Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ あんせいだいじしん 安政大地震 (筆禍)浮世絵事典
 ☆ 安政二年(1855)十月
 ◯『なゐの日並』〔新燕石〕③72(笠亭仙果・安政二年記)   (十月二日、安政の大地震)   〝五日、焼原方角うりも、やう/\にかずまさる(中略)焼場方角辻売漸しなまさりて、くわしきさまに    しるせるもみゆれど、みだり事おほし、二三種かふ〟   〝六日、品川屋久助、焼場方角附、あまた人して摺立をり、一ひらこひとりつ〟   〝七日、あさのほど玄魚をとふ、品川やのあつらへ、地震火事方角付の版下かきをり、のち品川や来り、    外にも図どもあつらふ〟     〈玄魚は梅素亭玄魚だろう〉   〝十一月二日、市中にて、心まかせにはゞかりなく彫刻しうりたる地震火事方角付の類、ならびに戯作の    一まい画の類の板、とりあげおくべきやう、行事(地本屋の)にかゝり名主よりいひつけらる、これに    よりて、かづ/\の板をとりあぐれど、いやます/\ほりもし、うり出しもして、品かず百数種にあま    る〟   〝五日、地震火事の彫刻もの、その数三百八十余種ありとぞ、その中に重板三四丁あり、山口藤兵衛の当    番にて、板をとりあぐるに、いまだ十の一ツ二ツなり、板木屋ども、これを禁ぜられては、当分の飢渇    しのぎがたし、一箇月も延引せさせ給はずば、いづかたへまゐりても強訴せんなど、いひさわぐよし、    さて/\あるまじき事なり〟   〝(同月)十日、きのふまで盛にかざりたてし、地震火災の画戯作もの、すべての商店こと/\く下へお    ろして、よのつねのにかへたり、こはあまりにかぎりなき事故、まづうち/\にて憚るべきよし、その    かたの人よりさたのありしなるべし、されど、猶下におきてうる中へ新板をくばる、彫工にあつらふる    もあめり、今は四百種にもおよぶべし、画の中にては、かしまの御神像をあまたの人拝する画と、くさ    /\の人ども大なまづをせめなやますかたぞ、はやく出て、うる事おびたゞしといへり、すべて重板お    ほくうるゝものは十板の廿板も増刻せしよし也〟    ☆ 安政二年(1855)<十一月~十二月>      筆禍 安政大地震に関する絵図・版本・錦絵 三百二十八点 画工未詳       処分内容 ◎板元 八十七板元 板木破毀 摺溜(在庫)没収                上州屋金蔵 (地本問屋世話役) 越後屋鉄次郎(問屋仮組)                山本屋平吉 (地本問屋世話役) 丸屋甚八  (地本問屋)                万屋吉兵衛 (地本問屋)    遠州屋彦兵衛(仮組問屋(ママ))                清水屋常次郎(仮組問屋)    湊屋小兵衛 (仮組問屋)                西村屋与八 (地本問屋)                以上の九板元は逮捕、吟味    ◯『【安政二乙卯十月二日】江戸大地震 下』(『藤岡屋日記』第十五巻所収)   ◇地震火事場所付の無断出版 ⑮611
  〝十月二日地震出火ニ付、無改物売ニ致候一件    一 十月二日大地震之後、同四日大伝馬町壱丁目品川屋久助と申者、江戸絵図ぇ焼失致し候場所を色差    ニ致、百文ニ付六枚ニ卸売致候処、殊之外売れ、摺間ニ合不申候や、馬喰町三丁目両国屋庄吉と申者壱    枚半続キ、大地震并出火場所と認候品売出し候処、是又存外ニ売れ、摺間ニ不合程之事ニて、両人共壱    万枚程づゝ摺り候由、是より出火場細見記抔と申半紙本、又は種々色々出板仕候処、追々売口も宜敷候    間、大錦或ハ絵図・大津絵節、其外数枚売出致候ニ付、絵双紙御掛りより行事ぇ申来り、早々右板木・    摺溜共取上ゲ可申旨被申付候ニ付、銘々板元ぇ右之趣申入候処、此節此品御取上ゲ相成候上は、暮し方    差支、難儀仕候ニ付、一同ニて御慈悲願可仕と銘々申候ニ付、三鉄(ママ)丸詰十月晦日渡世相休、両人共    板元へ参り、一同明十一月朔日ニ四日市梅屋と申水茶屋迄、御入来被下候様、銘々申置候。      十一月朔日晴天、板元廿壱人打寄、其節当行事より嘆願書差出可申筈ニ取極メ                                  行事 蔦屋吉蔵                                     辻屋安兵衛      〈震災後二日にして早くも地震方角付(被災図)が出回ったが、それが大いに持てはやされた。大伝馬町の品川屋久     助が江戸絵図に焼失場所を色付けにした摺物を、百文に付六枚(一枚約16文)で卸し売りしたところ、摺りが間     に合わないくらい売れたという。