☆ 安政三年(1856)<六月>
筆禍『安政見聞誌』版本 画工 芳綱
処分内容 ◎板元 亀吉(絵双紙糴売) 所払
◎画工 一登斎芳綱 画料(金1両) 没収 過料五貫文
◎作者 一筆庵英寿 作料(金1両2分)没収 過料五貫文
◎板行摺 要助 摺・仕立料(金2両3歩・銀3朱)没収 過料五貫文
◎板木師 長次郎 彫代(金7両2分)没収 過料五貫文
処分理由 崩れた見附(江戸城門)を画いたこと
◯『藤岡屋日記』第七巻 p199(藤岡屋由蔵・安政三年六月記事)
〝地震安政見聞誌出板一件
本板元 日本橋元大工町、忠次郎店 三河屋鉄五郎
右者、馬喰町山口藤兵衛も少々入銀致し、初九百部通り摺込、三月下旬ニ出来致し、四月八日より売
出し、跡二千通り摺込、手間取十五日ニ上り、諸方ぇ配り候処、大評判ニて、四月廿五日、懸り名主福
嶋右縁より手入有之、五月七日ニ板木取揃候て、茶屋寿迄持出し候様申付置候処ニ、本売れ口宜敷候ニ
付、日々摺込致し、中々七日迄取揃上ル事不能、日延願致、十五日ニ寿へ持出し、明十六日、北御番処
へ差出し候積り之処、懸り石塚来らず故、猶予致し居候処ぇ、御差紙到来致候、是ハ十五日、北御奉行
井戸対馬守御登城之処、殿中ニて右本之御咄し有之、本御覧有之候ニ付、御退出之後、懸り名主呼出し
御尋之上、十六日御差紙ニて、十七日初呼出し、吟味懸り島喜一郎。
元大工町、由兵衛店
板元名前人 板行摺 要 助
画師 南伝馬町二丁目、長三郎店、芳綱事 清三郎
作者 八丁堀北島町、友七店、一筆庵英寿事 与五郎
板木師 小伝馬町上町、清三郎店 長次郎
一 但要助義、十七日手鎖被仰付候ニ付、翌十八日、大鋸町要助店絵双紙糶亀吉義、私板元之由名乗
出候ニ付、要助義手鎖御免ニて、家主預ケなり、亀吉は御証文預ケ。
一 同日 狂言師、梅の屋事 左吉
右者口画の達摩の事ニて、御呼出御尋ニハ、上より難渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなしとハ上
之思召ニたがひ候由御𠮟り、然ル処、右画ハ扇面へ書候を写し取られ候由申上候ニ付、御構無之。
一 画師芳綱ハ見附之崩れ候を書候ニ付、御叱り。
安政にならで地震がゆり出し
さて版元がうきめ三河や
六月二日、右一件落着
所払 大鋸町、要助店 板元 亀吉
画師 南伝馬町二丁目、長三郎店 芳綱事 清三郎
右者、画料金壱両御取上ゲ、五貫文過料。
作者 北島町、友七店 与五郎
右之者、金壱両二分作料御取上ゲ、五貫文過料。
板行摺 元大工町、由兵衛店 要助
右之者、摺、仕立手間、都合金二両三歩、銀三朱御取上ゲ、五貫文過料。
板木師 小伝馬上町、清助店 長次郎
右之者、彫代金都合金七両二分五取上ゲ、五貫文過料。
右、於北御番所被仰渡之。
六月二日〟
〈画工一登斎芳綱に対する処分理由は「見附之崩れ候を書候ニ付」とある。見附は幕府の城門、にも関わらず憚ること
もなく崩れ落ちた光景を画くとは不届き千万ということなのだろうか。ともあれ版本が大評判になったので、絵双紙
掛名主の抜き打ち調査が入ったとある。口絵の達磨に添えられた梅の屋の詠〝悟れかしこれぞ禅機の無門関ゆり崩れ
ては一物もなし〟に対して、表向きは禅の公案(無門関)めかして「本来無一物」といるが、実はこれに「上より難
渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなし」の意味を込めて、暗に幕府の救援策を風刺しているのではないかという疑
いを抱いたようである。絵草紙掛名主の福嶋は「絵柄不分様相認、人々ニ為考、買人を為競侯様之類」(よく分から
ない絵柄のもので、人々をして考え込ませ、競って買い求させるような類の絵柄。嘉永六年八月、国芳画「浮世又平
名画奇特」が問題になった時、取り締まりを強化すべきものとして、北町奉行・井戸対馬守が南町奉行・池田播磨守
宛に出した文書中にある)の絵柄と判断して摘発に踏み切ったのであろうか。しかしそれにしては入銀料を取って頒
