◯『再板増補/江都総鹿子名所大全』巻七 奥村玉華子撰 藤木久市板 寛延四年(1751)
(国書データベース)
〝浅草紙 漉(すき)返し帋(かみ)也。田原町三軒町辺 家毎ニ作る。他の国にも漉返シと云もの有(る)に
や。反魂紙(はんこんし)といふ由〟
◯『府内備考』正編 巻十六 浅草之四「田原町」(三島政行編 文政十二年(1829)成稿)
(『大日本地誌大系』壹 所収 大正三年刊・国立国会図書館デジタルコレクション)(177/288コマ)
〝【江戸図説】云、紙商ひは門跡跡東のかた三軒町、田原町辺漉返し紙を製す、是を浅草紙といふ。今は
千住にて専ら、また三谷・鳥越にても多くいたす。
【浅草寺志】云、浅草田原町にて漉く、上中下三品あり。上紙一貫文に付六束(一帖四十八枚切)、中紙
同十束、下紙同十三束〟
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之六「生業下」①266
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝還魂紙(カンコンシ)売り
江戸にては浅草紙と云ふ。今は千住駅辺にこれを製す。大坂は高津新地にてこれを製す。漉返(スキガエ)
し紙は、紙屑を再び漉き成すなり。価大略百枚百文。簣(アジカ)にて担ひ巡る。圊(カワヤ)紙・鼻紙等に用
ふ〟
◯『川柳江戸名物』(西原柳雨著 春陽堂 大正十五(1926)年刊)(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝浅草紙 160/162
是亦浅草名物の一として知られ、昔は田原町にて多く漉きたる趣が『浅草寺志』に載せてある。後専ら
山谷附近から千住辺にかけて製造せられたとある。
寝ぬ里へひゞく山谷の紙砧
紙漉の耳にさびしき四手駕
吉原にて深更人定まつて遠く紙砧の音を聞くは坐(そゞろ)にあはれを感ずるが、又紙を漉きながらホイ
駕ホイと土手を駈け行く駕舁の声を聞くのも又淋しきものである〟