続いて馬喰町の両国屋庄吉の摺物も大評判を呼び、これも一万枚ほども売れたと     いう。以後、出火細見記などの半紙本など様々な出版をみたが、そろって良い売れ行きであった。それで大判錦絵、     絵図、大津絵節にしたものなどが、板元から行事(蔦屋吉蔵・辻屋安兵衛)に持ち込まれた。行事を通じて絵草紙     掛から出版許可を貰おうというのである。ところが案に相違して、絵草紙掛の名主は板元たちに板木と摺り溜めて     おいた商品の没収を命じた。しかしそれでは暮らしが成り立たないとして、十一月一日、二十一名の板元たちが寄     り合い、歎願書を提出することになった。以下はその嘆願書〉        其文左之通り      口上書を以、奉願上候    一 板摺職之者共奉申上候、此度地震之後、私共渡世之儀、問屋様方ニて御仕事無之、必至と難渋仕候    ニ付、無拠、御改無之候板木彫刻仕候処、一同奉恐候、然ル処今般御取上ゲニ相成候義、少も難渋可申    上様無之候得共、何分当時職業取続難候間、暫時之間御宥免被下置候様ニ、御掛様ぇ御歎願被下、御憐    愍之御沙汰被下度、一同奉願上候、以上。      卯十一月朔日                      板木摺職之者                                  願人一同連印      地本問屋 御行事衆中様      〈以上は摺師からの歎願。震災後仕事が無いので、生活のためやむを得ず改印のない品物に手を出したのだが、これ     は大変申し訳なく恐縮している。しかし今回取り上げについては、仕事の無いことでもあるし、大目に見て欲しい     という嘆願である〉      十一月二日、前書面行事ぇ可差出候処、一同及相談ニ候得共、□(ママ)合不仕候ニ付、書面差出不申候、    板木売残り相添、蔦吉ぇ同日差出申候ニ付、其時板木番数六拾九番也。     同三日より新物夥敷、諸々より売出し候ニ付、小売ニても改印有之候品ハ仕舞置、改無キ品計釣置、    余り増長致し候ニ付、当行事より同九日、行事蔦屋吉蔵、金次郎糴丸鉄、人形町・通町・浅草・下谷・    神田・両国辺絵草紙小売や見世、相廻ル。合行事辻屋安兵衛・糴山田屋覚蔵両人ニて、京橋・芝・赤坂・    麹町・四ッ谷・都て山の手不残、絵草紙屋小売見世、相廻ル。     右は今日中ニ売ニ致間敷旨、連印を請取候様、御掛りより申達有之候ニ付、問屋壱人・糴壱人ニ付て    売々致候者より印形請取候書面、左之通り、尤半紙横綴、下題左之通り。      〈嘆願書は十一月二日、行事に出されたが、相談がまとまらなかったかして、結局行事は絵草紙掛の名主に提出しな     かった。没収になった六十九の板木と摺物は行事の蔦屋吉蔵方に集められた。しかし翌三日から新物が大量に売り     に出された。しかも、小売見世の方は、改印のあるものは奥にしまって、無許可の品ばかり店先に釣るすといった     ありさまで、いっこう憚る様子もない。そして同月九日、ついに売買禁止の通達が出されので、行事と糴売りの二     人一組が二手に分かれ、市中の絵草紙小売見世すべてを廻って、次のような連判状を作成した〉          地震出火無改物之儀ニ付、一同連印    一 此節地震出火等之絵図、又は大錦ニ種々戯候品数多売々致候趣ニ付、右之類釣売先ニ今日中早々取    上ゲ差出し可申旨、北御廻り方より被仰渡候間、私共買置候分、一切残り分無御座、且以後決て釣売ハ    勿論、買入申間敷候、若向後壱枚たりとも取扱候儀有之候ハゞ、何様御申立ニ相成候共、一言之義無御    座候、依之為念一同印形仕置候、以上      卯十一月十日                      絵草紙屋                                  売々致候者 連印      右之通り、一同印形相調候、以上                                  夕方立還  蔦                                  五ッ時同断 辻      〈十一月十日付、絵草紙屋(小売見世)の誓約証文。在庫はすべて差し出した。今後は改印のない品物は一切取り扱     わないという内容である〉       十一月十五日、古組・仮組之者相招候廻文、左之通り。    一 以廻状を申上候。然ば御掛り名主衆より、無改之絵類之儀ニ付、各々方一同相招、急度御談可申旨    聞有之候間、依之明十六日正五時、通り三、寿と申水茶屋迄、無延引、自身御出可被成候、不参ニては、    御用向差支候間、右御心得、印形御持参御出可被成候、此段御達申上候、以上。      