◯『絵本風俗往来』中編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(48/133コマ)
〝十月 恵比須講
十月甲子の日は大黒祭なり、俗に初子(はつね)といひたり、神田明神地内の大黒天・上野東叡山護国院
・小石川伝通院・麻布一本松なんど、皆参詣群集せり、此の他大黒天を安置しある社内院裏、いづれも
賑はへり、此の大黒祭には戸々(ここ)夜々(やや)に用ゆる灯火の灯心を商ふ、灯心は些末の物とはいへ、
欠くべからざる品とて、甲子には買ふ人多く、又大黒天へ供する菓子を七色菓子と唱へて、七種の菓子
を売れり、七種とも極めて代価安き粗菓子なり、其の他この神に供する御酒・餅・膳部、家中一同へ振
舞ふ所の品は商家、各家の定めありたり、此月二十日は恵比須講祭なり、恵比須講祭は恵比須講よ称し
て、商家にては此の上なき大祭の様心得たり、鍛冶職・錺(かざり)職・石職に鞴祭とて稲荷大明神を祭
る、紺屋に愛染明王を祭る、大工職に太子講とて聖徳太子を祭る、船を扱ふ業にて船玉大明神を祭る、
医家及び薬種商にて神農を祭る、芝居座には客人大明神を祭る等、皆家業の有り難きを忘れざるの祭礼
にいて、月祭あり年祭ありて、いづれも酒肴珍味を調べ、料理人又は仕出の膳部を命じ、糸竹管絃の余
興ありて、客設けの丁寧よく心をつくして饗じたり、されば此の月二十日の夷講等は、諸商家々の賑は
ひ大方なく(ママならず)、まして日本橋最寄りの商家は格別の賑はひとす〟
◯『此花』第二号 (朝倉亀三著 此花社 大正元年(1912)十一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝恵比須講 毎年十月廿日 正月十日【江戸は二十日】の両日、商家にては恵比須講とて蛭子神を祭り万
福を祈る(起原記事・略)殊に目覚しくも賑ひしは江戸大伝馬町木綿店の恵比須講にして、同店の人々
は是を天下五年のものと誇称せり(天下御免の伝承記事・略)
恵比須講上戸も下戸も動き得ず 柳多留〟
〈菱川師宣筆「夷子講宴飲の図」の挿絵あり〉
◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))
◇第二部「浮世絵師」「独立して後」p85
〝〈歌川国直〉其の人が板下画を描く時は綿密と云ふより寧ろ馬鹿丁寧であつた。或時十月の夷講に掛け
る鯛を小脇に抱へ釣竿を持つ、色の二三遍も入つた殆ど玩弄画に類した恵比寿の一枚絵を依頼された、
其様絵は誰れでも碌々下画など付けて描く者は稀れで、極めて疎雑なもので筆者の名を署するものでも
無く、夷講に一度使れると跡は子供が引裂き捨てるのが多い。玩弄画のあるものよりも当時は麁末に取
扱はれ、従つて夷講絵と云へば軽視するので、彫でも摺でも見られたものでなく、殆ど瓦板同様な滅茶
々々な絵であつたから、誰れも真面目に描く画工は無いに拘らず、国直は下画から丁寧につけ、之れを
浄写して板下画にするにも、十何遍摺といふ大錦の立派なものを描くのと異らず、一線一劃を苟くもせ
ず描いたと云ふことで、之れを彫る者も田所町の夷かと云つて頭を掻いた。田所町とは国直の住した町
名である。当時是れ等職人間では、何職業にても其の技術の優れた者は其の名を云ず、住居する町名を
以て呼んだから、国直もまた其の町名を以て常に呼れ、偽(ママ)直の描た恵比寿だから滅茶々々のなぐり
彫りには出来ない。小僧任せで打捨つては置かれない、然りとて手間賃は相当に取ることも成らずと歎
息して頭を掻たと云ふのやある。文化頃の人で著述もする絵も描く、彫刻もした神屋蓬洲の『蓬洲随筆』
にも「夷講のえびす三郎の画にて、柳烟堂のかきたるものゝみは、人これを捨るを惜み往々に持伝ふる
ものあり翁は如何なる画にても意に満ざる下図は描かざりし云々」とあるにても推測し得られ、其の下
画の深切丁寧なことが思ひ遺られる〟
〈神屋蓬洲の『蓬洲随筆』は「日本古典籍総合目録」には見当たらないが、どこかに伝わっているのであろうか〉