Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ あらため 改(検閲)制度の変遷浮世絵事典
 ※『合巻』における弘化年間以降の改印の事例については、本HP「版本年表」の「合巻年表Ⅲ~Ⅴ(弘化~慶応)」の項を参照    合巻年表Ⅲ(弘化) 合巻年表Ⅲ(嘉永) 合巻年表Ⅳ(安政) 合巻年表Ⅴ(万延-慶応)    ☆ 寛政二年(1790)    ◯『御触書天保集成』下810(触書番号6418)寛政二年十月   〝書物類之儀、前々より厳重ニ申渡候処、いつとなく猥ニ相成候、何ニよらず行事之絵本草双紙之類迄    も、風俗之為ニ不相成、猥りがはしき事等勿論無用ニ候、壱枚絵之類は、画のミニ候ハヽ、大概は不苦    候、尤言葉書等有之候ハヽ、能々改之、いかゞなる品々は板行ニいたさせ申間敷候、右ニ付、行事之改    を不用もの候ハヽ、早々可訴候、又改方不行届か、或は改ニ洩候儀候ハヽ、行事も越度たるべく候、    右之通相心得可申候、尤享保年中申渡置候趣も、猶又書付候て相渡候間、此度申渡候儀等相含、改可申    候〟    〈地本問屋の行事に対して絵本草双紙への改(アラタメ)(検閲)をさらに徹底するよう求めたものである。但し、検閲済み     であることを示す(◯ニ「極」)のような改印を、版本・版画上に明示するよう指導したわけでもないようだ。触書に改     印が登場するのは下掲寛政五年が初出のと思われる〉    ☆ 寛政五年(1793)  ◯『江戸町触集成』第九巻 p326(触書番号9982)八月十三日   〝  奈良屋市右衛門殿ニて年番名主え申渡    近頃世間之噂事又は火事之節類焼場所付抔、売歩行候者間々有之処、右之板木は板木屋共ニて彫不申、    仲間外ニて彫板行仕立、本屋仲間の改印も不請売歩行候段不埒之至り候、向後板木屋家業望之者共仲ヶ    間加入致、仲間之申合ヲ相守渡世可致候、若相背仲ヶ間外ニて猥ニ板行彫立売歩行候者は急度可申付候    右之趣従町御奉行所被仰渡候間、組合町々不洩様早々可申通事      八月十三日〟    〈これが「改印」の初出か。世間の噂や火事の被害状況を報ずる類焼場所付、いわゆる「かわら版」には、これまで町     奉行の目が十分に及んでいなかったようである。今後は、本屋仲間に加入させてコントロール下に置こうというので     ある。奈良屋市右衛門は町年寄〉     ◯『浮世絵』第八号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「稗史原稿より見たる戯作者 浮世絵師との関係」林若樹著(8/48コマ)   (稗史小説(草双紙・読本)の改(あらため=検閲)について)   〝江戸名物の一たる稗史小説も 大方此二日又は吉日を卜して 初春中売出すこと嘉礼なり(中略)    作者は三四月頃より筆を執り初め 八九月頃迄には大方脱稿して其稿本を出板書肆に与ふ かくして後    其草稿は行事の手許に呈出せられ 幸ひに忌諱に触るゝ点なく 無事下げ渡さるれば 夫れより画工は    其草稿の下図によりて揮毫し 後筆耕其余白に文章を正書して 板木師に廻送し彫刻成れば 著者の校    合を経て 摺師の手を煩はし 後製本発売の順序となるなり〟    〈草双紙(黄表紙・合巻)や読本の検閲は、作者の稿本(本文+下絵(下図)が成った時点で、問屋仲間(組合)の行事が行う     これは寛政二年から始まる〉  ◯  ◯『林若樹集』(林若樹著『日本書誌学大系』28 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※全角カッコ(~)は原文のもの。半角カッコ(~)は本HPの補注   ◇「小説の本になるまで」(『版画礼賛』所収 大正十四年三月)   (全体の流れ)p1   〝(黄表紙・合巻等)軟派に属するものは、其(作者が作成する)稿本を地本問屋の行事の手で一応検閲し、    之を月番名主に差出し、忌憚に触るゝことなく出板差支なしとなると、許可の証たる行事の割印をして    其出板書肆に戻す、出板書肆は其稿本(之を種本といふ)を画工に廻す。画工は其種本に示す通りの下    図に拠つて板下をつくり、之を筆工に廻はす。筆工は又其種本に随つて画工の板下の余白に本文を清書    する。出来上りたる板下(之を写本と云)は愈々板木師に廻はされ、板木師は彫刻の上、著者再三の校    正を経て校了となると、刷師によつて刷り上つてから製本屋の手にかゝつて(黄表紙の如き少部数且つ    製本の簡単なるものは本屋の手で製本される)初めて一部の冊子となる〟  (改制度 検閲主体の変遷)   寛政二年 ~ 天保十三年(1790-1842): 問屋仲間の月番行事(仲間による相互検閲)   天保十三年 ~ 安政四年(1842-1857): 改掛かり名主   安政五年 ~ 明治八年 (1858-1875): 問屋仲間の月番行事(旧に復す)   (明治八年 出版条例改正 出版は内務省の所管となり出板人より直接同省へ出すことゝなる)   <寛政二年以前(~1790)>   〈改印制度は寛政改革に伴う寛政二年(1790)から始まるが、それ以前にも地本問屋の出版物に対する検閲制度の導入は    検討されていた〉  ☆ 享保六年(1721)  ◯ 八月三日〔『撰要類集』第三「新規物并書物類之部」p53〕   (町奉行・中山出雲守と大岡越前守の覚書。御側用人有馬兵庫頭経由で老中に宛てた上申書である)   〝 覚    新規ニ仕出シ侯諸色、此度御停止ニ被仰付候ニ付、面立候商売物之内、世話役申付侯儀、諸色新規ニ仕    出シ候えは、其砌多ク世上ニ取扱候間、左様之節、右世話役之者差留メ、不用之者をは奉行所え訴出候    様ニ可仕、致し方相談仕候処、左之通二御座候     (貼り紙あり。