卯十一月十五日                     地本問屋  行事      右之通り相達候、明十六日寿ニて、連印致候文面、左之通り。      〈十一月十五日、行事(蔦屋吉蔵・辻屋安兵衛)は、明十六日、通り三丁目の寿(水茶屋)に、印鑑を持参して集ま     るよう、古組・仮組、新旧の地本問屋に招集をかけた。そして次のような証文を作成して押印して誓約した〉          連印一札之事    一 今般地震出火ニ付、絵図或ハ半紙本・錦絵等、無改之品、数板隠彫致し、中ニは問屋名目之者も、    職人又は素人名前ニ致し、猥ニ彫立候趣御聞込ニ相成、以之外不取締之義ニ付、古組・仮組共一同申談、    前々より無改之品取扱申間敷候事は勿論ニ候処、若心得違之者、兼て被仰渡定法等相背候儀ニ御座候ハ    ゞ、其節衆(ママ)外は不及申、何様御調ニ相成候共、一言之義無御座候、依之為後証、一同印形致置候、    以上。      十一月十七日      〈これは板元(問屋)たちの証文。今度の大地震大火事に関して、改印のない絵図・半紙本・錦絵を、職人や素人名     義で非合法に出版した問屋もあったが、今後は一切しないとの誓約である〉          一 右最初十一月朔日御察斗之節ハ、六十九番之処売買致間敷、連印致候上ニて、五貫文之過料出し候    得ば相済事と天上をくゝり、追々出板致し二百六十四両ニ相成候ニ付、御懸り御廻り方立腹致され、五    人手分致され、手先之者五六人宛召連、神田辺・下谷辺・日本橋・芝辺・馬喰町・浅草辺ニて、絵草紙    や九人被召捕、茅場町大番屋へ腰縄ニて連行、爰ニ一夜差置也、手先三十人も参り居候由、頭分豆店之    外。      十二月四日八ッ時過          北御廻り方 高部次郎左衞門                               大八木四郎二郎                               神田孫一郎                               鈴木伝兵衛                               新島鉄蔵       〈十二月四日付、北町奉行所の見廻り同心の報告書。十一月朔日、奉行所から察斗(咎め)があって、六十九種の作     品は売買禁止になったが、五貫文の罰金で済むならと高をくくって、なお無届け出版を続けるものがいる。そして     その売り上げは264両にも達している様子。これに絵双紙掛の名主と見廻り同心が立腹、高部次郎左右衛門以下、     五人の同心で手分けをして摘発してまわり、絵双紙屋九人を逮捕して茅場町の番屋へ腰縄付で連行した〉           御召捕ニ相成候者、左之通り。
    一 地本問屋世話役          上野元黒門町、家主 上州屋金蔵       高部様池端名主岡部氏迄、同人呼。     一 問屋仮組             池之端仲町、家主 越後屋鉄次郎       高部様右同断       前書金蔵儀、高部様御糺之節、私義当節暮し方難渋致し候ニ付、無拠、売々仕候趣申上候処、高部      様申候ハ、其方兼て被仰渡も乍相心得、問屋世話役も致て乍居、右様不埒事申候は、甚其心得違と      叱られ、初筆ニ相成候外八人之者ハ、一同奉恐入候と御答申上候故、子細無之候。      〈上州屋金藏と越後屋鉄次郎は池之端の名主岡部宅に召喚され、同心・高部の取り調べを受けた。その際、上州屋金     藏は、生活に困ってやむをえず売買に手を出してしまったと弁明したが、これが高部の不興を買って逆に叱責され     た。曰くその方通達も承知し、しかも地本問屋の世話役まで務めながら、そんなことを云うとは、心得違いも甚だ     しいと。他の八人はひたすら恐縮の態度を示したのでトラブルはなかった〉            一 地本問屋世話役          堀江六軒町、家主  山本屋平吉         神田様・鈴木様御両人ニて、当人を葺屋町自身番ぇ呼。     一 地本問屋             芝三島町、武兵衛店 丸屋甚八       右町名主益田弥兵衛方ニて、大八木様。     一 右同断              芝神明町、清助店 万屋吉兵衛       同所御同人様。     一 仮組問屋             通三丁目、文右衛門店 遠州屋彦兵衛       大番屋ニて、新島様。     一 右同断              神田鍛冶町壱丁目 清水屋常次郎       名主小藤氏ニて、高部様。     一 右同断              浅草並木町、弥七店 湊屋小兵衛       浅草広小路自身番ニて、神田様・鈴木様。     