◯『江戸風俗総まくり』(著者未詳 弘化三年(1846)成稿)
(『江戸叢書』巻の八 江戸叢書刊行会 大正六年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「春の節物の移り変り」(21/306コマ)
〝初卯の妙義札うらへさし臥龍梅見にうかれ行を、文化の始より菊塢が新梅やしき世に薫り秋さへ七草に
人をあつむ
尾上梅幸が別荘の松は、文政度よりして松隠居と称せられ、亀戸の鴬(ウソ)替の神事も誰か好事よりぞ始
りけん、梅やしきと唱へるは、近き頃は四谷にもありて、天保の頃より西が原にも多く植たり、日暮し
も新ひくらしといへるも出来たれど、共に格別の興もなし、長閑なる朝まだき白酒/\のこゑ、あやし
の羊羹をそへたるも文化度より始れり
凧の絵も文字白きぬきたるが、天保度戯作者にちなみ水滸伝の人物をゑがき、又武者絵となり粉色に箔
さへ用ゆる事となりたるも 花美専らの頃なりける、四谷鳶、本郷のぶか凧、鳶凧、奴凧、扇凧は古雅
のまゝになりける、きさらぎ説(ママ)の太鼓売、絵馬売、中むかしにも替らず、手拭うる店に染ぬきの正
一位の幟、絵うる店に大灯籠に出来合の地に絵は、十四五とせ こなたにして弥生の雛市十軒店麹町な
んど、昔は古今雛を今様とせしも、舟月玉山の奇工出で次第に高価結構を尽せり、是も天保度分外を罰
せられき、豊嶋やの白酒斗りは昔にかはらぬはその品よくて価にもまさる故か、矢野白酒是につけり
花は御殿山、飛鳥山、上野、隅田川、霞たつあした酒臭(き)人もむれ、風流家もつもへる中にも、吉原
町の妓女、音曲、手跡の師の弟子どもに、花をさゝせてむれ行など、名聞の桜かも多かりき、紙の烏帽
子、紙の面笹に結ぶ張子の都鳥串、田螺につばなとが賤童迄、実に隅田川こそわけて奥深し、樽よ瓢よ、
法師見て持人のかはらんなど、いたゞく扇を手拭に習はむ唄を聞とりに声ふとやかにうめき、双の手を
ふりて踊り行は英一蝶に書せまほしく思ふ計也
三囲稲荷寛政の頃開帳の時 三井が奉納に本毛の虎を作り竹林におきしも、いかにも僭(おごり)上りと
て止ねられき、其後天鵞絨の牛に牧童も頗る評を得たり、すべて奉納の作り物には植己といへるもの出
で能奇工をつくせり
桜餅といふは文政度よりはじまり爰の名物となりぬ、文政の始 下谷池の端の芥さらひし土手を寄せて
一つの嶋めきて新土手と唱へ、こゝにも桜餅をひさぎけるが能き納涼の茶屋と成りしを、天保の改りに
取払はれにき〟
◇「夏の節物の移り変り」(21/306コマ)
〝夏は卯月の花御堂を橋本町に住める法師を願人坊とよびて、つね/\裸にて市中をかけ歩き、御釈迦/\
と銭を乞ひ、又は判じ物とて考へあて安き事を書て配り、小人をならべ盥廻し雨天に日和を乞ひ 笠よ
り提灯の面を利生也とのばし、山に納るとてさま/\の飾物持あるく坊主をも、天保の改より法衣をま
とはしむ、皐月の飾り人形もとより弥生雛程に奇工高価に至らざれば其侭也、是も近き頃は店鋪幟り多
く行はれ武家も折ふしは用ゆるに、唐木綿色絹の吹ながしより手かるく、五月雨を恨みて端午空(あ)く
杭斗(ばかり)立たるには優らん
郭公は空をかけるこそ賞美するを、鳥かふ者の業に籠に啼するも又不風流の一つならずや、中昔迄の是
度(ママ)より声うつくしう其店の伊達売たるも数少なり行
暑気の頃、枇杷葉湯は烏丸の名をうる中に、定斎は春貝荷の鐶をならし笠もきずして其効能にほこるも
をかしけん、因(ちなみ)にいふ、売行の売薬の古きむかしは 朝鮮の幸慶子にもとづき、一角円の舶来
