(ママ)・歌読・誹諧・狂歌・筆学・講釈・咄家・料理茶屋・菓子之外、食類吉原細見に拵へ候本也。     丑の春改正    作者は誹諧師白樹らで、八丁堀栄吉と申者、本を拵へ、江戸中名前を出し候者より入銀二百文取、本出    来致し、一冊宛配り、四両五分宛取候也。    右種を売本に致し候板元甚左衞門・信のや富五郎、重板は釜藤名代にて、実は品川や久助板元也。    四月廿五日、本板取上げ、懸り名主福島三郎右衛門、北御番所懸り、二十七日、初呼出し、板元手鎖、    伊勢屋宇助・品川屋久助・家主預け也。    四月二十五日、白樹・栄吉・釜藤、出奔也〟    〈「日本古典籍総合目録」は統一書名を『江戸細撰記』とする。吉原細見の体裁で江戸の名物を案内した小冊子。浮世     絵師も載っており、「豊国 にかほ 国芳 むしや 広重 めいしよ(以下略)」のように絵師名とそれぞれ得意と     するジャンルを添え書きしている。宮武外骨の『筆禍史』は、この本の書名を『当代全盛高名附』とし、絶版になっ     た理由を、「『当代全盛高名附』の作者及び版元は、吉原細見の版元より故障を申込まれ「細見株を持てる我々に無     断で、細見まがひの書冊を出版するとは、不埒至極である」との厳談を受け、結局あやまり証文を入れて、書冊は絶     版とする事で、漸く示談が附いたとの伝説がある」としている。上記、豊国等の浮世絵師の記事ついては、本HP     『筆禍史』の項目参照のこと〉    ◯『筆禍史』「当代全盛高名附」p160   〝吉原細見に擬して、当時名高き江戸市内の儒者和学者俳諧師狂歌師等をはじめ諸芸人に至るまで数百人    名を列配し、其名の上に娼妓の如き位印を附けたる一小冊なり、末尾に「嘉永六年癸丑之義、玉屋面四    郎蔵板」とあり    これは吉原の細見に擬して、嘉永六年に出版した『当代全盛高名附』の一葉を原版のまゝ模刻したので    ある、曲亭馬琴、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦、初代歌川豊国、葛飾北斎、渓斎英泉等の如き大家没    後の文壇が、如何に寂寞たりしかを知るに足るであろう。    因みにいふ、右『当代全盛高名附』の作者及び版元は、吉原細見の版元より故障を申込まれ「細見株を    持てる我々に無断で、細見まがひの書冊を出版するとは、不埒至極である」との厳談を受け、結局あや    まり証文を入れて、書冊は絶版とする事で、漸く示談が附いたとの伝説がある、今日は他人の出版物に    擬した滑稽的の著作は勿論、其正真物に似せたイカサマ物を出版しても、咎められない事になつて居る    が、旧幕時代には右の伝説の如き事実があつたらしい(此花)        【吾妻】錦   浮世屋画工部     豊国 にかほ     国芳 むしや   国貞  国麿   かむろ     広重 めいしよ  国盛  清重    やく者     清満 かんばん  国綱  芳員    にがを     春亭 (未詳)  芳宗  芳雪    むしや     貞秀 つうらん  芳艶  広近    めい(所?)     国輝 むしや   清亢  春徳    けしき     芳虎       芳藤  春草    をんな               芳玉  房種    草そうし              直政  芳豊    うちわゑ                        すごろく                        かんばん                       やりて                         (未詳)    〈「日本古典籍総合目録」はこの『当代全盛高名附』の統一書名を『江戸細撰記』としている。この豊国は三代目。     「武者」の国芳、「名所」の広重、ここまではよく引用されるところ。「看板」の清満は初名清峯を名乗った二代     目。春亭の得意分野は判読できず未詳。勝川春章の門人・勝川春亭は文政三年(1820)の没。また嘉永三年起筆の     『古画備考』には勝川春亭の他に「春亭【武者一番、弟子ニ上手無シ、天保十年死】」とあるが、没年からして、     この春亭でもない。『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」にも見当たらず不明である。貞秀の「つうらん」     は全体を見渡すという意味の「通覧」か〉