Top             浮世絵文献資料館            浮世絵師総覧              ☆ えどえ 江戸絵            浮世絵事典  ☆ 享保八年(1723)    ◯『絵本風雅七小町琴碁書画』下之巻(奥村政信画)   〝江戸絵と云事    浮世絵は江戸元祖菱川りう美人三十二相図、是によりて江戸絵と名づく、尤菱川も古風に◎て、浮世の    風俗もうつりかはりし時々の風を書故に浮世と申、又本絵とは絵形ちがい候が、本絵を心がげ(ママ)し浮    世絵はじやうぶ也、浮世絵本だん/\出来申候  東武大和画工芳月堂奥村文角政信画〟〈◎は「成」か〉      〝江戸絵と申事は江戸菱川師宣、浮世又平を常風(とうふう)に書きかへ浮世とも江戸とも申、扨而(さて)    本絵は古人仙人墨絵を本と遊す、浮世は浮世の風を書、日本の人の姿を書故に日本絵と申、日本とは大    和の事故に大和絵と申也、菱川師宣孫娘おさん女絵十五歳ニ而菱川作之丞親の跡を女にてつぐなり〟    〈江戸の菱川師宣が浮世又平の絵を当世風に画きかえたものを浮世絵とも江戸絵ともいう。浮世絵は当世を画くが、日     本人の姿を画くのであるから日本絵であり、また日本は大和であるから大和絵でもあると、奥村政信は云う〉    〈本文は「The World of the Japanese Illustrated Book」(The Gerhard Pulverer Collection)のネット画像に拠     る。また当絵本の刊年は国文学研究資料館の「古典藉総合データベース」の「享保八年?」に基づく。なお「古典藉     総合データベース」の統一書名は『絵本風雅七小町』である〉     ☆ 享保十九年(1734)    ◯『本朝世事談綺』〔大成Ⅱ〕⑫521・522(菊岡沾凉著・享保十九年刊)   〝浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ。現在は懐月堂、奥村正信等な    り。是を京都にては江戸絵と云〟    〈古山新九郎は古山師政、奥村正信は政信〉    〝紅絵    浅草御門同朋(どうぼう)町和泉屋権四郎と云者、版行のうき世絵役者絵を、紅彩色(べにざいしき)にし    て、享保のはじめごろよりこれを売(うる)。幼童の翫(もてあそ)びとして、京師、大坂諸国にわたる。    これ又江戸一ッの産と成て江戸絵と云〟    〈ここにいう「江戸絵」は紅彩色の「紅絵(べにえ)」である〉  ☆ 明和八~九年(1771-2)    ◯『難波噺』〔百花苑〕十四巻(池田正樹・大坂滞在記事)   ◇明和八年六月 ⑭70   〝一枚画は江戸絵とて賞翫すといへり。今當所にて商ふ画は皆江戸より廻るといへり。尤當地にても江戸    にて似せて板行を摺れども画ハよからず〟    〈明和八年の記事であるから、この「江戸絵」は紅摺絵や錦絵をいうのであろう〉   ◇明和九年四月 ⑭130   〝他国より廻りてしかも多く有るものハ、京の水菘(ナ)、紀ノ国蜜柑、望潮魚(イイダコ)、松茸、江戸画、    伏見人形、唐物、蝦夷昆布〟       ◯『玉勝間』十四の巻「絵のこと」(本居宣長著・寛政五年(1793)~享和元年(1801)記)   (『日本画論大観』上巻所収)   〝かほよき女のかたちをかくとても、例のたゞおのが筆のいきほひをのみむねとしてかくほどに、そのか    ほ見にくやかなり、あまりなまめかしくかほよくかけぱ、絵のさまいやしくなるといふめれど、そはお    のが絵のつたなきなり、かほよくてゑのさまいやしからぬやうにこそ書べけれ、己が絵がらのいやしく    なるをいとひて、かほよき人を見にくゝかくべきいはれなし、美女のかほは、いかにも/\かほよくか    くべきなり、みにくやかなるはいと/\心づきなし、但し今の世に、江戸絵といふゑなどは、しひてあ    ながちにかほよくせんとするほどに、ゑのさまのいやしき事はさらにもいはず、中々にかほ見にくゝ見    えて、いとつたなきことおほし〟    〈江戸絵は宣長の審美眼を満足させなかったようだ。美人画は顔よく賤しくならざるよう画くべきだが、江戸絵は無理     に顔よく画こうとするので品がなく、かえって醜く見えて拙いというのだ。この文は寛政年間になったものだが、宣     長は春信、春章、清長、歌麿を見て言っているのであろうか〉       ☆ 文化初年(1804~)     ◯『反故籠』〔大成Ⅱ〕⑧252(万象亭(森島中良)著・文化初年成立)   〝江戸絵    享保の比の江戸絵と称するもの、浅草御門同朋町和泉屋権四郎、通塩町奥村源六郎【画名を懐月堂文角    政信といふ。地本問屋なり】など板にて、元祖鳥居清信が絵を西の内の紙へ摺り、煎じ蘇木黄汁膠黒に    藍蝋にてざつと彩色、砂箔を振ひたる【或は藍を吹く】ものなり。【この彩色する者多き中、深川洲先    に住める老婆至つて上手なりと、蔦屋重三郎が母かたりき】。神明前の江見屋【今は博労町へ転宅】と    いへる絵草紙屋に、その比の役者絵【海老蔵、山中平九郎などなり】の板、近年まで有りしなり、夫よ    り後、清信色摺の紅絵を工夫し、紅藍紙黄汁の三色を板にし以て売出せし所、余り華美なる物なりとて    差留られしが、幾程もなくゆるされぬ。宝暦頃まで皆是なり。其比の画工は清信が子の清倍、門人清広、    石川秀信、富川房信などなり、明和二申の歳、大小の会といふ事流行て、略暦に美を尽し、画会の如く    勝劣を定むる事なり。此時より七八遍摺の板行を初てしはじむ。彫工は吉田魚川、岡本松魚、中出斗園    等なり。夫より以前は、摺物も今と違ひ至てざつとしたるものなり、其時、風来先生の大小は、一円窓    の真中に沢村宗十郎【後亀音】奴姿の鬼王にて立て居る、左に松本幸四郎【四代目団十郎】羽織工藤に    て横向に立て居る。右に市川雷蔵五郎時宗上下衣裳にて睨んで居る。何れも半身宛にて大場豊水が画な    り。似顔の画といふ物無きころなれば、大に評判にて有りしなり。是等より思ひ付て鈴木春信【神田白    壁町の戸主にて画工なり。画は西川を学ぶ。風来先生と同所にて常に往来す。錦絵は翁の工夫なりとい    ふ】東錦絵といふ看板をを、所々の画草紙屋へかけさせて売出す。今の錦絵の祖なり。糊入へ薄紅にて    若松を白抜きに摺り、藍にて吾嬬錦絵と書きたるたとうに、一枚づゝ包て売る。【大を大錦、中を間錦、    小を孫錦といひ、役者絵をきめといふ】大錦は箱入か色摺のたとう入にて四枚つゞきを五枚つゞきなり。    板元は馬喰町西村永寿堂なり。引続て一筆斎文調、勝川春章似顔の役者絵を錦摺にして出す。是をきめ    といふ。春信没後磯田湖竜、清満が門人清長に至て、いよ/\色ざし摺やうともに盛になれり。金摺銀    摺を初めしは喜多川歌麿なり。錦絵の出はじめの比、浅黄といふ物あり。藍紙紅鼠色草の汁にて、墨板    を用ゐず、採蓮船邯鄲赤壁の様なる唐図を摺たるみよし四ツ切の絵にて、北尾重政の筆多かりし。浮画    は豊国が師歌川豊春が書たる者を妙とせり〟    〈万象亭は、江戸絵を、享保以降の紅絵・漆絵・紅摺絵・そして明和二年以降の錦絵の総称としている〉   〈「煎じ蘇木黄汁膠黒に藍蝋にてざつと彩色、砂箔を振ひたる【或は藍を吹く】」「江戸絵」とは紅絵や漆絵のことをいう    のだろう。「懐月堂文角政信」は「芳月堂」の誤り〉      ☆ 文政十年(1827)    ◯『道聴塗説』「第八編」(大郷信斎著・文政十年(1827)記)   〝江戸画の始    近世、錦画、役者画追々増長して、奇巧を極む。寛永年中、坊主小兵衛とて狂者あり。其図別紙の如し。    是等を江戸絵の濫觴とすべし。