☆ 文化十二年(1815)
◯『増訂武江年表』2p52(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文化十二年)
〝今年より肇まり、朝貌(アサガオ)の異品を玩(モテアソ)ぶ事行はる。文政の始め迄、都下の貴賤、園に栽
へ盆に移して筵会(エンカイ)を設く(やしなへば午の貝ふく頃までも牛ひく花のさかりひさしき 遠桜山
人)
筠庭云ふ、下谷和泉橋通御徒町に、大番与力にて谷七左衛門と云ふ人あり、其の老母草花を好み、よ
く種を作れり。是れに依りて七左衛門も其の法を伝ふ。茶事を好みければ、前栽など掃除して、人も
とひ来て見るものも有りけり。桜草は享和の頃まで作り、あまたの種類を分ち、浅き箱を多く重ねた
る重(カサネ)毎に、かんてんをとき流し格子を入れ、其の中に一花づゝつみてかんてんに挿して、望
みに随ひて借しつかはして見せしむ。夫より朝貌の奇品を作り、此の度は六枚折りの葭屏風に、細き
竹節毎によきほど間を置き、口を切り水をつぎ、これに花一つに葉一ひらづゝ添へて挿したるを、葭
屏風に掛けならべたるは、いと凉しくきよらなり。屏風はたゝみていづくへも持ちゆかるゝなり。文
化五、六年の頃なりき。其の後大坂に在番したる時、多く牽牛子(アサガオ)を彼の地へ送りたり。抑
(ソモソモ)これ流行の始めなり〟
〈遠桜山人は蜀山人・大田南畝。狂歌に詠み込まれた「牛ひく花」とは、喜多村筠庭の補注にあるよ
うに「牽牛子(アサガオ)」を指す〉
◯『街談文々集要』p350(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化十二年「朝㒵奇品会」)
〝文化の初メより、牽牛花屋敷と唱へて、下谷山下の脇ニありて、朝㒵のかわりもの多くあり、見物群集
す、当年ハます/\はやりて、都下に是を翫ぶもの多し、文政元寅どし、朝㒵水鏡といふ小冊梓行す、
秋水痩菊撰之、序文伊沢蘭軒翁述る、花の異品を数々あらわせり、朝㒵の書、此已前ニも数々あり。
やしなへバ牛の貝ふく頃までも牛ひく花のさかりひさしき 遠桜山人。武江年表ニ見えたり〟
◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥107(喜多村筠庭・文化十二年六月記)
“今年牽牛花流行出、是は下谷御徒町通ニ大番与力ニ而谷七左衛門といふ人の母、草花植作る事上手ニ而、
桜草など異品多く作り出、又 朝貌を多く植て、種々の花出来たるを、細き竹に多く切かけをなし、水を
入れ、朝貌の異花を一輪つゝ挿し、其花活筒を懸る料に、葭の小屏風を作りて、彼竹筒を掛並べ、屏風畳
みても花に障らぬ様に作り、人の望むに任せて貸遣したり、かくて程なく流行したる也、又上之方は江戸
より異品之種贈れるも、此人大坂に在番したる其序也とぞ〟
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝朝㒵(顔)
日をいとふこゝろつかひに朝㒵のかざしてぞさく庭のそでがき
いろ/\にさく朝かほの花あはせまけたる人ぞさきへしほれる
露よりももろき世帯のうら店にその日くらしの鉢のあさがほ
夕薬師かへさのつとの朝㒵のつるもめの字にからみつきけり
とく起て庭をながむる目さましに汲て出したる茶屋朝㒵
一夜寝てあすさく宿のあさがほは◯のいろやむらさきの花
やれ垣の糸瓜の葉につたはりてつゆの水とるあさがほのはな
いよすだれかけたる軒に朝な/\八ッ九ッもひらくあさがほ
とく起て化粧もすらん朝㒵のつぼみの筆にはなの◯に猪口
いろはかく窓の格子にからみては手をあげたがるあさがほの花
あらふたる㒵ふきながら見れば又ぬれいろにさくあさがほの花
べに草とみゆる莟におはぐろのるりの露をもふくむあさかほ
はみがきをつかふやうじも恥ぬべしそこへにみするあさがほのはな
明のこる空にひかりし星数のへるたびごとにふえるあさかほ
莟みたる露をしぼりの朝顔は江戸むらさきの紺かきか庭
朝鮮のたねもふせたる朝㒵は花のかたちもるりや珊瑚樹
智恵の種いつかまきけんむかしとはかはり咲なるあさかほの花
日をよくる松の木かげにさき出てさかり久しきあさかほのはな
朝寝する間に朝㒵はしぼみけりさかりもいつか夢ほどにして
今日もはや辰のさかりかしら露の玉をにぎりてしぼむあさ㒵
少女子がかざしにさしゝ朝㒵の花にそふ葉の形もあふひ葉
雨傘の形にぬれてさけはにや?照る日にしぼむあさがほのはな
日のてりを花にいとひて朝かほに笠やぬふらんさゝがにのいと
かゝみ草むかふあさ日の紅にさす花のつぼみは筆にこそあれ
からす瓜からむ垣根のよこ雲に明ぼのかたも見ゆるあさがほ
庭松のかげのまがきに日を覆?てさかりひさしき朝かほの花
扇にもすき入て見んあさがほは露をかなめとたのみてぞ咲
しのゝめのを告るからすのなく頃に三つよつ五つさけるあさがほ〟
☆ 安政五年(1858)
◯『増訂武江年表』p165(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
〝七月、浅草奥山に朝顔の見せ物出る(近辺朝起の人にあらざれば見る事あたはず。よつて見物すくなか
りしもむべなり)〟
☆ 文久元年(1861)
◯『増訂武江年表』2p184(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
〝六月十五日より十七日迄、入谷長松寺にて朝顔の会あり。七月浅草寺奥山にもこれあり〟
◯『絵本風俗往来』上編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(51/98コマ)
〝六月 朝顔売り
朝顔は五月中端(なかば)より売り出し、八月前迄を限りとす、都(すべ)て此の朝顔は土焼の小鉢造り、
花は紅白・瑠璃・浅黄・柿色・縁とり・しぼりの種々ありて、輪(りん)は大鉢なるもの売れ口よし、此
の鉢仕立ての朝顔は、入谷浅草辺の古き土溝(どぶ)の土をとり、よく枯らしたるを鉢に入れて、種を蒔
き付けて花を咲かしむるとかや、されば花に価(あたひ)なくして、土と鉢の価を以て商ふときゝぬ、毎
朝未明より荷(にな)ひ出だし、正午前迄に売り切りて帰る、朝露を含める花の姿は短か夜のねぶたき眼
をさましむるより、争ひて需(もと)めけるなり
当時は朝顔見物に入谷へ行く人、実にまれなり、また武家方にては手造りの名花を仕立て、知己また
縁辺へ贈るもあり、是等の花は全く眼に覚めけるものありたり〟