その文面は「此世話役と申儀は出来不申候」となっている)     呉服屋     菓子屋     諸道具塗物屋     小間物屋     書物屋     右商売仕候者之内、世話役弐三人宛可申付候、然共請合候て、情ニ入相勤可申哉、其段難計奉存候    一 右世話役之者と別ニ相極り侯ては、世話役之者ニ計、万事打任せ置可申哉、縦隠シ売仕候もの、又     ハ新規之もの売出し候ても世話役之者えハ、遅く相知れ候儀も可有御座哉と奉存候    一 年寄共申候は、唯今迄商売体ニより、仲ケ間を定置候儀も御座候間、自今弥申合、相互ニ吟味仕、     新規之品相知らへ、自然左様之筋も御座候ハゝ、早速訴候様ニ仕、尤仲ヶ間之内にて、月行事弐三人     も相定【此所下ケ札 此月事ハ代りニ仕候】相糺し候ハヽ、切々仲ヶ間寄合等不仕候ても相済可申候、     乍然商売体により、唯今仲ヶ間を相定置不申候も御座候間、自今仲ヶ間を相定、改様右之通ニ仕候ハ     ヽ、結句〆リ可申哉、若新規之品商売仕候ニおゐてハ、仲ヶ間之者不念申付候ハヽ、互ニ吟味可仕儀     と奉存候    一 右商売人共ニも相尋候処、仲ヶ間ニて相互ニ吟味可仕旨申候      草双紙屋 絵草紙屋     右之問屋共え世話役申付、自今新規之板行物仕候節は、右之問屋共方え参、写本を見せ、子共持遊ひ     一通り之儀御座候歟、又ハ浄瑠璃本、狂言番附之類ハ、右問屋共ニ極判仕候様ニ申付、若紛敷事も御     座候ハヽ、問屋共より相糺し、奉行所え訴、差図を請候様ニ可仕候、尤判賃問屋共え為出可申候    一 只今迄有来候子供持遊び一通之類、浄瑠璃本、狂言番附之類ニは、右古板木ニ極メ判此度為仕可申     候、右之通致し方奉伺候、                    以上      享保六年丑八月                  中山出雲守                               大岡越前守    右之書付、丑八月三日、有馬兵庫殿え、同日中山出雲守より上る〟    〈江戸の書物問屋の仲間結成と世話役(行事)による検閲に関する覚え書である。物の本(和漢の学問書や医学書)を     扱う書物問屋だけでなく、草双紙屋と絵草紙屋に対しても、世話役を設けて新規出版のものはその検閲を受けるよう     にというのである。そしてこの構想に関連して、八月二十三日には次のような具体案が、御側用人有馬兵庫頭に上が     っている〉    ◯ 八月二十三日〔『撰要類集』第三「新規物并書物類之部」p55〕   〝唯今迄江戸商売人方ニ有之候双紙、壱枚絵、并自今新規ニ出候新板之草紙、壱枚絵、問屋とも吟味之上、    商売いたし不苦分、新古共、双紙ハ外題紙之所に極判仕、一枚絵ハ見合絵之障リに不成所え極判為仕可    申候〟    〈行事が改(アラタメ)(検閲)をして問題ないものについては、改印を押すというもの。草双紙は外題紙の処に、一枚絵に     ついては絵の障りにならないところと、なかなか具体的な提案であった。これらを踏まえて、十一月、次のような町     触れが出た〉    ◯ 十一月〔『御触書集成』p1019(触書番号2096)〕   〝今度被仰出候呉服物、諸道具、書物類ハ不及申、諸商売物菓子類ニても、新規之事御停止之儀、先達て    申渡候通ニ候、就夫、諸色商売之者共仲ヶ間を究メ、月行事を相定、新規之品若拵出シ候ハゝ、互致吟    味、新規之品も有之は、相止させ可申候、万一子細も候ハゝ、可訴出候     但、新書物之儀は追て可申聞候    一 京都、大坂其外所々より心得違、新規之物差越侯ハゝ、元々え相返し、無拠子細も候ハゝ、是又可     訴出候、右之通仲ケ間を究メ、月行事を定メ、互ニ致吟昧侯上、自然新規之物も有之、隠シ売仕、後     日相知侯共、其商売一組之仲ケ間之もの、不吟昧之筋を以、急度過怠可申付候、月行事之者、別て入     念相糺し、違犯無之様ニ可仕候〟    〈八月、町奉行、中山出雲守と大岡越前守によって提案されたもののうち、商売仲間を作り世話役(月行事)を定めて、     新規のものを取り締まらせるという案は制度化されたが、草双紙や一枚絵の改印については見送られたのである。で     はこの制度、実際のところどの程度機能したのであろうか。今田洋三著『江戸の本屋さん』によると、この時仲間が     結成されたのは、物の本を扱う書物問屋であって、一枚絵や草双紙を扱う地本問屋の方の結成はずっと遅く寛政期に     入ってからとある。また、世話役(行事)を設ける件にしても、寛政二年十一月十九日付の触書に〝壱枚絵草紙問屋     共、是迄行事無之ニ付、以来両人ツヽ行事相定候様申渡候〟〔『江戸町触集成』第九巻 p68・触書番号9624〕と     あるから、改印同様、この時点では見送られたのである。してみると、この年の出版統制令、地本問屋に限っては、     これまで通りで支障なしであったようだ。中山・大岡の町奉行によって検討された草双紙・一枚絵対策、行事による     改(アラタメ)めが実行されるのは、寛政二年(1790)以降である〉   <寛政二年~幕末(1790~1867)>  ☆ 寛政二年(1790)  ◯ 十月二十七日〔『【未刊史料による】日本出版文化』第三巻『江戸町奉行と本屋仲間』           「第五章 錦絵地本問屋仲間と板木仲間」〕   〝寛政二戊年十月廿七日初鹿野河内守様御番所ニ被仰渡    一 其方共儀草双紙、壱枚絵等商売致来候処、毎々より仲間行事ハ不相立候旨ニ付、己来行事二人宛相     立商売筋取締可致候    右之通被二仰渡奉畏侯、仍て如件      寛政二戊年十月廿七日〟    〈初鹿野河内守は当時の北町奉行。今まで行事を制度化してこなかった地本問屋に対して、今後は二名の仲間行事を立     てるよう命じた。行事に改(アラタメ)(検閲)させて取締りを強化しようというのである〉  ◯ 十月〔『御触書天保集成』下810(触書番号6418)〕   〝書物類之儀、前々より厳重ニ申渡候処、いつとなく猥ニ相成候、何ニよらず行事改之絵本草双紙之類迄    も、風俗之為ニ不相成、猥りがはしき事等勿論無用ニ候、壱枚絵之類は、画のミニ候ハヽ、大概は不苦    候、尤言葉書等有之候ハヽ、能々改之、いかゞなる品々は板行ニいたさせ申間敷候、右ニ付、行事之改    を不用もの候ハヽ、早々可訴候、又改方不行届か、或は改ニ洩候儀候ハヽ、行事も越度たるべく候、    右之通相心得可申候、尤享保年中申渡置候趣も、猶又書付候て相渡候間、此度申渡候儀等相含、改可申    候〟    〈地本問屋の行事に対して絵本草双紙への改(アラタメ)(検閲)を一層徹底するよう求めたものである。一枚絵の方は、絵     のみであれば問題なし、しかし言葉書きがある場合は、十分に検閲して疑わしいものは版行禁止。改を受けないもの     があれば看過せず訴え出ること。また改に不行き届きや洩れがあれば、行事に責任が及ぶというのである〉  ◯ 十一月十九日〔『江戸町触集成』第九巻 p68(触書番号9624)〕   〝書物之義は前々より厳重ニ申渡置候処、いつと無猥ニ相成候ニ付、此度書物屋共并壱枚絵草紙問屋共え    改之義申渡、且壱枚絵草紙問屋共、是迄行事無之ニ付、以来両人ツヽ行事相定候様申渡候処、右書物屋    共之外ニ、貸本屋世利本屋と唱、書物類致商売候者有之、壱枚絵双紙問屋之外ニも同様之商売致し候者    有之候趣ニ候間、前書之書物屋共草双紙屋え此度申渡候趣相心得、以来新板之書物同断、草双紙壱枚絵    之類取扱候節は、書物屋共并草双紙屋之内行事共え其品差出、改受候上商売致、猥成義無之様可致候、    尤素人より壱枚絵草双紙時之雑説等板行致候を買取商売致候義、堅致間敷候、若相背候者有之候ハヽ、    急度可申付候、右之通不洩様可相觸候      戌十一月十九日〟    〈一枚絵草双紙問屋(地本問屋)の出版物は今度制度化された仲間行事二名で改(アラタメ)(検閲)を行うこと。また最近、     地本問屋同様の商売をしている貸本屋や世利(セリ)本屋(糴(セリ)売りの本屋=行商の本屋)も、同様に行事の改を受け     るよう命じた〉  ☆ 寛政五年(1793)  ◯『黄表紙總覧』後編(棚橋正博著・日本書誌学大系48・昭和六十一年)   (享和元年刊『伊呂波短歌』(十返舎一九作・画)の備考記事)   「黄表紙で改印の有するものは寛政五年前後においては、西村屋と村田屋、和泉屋に限り、寛政十年頃に    はこれに山口屋と岩戸屋も加わる如くである」    〈不思議なのはそれ以外の版元本には改印がないこと。改を受けなかったということは考えられないので、通ったけれ     ど「極」の印を明示しなかったということになろう。また西村や村田にしてもその年出版の黄表紙すべてに「極」印を捺     したわけでもないこと。地本問屋の行事による自主検閲がどのような基準で行われたのか今ひとつ明確ではない〉  ☆ 寛政十一年(1799)  ◯ 十二月二十五日〔『江戸町触集成』第十巻 p371(触書番号10786)〕   〝花美成壱枚絵并大小を翫ニ拵候板行、右之品板木彫刻候者、書もの屋草双紙 屋其外商売人より誂候も、    素人より誂候も、其名前相認、下絵ニ彩色を加へ、摺上候形ニ致、右下絵を以、御奉行所様え其度々訴    出、御一覧相済候上ニて彫刻可致候、已来無伺彫刻致間鋪候〟    〈大小とは、大の月・小の月を配した絵柄を摺物にして配ったもの。鈴木春信の錦絵はこの大小の制作に興ずる中から     生まれてきた。この触書は板木師宛に出されたもので、一枚絵及び大小の彫り注文を受けた場合、注文主が商売人か     素人かを問わず、すべからく下絵に彩色を加え、摺り上がりの状態が分かるようにして奉行所へ差し出し、その許可     を受けた上で彫刻せよというのである。幕府は大小という好事家の私的な出版まで統制下に置こうというのである。     なおこれ以降、大小に関する触書は、寛政十二年(1800)、文化十一年(1814)に出ている〉    ◯ 十二月二十六日〔『江戸町触集成』第十巻 p372(触書番号10786)〕   〝来春売出し候壱枚絵 并大小之類、当時摺出来有之分、未板行ニ取り掛り居候分共不残御奉行え差上、御    下知請可申旨被仰渡候、尤書物屋地本問屋板木屋等は仲間も相立有之義故、壱人別ニ差上候ては混雑致    シ可申ニ付、此分は仲間之内行事共え取集、一手ニ御伺奏申上候得共、其外仲間ニも不加右渡世致候も    の、且素人ニて大小之板行を拵候分も有之由ニ付、是等之儀相洩候ては如何ニ付、一統不洩様名主支配    限取調御伺申上候様、尚又樽御役所ニて被仰渡候ニ付、此段御達申候、已上                            壱二四番組 肝煎〟    〈これは奉行所からの通達を受けて、名主がそれへの対応を地本問屋に示したもの。来春売り出す一枚絵・大小、摺り     上がったものも未だ板行に至っていない分もすべて奉行所へ差し出し、その指示に従えという通達である。もっとも     書物屋・地本問屋・板木屋等については、個別に差し出しては甚だ混雑するので、仲間内の行事のもとに集めたうえ     一括して伺いをたてよというのである。また仲間に入っていない素人の出版については、名主が取り調べて伺いをた     てるというのである〉  ☆ 寛政十二年(1800)  ◯ 正月十一日〔『江戸町触集成』第十巻 p376(触書番号10795)〕   〝  以書付申上候    旧臘廿五日花美成壱枚絵并大小翫拵候板行、右之品板木彫刻候もの、書物屋絵双紙屋其外商売人より誂    候者、素人より誂候も其名前相認、下絵ニ彩色を加へ摺立候形に致シ、右下絵ヲ以御奉行所え其都度々    御訴申上、御下知請彫刻可仕旨御役所ニて被仰渡候所、旧蝋之儀は及月迫当春売出候壱枚絵并絵双紙大    小之絵類、商売人は勿論素人より誂置候分、過半板行も出来、銘々奉伺候ては結句混雑も可仕趣ニ付、    絵双紙屋并板木屋共義も、内々は最寄ニて仲間も相極有之候ニ付、右仲間行事共より一手ニ御番所え御    伺ニ罷出、御下知奉請候、尤已来之儀は銘々当人共より直々御伺ニ罷出候様仕度奉存候、且又右御伺ニ    罷出候儀は、時々数多有之故、町役人共罷出候様ニてハ迷惑仕候儀も可有御座ニ付、当人ニ家主壱人差    添、御月番之御番所え斗罷出候様、御手軽ニ被成下候ハヽ一統難有奉存候、此段御聞済被成下候様仕度    申上候、已上      申正月十一日    南北小口肝煎名主共       樽御役所        右旧臘被仰渡候絵双紙類伺之儀ニ付、絵双紙屋并板木屋共より申聞候義も有之候間、前書伺書樽与左衞    門殿え差出候所、今日拙者共御同所え御呼、書面之通以来銘々当人ニ家主差添、御月番御番所え斗伺ニ    罷出候様、尤当人家主ニ候ハヽ、五人組壱人差添可罷出旨被申渡候間、此段御達申候     (中略)(未確認)      正月廿一日     組合肝煎〟    〈昨年末、板元自身がそれぞれ下絵を持って直接奉行所へ出版の伺い出すよう命じられたが、来春に向けて既に彫りあ     げたものも過半にのぼるし、また個々に伺っては混雑するので、内々仲間行事で極め(検閲)を行い、それを一括し     て奉行所に提出した。しかし今後は年末の通達通り板元自らが奉行所へ伺いをたてねばならない。ところが出版伺い     の件数は大変多いし、その度に町役人(名主)が対応しなければならないとなると、甚だ煩雑である。従って、板元     自身と家主の二人が奉行所に出頭してことが済むようにして頂ければ有り難いと、名主達が町年寄・樽屋を通して奉     行所へ要望したのである。これに対して町奉行は、板元が家主の場合、五人組から一人添えよと付け加えて、要望を     認めた〉  ◯ 二月一日〔『江戸町触集成』第十巻 p382(触書番号10806)〕   〝壱枚絵并翫ニ拵候大小之類、都て出板いたし候分ハ、其都度々御番所え可奉伺旨旧臘被仰渡候ニ付、当    人共直ニ御伺申上候儀ニ御座候、然ル処絵草紙問屋共之儀ハ、前々より内仲間相極、都て絵草紙之儀    ハ毎月両度宛仲ヶ間行事共立合、下絵相改出板仕来候義ニ付、右御伺之儀も右之通月々行事共下改仕候    上、行事共より一手ニ御伺申上候方、却て取締宜御座候間此段御聞済被成下度段、右行事共一同申立候、    勿論是迄之儀も都て仲間改印仕来候ニ付、是又仕来之通仕度、尤素人より誂候歟、其外差掛り候板行は、    一枚限りニも仲間行事より其都度々御伺申上候様仕候、依之此段御聞済奉願上候、以上        申二月朔日     壱弐四番組 肝煎り名主共      樽御役所        右之通昨朔日樽与左衞門殿え伺書差出候処、絵草紙問屋之儀ハ毎月行事より一手に相伺、尤素人より誂    候分、并差掛り候板行は、是又行事より其都度々伺ニ罷出候様、御同所ニて即刻被仰渡候間、此段御達    申候、以上                 二月三(ママ)日    一・二・四番組 肝煎〟    〈絵草紙問屋は以前から月二回、仲間が行事立ち合いのもと、稿本(本文+下絵)の改(アラタメ=検閲)を行っていた。従っ     て、奉行所への出版伺いの方も改に立ち合った行事が一括して行った方が良いのではないかという、名主たちの要望     である。これは昨年末緊急避難的に行った方法と同じである。正月の要望時になぜこの方法を提案しなかったのかよ     く分からないが、ともかく名主に続く、板元及び家主の負担軽減である。これも聞き届けられた。やはり板元自身が     個別に奉行所に伺いを立てるのは、板元はもちろんその都度同行せねばならない家主等にとっても煩雑・迷惑だとい     うのが、本音なのである。名主側もこの意を汲んで上申したのであろう〉  ◯ 三月一日〔『江戸町触集成』第十巻 p386(触書番号10814)〕   〝地本問屋一枚絵并摺物類、壱番組弐番組四番組肝煎懸ニ相成候ハヽ、寛政十二年申年二月廿七日、樽与    左衞門殿南北小口肝煎え被申渡候、一枚絵并摺物之類地本問屋より伺之義ニ付已来取計方之義、右ニ付    壱番組弐番組四番組肝煎ニて申合等有之、右申合等は同三月朔日小船町新道相模屋庄八方ニて寄合之上    取極候由、多田内氏控を借請左ニ留置       当二月廿七日、壱番組二番組四番組肝煎名主并地本問屋行事通旅籠町橋本屋吉兵衛、馬喰町弐丁目西む    ら屋与八、樽与左衞門殿え被相呼、壱枚絵并翫ニ拵候大小之類、都て新ニ出板いたし候絵品、其度々絵    草紙問屋行事共より一手ニ御月番御番所え伺済之上摺出売買仕度趣、当二月樽与左衞門殿え壱番組二番    組四番組肝煎より伺書差出候処、即刻伺之通可致旨被申聞候、然ル処右度々御番所え行事共伺ニ出候て    も、彼是迷惑も可致、且元来翫之品ニも有之、乍併伺ニ不及申訳ニは無之候得共、已来右新板之絵類可    相伺品も有之候ハヽ、先ツ掛り肝煎之内え差出見極を請、肝煎方ニて許容致候程之絵類ハ摺出可申、尤    肝煎ニて難見極類は肝煎より月番町年寄衆え相伺、否は絵双紙問屋え申聞可遣候、尤右一同呼出し有之    候地本問屋行事吉兵衛与八えも、右之趣委細被申渡、且右問屋之外、素人直々ニ何ソ如何敷新板類差出    候ヲ及見聞候ハヽ、先々取調為差留候様、問屋共ニて可取計、乍併此度被仰渡有之取計候抔、御権威ヶ    間敷儀決て無之様、乍去其義は差含勘弁致シ取計可申候    右区々ニ不相成様、掛り肝煎ニて申合候趣、樽与左衞門殿被申聞候事     但、書面一枚絵之内、此節御差留ニ相成候分は不洩様取集メ、地本問屋より差出し、板木削取絶板い     たし候上ハ、已来右之絵売買可致様曾て無之候、乍去差留之外ニも絵類、右ニ準候類も数多相見候ニ     付、若右之絵、見世売致候者共方ニ取錺置候得は、御差留之分、等閑之様ニも重て御沙汰有之候ては     以之外の義ニ付、縦令御差留無之候とも相慎申義ニ付、向後右ニ準し候絵様は望人有之節斗致売買、     平日は見世抔え錺置候義決て不致様、地本問屋より小売之者共方へ申遣、猥無之様申合可被致事      申二月    右之通被申渡候上は、一番組二番組四番組肝煎ニて取計候義ニ付、右三組ニて月番相立、右行事共より    新板下絵を以、月番方迄伺差出候ハヽ、非番両組之肝煎え相廻し、存寄区々ニ候ハヽ寄合ヲ掛評義可申    候、たとへ出板不苦絵品と相見え候共、三組肝煎一同為心得相廻し可申事。    右之通申合候、以上      寛政十二申年三月朔日    (下ヶ札)本文之通絵草紙一枚絵取計候上ハ、板木師迚も同様ニ付、素人より摺物類誂候ハヽ、是又右         板木師より下絵ニ彩色を加え差出、改を請彫刻可致事〟    〈新板の一枚絵・摺物(大小)の改(アラタメ=検閲)および出版伺いの方法がまた変わった。今までは地本問屋の行事が下絵の     改を行った後、それらを一括して奉行所に提出し、その上で町奉行の許可を求めるという方法をとっていた。しかしこれ     では行事がその都度奉行所に出向かねばならず甚だ煩わしい。恐らく奉行所にとっても負担なのであろう。そこで今後は     改掛り名主を設け、それに下絵を提出させ、そこで検閲させることにしたのである。改掛り名主は自ら見極めたうえで、     問題のないものはその時点で許可を出し、見極め難いものに限って町年寄経由で奉行所に上げるという方法にかえたので     ある。許認可の権限を改掛り名主にも与えたのである〉  ☆ 文化四年(1807)    ◯ 九月十八日〔『江戸町触集成』第十一巻 p219(触書番号11455)〕   〝卯九月十八日    絵入読本改掛始て被仰付候節      樽ニて被申渡肝煎通達有之                     上野町肝煎名主 源  八                     村松町同見習  源  六                     鈴木町同    源  七                     雉子町同    市左衞門    右は近年流行絵読本同小冊類年々出板致候分、行事共立合相改、禁忌も無之候得は、伺之上出板いたし    来候処、以来は改方申渡候間、入念禁忌相改、差合無之分は以来伺ニ不及、出板并売買共為致可申候     但、新板書物奈良屋市右衛門え相伺、差図請来候分は、都て是迄之通取計候様、書物問屋行事共え申     渡候間、可得其意候    右之通被仰渡奉畏候、下本草藁永留候ては出板之手後レニも可相成候間、成丈ヶ出情致し相改遣可申旨    被仰渡奉畏候、為御請御帳ニ印形仕置候、以上      文化四卯年九月十八日     右四人連印                     書物問屋行事共