総じて諸色の古を去て今様に流れ行く事、此を推して知べし〟    〈坊主小兵衛は寛文年間(1661~72)ではなく、延宝・天和・貞享頃(1673~1687)の道外形役者。本HP「浮世絵事典」     坊主小兵衛(ぼうずこへい)参照〉        ☆ 文政十三年(1830)    ◯『嬉遊笑覧』巻三「書画」p409(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)   〝江戸絵は菱川より起りて、後鳥居庄兵衛清信と云者あり。初め菱川やうを学びしが、中頃画風を書かへ    歌舞伎の看板をかく。今に相続きて其家の一流たり。勝川流は宮川長春を祖とす。長春は菱川の弟子に    はあらねども、よく其風を学びたる者也。勝川流にては春章すぐれたり。歌川流は豊春より起る。豊春    は西村重長の弟子なり【重長は初めの鳥居清信の弟子なり。後に石川豊信といふ】此流にてはこの頃ま    で歌麿が絵世にもてはやされたり。其外あまたあれ共枚挙にたえず。(中略)    〔居行子〕後編【安永五年】むかし愚が生年の頃迄は、江戸ゑといふ物は市川団十郎大谷広治等が絵漆    ぬりにひからせ大津ゑめきて甚田舎らしき物なりしに、今の江戸絵は飽迄粋に色めき、西川のうき世絵    も及ばぬ位見れば心も動くばかり人々のしる処なり〟    ☆ 嘉永六年(1853)    ◯『【類聚】近世風俗史』(原名『守貞漫稿』)第二十五編「遊戯」p323   (喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝一枚画乃ち錦絵或は江戸絵と云物、伊予正と云紙半枚摺也。美人等十三五編摺の物一枚価三十二銭許、    役者肖像等僅かに粗なる者一枚二十四銭なり〟     〈「一枚絵」という言葉には、組み物に対する一枚絵という意味の他に、江戸絵あるいは錦絵という、江戸固有の絵とい    うニュアンスも含まれているのである〉    ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 久しぶり・ゆり起きた子に江戸絵見せ「若木賊」 寛政2 【雑】     〈江戸絵が子をあやす〉   2 妓の母親・江戸絵のヨナとうれしがる「伊勢冠付」文化中【雑】     〈我が子を遊女絵に見る母親〉   3 江戸絵には乗らぬ風俗也歌修行   「紀玉川」 文政2 【雑】注「浮世絵。錦絵」  ☆ 慶応元年(1865)    ◯『俗事百工起源』〔未刊随筆〕②103(宮川政連著・慶応元年(1865))    〝江戸錦絵の始    愛閑楼雑記に云ふ【星野周庵といへる医師の筆記なり】江戸絵と称して印板の絵を愛翫する事、師宣    【菱川】を始めとす、印板の一枚絵は古く有りしものなれども、彩色したるはなく、貞享の頃より漸    く彩どりたるもの出来しを、明和の始、鈴木春信始て色ずりの錦絵お云ふものを工夫してより今益々    盛んに行はる、江戸の名物とはなりぬ、他邦の及ぶ処に非ざれども、春信生涯、歌舞妓役者を画かず    と云々〟    ☆ 明治以前  ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(【雑】は『雑俳語辞典』鈴木勝忠編・注は編者の注)   1 久しぶり・ゆり起きた子に江戸絵見せ 「若木賊」 寛政2【雑】   2 妓の母親・江戸絵のヨナとうれしがる 「伊勢冠付」文化中【雑】   3 江戸絵には乗らぬ風俗也歌修行    「紀玉川」 文政2【雑】     注「浮世絵。錦絵」     〈1は江戸絵が子をあやす。2は我が子を遊女絵に見る母親か。3は不明。三句とも江戸以外の詠〉    ☆ 明治二十二年(1889)    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝享保 懐月堂    享保の頃、紅彩色、一枚摺の絵を画て京阪諸国に出す、此を始めて江戸絵と称す〟