一 地本問屋             馬喰町弐丁目、庄右衛門店 西村屋与八       馬喰町一丁目自身番ニて、右御両人様。    右之者、此度地震出火之後、種々新板無改之品々出来仕、余り増長致候ニ付、絵草紙掛名主、并地本問    屋行事蔦屋吉蔵・辻屋安兵衛両家ニて、度々制候得共、内々売々致候ニ付、右品御買様ニ相成、即日前    書九人之者御召捕ニ相成、但十二月四日斗(ママ)事也、一通り茅場町大番屋ニて御立合御調ニ相成、同夜    所々近辺之自身番ぇ御預ケニ相成、同六日御掛名主・支配町々名主、御廻り方ぇ歎願書差上候、其文言、    左之通り。        〈山本屋平吉・丸屋甚八・万屋吉兵衛・遠州屋彦兵衛・清水屋常次郎・湊屋小兵衛・西村屋与八、名だたる地本問屋     の顔ぶれである。彼等の逮捕が十二月四日。それが六日には早くも以下のような同心宛の嘆願書が提出される。今     度は問屋のみならずそこの町名主および絵草紙担当の名主連名のものであった〉                                            名主より      御廻り方ぇ歎願差上候書面    今般地震并出火ニ付、品々心付致、無改之絵類彫刻致、売々候ニ付、私共取調、板木取上ゲ取計方御内    慮奉伺候分、是迄弐百六十四番有之、右様無改之品、地本問屋并仮組之者共猥ニ売買致し、増長致候間、    行事共ぇ厳敷取締方申談、行事共より仲ヶ間一同・小売者等迄、夫々取締方申談、連判証文有之、以後    仲ヶ間一同、右躰不取締之義無之趣、行事共より申立候、右証文之写相添、私共より御聞ニ入置候処、    今般御買様之上、上野元黒門町家主金蔵、八人之者共、御召捕ニ相成、無改之絵類取扱候始末、御尋請    ケ、以私共ニも深恐入、篤と取調候処、金蔵外八人、当人之義は兼て行事共より厳重ニ申談も有之、既    ニ証文調印致置候義ニ付、堅相慎、無改之絵類は此節人々買進じ候品故、銘々召仕之者共心得違仕、絵    草紙糴売之者共より買取、主人共ぇ内々見世ニて隠売致候を、御買様ニ相成候義ニて、実に主人共不存    義ニ有之候得共、右様召仕之者共、見世ニて隠売仕候を不心付罷在候段、不取締之故之儀、此上吟味ニ    相成候ては、当人は勿論、行事共ニおゐても重々奉恐入候、依之問屋仮組一同之者共打寄、跡々取締方    之儀猶厚申合、聢と規定取極メ、金蔵外八人之者共身分、別紙通御慈悲奉願候、右様跡々迄取締相立候    義ニ付、何卒此度之儀御憐愍之御沙汰被成下置候様、私共も此段奉願上候、以上。                                 上野黒門町 家主 金蔵                                       外八人                                 右支配町々 名主                                  絵草紙懸り名主共      卯十二月六日      〈震災関係の無届け出版物は二百六十四板にも及ぶ。これらを取り扱わない旨の証文まで差し出していながら、売買     したのは、使用人の中に不届きなものがいて、主人に内緒で隠し売りしていたからである。これに気付かなかった     のは監督不行き届きで恐れ入るほかないが、今後は地本問屋・仮組ともしっかりとした取り決めを行うから、今回     のことは寛大な取り計らいを頂きたい〉        嘆願書    一 地本草紙問屋両組一同奉申上候、私共仲間之者共、錦絵其外新板物彫刻渡世仕来り、改懸り名主中    之改印無之、不正之品、猥ニ彫立、隠売致候義、堅致間敷処、今般地震出火等之絵図・錦絵、無改之品    数多取拵、売々致間敷旨申談有之候間、一同仲間者共行事共方ぇ連印差出、其段申上置候処、上野元黒    門町家主金蔵外八人之者共、右売々致候ニ付、御買様之上、一同当月四日御召捕ニ相成、驚入、奉恐入    候、右は兼て一同連判仕置候間、金蔵外八人之者共義は、一切取扱申間敷候、地震絵類ハ此節人々買進    じ候品故、銘々召仕之者共心得違仕、絵草紙糴売之者より買取、主人共ぇ内々見世ニて隠売仕候ヲ、不    心付罷在、不取締故之儀、此上吟味等ニ相成候ては、当人は勿論、行事共一同重々奉恐入候ニ付、何卒    格別御慈悲を以、金蔵外八人之者身分、御憐愍之御沙汰一同奉願上候、以上。                                  地本問屋                                  同 仮組     前書金蔵外八人之者共、御召捕ニ相成、私共重々奉入候間、右様銘々取締も相立、猶精々私共も心付    可之候間、何卒御慈悲之御沙汰、偏ニ奉願上候。                                    