布した板元の三河屋鉄五郎と山口屋藤兵衛は沙汰なしである。然るに自ら板元だと名乗り出た絵双紙糴売の亀吉は所
払に処せられ、作者と画工と彫師と摺師は手間賃没収の上に罰金が科せられた。(この亀吉と「本板元」の三河屋や
山口屋との関係はどうなっているのであろうか。三河屋と山口屋は亀吉を名目上の板元に仕立てたのではあるまいか)
北町奉行井戸対馬守がこの本を見て「板元名前人」の要助以下に召喚状を出したのは、内容に問題があると判断した
からなのだろうが、それならば頒布した三河屋と山口屋も対象になると思うのだが、どうなのだろう。なお『安政見
聞誌』の刊年を下掲の早稲田大学図書館の古典籍総合データベースは安政年間とし、国文学研究資料館の「日本古典
籍総合目録」は安政末年とするのであるが、『藤岡屋日記』の「安政見聞誌」にいう口絵に添えられた梅の屋の画賛
や芳綱の画く崩壊した四谷見附の図などの記事が、下掲のように『安政見聞誌』所収の図と符号するので、安政三年
三月の刊行とみてよいのではないだろうか〉
『安政見聞誌』 一筆庵英寿著・一勇斎国芳、一登斎芳綱画
(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)
〈「口絵の達磨」には梅の屋の詠で〝悟れかしこれぞ禅機の無門関ゆり崩れては一物もなし〟とあった。この「一物も
なし」が問題とされ、「上より難渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなしとハ上之思召ニたがひ候」と叱られたが、
梅の屋は扇面に認めたものを写し取られたと釈明して、咎を免れた〉
『安政見聞誌』「口絵の達磨」 一登斎芳綱?画
〈一登斎芳綱が御叱りを受けた「見附の崩れ候」画〉
『安政見聞誌』「四ッ谷見附」 一登斎芳綱画
〈「亀戸天神橋通横十間川筋柳嶋之図」中に、三代目歌川豊国(初代国貞)の家が画かれているので、示しておく〉
『安政見聞誌』「歌川豊国」宅 一登斎芳綱画
〈『安政見聞録』は一勇斎国芳や一鴬斎国周も画いているが、ほとんどが一登斎芳綱の作画である〉
◯『筆禍史』p160「安政見聞誌」(宮武外骨著・明治四十四年刊)
〝安政の江戸大地震記たる『安政見聞誌』は、仮名垣魯文と二世一筆庵こと英寿との合著なりしに、其筋
の許可を受けずして出版せしといふ科によりて絶版を命ぜられしなりと云ふ、尚著作の署名者英寿と版
元とは共に手鎖の刑に処せられたり、魯文は主として筆を執りしも、見聞誌に実際筆を執りしは貴公な
り、我は唯手助けせしに過ぎざるに、運悪くも署名せしため災難に逢ひたり、刑余の身とて誰も相手に
なしくれずとて、是を種に屡々無心に来りしは魯文も当時貧窮の身とて困じ果てたりと『仮名反故』に
記せり〟
〈一筆庵英寿の見聞記は上掲の『安政見聞誌』(芳綱・国芳画)。宮武外骨は野崎左文の魯文伝記『仮名反故』によって
『安政見聞誌』を一筆庵英寿と仮名垣魯文の合著とする。文の手助けをしただけにもかかわらず運悪く署名したために
手鎖に処せられたという英寿が、その後主筆であった魯文にしばしば金の無心に訪れたという記事である。なお『安政
見聞誌』の作者については、野崎左文から二説出されている、一つは仮名垣魯文説、もう一つは燕栗園(ササグリエン)千寿
(チホギ)説、前者は魯文の証言を根拠とし、後者はこの書の取り次ぎでもあった達磨屋五一(無物翁)の言に拠っている。
『増補 私の見た明治文壇』所収「仮名書魯文翁の自伝」参照。ところで大地震に関する見聞録は、他に安政三年七月
刊の『安政見聞録』がある。こちらはお咎めなしのようであるが、参考までに挙げておく〉
『安政見聞録』 一梅斎芳晴・鴬斎画 晁善(譱)(服部保徳)著
(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース)