◯『近世江都著聞集』〔燕石〕⑤54(馬場文耕著・宝暦七年序)
〝英古一蝶が画の浅妻舟と云絵あり、彼が門弟どもは、多く浅妻船の図を書く也、当時英一峰(ママ)など、
此図を専らとす、一年、浅草にて千幅画の節も、人々是を好み望雅人多かりしとかや、其舟の図は、彼
のおでんの方鼓打給ふ形をやつして、小舟に女の舞装束にてひとり鼓を打体也〟
〈おでんの方とは五代将軍綱吉の愛妾。多賀長湖(後の一蝶)は、おでんの方を白拍子にやつして「朝妻船」を画き、
それが原因で流罪になったと噂されていた。「朝妻船」は一蝶のみならず弟子達にとっても格好の題材となったので
ある。なお、一峰とあるが、「(宝暦)当時」ということなので、一蜂の誤記と思われる〉
◯『紅梅集』〔南畝〕②310(蜀山人・文化十四年(1817)九月詠)
〝朝妻船【遊女の三蒲団を以て 船形瓶と為す 柳座に有りて鼓無し】
英飛蝶駭く暫時の間 仇(シ)矣仇波寄ては又た還
手枕更に一挺の鼓無く 床山唯三つ蒲団有り
またの日はたれと臥猪の牙の舟よせてはかへるあだしあだ波〟
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③285(無名翁(渓斎英泉)著・天保四年(1833)序)
〝(宝永六年(1709)、恩赦にて一蝶は配流先の三宅島から江戸に戻り)英一蝶と名を改、朝妻船と云絵
を書り、鼓を持舞装束の白拍子船に乗たるは、以前の図をやつせしものなり、当時英一蝶など専ら此図
を画く、一蝶浅草寺境内にて千幅絵を書し時も、人々是を好みけるとかや〟
〈「以前の図」とは、遠流になる前、多賀潮湖時代に「舟中に鼓を打、棹し、謡給ふありさま」を描いたもの。綱吉の
愛妾おでんの方をモデルにしたのではないかと噂された図である〉