石町家主 連印      卯十二月六日                                  五人組  連印    〈これは家主および五人組まで動員した嘆願書〉         右之通歎願書差上、絵草紙御懸り鈴木市左衞門様・馬込勘解由様外、名主様方格別之御骨折ニて、歎    願書差上候処、御廻り方御一存ニも難相成事と相見へ、北御番所様ぇ御伺ニ相成候処、数板出来致候ニ    付、此分ニは難差置候得共、地本絵双紙懸り名主其外、右支配町々名主共、并右町役人、地本問屋仮組    問屋一同相揃、以来取締方相立候趣、歎願致候ニ付、此度之儀は用捨致候間、小売者共迄行届候様可致    候条被仰付、一同大番屋より同日夜六ッ半時ニ、当人共引取申候、誠ニ以、前代未聞之事、江戸中絵草    紙ニ相携候者、壱人も心配不致者無之、別て当人共家内ニては、神仏を祈、親類打寄、誠以気之毒千万    之次第なり。      其節、落首       こわひ事冥途之旅の大番屋 売つたお方はあれごろうじろ       数多喰ふ鯰ニ九人当られる 板元仮宅へ遊びニ行けれバ       泥水へおよぎに行か鯰連 召捕ニ相成けれバ       味じの能き鯰が小手へからミつゝ 時刻も四ッニ入れるかや場町      〈この嘆願は同心の一存では決し兼ねるとして、町奉行の判断を仰ぐことになった。江戸中の絵草紙関係者が神仏に     祈り親類一同不安げに寄り集まって北町奉行の裁定を待った。このまま放置しておくことが出来ないものもあるが、     今後取り締まりを強化するということなので、今回のことは用捨する。問屋のみならずその町名主そして絵双紙掛     の名主まで動員した大規模な嘆願であった。これが功を奏したか、地本問屋九人の釈放が認められたのである〉                絵草紙屋渡世之者一同、無改之品売々致間敷旨、連印、右書面、左之通り    地震出火等之儀を、絵図或ハ錦絵ニ認メ、無改之品数多彫立、売々致候ニ付、御察斗有之、板木・摺溜    御取ゲ、右錦絵売出御差留之趣、問屋行事より、私共壱人別厳敷御談御座候処、委細承知仕、以来釣し    売は勿論、聊取扱申間敷旨、連判差出置候処、其後不得止事、隠売致候者御座候ニ付、既ニ当月四日北    御廻り方ぇ御買様ニ相成、上野元黒門町上州屋金蔵始メ、外八人御召捕之上、御吟味ニも相成之処、仲    間両組其外町役人迄、一同驚入、惣連判を以、種々御歎願奉願上候、以来右渡世之者、不取締之廉、聢    と相願候趣意取極メ申立候ハヾ、御慈悲之御沙汰にも可相成哉之旨、被仰渡候ニ付、向後地震出火等ニ    不拘、都て無改之品売買致し候者有之候ハヾ、親疎之無差別、銘々共吟味、穿鑿致候様仕候ハヾ、此上    不取締之儀有之間敷旨申上、御懸り名主中御執成を以、御召捕之者御免ニ相成候、然ル処、今以心得違    之者有之、右品仕舞置、尋参り候買人ニ寄、内々売遣し候者も有之哉と風聞御座候、以の外之儀ニ付、    猶亦今日私共一同ぇ御念ヲ入、御談御座候趣、篤と承知仕、私共隠売毛頭不仕、且近辺同渡世之者、若    内々取扱候義及聞候ハヾ、早速問屋行事ぇ申立候様可仕候、万一此上私共壱枚たりとも取扱候義相知、    何様御申立ニ相成候共、一言之義無御座候、依之再応連判差出候処、仍て如件。      卯十二月十日                       石町 絵草紙渡世     右之通書付、行事両人ニて為読聞、連印致し候、以上     其節壱人分茶代百文づゝ、凡百四十五人余参り候。      中ニは不参之者有之候、風聞也。                                   地本問屋行事 和泉屋市兵衛                                          蔦屋吉蔵    〈十二月十日、絵双紙屋が改印のない品物を売買しない旨の誓約書を提出した。これは地本問屋の行事が絵双紙屋一     同を集めて読み聞かせ、その場で押印させたもの。約百四十五人もの絵双紙屋が印を連ねたようだ〉                                                糴売渡世之者、無改之品売々致し候ニ付、一同連印書面、左之通り。    此節地震出火ニ付、絵図又ハ大錦之類、無改之品数板出来、御掛り衆より御察斗有之、板木・摺溜御取    上ゲ、御調中、猶亦隠売致候者、当月四日北御廻り方御様シ買上之上、既ニ九人御召捕ニ相成候処、御    仲間一同、町役人衆迄、惣連印を以御歎願ニ付、御掛り名主衆御執成被下候処、右渡世兼て被仰渡ニ候、    近頃不取締ニ相成候義、聢と相改候廉際立、此後不取締之儀無之様、行事衆は勿論、御仲間一同其外者    迄、正路ニ渡世相守候ハヾ、御宥免可被成下、御慈悲之御沙汰ニ付、依之惣連判署面差上、御聞済ニ相    成候処、今以買人寄、隠売致し候者御座候風聞御座候由、以の外之義ニて、再応御仲間并ニ小売先一同    連判を取、其筋ぇ御差出ニ相成候段、私共義は糴渡世之義、別て心懸ケ、万一無改之品被相頼候共、一    切取次売不仕、若内々ニて彫刻致候者有之候ハヾ、其板元、御行事へ無用捨早速申立候様、無油断可仕、    若等閑ニ致置候哉、取扱候義御聞取、御糺ヲ請ケ候節は、糴渡世御差構は勿論、何様御取計被成候共、    一言之義無御座候、依之為後日連印一札差上置候、仍如件。      十一月十日                        絵草紙糴売渡世 一同連印      〈これは糴(セリ)売りすなわち行商人一同の連印入りの証文である。内容は絵双紙屋と同じ〉           卯十一月二日より絵草紙問屋行事ぇ、無改之板木・摺溜取上ゲ候、当十二月十三日迄      一 惣番数            三百廿八番        絵図・半紙本・大錦其外 板元八拾七人      〈十一月一日、改印のない大震災関係の作品の板木六十九点とその摺溜が没収処分になった。以来約一ヶ月、無届け     出版は跡を絶たず、生活困窮のためお慈悲をもって大目にみて欲しいと嘆願しながら、一方で改印のない絵図・半     紙本・大判錦絵が相変わらず出回ったのである。十二月十三日迄に板木と摺留が没収になった数は三百二十八点、     板元は八十七名に及んだ〉           卯十二月十三日、通三丁目寿と申水茶屋ニて、絵草紙御掛り名主馬込勘ヶ由様・益田弥兵衛様御両人、     并地本問屋行事立合、板元当人、家主同道ニて、被参候。    一 私共義、今般地震出火ニ付、種々思附致、無改之絵類彫刻、売捌候趣、入御聴、板木・摺溜共御取    上ゲ始末御糺受、奉恐入候、此節私共地震ニ付、家作震潰、又は及大破、家族共怪我致し候者有之、難    渋仕候折柄ニ付、地震之絵類彫刻、売捌キ候ハヾ、差向利潤ニも可相成と心得違仕、不宜とハ存候得共、    各々方御改も不請、右絵類彫刻、売捌候儀、相違無御座候、然共絵類之義ニ付てハ、兼て前々より被仰    渡も有之候処、右躰猥ニ彫刻致、売捌候段、無申披、重々不埒之至、奉恐入候処、此度之義は各方格別    之思召を以、御手切ニて、御聞済被成下、摺溜御取上ゲ、板木削去、以来右躰無改之品、急度取扱申間    敷旨被仰聞、奉畏候、為後日、仍て如件。      十二月      安政二卯年十二月十三日、十四日両日、寿ニて板木削去。      絵草紙懸り名主立合。     右削り候板木、凡四車も有之候、其内用立不申板木は打割、役ニ立板木ハ此時之行事へ取上ゲ、目出     度事済ニ相成候。      卯十二月十四日落着         押へても鯰の絵だけつかまらず       尻尾は絵懸り鹿島でハ頭を押へ       板元が名代を出す地震の絵       鯰之絵だけぬらくらと尻を出し       絵草紙屋鯰の味を今度知り       此頃の摺や鯰で飯を喰ひ       尻が出て鯰蛙とせりハしやれ〟      〈日本橋通三丁目の寿という水茶屋に絵草紙掛名主立ち合いのもと、車四台にも及んだという板木と商品は、それぞ     れ破毀・没収となった。これで十月二日の大地震に関する無断出版騒動の一件は取りあえず落着した。「板元が名     代を出す地震の絵」「絵草紙屋鯰の味を今度知り」「此頃の摺や鯰で飯を喰ひ」「尻が出て鯰蛙とせりハしやれ」     とはその折の落首。安政の大地震で江戸は壊滅的な被害を受けたが、板元・絵双紙屋・糴売り・彫り摺りの職人た     ちにとっては糊口を凌ぐ糧となったようである〉    ☆ 安政三年(1856)<六月>      筆禍『安政見聞誌』版本 画工 芳綱       処分内容 ◎板元  亀吉(絵双紙糴売) 所払            ◎画工  一登斎芳綱 画料(金1両)  没収 過料五貫文            ◎作者  一筆庵英寿 作料(金1両2分)没収 過料五貫文            ◎板行摺 要助 摺・仕立料(金2両3歩・銀3朱)没収 過料五貫文            ◎板木師 長次郎   彫代(金7両2分)没収 過料五貫文       処分理由 無許可出版 崩れた見附(江戸城門)を画いたこと    ◯『藤岡屋日記』第七巻 p199(藤岡屋由蔵・安政三年六月記事)   〝地震安政見聞誌出板一件      本板元             日本橋元大工町、忠次郎店 三河屋鉄五郎     