Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ あづまにしきえ 吾妻錦絵浮世絵事典
   ☆ 明和二年(1765)  ◯『浮世絵考証』〔南畝〕⑱443(大田南畝著・寛政十二年五月以前記)   〝明和のはじめより吾妻錦絵をゑがき出して今にこれを祖とす。これはその頃初春大小のすり物大に流行    して、五六遍ずりはじめて出来より工夫して今の錦絵とはなれり〟  ◯『享和雑記』〔未刊随筆〕②71(柳川亭著・享和三年自序)   〝明和二年丁酉より大小流行して、其始は奉書八ツ切位の紙へ土人形の女、又はみゝづく茄子など大小と    せしが大に時花て夫より 年々に長過し、八返摺十遍摺などゝ成、大小はいつ方にありや知らざるを第一    とせしより画の工を尽したり、是よりして吾妻錦絵と唱へ東都の名産とはなれり〟  ◯『反故籠』〔大成Ⅱ〕⑧252(万象亭(森島中良)著・文化初年成立)   (「江戸絵」の項)     〝明和二申の歳、大小の会といふ事流行て、略暦に美を尽し、画会の如く勝劣を定むる事なり。此時より    七八遍摺の板行を初てしはじむ。彫工は吉田魚川、岡本松魚、中出斗園なり。夫より以前は、摺物も今    とは違ひ至てざつとしたるものなり。其時、風来先生の大小は、一円窓の真中に沢村宗十郎【後亀音】    奴姿の鬼王にて立て居る、左に松本幸四郎【四代目団十郎】羽織工藤にて横向に立て居る。右に市川雷    蔵五郎時宗上下衣裳にて睨んで居る。何れも半身宛にて大場豊水が画なり。似顔の画といふ物無きころ    なれば、大に評判にて有りしなり。是等より思ひ付きて鈴木春信【神田白壁町の戸主にて画工なり。画    は西川を学ぶ。風来先生と同所にて常に往来す。錦絵は翁の工夫なりといふ】〟    〈風来先生は平賀源内。大場豊水は風来山人作『天狗髑髏(シヤレカウベ)鑑定(メキキ)縁起』の序を書いた人で、源内の門人で     ある。同戯作は安永五年(1774)の刊行だが、大場豊水が天狗の髑髏のような異物を拾って源内宅に持ち込んだのは、     明和七年(1770)のこと。「糊入へ薄紅にて若松を白抜に摺り、藍にて吾嬬錦絵と書きたるたとう」とは「座敷八景」     の包紙のことを言っているのであろうか。「大錦は箱入か色摺のたとう入にて、四枚つゞき五枚つゞきなり、板元は     馬喰町の西村永寿堂なり」の記事は春信のものであろうか〉    ☆ 明和四年(1767)  ◯『寝惚先生文集』〔南畝〕①353(陳奮翰(大田南畝)著・明和四年(1767)刊)   〝詠東錦絵    忽自吾妻錦絵移 一枚紅摺不沽時 鳥居何敢勝春信 男女写成当世姿    (書き下し文)    東(アヅマ)の錦絵を詠ず    忽ち吾妻錦絵と移つてより     一枚の紅摺(ベニズリ)沽(ウ)れざる時    鳥居は何ぞ敢ゑて春信に勝(カナ)わん 男女写(ウツ)し成す当世の姿〟    〈「吾妻」を冠した春信の錦絵が鳥居派等の紅摺絵を衰退させた様子を伝える狂詩である〉     ☆ 安永五年(1776)  △『稗史提要』(比志島文軒(漣水散人)編・天保年間成稿)   〔笠間叢書171『戯作文芸論ー研究と資料ー』「翻刻「稗史提要」並びに研究」p350より〕   (安永五年記事)    〝こゝに当世のにしき絵風といへるは、明和の初より書出せし鈴木春信が吾妻にしき絵の事なり。是まで    吾妻にしき絵の風を草双しに画く事なかりしを、春町はじめて稗史に画き出してより、後は鳥居の絵ま    でも此風にうつれり〟    〈「こゝに当世のにしき絵風といへる」とあるのは、大田南畝の『街談録』安永五年の記事「今年より鱗形屋草双しの     絵、并に表紙の上は例年青紙に題号をかき、赤紙に絵を書しが、今年は紅絵摺にす。絵も鳥居の風を返じて、当世錦     絵の風となす」の「当世錦絵の風」を云う。挿絵をそれまでの鳥居風から当世錦絵風にかえ、黒本・青本の草双紙を、     子供の慰みものから大人の読み物に一変させたのは、恋川春町の功績である〉  ☆ 天明四年(1784)  ◯「山東京伝画美人合序」〔南畝〕①198(四方山人(大田南畝)序・天明四年(1784)刊)   (『四方の留粕』(四方歌垣真顔編・文政二年(1819)刊)所収)   〝花の色をうつせるものは、その匂ひを絵がく事あたはず、月の素(シロキ)を後にするものは、その明らか    なる影を得る事難しとは、からさへずりの言にして、鳥が啼あづま錦絵は、柳さくらをこきまぜて、都    の春の玩(モテアソ)び物とし、千枝つねのりもおよびなき、時勢の粧ひを尽せり。わけて姿のよし原や、二    のまちならぬいつゝの町に、名だゝる君のかたちをうつし、それがおの/\みずからの、水茎をさへそ    へたれば、物いふ花の匂ひをふくみ、晦日の月のあきらかなるがごとく、見る目のあや心もときめき、    魂は四ッ手駕籠とゝもに飛こゝちし、身は三ッ蒲団の上にあるかと疑ふ。かくうつくしき写し絵には、    僧正遍昭もいたづらにこころをうごかし、吉田の兼好もつれ/\をなぐさめざらめや。(以下略)〟    〈北尾葏斎政演画『新美人合自筆鏡』の序。吉原最高位の花魁の自筆を配した美人画。政演画の傑作である。版元は蔦     屋重三郎。千枝・常則は『源氏物語』「須磨」の巻に出る絵師の名。四方山人は「古今集」などの古典を踏まえつつ、     最大級の賛辞を送っている。「花の色を ~ からさへずりの言にして」の出典は未詳〉  ☆ 文政十三年(1830)  ◯『嬉遊笑覧』巻三「書画」p414(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)   〝明和の初に出きたる錦絵は鈴木春信が画なり。春信は歌舞伎ゑをかゝず。是あつまゑ錦絵の最初なり〟    ☆ 文久二年(1862)  ◯『宮川舎漫筆』〔大成Ⅰ〕⑯318(宮川政運著・安政五年序・文久二年刊)   〝東錦絵のはじまり    愛閑楼雑記といえる写本にいう「江戸絵と称して印板の絵を賞翫する事、師宣【菱川】をはじめとす。    印板の一枚絵は、古く有しものなれども、彩色したるはなくて、貞享の頃より漸に彩色(いろどり)た    るもの出来しを、明和のはじめ、鈴木春信はじめて、色摺の錦絵といふものを工夫してより、今益々    壮んに行はる。江戸の名物たり。他邦の及ぶ処に非ざれども、春信生涯歌舞妓役者を絵がかず。此後    勝川春章が役者の肖像を画ける名人にて、今の役者の錦絵は、実に此人に始まれり」〟