   右は是迄新板絵入読本類草案差出候ニ付、伺之上差図仕来候処、今般右本改方懸り申付候間、已来当役    所え申出候ニ不及、行事とも立合相改候上、右改方名主え差出改を請、差合無之分ハ売買可致候     但、是迄奈良屋市右衛門方え差出、差図請候書物之儀ハ、都て是迄之通取計可申候    右之通被仰渡奉畏候、為御請御帳ニ印形仕置候、以上      文化四卯年九月        書物問屋 須原屋善五郎                          西村源六
   右之通樽与左衞門殿ニて被申渡候ニ付、喜多村奈良屋二軒并南北御用掛り、同定廻り方臨時廻方えも相    届候事      但、西之内四ッ切半切    今日拙者共儀樽【与左衞門方へ被相呼/御役所へ被相呼】近来絵入読本同小冊類年々致出板候分、改メ    方掛り被仰付候間、此段為御届申上候、      卯九月十八日         四人名前
    月番肝煎えも申遣候事    一 行事名前付三ヶ月目ニ拙者方え可被差出候事    一 新板草案之儀は不及申、板行出来候分共、最寄々ニて行事宅より都合宜所え可被差出事    一 書物屋惣名前書、当月中ニ拙者共え銘々可差出事    一 書物屋増減又行事替候ハヽ、是又其時々銘々え可被相届候、以上      卯九月六日         絵本改掛り 肝煎名主      書物問屋九月掛り行事    一 書物屋行事より草案差出候ハヽ、入念早遂一覧、幾日差出シ幾日順達いたし候と申儀、廻状を以致      順達、留りより行事を呼、相渡可申旨申合候事      右之通申合候事    〈改(アラタメ)(検閲)担当の名主を絵入読本改掛りと名付け、佐久間源八・和田源七・村松源六・斎藤市左衞門の四名が     任命された。地本問屋の行事が自主的な改めを行った後、これら四名の「改掛」に出版伺いをたてよというのである〉
      以書付申上候    絵入読本同小冊類、是迄仲間行事改来、樽御役所え御伺御差図を請板行仕来候処、此度右役所ニて各方    改方掛り被仰付候ニ付、別て此上共禁忌は不及申、風俗ニ拘り候義ハ改仕、仲ヶ間中ニては不沙汰之品    一切売捌候儀無御座候得共、近来御当地糶本屋貸本屋共、私共え押隠出板流布仕、改方相洩、別て上方    ニて出板之絵入読本類は、私共仲ヶ間外之者え直ニ積送り候ゆへ、仲間改も不仕、不沙汰ニ売捌申候、    尤私共仲間規定ニて、仲ヶ間外之者共え上方より直積付取引決て致間敷旨、上方書物屋え前々より申談    置候、然処近来猥ニ相成、仲ヶ間外之者え直積致取引候得は、右躰之絵本読本は、私共吟味も行届不申、    且ハ問屋株之規模も無之、家業ニ相障難渋仕候、依之恐多義ニは御座候得共、私共仲間外之者共、猥ニ    出板改も不申受流布為仕候儀義は勿論、別て上方より荷物直積引請不申様御触被成下、且又上方書物屋    共えも、江戸仲間外之者えは決て荷物積送取引不致様、御慈悲を以被仰渡被下置候様、御願被成下候ハ    ヽ取締方宜義ニ奉存候、此段偏御願申上候、以上      文化卯四年十月        書物問屋九月掛り行事                          六人連印             絵本改掛り 肝煎名主衆中
   絵本読本同小冊類、御当地糶本屋貸本屋共方ニて、書物問屋行事共えも押隠し、内々出板流布仕候分も    御座候趣、別て上方筋へ前書糶本屋貸本屋共、其外え猥積下し勝手ニ売出、一統流布仕候分は数多ニて、    右躰之絵入読本ハ改方ニ相洩、其分禁忌御座候て、万一御察斗有之候ては奉恐入候旨、書物問屋行事共    別紙私共方え差出候間、則右書付写相添此段申上置候、已来右躰之義無之様、書物問屋行事共より御当    地糶本屋貸本屋共ハ不及申、別て上方筋積下候書物屋共えも、得と為及掛合候様申含置候得共、此已後    行届不申義も御座候ハヽ、其節申上候様仕度、此段兼て申上置候、以上      卯十月            絵入読本改懸り 肝煎名主共    (朱筆)書物屋より出候書面写は半紙竪帳、此方共より出候添書は西之内半切ニ認メ、和田斎藤両人        樽与左衛門え十月十五日致持參候へは、千次郎受取置候事
      一札之事    絵入読本同小冊類、私共仲ヶ間外之者共え上方筋より荷物直積并御當地仲間外ニて出板之品、行事改を    不請、近来猥ニ取引致候義有之、取締不宜ニ付、此上右躰之儀無之様仕度、右は御触流も有之候様仕度、    此段各方より御願被成下候様、此度私共より書付差出候処、右一条は先規仲間内規定も有之候ニ付、上    方筋并御当地仲ヶ間外糶本貸本屋共えも能々及懸合、得と取極メ可申、其上ニても行届兼候儀有之候ハ    ヽ、其節は御取計方も可有之段被仰聞候ニ付、此上我侭成取計不仕、新板物之儀ハ逸々私共方へ差出候    上、各方御改を請可申旨夫々申合セ、則別紙之通、仲ヶ間外御當地糶本屋貸本屋共、并上方直荷引受候    者共より私とも方迄一札取置候間、右写し差出申候、尤上方筋書物問屋えも直荷物積送申間敷段、追々    及懸合候間、是又取極次第書面写シ差出可申候、然上は向後行届可申奉存候得共、尚又私共精々心付、    紛敷絵入読本無之様可仕候、此段為御届申上候、以上      文化四卯年十月            九月懸り行事 六人連印             改懸り名主衆中    〈書物問屋の仲間行事から改(アラタメ)懸り(検閲担当)名主宛に出された上申である。仲間以外の糴売業者や貸本屋が     無届けの出版をしたり、上方から仕入れた板本を勝手に売り捌いているので、それを取り締まるようにとの要望であ     る。書物問屋から見ると、糴(セリ)売業者や貸本屋の動向が脅威になってきたということなのだろう。彼らは商売がら     直接顧客を相手にするから読者の嗜好を掴みやすい。つまり売れ筋の絵入読本を制作しやすい立場にいるのである〉
 ☆ 天保十二年(1841)  ◯ 十二月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p92)   〝去〈天保十二年〉十二月中、仲ヶ間・組合御差止〟    〈地本問屋の仲間・組合が解散させられた。しかしこの解散はその後、次ぎのような弊害をもたらした。以下の文面は     絵本類改(アラタメ)掛り名主から町奉行宛に出されたもの。なお解散時期については天保十三年三月とする文書もある。     天保十三年十一月、町年寄・館市右衛門の「絵双紙団扇改方之儀并壱枚絵彩色直段等相調申上候書付」という伺書の     中に〝当三月、仲間・組合相止候以来〟とある〉