右者、馬喰町山口藤兵衛も少々入銀致し、初九百部通り摺込、三月下旬ニ出来致し、四月八日より売    出し、跡二千通り摺込、手間取十五日ニ上り、諸方ぇ配り候処、大評判ニて、四月廿五日、懸り名主福    嶋右縁より手入有之、五月七日ニ板木取揃候て、茶屋寿迄持出し候様申付置候処ニ、本売れ口宜敷候ニ    付、日々摺込致し、中々七日迄取揃上ル事不能、日延願致、十五日ニ寿へ持出し、明十六日、北御番処    へ差出し候積り之処、懸り石塚来らず故、猶予致し居候処ぇ、御差紙到来致候、是ハ十五日、北御奉行    井戸対馬守御登城之処、殿中ニて右本之御咄し有之、本御覧有之候ニ付、御退出之後、懸り名主呼出し    御尋之上、十六日御差紙ニて、十七日初呼出し、吟味懸り島喜一郎。                      元大工町、由兵衛店       板元名前人               板行摺        要 助       画師            南伝馬町二丁目、長三郎店、芳綱事 清三郎       作者           八丁堀北島町、友七店、一筆庵英寿事 与五郎       板木師                小伝馬町上町、清三郎店 長次郎      一 但要助義、十七日手鎖被仰付候ニ付、翌十八日、大鋸町要助店絵双紙糶亀吉義、私板元之由名乗    出候ニ付、要助義手鎖御免ニて、家主預ケなり、亀吉は御証文預ケ。       一 同日                     狂言師、梅の屋事 左吉     右者口画の達摩の事ニて、御呼出御尋ニハ、上より難渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなしとハ上    之思召ニたがひ候由御𠮟り、然ル処、右画ハ扇面へ書候を写し取られ候由申上候ニ付、御構無之。     一 画師芳綱ハ見附之崩れ候を書候ニ付、御叱り。        安政にならで地震がゆり出し          さて版元がうきめ三河や        六月二日、右一件落着       所払               大鋸町、要助店 板元  亀吉         画師          南伝馬町二丁目、長三郎店 芳綱事 清三郎     右者、画料金壱両御取上ゲ、五貫文過料。            作者                   北島町、友七店 与五郎     右之者、金壱両二分作料御取上ゲ、五貫文過料。             板行摺                元大工町、由兵衛店 要助     右之者、摺、仕立手間、都合金二両三歩、銀三朱御取上ゲ、五貫文過料。            板木師                小伝馬上町、清助店 長次郎     右之者、彫代金都合金七両二分五取上ゲ、五貫文過料。     右、於北御番所被仰渡之。      六月二日〟    〈画工一登斎芳綱に対する処分理由は「見附之崩れ候を書候ニ付」とある。見附は幕府の城門、にも関わらず憚ること     もなく崩れ落ちた光景を画くとは不届き千万ということなのだろうか。ともあれ版本が大評判になったので、絵双紙     掛名主の抜き打ち調査が入ったとある。口絵の達磨に添えられた梅の屋の詠〝悟れかしこれぞ禅機の無門関ゆり崩れ     ては一物もなし〟に対して、表向きは禅の公案(無門関)めかして「本来無一物」といるが、実はこれに「上より難     渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなし」の意味を込めて、暗に幕府の救援策を風刺しているのではないかという疑     いを抱いたようである。絵草紙掛名主の福嶋は「絵柄不分様相認、人々ニ為考、買人を為競侯様之類」(よく分から     ない絵柄のもので、人々をして考え込ませ、競って買い求させるような類の絵柄。嘉永六年八月、国芳画「浮世又平     名画奇特」が問題になった時、取り締まりを強化すべきものとして、北町奉行・井戸対馬守が南町奉行・池田播磨守     宛に出した文書中にある)の絵柄と判断して摘発に踏み切ったのであろうか。しかしそれにしては入銀料を取って頒     布した板元の三河屋鉄五郎と山口屋藤兵衛は沙汰なしである。然るに自ら板元だと名乗り出た絵双紙糴売の亀吉は所     払に処せられ、作者と画工と彫師と摺師は手間賃没収の上に罰金が科せられた。(この亀吉と「本板元」の三河屋や     山口屋との関係はどうなっているのであろうか。三河屋と山口屋は亀吉を名目上の板元に仕立てたのではあるまいか)     北町奉行井戸対馬守がこの本を見て「板元名前人」の要助以下に召喚状を出したのは、内容に問題があると判断した     からなのだろうが、それならば頒布した三河屋と山口屋も対象になると思うのだが、どうなのだろう。なお『安政見     聞誌』の刊年を下掲の早稲田大学図書館の古典籍総合データベースは安政年間とし、国文学研究資料館の「日本古典     籍総合目録」は安政末年とするのであるが、『藤岡屋日記』の「安政見聞誌」にいう口絵に添えられた梅の屋の画賛     や芳綱の画く崩壊した四谷見附の図などの記事が、下掲のように『安政見聞誌』所収の図と符号するので、安政三年     三月の刊行とみてよいのではないだろうか〉
