☆ 文久年間(1861~1863)
◯『増補 私の見た明治文壇2』「仮名反故」2p277
(野崎左文編・原本明治二十八年(1895)・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)
〝其頃(*文久年間)また悪摺といふもの大に作者仲間に流行す、此悪摺といふは友人の不品行又は失策
話し等を粗画に顕はし之を瓦版(カハラバン)に付して印行し普く其人の知己又は得意先に配り以て其非行を
諷刺するの意に出でしものなるが後には此悪戯(アクゲ)は誹毀(ヒキ)一方に傾き一家の秘事をも摘発して痛
く人身攻撃を加ふるやうになりぬ、魯文は此悪摺に筆を採ること屡々にして当時一枚の悪摺出れば又魯
文の悪戯ならんと言はれし程なり、又此悪摺の流行は明治初年までも打続き慶応年間には「鳴久者評判
記(アクシヤヒヤウバンキ)」の出版を見るに至れり其内悪摺の立役として魯文は足立座、染谷座、白縫座【皆悪
摺の版元】三座かけ持に其名を著はし魯文の作りし瘤陀羅経(コブダラキヤウ)【梅素玄魚の意気事を阿房陀
羅経の文句に作り換へしもの】万八番乗組【興画角力勝負附の名前尽し】地獄変相【交来が悪摺を拵へ
し罪を責むる狂画】等は皆大上々吉の部に加へられ後には此悪摺だん/\と大袈裟になり終に邪魔妬魂
(ヂヤマトダマシヒ)など云へる彩色入奉書上彫刻、上印刷の悪摺を配るやうになりぬ
(中略、悪摺の匿名が露見して、誹謗中傷した相手に作者が出した詫び証文の例などあり。ここでは二
代目柳亭種彦が一恵斎芳幾、山閑人交来、山々亭有人、仮名垣魯文宛に出した詫び状が載っている)
魯文翁の外に好んで悪摺を作りし者は山々亭有人【条野採菊】二代目柳亭種彦【初号笠亭仙果】梅素玄
魚武田交来一恵斎芳幾、葛飾酔桜軒【高野某】出揚扇夫等の諸氏にて殊に盛衰競(セイスヰクラベ)、南子(ナン
コ)の馬鹿など云へる悪摺は大に文人社会を騒がせしのみならず是に就て奇談頗る多けれど(以下、略)〟
◯『此花』第九号(朝倉亀三著 此花社 大正二年(1913)六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「浮世絵類纂(其六)」悪摺絵考
〝 悪摺絵は素人が瓦版で印刷するのであるから、其摺物の不鮮明で醜悪を極めた事と人の悪事を訐(あ
ば)くといふ点から、悪摺の名称が発したものであらう、
悪摺の起原に就いては、読売の瓦版に基いた事は云ふ迄もないが、文久年間戯作者仮名垣魯文が、千
住大黒屋抱えのお信に馴染んで通ひ詰めたが、お信も其深情(なさけ)に絆されて、同楼を忍び出て魯文
が許に奔(はし)つたといふ珍事を、友人有人玄魚等が戯文を作り「白石くどき」と題して印刷したのが
其濫觴(はじめ)である。此一件を素破(すつぱ)抜かれたる魯文は、何條黙して止むべきや、直ちに玄魚
の情事を「阿房陀羅経」にもじり「瘤堕羅ク興」と題して其復讐をしてからは、面白半分に我も/\と
是を真似て、戯作者仲間で悪摺に筆を執らざる者なき有様であつたから、今日は他人の身の上、明日は
我が身の上かと、文人社会に大恐慌を惹起したのである。就中戯作者二世種彦の秘事を摘発した「盛衰
競」の如きは、其作者が門人仙果二世と推定せられ、破門の騒ぎが演ぜられた程である、かく流行を来
たすにつて、其始瓦版の粗末な悪摺絵も、次第に贅沢な物となつて、種彦二世の秘事を訐いた「誹吝行」
及び「邪魔妬魂(じやまとだましい)」の如きは極彩色の木版画で、奉書紙に印刷した、悪摺の名称に背
くやうな、立派なものが続々現はるゝに至つたのである。
されば年々歳々に印行せられた悪摺中、妙趣向と称せられたものを選んで、芝居の評判記に擬したる
『鳴久者評判記』が慶応元年に出版せらるゝ程の盛観を呈するに至つたが、同書には悪摺の版元と其作
者が記してある。
安立座、仮名垣魯文、出揚扇夫、梅素亭玄魚、染谷座、一蕙斎芳幾、山々亭有人、仮名垣魯文、
白縫座、山閑人交来、万石亭積丸、
又其当り作では、大極上々吉に瘤陀羅ク興、無類に盛衰競、大上々吉と南子の馬鹿、嗚呼笑止、地獄
変相、穴婦仕合、白石くどき等が推されてゐる
かくの如く悪摺絵は、一家の秘事を訐き、且つ秘密出版をなしたものであるから、若しこれが現今は
るゝものとすれば、忽ち誹毀罪又は出版法違犯に問はるべき性質のものであるが、当時はかゝる事の取
締りが頗る緩慢でもあり、又作者画工共に匿名であつて、秘密を厳守したから、容易に其内幕が曝露せ
なかつたのである。万一其作者画工が露顕した場合には、其版木を破毀し、詫証文を差入れて、其罪を
謝する事となつてゐたのである、
この無益で有害な悪戯も、明治八年に至り讒謗律が発布されてからは、何時となく廃絶て仕舞つたの
は、悦ばしい事である〟
「」