  〝諸芸人名弘・浚会等口上摺絵柄有之分、是迄地本問屋共より草稿を以申出候間、絵柄子細無之分ハ数百    枚を限り、社中之外知人ニも無之世話人相頼、花会紛鋪儀不仕様、催主并席貸候茶屋共支配名主・組合    肝煎・世話掛り等へ相達、如何之儀も無之分ハ、南北三御廻り方へ御届之上、相催候仕来ニ御座候処、    仲間・組合御差止以後は、素人共勝手次第に誂請、地本問屋共同様之稼方仕候(以下略)〟    〈名弘め会やお浚いの会に配られる摺り物についてはこれまで取り締まりに手を焼いてきたのだが、仲間・組合の解散     によって、参入しやすくなった素人が勝手に注文を取り始めるなど、かえって統制が取れなくなってしまったようだ。     中には地本問屋同様の稼ぎ方をするものまで現れ始めたのというのである〉  ☆ 天保十三年(1842)    ◯ 六月四日付〔『江戸町触集成』第十四巻 p127(触書番号13642)〕   〝自今新板書物之儀、儒書仏書神書医書歌書都て書物類、其筋一ト通之事は格別、異教妄説等を取交え作    出、時之風俗人之批判等を認候類、好色画本等堅可為無用事    一 人々家筋先祖之事抔を彼是相違之儀共、新作之書物ニ書顕し、世上致流布候義弥可為停止事    一 何書物ニよらす、新板もの作者并板元之実名、奥書ニ為致可申事    一 只今迄書物ニ、権現様御名出候儀相除候得共、向後急度致たる諸書物之内押立候儀は、御名書入不    苦候、御身之上之儀、且御物語等之類は相除、御代々様御名諸書物ニ出候義も、右之格ニ相心得可申旨、    享保度相触置候所、都て明白ニ押出し世上ニ申伝へ、人々存居候義は、仮令御身之上御物語たり共、向    後相除候ニ不及候     但、軽キかな本等之類は只今迄之通り可相心得候      右之外暦書天文書阿蘭陀書籍翻訳物は勿論、何之著述ニ不限総て書物板行致候節、本屋共より町年寄館    市右衛門方へ可申出候、同人より奉行所え相達、差図之上及沙汰候筈ニ付、紛敷儀決て無之様可致候、    且又彫刻出来之上は一部宛奉行所え差出候、若内証ニて板行等致ニおゐては、何書物ニ不限板木焼捨、    懸り合之者共一同吟味之上、厳重之咎メ可申付候    右之通町中不洩様可触知もの也      六月      右之通従町御奉行所被仰渡候間、町中家持借家店借裏々迄不洩様早々可相触候      六月四日          町年寄役所〟    〈町奉行の基本方針は享保七年の触書と同じだが、問屋仲間の解散もあって、出版の手続きが変更になった。行事を介す     ことができなくなったので、板元は直接町年寄・館市右衛門へに申し出て、奉行所の許可を受けよというのである。町     触には「本屋共より町年寄館市右衛門方へ可申出候」とあるが、言うまでもなく、実際に検閲するのは書物と絵草紙の     改(アラタメ)懸り名主であるから、名主を経由して町年寄へということになる。そして許可された場合は、版木の彫刻が出     来次第、見本を奉行所へ差し出して、再チェックを受けること、もし無断で摺って出版した場合は、板木を焼き捨て関     係者を厳罰に処すとした〉  ☆ 天保十四年(1843)  ◯ 六月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十八「書物錦絵之部」p109〕    (町年寄・館市右衛門の町奉行宛伺書)   〝此度被仰付候絵双紙懸六人書物掛り兼帯之儀奉伺候書付     館市右衛門                    【書物懸り/絵双紙懸り】名主 南伝馬町(高野新右衛門)                                外三人    右は、錦絵・団扇絵改方之儀ニ付、先達て奉伺候処、今般神田佐久間町名主(吉村)源太郎外五人、絵    双紙懸り被仰付、私共申合可相勤旨被仰渡奉畏候、右ニ付、是迄私共儀、書籍懸り兼帯相勤来侯間、前    書源太郎外五人之者共、同様書物掛り兼帯被仰付被下候様仕度段、申上侯     (朱書)此書物掛り之儀は、去々丑年(天保十二年)遠山左衛門尉殿御勤役中、伺之上絵双紙掛り七     人之内より三人初て書物懸り被申渡候処、去寅年(天保十三年)書物之儀、不残伺出候御仕法ニ相成     候ニ付、猶又御同人え伺之上、同年十一月絵双紙懸り之者不残書物懸り兼帯申渡仕候    右書面之通ニて、是迄書物懸り・絵双紙懸兼帯相勤候ニ付、此度被仰付候源太郎外五人儀も、書物懸り    兼帯申渡候様仕度、依之此段奉伺候、以上      卯(天保十四年)六月〟    〈書物懸りと絵双紙懸りの兼任は天保十二年に始まり、この年、絵双紙懸りの名主七名の中から三人が任命された。翌十     三年十一月には、同年六月の検閲体制の変更に伴い、三名では不足だとして、七名全員が兼任することになった。そし     て今年十四年六月、更に吉村源太郎外五人都合六人が絵双紙懸りに任命されるともに、書物懸りを兼任することになっ     た。天保十二年は高野新右衛門・大塚五郎兵衛・普勝伊兵衛の三名。天保十三年十一月、竹口庄右衛門・和田源七・渡     辺庄右衛門・村田佐兵衛が加わり七名となる。そして今回六名が絵双紙懸りに任命され直ちに書物掛り兼任となる。そ     の六名うち一人は神田佐久間の名主吉村源太郎であるが、その他の五人が分からない。参考までに石井研堂の『錦絵の     改印の考証』を見ると、名主の単印の時代(天保十四卯年(1843)~弘化四未年(1847))の改(アラタメ)(検閲)懸りの名主     の名が出ているので参照したい。    ◯普勝伊兵衛  小網町一丁目    村田平右衛門 浅草平右衛門町   ◯竹口庄右衛門 品川町     田中平次郎  加賀町       衣笠房次郎  白山前町       村松源六   村松町     浜弥兵衛   浅草茅町一丁目   米良太一郎  麻布町       ◯高野新右衛門 南伝馬町    ◯吉村源太郎  神田さくま町四丁目 福島儀右衛門 新乗物町       馬込勘解由  大伝馬町二丁目    ◯渡辺庄左衞門 高砂町    ◯印のない名主の中に「外五人」に該当するものがいるのだろう〉  ◯ 十月二十三日〔『天保撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p345〕   〝天保十四年十月廿三日、町年寄館市右衛門より絵双紙掛名主共え申渡    向後狂歌、発句、怪談、遊話之類、香、茶、挿花、碁、将棋、包丁料理等之書冊、新刻之義は草稿書冊    え御奉行所押切印被成下候段、其外去ル十三日御差図之趣、書物懸りえ申渡追々御取締相立候ニ付ては、    是迄絵草紙懸り之方ニて相改候心得之廉々(カドカド)、以来左之通相心得可申候、      草書本類    一 和漢絵本・軍書之類      但、冊数多く、且認方ニ寄書物之廉ニ相心得候趣、兼て申出有之候え共、自今は全く草双紙は絵双      紙懸り名主手限改ニ仕、都て綴本ニ仕立候分は伺出御差図受可申候、尤下改いたし如何ニ被存候品      は、伺不及差止可申候      〈今後、すべての草双紙は、改(アラタメ)懸りの名主の「手限」に任せる。手限(テギリ)とは、上の裁断を仰がず、自己の       責任で判断すること。無論判断をつかないものについては、町年寄に伺いを立て奉行所の裁定を仰ぐことになるの       であるが、検閲の権限が名主に委ねられたのである。「綴本」はすべて伺いを立てその差図を受けることとあるが、       綴本とは何かよく分からない。また下改めの段階で如何(イカガ)と判断した場合は伺うまでもなく禁止にすること〉    一 戯作物      綴本著述之類、都て怪談、遊話之廉ニ候ハゝ、可伺出、候様申渡、尤風俗等ニ不拘類ハ是又伺不及      差止候      〈怪談や遊話は伺いを立てること、尤も風俗に拘わる本は伺うまでもなく禁止。なお「遊話」がよく分からない〉    一 絵入狂歌類      去ル十三日申渡候廉有之候ニ付、可伺出候      〈絵入狂歌は伺を立てること〉    一 壱枚摺絵図之類      是は国図又は格別細密ニ認候品は可伺出候、一ト通道中記、江戸絵図之如キ品は懸り名主手限改ニ      て可然哉      〈一枚摺の絵図の内、国図や特別細密に認めたものは伺いを立てること。普通の道中記や江戸絵図のようなものは改       (アラタメ)懸り名主の判断に任せる〉    一 都て手本・往来物等之類 絵本名所之類      此分凡有来之類ニ候はゝ、懸り名主手限ニて改可申候      〈ありきたりのものは、これまた改懸り名主の自己判断に任せる〉    一 絵双紙 壱枚絵 都て草双紙と唱候品      是は、追々被仰渡候趣相心得、懸り名主手限ニて相改可申候      〈絵双紙・一枚絵も改懸り当名主の手限となった〉    右之通相心得、絵双紙掛り月番之者取調、勿論都て何品ニよらず、見極難決品は可伺出候    右之通町奉行所御差図を以、申渡候、此旨相心得可取扱候      卯十月〟 ☆ 弘化三年(1846)  ◯ 閏五月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p12〕   (南町奉行所、隠密廻り同心風聞書)   〝錦絵改方之儀ニ付申上候書付       隠密廻    錦絵・草双紙之儀ハ、禁忌之絵柄・文段等無之為メ、名主共之内御用立候もの相撰、絵双紙懸被仰付、    銘々申合月番相立置、板元等下絵持参候得は、見改候上禁忌之儀無之候得は改印いたし、彫刻為致候仕    来ニて、御改革ニ付歌舞妓役者似顔絵は御差留有之候処、近来男伊達抔と名付多分似顔絵有之、其上流    行之儀は認申間鋪処、当時流行之事のみ錦絵ニ差出、絵草紙掛之詮も無之、右故自ラ風聞等受候次第ニ    も成行、改方等等閑之儀ニ付密々取調候処、右懸名主共之内高砂町渡辺庄右衛門儀は、両三年以来より    中風之様子ニて、役用之儀若年之悴え任せ置候間、禁忌之改之無之、下絵持参候得は望之場所え改印致    遣候間、板元共多分庄右衛門月番を相待下絵差出、既里雀ねくら之仮宅より申絵ニは、衣類之紋所ニ改    印相用、戯レ同様之儀ニて御取締ニ相成不申、右等を其侭被差置候ハゝ、外名主共えも押移、都て役用    向杜撰ニ可相成奉存候、依之、庄右衛門改印有之歌舞妓役者似顔ニ紛敷品并流行之絵類相添、此段申上    候、以上〟    〈最近、禁忌の役者似顔に紛らわしいものや、現在流行のものを題材にした錦絵が出回ってる。検閲が等閑になっ     ているせいである。特に高砂町の名主・渡辺庄右衛門の改(アラタメ)には問題がある。当人中風を患っているため伜     に改を代行させているが、禁忌のものを検閲する様子もない。また改印も下絵の望む箇所に押してくれるので、     たくさんの板元連中が渡辺の月番を待っているくらいだ。「里雀ねくらの仮宅」なる錦絵では改印を衣類の紋所     にするなど戯れて一向に取り締まらない。この報告書を受けた町奉行は早速渡辺庄右衛門を更迭した〉  ◯ 十一月〔『大日本近世史料』「市中取締類集」十九「書物錦絵之部」p42〕   (町年寄・館市右衛門の町奉行宛伺書)   〝兼て掛り名主共相願候ハ、一体絵双紙・壱枚絵共改方之儀、下絵ニて改印いたし遣し、猶又彫刻摺立候    品差出し、見届受売捌可申処、近来右渡世筋之者下潜したし、名主共え見本絵不差出以前売散し、日数    過キ差出、其品ニ寄下絵違ひ等為相直候内、最早市中売出し候儀間々有之、名主共手限と見掠候仕成ニ    も被存、取示方甚心配仕候、去ル寅年(天保十三年)六月、絵類・絵双紙御取締被仰出、歌舞妓役者・    遊女・女芸者等開板致間鋪段、於北御役所被仰渡、猶又翌卯年(天保十五年)五月、子供踊遊と名付歌    舞妓狂言ニ紛敷、向後団扇絵其外都て右絵組ニては捌ケ方不宜より右躰下潜売出し候者等可有之哉、全    役者似顔・遊女・女芸者・其外風俗ニ可拘品ニ無之其余踊形容認位之処は、掛り名主共改印致し遣し候    ハゝ、渡世向も行立下潜商ひ等不仕、却て取締方可然哉、御賢慮奉願候旨兼て申立候    右之通ニ付、猶勘弁仕候処、絵草紙、壱枚絵共自然潤色趣安く、右名主共差略御沙汰難被及哉、是迄改    方手心も可有之、寅年以来取締候絵双紙屋共渡世向、今更難行立儀ニも有之間鋪奉存候、且又、右掛り    名主共之義最初七人、其後明跡等有之、去ル卯年六月、鳥居甲斐守殿(忠耀、南町奉行)御差図以都合    拾人申渡候処、右之内猶又三人明跡出来、且、是迄月番壱人改印仕候趣ニ候得共、多端之内過失無之共    難申、此度左之者共御差加え     (下札 去ル卯年六月、掛り拾人申渡候内、同年十一月、南伝馬町名主(高野)新右衛門退役、         去巳(弘化二年)二月、加賀町同(田中)平四郎掛り役御取放、         当午五月、高砂町同(渡辺)庄右衛門右掛り御差免、都合三人相減申候)                     三番組 浅草平右衛門町 名主(村田)平右衛門                     四番組 青物町     名主(曽我)小左衞門                    拾壱番組 雉子町     名主(斎藤)市左衞門    右三人共組合世話掛相勤、出精仕候者ニ付、今般明跡絵双紙掛被仰付、右掛り都合拾人ニ相成候上は、    以来月番両人宛相立、下絵改印可仕旨被仰渡候ハゝ、猶更取締向可相成と奉存候、     但、是迄絵双紙掛り名主共書物掛り兼帯被仰付相勤候間、此度三人共同様書物掛り兼帯被仰付度、且、     書物之儀は都て私え差出、御月番御役所え奉伺候ニ付、名主共書物掛月番之方は、只今之通壱人つゝ     為相勤、可然奉存候、    右、依之此段奉伺候、為御見合当時掛り之者名前書、別紙相添申上候、以上      午(弘化三年)十一月     館市右衛門〟   〝当時相勤候【書物掛/絵双紙掛】名主名前書      一番組 小網町    (普勝)伊兵衛      二番組 村松町    (村松)源六      三番組 浅草茅町   (浜)弥兵衛      六番組 新両替町   (村田)佐兵衛      拾番組 麻布谷町   (米良)太一郎     拾弐番組 神田佐久間町 (吉村)源太郎     拾四番組 小石川白山前町(衣笠)房次郎〟    〈これは町年寄館市右衛門の町奉行宛上申書。改(アラタメ)方法に関する提言である。絵草紙・一枚絵とも、下絵の段     階と彫り摺りのなった見本絵の段階を経て販売されることになっている。ところが、最近、見本絵を提出する前     に売り始め、その後数日して提出するものがいる。下絵と違う所を直させる前に既に売っているのである。これ     は検閲が懸り名主の裁量次第と見て、ごまかそうというやり口とも思われ、甚だ心配であるという内容である〉  ☆ 嘉永四年(1851)    ◯ 三月(「諸問屋名前帳」『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p512〕   〝諸問屋名前帳    此度問屋組合之儀、文化以前之通再興被仰付、御調之上地本双紙問屋現在人数名前帳奉差上候、已後月    行事を立、兼て被仰渡候風俗等ニ拘候絵物合巻双紙類無之様急度相守、開板取締向之儀は是迄之通相心    得掛り名主中改請可申候、向後加入並譲為休業共、其時々奉願御差図受可申候      嘉永四亥年三月〟    〈天保十二年(1841)十二月、改革によっって解散させられた地本問屋の組合の再興である。月行事を立て、風俗等     にかかわる出版をしないようにすること。改(アラタメ)(検閲)については絵草紙掛りの名主がこれまで同様行うと     した〉   <明治以降(1868~)>    明治元年(1867) 町年寄制度廃止    明治二年(1869) 開板申請は管轄府県庁を通じて行政官に行い、官許を得る(1月)            名主制度廃止(3月)    明治五年(1872) 開板申請は文部省に行い、免許を得る    明治六年(1873) 株仲間解散令(書物問屋・地本問屋仲間(組合)の解散)            ただし行事による改(検閲)は継続    明治八年(1875) 免許制は廃止。出版人自ら事前に内務省に届け出ればよいとされる            行事の改は廃絶    〈以下は、嘉永四年(1851)三月の問屋仲間再興後から、明治八年(1875)の行事廃止に至るまで、その間の出板手続き   について述べたもの〉  ◯『徳川幕府時代書籍考』牧野善兵衛編 東京書籍商組合事務所 大正元年(1912)刊   (嘉永四年三月の問屋株仲間再興記事)   〝天保十二年、問屋及び株式の廃せらるゝや、書物問屋組合も瓦解せしも、此の再興に由て、又合して一    の組合となれり【当時は組合とは云はずして仲ヶ間と云へり】依て年行事なる者、再び興り【是を仲ヶ    間の再興と云ひ、是より以後、天保十二年問屋株式廃止発令前の書林を古株と云ひ、再興後加入せるも    のを新組と云へり】仲ヶ間中出板をなさんとする者は、年行事へ草稿と願書を出す【私宅】行事は月数    回行事の集会をなす、之を行事の寄合と云ふ(従前三組なりしを此時より一組となる)行事の任期は三    ヶ月にして、春夏秋冬の四期に分ち春行事夏行事と云ふ、何れも仲ヶ間内の門閥家又は功労ある人【何    れも古組の人】此の任に充つ(正副二人、副を添と云ふ)其の席にて草稿を検査し、且つ同業者中に類    似の書なきやをも調査し、若し類似の書あるときは、出願前甲乙をして示談せしむ、示談の上、先板主    へ出板の上百部又は二百部を無代にて与ふるの約をなす、之を分け立てと云ふ【分を立つるの意なり】    甲乙示談済の上は行事願書に奥書して出願す【町年寄館市右衛門役所へ】町年寄より是を町奉行所へ進    達し、奉行所之を学問所へ出す手続なり、諸藩は其の藩より、旗下の士は直接又其の頭支配より、諸藩    士又は旗下の士にても、書林を出板者となすときは書林行事の手を経るものとす、又書林仲ヶ間外に地    本問屋組合と称するものあり、是は書林組合と別にして錦絵を専業とし外地本【地本とは子供の持遊も    の、昔話桃太郎・猿蟹合戦又は敵物等の小品類】及び袋入と唱ふる田舎源氏の如きものを扱ふものなり、    此地本問屋と書物問屋と区別【江戸絵図又は日本絵図の如きは書林に続せり】錯雑し、嘉永年間大争    論起りしも書林勝を得たりと【地本問屋より書物屋を兼ぬる者はあれど、書物屋より地本屋を兼ぬる    者なし】而して学問所は差支なきものへは草稿の表紙に図の如き印を捺し、又図の如き附箋をなして    下附せらる、医学館後の蕃書調所も又是に同じ故に略す【印の寸法、附箋の寸法大略図の如し】      印「学問所改」 付箋「出板差許候刻成之上壱/部学問所エ可相納候」    右の許可を得たる上出板に着手し刻成の上出人より一部を行事に出す、行事之を館役所へ出し、役所よ    り奉行所を経て学問所へ納まる、此に至り行事より出板人へ西の内紙三分一の用紙へ書名を記し、末へ    右相改候間商売可被成候【寛政度の触書に照応せり】と記して附与す、出板人は此時又別に入銀帳なる    ものを持参す【此帳は式様なし各自の随意】之へ新板書籍の書名と定価を記し行事へ出す、行事此帳に    記せる書名の上へ行事改と云ふ印を押捺して附与す、出板人は此帳と見本とを以て、同業中へ新板の披    露をなし、買入を求む入用者は此帳へ買入部数を記載す、是新板発売の手続なり、此時行事は一定の伺    入用の外、其書一部の定価を取りて、之を組合の入費に充つ【行事は無給名誉職】此の制は維新後町年    寄は廃せられたるも行事は存続し、行事より地方庁へ出し地方庁は文部省【其の前は史官】へ出す手続    きは幕府時代と異ならざりき【行事に少し異例を生じたるも】明治八年、始て板権條例出づるに及び、    内務省の所管となり出板人より直接同省へ出すことゝなり、行事は終に用なきに至り廃絶せり、是徳川    時代より明治八年に至る書籍出板の手続なり〟