Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ あらためかかりなぬし 改掛名主浮世絵事典

 ☆ 文化四年(1807)    ◯『江戸町触集成』第十一巻 p219(触書番号11455)   〝卯九月十八日    絵入読本改掛始て被仰付候節      樽ニて被申渡肝煎通達有之                     上野町肝煎名主 源  八                     村松町同見習  源  六                     鈴木町同    源  七                     雉子町同    市左衞門    右は近年流行絵読本同小冊類年々出板致候分、行事共立合相改、禁忌も無之候得は、伺之上出板いたし    来候処、以来は改方申渡候間、入念禁忌相改、差合無之分は以来伺ニ不及、出板并売買共為致可申候     但、新板書物奈良屋市右衛門え相伺、差図請来候分は、都て是迄之通取計候様、書物問屋行事共え申     渡候間、可得其意候    右之通被仰渡奉畏候、下本草藁永留候ては出板之手後レニも可相成候間、成丈ヶ出情致し相改遣可申旨    被仰渡奉畏候、為御請御帳ニ印形仕置候、以上      文化四卯年九月十八日     右四人連印                     書物問屋行事共
   右は是迄新板絵入読本類草案差出候ニ付、伺之上差図仕来候処、今般右本改方懸り申付候間、已来当役    所え申出候ニ不及、行事とも立合相改候上、右改方名主え差出改を請、差合無之分ハ売買可致候     但、是迄奈良屋市右衛門方え差出、差図請候書物之儀ハ、都て是迄之通取計可申候    右之通被仰渡奉畏候、為御請御帳ニ印形仕置候、以上      文化四卯年九月        書物問屋 須原屋善五郎                          西村源六
   右之通樽与左衞門殿ニて被申渡候ニ付、喜多村奈良屋二軒并南北御用掛り、同定廻り方臨時廻方えも相    届候事      但、西之内四ッ切半切    今日拙者共儀樽【与左衞門方へ被相呼/御役所へ被相呼】近来絵入読本同小冊類年々致出板候分、改メ    方掛り被仰付候間、此段為御届申上候、      卯九月十八日         四人名前
    月番肝煎えも申遣候事    一 行事名前付三ヶ月目ニ拙者方え可被差出候事    一 新板草案之儀は不及申、板行出来候分共、最寄々ニて行事宅より都合宜所え可被差出事    一 書物屋惣名前書、当月中ニ拙者共え銘々可差出事    一 書物屋増減又行事替候ハヽ、是又其時々銘々え可被相届候、以上      卯九月六日         絵本改掛り 肝煎名主      書物問屋九月掛り行事    一 書物屋行事より草案差出候ハヽ、入念早遂一覧、幾日差出シ幾日順達いたし候と申儀、廻状を以致      順達、留りより行事を呼、相渡可申旨申合候事      右之通申合候事〟
   〈改(アラタメ)(検閲)担当の名主を絵入読本改掛りと名付け、佐久間源八・和田源七・村松源六・斎藤市左衞門の四名が     任命された。地本問屋の行事が自主的な改めを行った後、これら四名の「改掛」に出版伺いをたてよというのである〉    ◯『物之本江戸作者部類』p104(蟹行山人(曲亭馬琴)著・天保五年(1834)成立)    〈馬琴によると、寛政七八年(1795-6)の頃、地本問屋仲間の行事改(あらため)も受けず、新刊の洒落本を非合法に出版     したとして、町奉行が出版元を摘発。吟味の結果、新刊洒落本四十二種はもとより古板も絶版を命じられ、出版元の     貸本屋は過料三貫文、書物問屋の若林清兵衛は身上半減の闕所処分、また上総屋利兵衛は再犯ということで軽追放に     処せられた〉   〝是よりして臭草紙はさら也、都て作り物語はその稿本を両御番所へ差出し、伺ひの上行事等その板元に    売買を許すべしと命ぜられしかは、像(カタ)のごとくとり行ひしに、いまだいくばくもあらず御用多なれ    ばとて、町年寄三人にその義を掌らせ給ひしに、町年寄も亦御用多にて事不便也とまうすにより、文化    の年に至りて肝煎名主四人【岩代町名主山口庄左衛門、常盤町名主和田源七、上野町名主佐久間源八、    雉子町名主斎藤市左衛門等是也】に草紙類の改正を命ぜられしなり【此改正名主没したるもあり、今は    七人になりたる】。又錦絵も明和年間、彩色搨はじまりしより、地本行事の撿正を受て、印行したれ共、    文化に至りて、画工歌麿が絵本太閤記の人物を、多く錦絵にゑがきて罪を蒙りしより、錦絵道中双六の    類はさら也、狂歌の搨物、或は書画会の搨物に至るまで、件の名主等に呈閲して免許を乞ふにあらざれ    ば、印行する事を得ずとなむ〟    〈馬琴は洒落本摘発事件を寛政七八年頃とするが、どうやらこれは馬琴の記憶違いで、下掲の触書によれば、享和二年     (1802)のことらしい。これ以来、黄表紙(臭草紙)など地本問屋の出版物は、稿本の段階で奉行所(番所)に差し出すこ     ととなったが、間もなく多忙を理由に提出先が三人の町年寄に変わった。ところがこれも多忙ということで、今度は     名主にその任がまわり、改正(あらため)はその名主が行うこととなった。ただ、この一連の出版手続きの変更を、馬     琴は「是より」つまり上記の洒落本摘発事件以降のこととするが、「町触」によると、これらは寛政十一年から十二     年にかけての動きのようである。(本HP、Top「浮世絵に関する町触」寛政11-12年の項参照)そして文化四年九月、     四名の肝煎名主が改掛(あらためかかり)に任命された。ただし岩代町名主山口庄左衛門とあるのは馬琴の記憶違いか。     以上は版本記事だが、馬琴によれば、錦絵の方も、それが出現した明和の当初から、地本問屋の行事による検閲(撿     正)を受けていたが、歌麿が絵本太閤記の錦絵で処罰された頃(これは文化元年・1803)から、錦絵・双六、狂歌     や書画会の摺物に至るまで、版本と同様に名主の検閲を受けることになったというのである〉    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇懸り名主・絵双紙屋への通達 p158   〝七月十七日、通三丁目寿ぇ絵双紙懸名主八人出席、絵双紙屋へ申渡之一条     去ル丑年御改革、市中取締筋之儀、品々御触被仰渡御座候処、近来都而相弛、何事も徒法ニ成行候哉、    畢竟町役人之心得方相弛候故之義と相聞候旨御沙汰ニ而、此上風俗ニ拘り候義ハ不及申、何ニ不限新工    夫致候品、且無益之義ニ手を込候義ハ勿論、仮令誂候者有之候共、右体之品拵候義は致無用、事之弛ニ    不相成様心付、其当座限ニ不捨置様致世話、此上世評ニ不預、御咎等請候者無之様、心得違之者共ハ教    訓可致旨、先月中両御番所ニ而、各方ぇ被仰渡御坐候由、絵(一字欠)之義ハ前々より之御触被仰渡之趣、    是迄度々異失不仕様御申聞有之、御請書等も差出置候処、近来模様取追々微細ニ相認候故、画料・彫工    ・摺手間等迄差響、自然直段ニも拘、近頃高直之売方致し候者も有之哉、右ハ手を込候と申廉ニ付、勿    論不可然、銘々売捌方を競、利欲ニ泥ミ候より被仰渡ニ相触候義と忘れ候仕成ニ至、万一御察斗(当)請    候節ハ、元仕入損毛而已ニハ無之、品ニ寄、身分之御咎も可有之、錦絵・草双紙・無益之品迄取締方御    世話も被成下、御咎等不請様、兼而被仰論候は御仁恵之至、難有相弁、此上風俗ニ可拘絵柄は勿論、手    を込候注文不仕、篇数其外是迄之御禁制(二字欠)候様、御申論之趣、得と承知仕候、万一心得違仕候    ハヾ、何様ニも可被仰立候間、其印形仕置候、以上     錦絵壱枚摺ニ和歌之類并草花・地名又ハ角力取・歌舞妓役者・遊女等之名前ハ格別、其外之詞書認申    間敷旨、文化子年五月中被仰渡御坐候処、錦絵ニ歌舞妓役者・遊女・女芸者等開板仕間敷旨、天保十三    寅年六月中被仰渡之、已来狂言趣向之絵柄差止候ニ付、手狭ニ相成差支候模様ニ付、女絵而已ニ而は売    捌不宜敷、銘々工夫致、狂画等之上ぇ聊ヅヽ詞書書入候も有之候得共、是迄為差除候而は難渋可仕義と、    