の船人めかせし麹町にしばらく名をうり、金看板には是より上の薬も奇を好むの世の中に立んと思ふ、
近年蘭学行はれ売薬仮片名(ママ)のみ多くなりぬ、徳平が膏薬八方散茄子薬はしばらく流行すれど、から
んたうは奇中の奇にして一とさかり、藤八五文、安楽散みな二三年に過ず
子供遊びの水からくりも猿の臼を引とめて、赤き玉の昇降するより楽焼の蛭の水をふくは其後の細工也
ところてん売は昔今もかはらず、白玉売の菅笠出立 金時に豆のむくつけきさま 蒲焼の小岡持、錦魚
売両掛荷、団扇売の篠竹にかさねさしたる、みなそれ/\のならはし也
文化度湯錦魚とて釜中に浮遊するも、下に火をさしくべるを見せける、つら/\思ふに、むかし錦魚の
珍魚を翫ぶには夏月手に握りて持歩行く時、折々眼中へ水をそゝげば一里をも行べしと、此湯錦魚もそ
のはじめ、炎天の水鉢にありて水の湯ともなりたるうち、魚のいさゝか弱らざるより 熱湯にも暫は浮
遊するなるべきか、宝暦のむかしは蝿取り 蜘を翫ひ筒に蒔絵して集会の錦とし 其業の強弱を戦はす
事、彼の鵰雞(しやも)の勝敗を競ふるが如し
狆に唐鳥は諸侯にも珍鳥され流行の代々にも盛衰のみ、天保の末は矮鶏を翫ひしが わづかに一年に過
ず、却て近古人情は一つにして 只是珍奇流行のうつりかはるは又意外にて、昔は猫を飼ふには船乗の
外には毛の三色なるは奇怪也とて人々の忌み嫌ひしも、文政度は三色なる猫を養へば 其主に幸有とて
専ら飼ふ事となりぬ(以下略)〟
◇「秋の節物の移り変り」(24/306コマ)
〝錦絵の団扇もむかしは只うつくしう妓女役者を画いたうちは(団扇)、文化度より太柄と名づけ多く美人
絵となり、こらへ(ママ)も絵をはりて是も又近世の花美ともいはん
又葭戸売とて腰へ鋸をさし 売れる所に切組、是は夏月唐紙をさりて風の通はん為に作る所也、わづか
に廿年の以来也
祭礼の市中に万度売といふは、藁苞へ持遊びの万度、鹿島太鼓をさし一つ二つ手にもつて唱(ママ)らし売
行、此万度といふものは、宝暦度迄は必(ず)祭礼の町々より作り出し 足を持行を伊達にしたり、今は
絶てなし、其古きを捨てず持遊びに作りてうれるも古風にて、鹿島太鼓も持遊びに見るのみ、その近郷
には今も猶 事ふれの持や仕つらん、天王の守り札蒔て 天狗の面打かはれる祢宜めきたるも 今は稀
々なり、又太布といふ汗ぬぐひも文政の末より出て、肩に結ぶ汗取も作り出せり、秋も七夕にさゝぐる
とて短冊を笹竹にむすび 軒高ふ出せるを、文政も末、天保の頃其始めは紙の網、鬼灯(ほおずき)なん
どむすびさげしを、樽盃のみか人形迄もはりぬきて、さま/\のものつなぎ、我おとらじと作るにぞ、
その朝々(本ノママ)本朝々は本町通りなんど見に出るものも多かりき、
盆踊も寛政迄は夜な/\輪踊り、又は物もらひの類は 張ぬきの大きなるがかしらへ(ママ)たゞきおどり
あるきたり
盆太鼓とよびて団扇のかたちに作り 草画へ書きたる紙ばかりを打たゝきて売あるきしが それさへ今
は見ざりき、魂まつる軒のともしびは切子灯籠又は白き提灯なりしが、今は黒きくり形に紐の附て、う
す紙に草の花なんぞ書きたる丸提灯は、尾州岐阜より作りて是を岐阜提灯といふ、多くは軒へかくるも
よう/\天保以来也、生霊会の瓜茄子に苧殻の足つけて牛馬となしたるも、近き頃は真菰もて牛馬を作
り草うる市にひさげり
廿六夜の月は御仏の顕はるゝよとて 高輪、丸段、湯島なんどに人のつどひて、月のぼる丑の時を宵よ
りまつとて 納涼とりながらの賑ひ也〟