☆ 元文二年(1737)
◯『増訂武江年表』1p141(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
〝(元文二年)八月、飛鳥山へ桜桜樹を栽ゑしめらる。同所へ碑立ち、鳴鳳卿文を撰す(金輪寺住職宥衛
僧都の建てらる所也。音なし川の名も熊野の地名によりて、此の頃より名づけられし由也〟
〈「飛鳥山何と読んだか拝むなり」「何だ石碑かと一つも読めぬなり」と川柳にある。何が書いてあるのか全く解読で
きない鳴島鳳卿道筑の漢文石碑、現在も人の当惑をよそに超然と立っている〉
☆ 明和七年(1770)
◯『娯息斎詩文集』(闇雲先生作 当筒房 明和七年刊)
(新日本古典藉総合データベース画像)
◇江戸の繁華
〝東都(とうど)の曲
(前後省略)
日暮らし穴暗くして人猶(なを)潜り 飛鳥(あすか)花開いて心弥(いよ/\)浮かれ
日暮らし飛鳥繁華を競ふ 春信文調花奢(きやしや)を画く
◇江戸四季の遊び
〝飛鳥山の花
毛氈芝に連なる飛鳥の春 老若の花見蝿の屯(あつ)まるに似たり
徒(ただ)看る石碑更に読み難し 一樽の諸白共に親しみに堪へたり〟
☆ 享和三年(1803)
◯『享和雑記』〔未刊随筆〕②82(柳川亭著・享和三年序)
〝飛鳥山の碑、享和の頃に至ては廻りへ垣結て、側へ人寄りがたく成たり、其以前は碑を直に石摺にす
る事も自由也し、宝暦の頃と、思ひくらぶるに桜は漸く十が三四程に成たり〟
☆ 江戸後期
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
(飛鳥山)
〝花 けふ来ずばあすかの花もかはらけのなげやりとまでいはん友達(画賛)
飛鳥山木の下蔭の目かくしは花に慾なき人にこそあれ
扇やの酒ものむまじ飛鳥山けふは花見るかなめなりとて
けふは隅田あすは飛鳥の花見時霞の衣たゝむ日ぞなき
舟つなぎ松のあたりに見わたせば飛鳥は花の浪たくみゆ
飛鳥山風に動かぬはなの雲は石碑を根となして咲らん
弁当をひらく花見の飛鳥山めにつくものはさくら煮のたこ〟
〝時鳥 かはらけを投げる飛鳥の山近く横にそれ行くほとゝぎすかな〟