差障ニ不相成程之詞書ハ其儘ニ被差置候処、是も売方不宜敷趣ニ付、踊形容之分、御手心を以御改被下    候ニ付、売買之差支も無之、前々より之被仰渡可相守之処、詞書之類も追々長文ニ相認、又は天正已来    之武者紋所・合印・名前等紛敷認候義致間敷之処、是又相弛ミ候哉、武者之伝記認入、右伝記之武者は    源平・応仁之人物名前ニ候得共、内実ハ天正已後之名将・勇士と推察相成候様認成候分多相成、殊ニ人    之家筋・先祖之事相違之義書顕し候義御停止、其子孫より訴出候ハヾ御吟味可有之筈、寛政度被仰渡有    之、仮令天正已前之儀ニ候共、伝記ニハ先祖之系図ニ至り候も有之、御改方御差支ニも相成候間、其者    之勇略等、大略之分ハ格別、家筋微細之書入長文ニ相成候而は、御改メ被成兼候段承知仕、向後右之通    相心得、草稿可差出候〟     〈天保十二(丑)年以来の改革で強化した市中取締に弛みが生じているので、「改め」を行う「懸り名主」と絵草紙屋     に対して、もう一度趣旨を確認し徹底させようという通達である。時の風俗に拘わる絵柄は勿論、彫り・摺りに手間     のかかる高直のもの、そして今まで禁制であったもの、これらを再度禁じたのである。そのうえ万一おとがめを受け     た場合には原材料の損ばかりでなく、身分上の処罰も覚悟せよという圧力まで加えた。文化元年(1804)五月、錦絵・     一枚摺に和歌の類、草花・地名・力士・歌舞伎役者・遊女等の名前を除いて、それ以外の詞書きを禁止。天保十三年     六月、歌舞伎役者・遊女・女芸者の出版を禁止して統制を強化した。商売に差し支えが生じた板元達は銘々工夫して、     詞書き入りの狂画などを出してみたがあまり売れ行きがよくない、それで歌舞伎と言わず「踊形容」として、手心を     加え許可したところ商売が持ち直したのはよいが、今度は、詞書が長くなるなど、また弛み始めた。特に武者絵の弛     みは甚だしく、天正年間以降の武士の紋所・合印・名前等の使用を禁じられているのに、それらと紛らわしいものが     出始め、伝記絵に至っては、表向き源平・応仁時代の名前にして、内実は天正以降の名将・勇士に擬えるのものまで     出回っている。もっと検閲を強化せよというのである。当時『太閤記』を擬えた武者絵が、国芳・貞秀・芳虎等によ     って画かれている。いうまでもなく、この通達は、こうした出版動向と改め名主の弛みに対する牽制である〉    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   ◇大筒一件 p170   〝八月八日 通三丁目寿ぇ絵草紙懸り名主八人出席致、市中絵草紙屋を呼出し、大筒一件之書付を取也。     大筒之狼烟相発候傍ニ、驚怖之人物臥居候体之錦絵、内々売々(買)致候者は勿論、彫刻并ニ摺立候者    有之哉之旨、厳重之御尋ニ御座候、前書被仰含候絵柄之義は、市中ニ験(ママ)類に携候者共、蜜々精々探    索仕候得共、決而無御座候、何様押隠取扱候共、私共不存義ハ無御座候処、右図柄ニ限り及見聞候義無    御座候、若向後見聞仕候ハヾ早々可申上候、外より相知候義も御座候節ハ、何様ニ被仰立候共、其節一    言之義申上間敷候、為後日御請印形仕置候、以上。                            絵草紙屋糶       絵草紙懸名主                     廿四人        佐兵衛殿初                       印        同外七人 名前    一 八月三日、通三丁目寿ニ於て、町方定廻り衆二人出席有之候て、絵草紙屋を呼出し御詮義有之候ハ      富士山の下ニ石火矢の稽古有之、見分之侍五六人床机をひつくり返シ倒れる処の画出候ニ付、御奉      行よりの御下知ニて買上ゲニ参り候よし申され候ニ付、懸り名主より絵草紙やを銘々吟味有之候処      ニ、一向ニ手懸り無之候ニ付、右之由申上候。    一 是ハ先達浦賀表ニ而、大筒のためし有之、其時出役之内、石河土佐守・本多隼之助両人、三拾六貫      目大筒の音の響にて床机より倒れ気絶致し候由の噂、専ら街の評判ニ付、右之画を出せしよし。    