   『安政見聞誌』 一筆庵英寿著・一勇斎国芳、一登斎芳綱画     (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)
   〈「口絵の達磨」には梅の屋の詠で〝悟れかしこれぞ禅機の無門関ゆり崩れては一物もなし〟とあった。この「一物も     なし」が問題とされ、「上より難渋之者へ御救ひ等被下候ニ、一物もなしとハ上之思召ニたがひ候」と叱られたが、     梅の屋は扇面に認めたものを写し取られたと釈明して、咎を免れた〉
      『安政見聞誌』「口絵の達磨」 一登斎芳綱?画
   〈一登斎芳綱が御叱りを受けた「見附の崩れ候」画〉     『安政見聞誌』「四ッ谷見附」 一登斎芳綱画
   〈「亀戸天神橋通横十間川筋柳嶋之図」中に、三代目歌川豊国(初代国貞)の家が画かれているので、示しておく〉
    『安政見聞誌』「歌川豊国」宅 一登斎芳綱画
   〈『安政見聞録』は一勇斎国芳や一鴬斎国周も画いているが、ほとんどが一登斎芳綱の作画である〉    ◯『近世列伝躰小説史』下 水谷不倒著 春陽堂 明治三十年(1897)   (国立国会図書館デジタルコレクション)    「仮名垣魯文」野崎左文著    〝此年(安政三年)「安政見聞誌」三冊を出版す。二世一筆庵英寿と魯文二人の合著なりしが、公儀の許可    を得ずして出版せし科にて、版元と英寿とは手錠となりしも魯文は署名せざりし為めに、其罪を免がれ    たり、刑満ちて後ち英寿来り、見聞誌はお前が九分まで筆を取り、私はホンの手助けを為せし迄なるに、    名を署せしばかりで此災難に遭ひたりとて愚痴をこぼし、夫にかこつけて屡々無心に来りたれど、固よ    り常には一朱の蓄へもなき魯文なれば、是にはほと/\困じ果てタリとぞ〟(298/322コマ)    〈『安政見聞記』の本文は九割かた仮名垣魯文が書いたが、署名しなかったために咎めなし。文量一割にもかかわらず     署名した英寿は手鎖の刑に処せられた〉  ◯『筆禍史』p160「安政見聞誌」(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝安政の江戸大地震記たる『安政見聞誌』は、仮名垣魯文と二世一筆庵こと英寿との合著なりしに、其筋    の許可を受けずして出版せしといふ科によりて絶版を命ぜられしなりと云ふ、尚著作の署名者英寿と版    元とは共に手鎖の刑に処せられたり、魯文は主として筆を執りしも、見聞誌に実際筆を執りしは貴公な    り、我は唯手助けせしに過ぎざるに、運悪くも署名せしため災難に逢ひたり、刑余の身とて誰も相手に    なしくれずとて、是を種に屡々無心に来りしは魯文も当時貧窮の身とて困じ果てたりと『仮名反故』に    記せり〟   〈仮名垣魯文と一筆庵英寿合作の見聞記とは上掲の『安政見聞誌』(芳綱・国芳画)。単なる文の補助でしかないのに、署    名を残したゆえに手鎖に処せられた英寿、刑終了後、しばしば魯文を訪れては金の無心に及んだという、この記事、お    そらくは上掲『近世列伝躰小説史』所収、野崎左文の魯文伝記「仮名垣魯文」によったのであろう。(宮武外骨の『仮    名反故』は不明)なお『安政見聞誌』の作者については、野崎左文から二説出されている、一つは仮名垣魯文説、もう    一つは燕栗園(ササグリエン)千寿(チホギ)説、前者は魯文の証言を根拠とし、後者はこの書の取り次ぎでもあった達磨屋五一   (無物翁)の言に拠っている(『増補 私の見た明治文壇』所収「仮名書魯文翁の自伝」参照)ところで大地震に関する    見聞録は、他に安政三年七月刊の『安政見聞録』がある。こちらはお咎めなしのようであるが、参考までに挙げておく〉
    『安政見聞録』 一梅斎芳晴・鴬斎画 晁善(譱)(服部保徳)著     (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース)
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