Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ あんどんえ 行灯絵浮世絵事典
   ☆ 天保五年(1834)  ◯『北斎漫画』十二編 葛飾北斎 永楽屋   (ARC古典籍ポータルデータベース)   (巻末広告)  〝神事あんど 彩色入 全一冊   此画状は神仏祭事の時、家々の軒にかゝげ、或は社内寺中にてらす掛行灯 早がてんの工夫を主意とする   所也、彼川柳点の狂句、深く人情に通せしおかしみにたよりて、こたび真虎(ましら)先生例の有職故実を   交へず、唯俗眼に見あきを要とし、童子をよろこばすを種とす〟   〈『神事あんど』は未見、『北斎漫画』巻末広告に『北斎画譜』とともに並んでいるから北斎画とも思われるが確認でき    ない。またこの『北斎漫画』十二編、天保甲午(五年)序とあるものの、この画像本が天保五年の出版かどうかも分から    ない。ともあれ、祭礼時に寺社内や町内の軒に掛ける行灯絵も、浮世絵師が請け負っていたようである〉    ☆ 天保七年(1836)  ◯『馬琴書翰集成』第四巻 六月二十二日 殿村篠斎宛(書翰番号-49)④183   〝六月一日、西久保熊野権現の祭礼の大行燈の画も八犬士のよし、畳翠君、近習の画キ候者ニ写させて、    書くれられ候。これハ英泉筆のよしニ御座候。又、鍛冶橋外髪結床の長暖簾へも、貞秀画ニて、芳流閣    組打の処を画キ候よし。かやうのもの、処々ニ有之候趣、聞え候〟  ☆ 嘉永三年(1850)    ◯「【高名時花】三幅対」(番付・嘉永三年五月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   (上から六段目(最下段)東筆頭から四番目)   〝浮絵 タツ丁 一雄斎国輝 ・看板 サルワカ 山本重五郎 ・行燈 フカガワ 箕田北鵞    〈深川住の抱亭(三田)北鵞は行灯絵に評判を得ていたようである〉    ☆ 文久元年(1861)     ◯「東都自慢華競(えどじまんはなくらべ)」(番付・文久元年八月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝大行燈 師道の  北二斎一鵞 〈師匠は葛飾北雅か〉    大看板 ゑふうを 一英斎芳艶〈師匠は一勇斎国芳。芳艶は慶応二年(1866)没〉    〈浮世絵師は行灯や看板の絵も請け負っていた。だが、野外の画業で消耗品だから絵は残っていないのだろう。「北二     斎」の読みは「ホクジサイ」か「ホクニサイ」か〉  ◯『絵本風俗往来』上編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(46/98コマ)   〝六月 南天馬町天王祭    大行燈とて、往来の道幅一ぱいに行燈をかける、其の中、中通り北南と東西の横町なる四逵(よつぢ)の    辻へ四方行燈とて、四方へ画をかきたる灯籠を作る、画は何れも武者の図にして、当時の浮世絵の達者    の筆になる、此の四方行燈は江戸に無類の作物(つくりもの)なり〟  ◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)   (『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った   ◇巻七(歌川国芳と弟子たち)p185   〝絵かきの収入といへば 板下や地口行燈等であるが 吉原の灯籠は一種の広告故 これは身銭を切つて    画いたものだ     浮世絵師は凡て絵かきと言つて 絵かきといへば浮世絵師を指したもので 本絵の方は絵師といつたも    のだ 又粉本は種(タネ)の名でとほつてゐた〟    〈板下とは板下絵〉  ◯『此花』第九号(朝倉亀三著 此花社 大正二年(1913)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「江戸の祇園会」菊池広重記   〝毎年六月五日は大伝馬町、同七日は南伝馬町、十日は小舟町の天王宮みやだしなり、三所ともいづれ劣    らぬ賑ひにして、造庭(つくりには)などの妙をこらし金銭を惜まず競ひける、先評して申さば、大伝馬    町は大様にして物持風あり、中橋は勇み肌にして職人風あり、小舟町は商人気質に勇みを加へたるもの    とす、    三祇園の名物は、大伝馬町は亀田鵬斎先生のかゝれし大幟、小舟町は中村弥太夫(やたいふ)氏がものせ    し天王おまつりの仮名文字幟、紙製の山門、大〆、橘町は二王尊の大幟、南伝馬町は鞘町の四方大行燈、    同町の大幟なんど例年のものなり、    この四方行燈は、鞘町又は大鋸町の四ッ辻一杯にかゝるものなれば、全く巨大なる絵にて、当時北斎又    は北鵞、扨は国芳又芳虎などの筆になりしかば、人々待ち兼ねて見物せし事なりし〟