一 然ル処、右之絵、所々を穿鑿致候得共、一向ニ相知れ申さず、見たる者も無之候ニ付、八月八日、      寿ニて寄合、前書之通、書面を取也。    一 但し、大筒ためし横画一枚絵出候よし、是ハ浅草馬道絵双紙や板屋清兵衛出板致し候よし。    一 又一枚絵ニて、大鰒の腹の下へ大勢たおれ居り候処の画出ル、是ハ大きなる鉄炮故ニ大筒なり、大      筒の響にて倒れ候と云なぞのはんじものなり、板元芝神明町丸屋甚八なり、是の早々引込せ候よし。    一 雷の屁ひりの画も出候よし、是の大筒のなぞ故ニ、引込せ候よし。         ねをきけバたんと下りて扨つよく           長くこたゆる仕入かミなり〟    〈早速改(アラタメ)掛名主達の詮議が厳しくなった〉  ◯「絵草紙懸名主風聞井人撰仕候儀申上候書付」(絵双紙改掛に関する隠密の報告書)   『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二六七件 p124)   〝絵草紙懸名主風聞井人撰仕候儀申上候書付      隠密廻    書物絵草紙掛名主共、勤方井人撰仕候様、被仰渡候問、承糺候風聞之趣、左ニ申上候、                書物絵草紙掛 村松町  名主(村松)源六                同      弓 町  同 (渡辺)源太郎                同      大博馬町 同 (馬込)勘ケ由                同      新乗物町 同 (福嶋)三郎右衛門                同      浅草茅町 同 (浜) 弥兵衛                同      麻布谷町 同 (米良)太一郎                同   小石川白山前町 同 (衣笠)房次郎                 同      新両替町 同 (村田)佐兵衛    右は、絵草紙懸相勤居候もの共之内、源六儀は年来相勤、書物絵草紙之儀、古来より之御触被仰渡并取    締方等精細ニ相心得居、入組候儀ニ至候ては重ニ取計、惣体之締方も致し候得共、生質内端故、地本草    紙問屋仮組之内、下々人気六ケ敷もの共取締方迄は届兼候由、    〈村松源六は昔からのお触や取締方法には精通している。しかし気弱な性質からか、評判高い難しいものの取締については     不十分なところがある〉
   一 源太郎儀は、右掛取調向等之節御用弁之者ニ候得共、品ニ寄同勤え打合不申、一己之取計も有之哉      ニて、懸同役共之内ニは、間柄不平之ものも有之由、     〈渡辺源太郎は時に同役と打ち合わせをせず独断で行う傾向があるから、不平をいう者もいる由だ〉
   一 勘ケ由・三郎右衛門儀は、近年懸被仰付候ものニ御座候処、勤向古役等え談合精勤之由、此内三郎      右衛門は活達之生質ニ付、当座急場之儀は行届候由、     〈馬込勘ケ由と福嶋三郎右衛門は最近掛になったばかりだが職務はよく果たしている、特に福嶋は闊達な性格で、とっさ      のことにも対応できる資質がある〉
     右、源六・源太郎・勘ケ由・三郎右衛門は、引続掛り可被仰付哉、    〈以上の四名、引き続き掛に任命してはどうか〉
   一 弥兵衛・太一郎・房次郎之内、弥兵街儀は右掛急場調筋等不得手之由ニて行届兼、太一郎・房次郎      儀は御用立候ものニは候得共、地本草紙問屋共住居之場所と懸隔罷在候間、不弁之由、     〈浜弥兵衛・米良太一郎・衣笠房次郎のうち、浜は急場の調べ等が不得手、米良と衣笠は仕事内容に      別段問題はないが、地本問屋とは住居が遠く不便の由だ〉
     一 佐兵衛儀は年来相勤、前々は右掛之儀ニ付、取締向重ニ心付罷在候処、長病ニて同勤之ものえ長々      頼合居、掛勤方行届不申候由、     〈村田佐兵衛は長病で勤務は無理の由〉
     右、弥兵衛・太一郎・房次郎・佐兵衛儀は、不弁之儀も御座候間、今度右掛り御免可被仰付哉、    〈以上の四名はお役御免。次の二名は新規の絵草紙改掛候補〉                     壱番組 新革屋町 名主(木村)定次郎                  拾壱番組 雉子町  同 (斎藤)市左衞門    右定次郎・市左衛門は、神田辺内外共地本草紙問屋多ク住居致し候ニ付、右最寄前書勘ケ由壱人ニては    届兼可申哉ニ付、御差加相成候ハゝ、取締も相届可申由、    〈木村定次郎および斎藤市左衛門は、地本問屋が多い神田に住居があるから取締にも都合がよいというのが理由だ。この斎     藤市左衛門とは『増補浮世絵類考』や『武江年表』を編纂した斎藤月岑である〉                     四番組 坂本町   名主 新助後見 新右衛門                   六番組 西紺屋町  同 (坂部)六右衛門                    七番組 南八町堀町 同 (島崎)清左衞門                   八番組 宇田川町  同 (益田)弥兵衛    右、新右衛門・六右衛門・清左街門・弥兵街は、御組屋敷最寄芝神明町辺地本草紙問屋多住居致し候内、    別て仮組之内には、異様之図無改重板等致し候小前之もの多、右扱向は急場手早之ものニ無之候ては届    兼候処、当時前書源太郎壱人ニては行届不申候間、御差加相成候ハゝ、取締方も相届可申由、    〈芝神明町付近には地本問屋が多い。しかしここには「異様之図」や改を受けないで重版(無断複製)を出す仮組の問屋な     ども多いから、急場のときには渡辺源太郎一人では手が廻らない。以上の四名の住居は芝神明に近いから増員すれば取締     も強化されてよいというのである〉                    三番組 浅草西仲町 名主(関口)吉左衞門    右は、浅草寺最寄無改異様之図絵類等立商ひ致し候もの多ク入込候場所に付、為心付方御差加相成候ハ    ゝ、行届可申由、    〈浅草寺付近には改を受けない「異様之図絵」を売買する者が多いから、一人増員すれば取締も行き届く〉      右、書物地本絵類等善悪板元致し候ものは、何れも下タ町ニ多罷在候間、是迄懸名主共之内四人御免、    跡前書定次郎・市左街門・新右衛門・六右衛門・清左衛門・宇田川町弥兵衛・吉左衛門、都合七人新規    右懸可被仰付哉、    〈板元は下町に多いので、これまでの改掛名主のうち四名はお役御免にして、木村・斎藤・坂本町名主後見・坂部・島崎・     益田・関口の七名を新規に任命してはどうか〉  <    一 是迄右懸役一旦被仰付候得は、外役と違年限も無之候間、自ラ心得方之弛ミニも可相成哉、此上勤     方ニ寄、年々御差替等御座候ハゝ、一際心付方入念可申哉、    〈これまで改掛は一端任命されと年限がないものだから、自ずと緩みが生じがちである。今後、勤め方次第で交替もあると     いうことであれば、心の付け方も念入りになるのではないか〉      右、密々承合候風聞并人撰仕候趣、書面之通御座候、此段申上候、以上、      丑(嘉永六年)八月               隠密廻〟      〈天保改革後、遊女絵・役者似顔絵を禁じられたために、苦肉の策として生み出された判じ物が、絵柄の不分明なゆえに却     って幕政批判を引き起こし、結果として老中まで身を乗り出す事態に至った。あげくは町奉行の検閲体制の見直しまで迫     ることになったのである。この「浮世又平名画奇特」に関していえば、巷間に流布した浮説は、ペリーの浦賀来航など、     刊行後の出来事と関連づけられたものも多い。つまり国芳ら制作側の意図とは全く関係のないところで浮説が増殖したの     である。実際のところ、国芳らは公認の踊形容を画いただけなのかもしれない。しかし「源頼光公館土蜘作妖怪図」や     「【きたいなめい医】難病療治」の国芳である。何か意図があって「奇怪な絵柄」を画いているに違いないと思う。ここ     から付会が始まり浮説が生ずる。判じ物から生ずる浮説はあたかも虹のようなものであろう。その発生源らしいところに     行ってみても、そこには「奇怪な絵柄」があるばかり、誰もいないのである。これでは取り締まりようもないだろう。当     局は自らの政策のせいでやっかいなものを生み出してしまったのである〉