Top浮世絵年表浮世絵文献資料館
 
浮世絵師総覧天保元年(文政十三年・1830)~十四年(1843)浮世絵年表一覧
 ☆「天保元年(十二月十日改元)庚寅 三月閏」(1830)   (浮世絵)   ・歌川国輝生る。(明治七年十二月十五日歿す。行年四十五歳)   ・十一月二十日、高嵩月歿す。行年七十五歳(嵩月は嵩谷門人なり)〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕   ・十一月二十日、画家高嵩月卒す(七十六歳、名常雄、晩年景納と号す。英一蝶の門人也。深川陽岳寺に    葬す)     筠庭云ふ、榎坂秋語は阿州侯の魚物の用達なり。俳諧を好み旁(カタワ)ら茶器を鬻ぐ。それらがいへら     く、嵩月一蝶の筆を鑑定すること、大方は嵩谷抔(ナド)の目を通したるをも贋物としてうけずして云     ふ、一蝶といひて帰府の後書たる、かく多かるべからずとなり。是れは自分の画くことの遅きに較べ     ていふなり。名人の速筆なりを知らずといへり。度々蹴り付けられて呆れたるなるべし     〔『増訂武江年表』〕     ・正月、柳川重信の画ける『狂歌百千鳥』       歌川国貞の画ける『劇場一観顕微鏡』       北渓の画ける『狂歌東関駅路鈴』       喜多川豊春といへる者の画ける『拳独稽古』出版   ・二月、北渓の画ける『三才雪百首』出版   ・四月、歌川国直の画ける『神事行燈』四編出版   ・六月、岳鼎の画ける『猿蟹ものがたり』出版   ・十一月、京都の画工青洋・虎岳等の画ける『狂歌百鬼夜興』出版〔以上五項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年八月、安藤広重始めて東海道を往還す〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・三月、町火消差股大伐鋸始まる〟   ・閏三月二十四日、狂歌師六樹園飯盛卒す(七十八歳、石川氏、名雅望と号す、国学に長ず。男を塵外楼    清澄といふ。ともに狂歌をよくす。父に先だつて終れり)     筠庭云ふ、旅人宿なりしが、いつの頃にか馬喰町辺宿屋共、公事に出たる旅人、長く止むる事に付き     咎められたる時、六樹園も所を払はれしとぞ。元の名なりや、五郎と呼べり。四ッ谷に居りしが、其     の宅を清澄に与へて、其の辺のうら道に上げ地といふ処に隠居したり。夫れより程へて御赦などあり     しにや、霊巌島辺に移れりと云ふ。本の如く紙など商ひしにや知らず。文かく事、狂歌師にはすぐれ     たり。都の手ぶりなどおかし。されど是れも綾足が「西山物語」の口つぎなり〟   ・十一月朔日、西新井総持寺鐘供養撞始めあり。道俗群集する事おびたゞし〔以上三項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・春の頃より始まりけん、伊勢大神宮おかげ参り流行し、次第に諸国におよぼし、江戸よりも参詣する者    夥し。   ・是の年、大森に於いて化物細工を見物とす〔以上二項『増訂武江年表』〕    ◯『藤岡屋日記 第一巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇シーボルト事件落着 p421   (高橋作左衞門一件、文政十一年十月十日 揚屋入り    同十三年三月廿六日、落着    御書物奉行天文方兼    高橋作左衞門 存命に候得ば死罪    作左衞門惣領 天文方見習 高橋小太郎  遠島〟     ◇宿屋飯盛 逝去 p428   〝閏三月廿四日    狂歌師六樹園卒 七十八    石川氏 名雅望と号す、国学に長ず、男を塵外楼清済といふ、共に狂歌をよくす、父に先達て終れり      せんくつに昔の人は入替りひとつの月をのぞきからくり  飯盛      蛤に口をしつかとはさまれて鴫立かねし秋の夕ぐれ    同〟    ◯『真佐喜のかつら』〔未刊随筆〕⑧311(青葱堂冬圃著・嘉永~安政頃成立)   〝唐藍は蘭名をヘロリンといふ、この絵の具摺物に用ひはじめしは、文政十二年よりなり、(中略)    藍紙の色などは光沢の能き事格別なる故、狂歌、俳諧の摺物は悉く是を用ひぬ、されど未だ錦絵には用    ひざりしが、翌年堀江町弐丁目団扇問屋伊勢屋惣兵衛にて、画師渓斎英泉【英山門人】画きたる唐土山    水、うらは隅田川の図をヘロリン一色をもつて濃き薄きに摺立、うり出しけるに、その流行おひたゞし    く、外の団扇屋それを見、同じく藍摺を多く売出しける、地本問屋にては、馬喰町永寿堂西村与八方に    て、前北斎のゑがきたる富士三十六景をヘロリン摺になし出板す、これまた大流行、団扇に倍す、その    ころほかのにしき絵にも、皆ヘロリンを用る事になりぬ〟    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥128(喜多村信節記・天明元年(1781)~嘉永六年(1853)記事)   〝大森村に化物の細工を観せ物とする茶店出たり、近時両国元町回向院前に目吉といへる人形師有、化物    咄をなす林屋庄蔵が小道具を作れり、夫よりさまざまの細工して処々に見せ物とす、大森村なるも是が    細工と見ゆ〟    ☆「天保二年 辛卯」(1831)   (浮世絵)   ・河鍋暁斎生る(明治二十二年五月歿す。行年五十九歳)   ・八月七日、十返舎一九歿す。行年六十八歳。(十返舎一九は駿河の産にして江戸に住し、戯作者を以て         名あり、膝栗毛は実に其の作なり。浮世絵を画き『江戸名所』はその傑作なり。寛政の頃自         作の黄表紙に多く画けり。画は拙にして栄水・一雅と同格なり。姓は重田氏、名は貞一、通         称与七、幼名幾次郎といふ。十偏舎又十返斎とも号せり)〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕   ・八月七日、戯作者十返舎(ジツペンシヤ)一九(イツク)終る(重田氏、名貞一、下谷どぶ店善龍寺に葬す。寺中         東陽院檀越なり。辞世 此の世をばどりやお暇(イトマ)にせん香とともにつひには灰左様なら)         〔『増訂武江年表』〕     ・正月、柳斎重春の画ける『役者三国志』       国貞の画ける『戯場一観顕微鏡』下帙       葛飾北秀の画ける『養生一言草』出版   ・三月、一勇斎国芳・小松原翠渓等の挿画に成る『魚鑑』       北渓の画ける『狂歌春のなごり』出版       西川信春の画ける『新滑稽発句集』       柳川重信の画ける『新撰狂歌集』出版   ・十二月、森川保之の挿画に成る『永代節用無尽蔵』出版〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕      〈浮世絵年間〉   ・此頃、葛飾北斎、信州高井郡小布施村に到り、門人高井三九郎の家に寓し、居ること一年あまりなりし    といふ   ・此年、田善の門人田騏歿す。行年四十四歳〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・三月五日より十九日迄、亀戸天満宮開帳   ・春より浅草本蔵寺にて、甲州山梨郡休息村立正寺祖師開帳   ・四月、深川要津寺門前良左衞門、森下町喜八、木綿の裁屑(キリクズ)にて製したる木綿紙といふ物を漉始    む   ・九月十三日より、堀の内妙法寺祖師開帳   ・日蓮上人五百五十年忌供養。法花宗諸寺勤行   ・幸橋御門外に於いて、観世太夫勧進能興行あり。十月十六日を初日として、晴天十五日の興行の定なり    しが、雨天其の外にて翌年へかゝり、日数の外日延興行あり、辰の六月に至りて停む(興行の日貴賤群    集せり)   ・十月二十二日、日暮里修性院の庭中に於いて、京師より下りし不退堂といふ人、大字霽(ハレ)の字を書す    (竪二十六間、横十九間、仙過の紙一万二千枚継ぎ、墨七石三斗、筆長二間、朱印二十畳程あり)    〔以上七項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉  ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇十返舎一九逝去 p468   〝八月七日      戯作者十返舎一九卒    重田氏、名貞一、下谷土富店善龍寺に葬す、寺中東陽院檀越なり      辞世 此世をバどりやお暇にせん香と とも終には灰左様なら〟
   「十返舎一九像」 国貞画 (早稲田大学「古典籍総合データベース」岩本活東子撰『戯作六家撰』)    ☆「天保三年 壬辰 十一月閏」(1832)   (浮世絵)   ・七月六日、歌川国安歿す。行年三十九歳。(国安は江戸の人にして豊国の門人なり。俗称安五郎、一鳳         斎と号せり。一時西川安信と号せりといふ)   ・閏十一月二十八日、柳川重信歿。行年四十六歳。或はいふ五十余歳と。(重信は北斎の門人にして、そ             の女婿となり雷斗の号を譲らる。俗称鈴木重兵衛といひ、本所柳川町に住せしより             柳川の姓とせり。馬琴の里見八犬伝の挿画は重信・英泉・貞秀等の画くところなり)             〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕   ・十一月二十八日、浮世絵師柳川重信卒す(四十六歳)     筠庭云ふ、柳川重信は志賀理斎の子なり。師なくして画をよくせり。北斎の風なりしが、本所一ッ目     弁天の前なる髪結床の障子に、午の時参りする女を野ぶせりの乞食等が犯さんとする図を書きて、い     と能く出来たり。北渓これを見て、画は社中の風なるが、かばかり書かんものを覚へずとて、其所に     問ひしとぞ。夫より相知りて、北渓これを引きて北斎が弟子とす。其の後北斎これを養子とせしが、     如何したりけん、義絶におよべり。夫より重信頻りに板下を書きしを、北斎これを板下に禁じて、互     いに意趣を含みけるを、柳亭種彦双方をなだめて事和らげり。柳川といへるは柳亭の字をとるなり。     この時より柳川と号したり。八犬伝も初めはこれが筆にてよし(無声云ふ、志賀理斎が子は重山とい     ひ、後二代目重信となりしなり)〔『増訂武江年表』〕     ・正月、柳川重信の画ける『狂歌花街百首』出版   ・七月、鍬形紹真の画ける『俳家奇人談』       五湖亭国景の画ける『新撰七夕狂歌集』       柳川重信の画ける『狂歌劇場百首』出版〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、春英門人春幸旭松井春章と名乗り、二代春章となる。〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・三月より浅草幸龍寺にて、下総駒木村諏訪明神開帳   ・四月十七日より三日の間、堺町中村勘三郎芝居、十二代目相続の春狂言興行   ・五月五日、鼠小僧捕縛せられ、八月十九日浅草に於いて処刑   ・五月二十一日、浅草新寺町本蔵寺にて、豆州玉沢法華寺祖師開帳   ・秋、高輪泉岳寺山門再建(楼上に十六羅漢の像を排列す)   ・八月十七日、麻布氷川明神祭礼、花出し練物等出る。其の後中絶す   ・九月二十一日、下谷龍泉寺町千束稲荷の祭に、纔(ワズカ)の花出し練り物を出しけるに、吉原西河岸娼家    より是れを見んとて、屋上へ登りし遊女、禿(カムロ)、若ィ者都合十六人誤りて落ちけるが、各重き疵を    かうむる   ・冬、浅草寺観世音開帳   ・十一月、琉球人来聘、正使豊見城王子、前王の使沢紙親方也(十六日、江戸到着の日初雪降り、雪中管    絃にて行列す)〔以上九項『増訂武江年表』〕      〈一般年間〉  ◯『藤岡屋日記 第一巻』p480(藤岡屋由蔵記)   ◇鼠小僧次郎吉獄門 p480   〝(天保三年五月五日、鼠小僧次郎吉捕縛)    八月十九日御仕置     異名鼠小僧事 入墨無宿 次郎吉 辰三十七     於浅草、獄門    (中略)     右次郎吉事、深川近辺徘徊候由、博奕渡世致し罷在、俗に鼠小僧と申触し候盗賊にて、廿七才の頃より    盗賊相働、所々屋敷方奥方并長局、或は金蔵等へ忍び入候、盗先は加州の外諸侯へ忍び入候得共、年久    敷相立候分は不分明に付、聢と相覚不申由にて、申立候大名方九十五ヶ所の内には三四度も忍入候所も    有之由、度数の義は百三十九ヶ処程に相覚へ、所々にての盗金相覚候分、凡三千三百六十両余之処迄は    相覚候旨申立候、右の外御旗本衆は三軒の趣申立候。(以下略)〟    〈鼠小僧次郎吉は、約十年前から、歴々の屋敷・奥方そして大奥、金蔵、覚えているだけで、九十五箇所、凡そ三千三     百六十両余の盗みを働いた〉    ◯『事々録』〔未刊随筆〕(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   ◇鼠小僧 ⑥218   〝七月(ママ)十九日御仕置済の盗賊次郎太夫事次郎吉、他より是を鼠小僧と称ス、実に忍術に富たる梁上の    君子也、衣類器財を盗まず、黄金宝貨かすめ取る、貧家ハ勿論、小富をうかゞはず、大諸侯の奥へ忍び、    宝蔵をあばき、市中名ある富商に入る、手下を遣はす、独歩にて多く宝櫃を空とし、錠はもとの如くし、    時過て人の知る事多しとぞ、御本丸営中は言はず、加州へは己か姪の奉仕する物から、あへて顧り見ず、    か程の大賊も天網もらさず、時来り松平宮内少輔の深殿の天井に、日頃に大胆をもて深更をまつうち、    眠りにつき大なる鼾よりしてあやしめられ、堅士捕者の達者や有けん搦捕られたり、次郎太夫常は八町    堀に住で道具商売すると雖、彼の賊ならんとは思はれず、平生一同町人なりとぞ〟     ◇琉球使節 ⑥219   〝十一月十六日琉球使、代がわりにて来る、其長富善と言、此日雪ふる、品川へ見物群集也、閏十一月四    日登城、十二月に至り帰国〟    ☆「天保四年 癸巳」(1833)   (浮世絵)   ・四月十四日、尾張の大石真虎歿す。行年四十二歳    〔『【新撰】浮世絵年表』〕      ・正月、北斎の画ける『唐詩選画本』五言律・五言排律の部       呉北渓・一勇斎国芳等の画ける『あづまあそび』       国貞の画ける『俳優畸人伝』       竹内眉山の画ける『戯劇百人一首』出版   ・七月、大石真虎の画ける『百人一首一夕話』出版〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、広重相州江之島岩屋の図三枚続の錦絵を画く   ・此年、渓斎英泉、『無名翁随筆』一名『続浮世絵類考』を著せり   ・此年、長谷川雪旦の画に成れる『江戸名所図会』梓行。奥附に天保五年甲午孟春とあれば、天保五年の       條に載すべきものなれども、著者斎藤月岑、武江年表に自ら天保四年の條に載せあれば此に掲ぐ。       序文は又亀田長梓・松平冠山公・片岡寛光等にていづれも天保三年なり。此を以て見れば天保四       年中には全く成りて天保五年春より市中に出だせるなり。為に出版物の前後は一二の間は争ひが       たきものなるを知るに足るなり〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月朔日より、寺島蓮花寺に富士山本尊大日如来開帳   ・不忍池弁財天開帳   ・芝泉岳寺釈迦八相曼荼羅開帳    其の外西新井総持寺弘法大師、増上寺芙蓉洲弁才天、王子稲荷明神、木下川薬師如来、同白髭明神、多    摩郡井の頭弁才天、新鳥越安盛寺妙見宮等開帳   ・山谷正法寺にて、佐渡塚原祖師開帳   ・三月九日より、浅草幸竜寺にて、京都本国寺祖師開帳   ・三月廿日より、永代寺にて下総成田不動尊開帳。奉納寄進の品夥   ・三月七日より、相州江の島下の宮開帳。江戸より詣人多し   ・四月朔日より、永代寺にて、葛西渋江村観正寺客人権現開帳   ・同二日より、回向院にて、下総法蔵寺祐天上人像并びに地蔵尊開帳(此時大なる神仏の像を安置す)    〔以上十項『増訂武江年表』〕   ・四月五日より、浅草寺にて、太秦広隆寺聖徳太子開帳、凡て浅草寺にての開帳は、みな本堂にのみ参り    て、開帳に詣でぬも多し、此時の開帳など誠に寂しき事なりき〔『きゝのまに/\』〕   ・同八日より、深川浄心寺、小田原浄水寺祖師七面明神開帳   ・四月十五日、羅漢寺三匝(サザエ)堂修復成る。今日昼過ぎ中尊の観世音像を遷す   ・此の夏、霊巌島東湊町の先に、川辺明神とて祭る。何の神とも知らず。一時に参詣群集しけるが、纔の    間ににして止みたり   ・八月朔日。大風雨、深川三十三間堂、半ば倒る〔以上四項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・谷中長輝山感応寺、護国山天王寺と改む〔『増訂武江年表』〕    ◯『藤岡屋日記 第一巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇川辺霊神 群集参詣 p510   〝五月頃    霊岸嶋東湊町の先に川辺霊神とて祭る小祠有之、何と神ともしらず、一時に参詣群集しけるが、纔かの    間にして止たり。     或人の説に此川を浚し時、水中より上りし髑髏を祭る所にして、首(カフベ)を川辺に書き改めしなりと     いへり〟        ◇娼婦一斉検挙 p513   〝天保四巳年六月 市中隠売女召捕一件    (以下略、その時の落首あり)    十一月十九日落着 隠売女一件 吉原町にて夫々入札〟     ◇天保飢饉之事 p523   (諸色高直の記事及び落首あり)    ☆「天保五年 甲午」(1834)   (浮世絵)   ・正月、北斎の画ける『絵本忠経』『北斎漫画』十二編出版   ・六月、岡田玉山の画ける『絵本名誉伝』出版   ・八月、一勇斎国芳の画ける『狂歌覓玉集』出版   ・九月、京都の浮世絵師菱川清春の挿画ある『早見献立帳』といへる料理書出版    〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕   ・八月十六日 両国柳橋・河内屋にて、花笠文京主催、浮世絵師の「画幅千枚かき」書画会          香蝶楼国貞・一勇斎国芳・渓斎英泉・歌川豊国・前北斎為一          (被災した花笠文京を支援するための書画会)
   画幅千枚がき(引札)(「日本経済新聞」2011/2/1日夕刊記事より)     〈浮世絵年間〉   ・此年、一立斎広重、竹内保永堂の東海道五十三次横絵の錦絵を画く   ・此年、葛飾北斎七十五歳にして『富嶽百景』の初編を画き、前北斎為一改画狂老人卍と署せり   ・此年、岳亭定岡、黄園五岳と改名(蓋し確定し難し)し、其作画を大阪の書肆より出版せり。『天保山       勝景一覧』といへる錦絵風のもの一帖なり〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・正月七日、中村仏庵卒す(八十四歳、名景連、称弥太夫、御畳大工の棟梁にして書をよくす)〟   ・二月七日〈江戸大火、芝居三座焼失。同九日・十日、出火〉三度の焼亡一ッにして、長さ凡そ一里、幅    平均して十町の余といふ。焼死怪我人数ふべからず   ・三月朔日より、目黒不動尊開帳   ・同日より、上野清水堂観世音開帳   ・(三月)弘法大師先年忌、真言宗寺院所々供養の碑を立つる(筠庭云ふ、此の頃にても有りしか、回向    院にて何れよりか弘法大師の開帳ありて、奉納に横額九尺計(バカリ)、大師やうのいろは四十八字を唐か    ねの鋳物の如く作りたるは、張貫細工といへり。銅色奇絶に作りたり。妙工也)   ・三月より、牛島蓮花寺、其の外弘法大師安置の寺院開帳   ・四月より、浅草本蔵寺にて、下総多古村妙光寺祖師開帳〔以上七項『増訂武江年表』〕   ・四月十五日、石川清澄歿す。行年四十九歳。(六樹園の男にして狂歌師なるが、亦浮世絵もいさゝか画          きたり)〔『【新撰】浮世絵年表』〕   ・七月二十五日、川崎平間寺弘法大師、自坊にて開帳〔『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・是の年より翌六年に及び、あさりやなんとかゝといふ童謡流行。又おつこちといふ詞行はる。染色にお    ちこちしぼりといふもの出づ〔『増訂武江年表』〕    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇米価高騰記事 p535   〝【夕ぎり伊左衞門】郭文章吉田屋之段 (以下略、戯文あり)〟    ☆「天保六年 乙未 七月閏」(1835)   (浮世絵)   ・十一月二日、本郷豊国歿す。行年五十九歳。(本郷豊国は初代豊国の門人にして、二代目豊国と成れり。          本郷春木町に住せるを以て本郷豊国と称せられ、亦通称源蔵なるを以て、源蔵豊国とも称          せらる。二代豊国を称するは師の歿後五六年間なり(一龍斎・後素亭・一瑛斎等の号あり          三代豊国は即ち五渡亭国貞なれども亦国貞を二代豊国と認むるの説あり)          〔『【新撰】浮世絵年表』〕             ・正月、天保元年出版せる北渓の画ける『狂歌東関駅路鈴』を『五十三次北斎道中画譜』と改題して再版       せり。蓋し北渓の画を北斎の名もて売りたるものなり       歌川国直・国貞等の画ける『俳風狂句百人集』       北斎・国貞等の画ける『俳優三十六花仙』出版   ・三月、歌川貞広の画ける『銀鶏一睡南柯夢』       北斎の『富嶽百景』二編出版   ・五月、大阪の暁鐘成の画作『天保山名所図会』出版   ・六月、京都の浮世絵師菱川清春『銀河草紙』       葛飾戴斗の『万職図考』二・三編出版   ・十二月、北斎の『画本千字文』出版〔以上五項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、葛飾北斎相州浦賀に潜居し、姓名を三浦屋八右衛門と称せり〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・正月二十四日、子(ネ)の中刻、吉原角町より出火、廓中残らず焼亡す(仮宅、花川戸、山の宿、聖天町、    東仲町、門跡裏門前、田原町等なり。三百日限りにして元地へ移る)   ・二月八日、谷中茶屋町出火(いろは茶屋一円焼亡す)   ・三月より、浅草本蔵寺にて、駿州沼津妙海寺祖師開帳   ・三月十日より、不忍池弁才天開帳   ・柳島妙見宮開帳   ・四月より、渋谷長谷寺にて、京音羽観世音開帳   ・四月より、目黒正覚寛寺鬼蒐子母神開帳   ・五月より、芝神明宮境内にて、京都六波羅密寺本尊観世音菩薩開帳   ・浅草寺奥山に、韓信市人の胯(マタ)を潜(クグ)る所の木偶(ニンギヨウ)を見せ物とす(人形丈二丈二、三尺、    衣裳羅沙猩々等の類を用ふ。よき細工なれど飾りたるのみなれば面白からず。されば見物少なし)   ・七月より、浅草本蔵寺にて、柴又村題経寺帝釈天板本尊開帳   ・閏七月朔日より、回向院にて、鎌倉覚園寺薬師如来巨像、井びに日光月光十二神将等古仏開帳。   ・回向院に開帳の頃にや、見せものに女の足芸といふもの出る。さきに青山長谷寺に出て後回向院に出で    しなり。其の時の番附ありしが今頓(トミ)に見へず。足を手の如くに遣ふ希世のわざなり。されど和漢と    もに昔も往々あり   ・九月頃より、鼠山に長曜山感応寺御建立(法花宗)。翌年にいたりて本堂鐘楼総門僧房等こと/\く成    就す(巍然たる梵殺なりしが、ほどなく廃せられたり)   ・十月、百文銭通用始まる。鉄銭を鋳させらる〔以上十四項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉  ◯『藤岡屋日記 第一巻』p574(藤岡屋由蔵記)   ◇敵討ち p574   (閏七月三日、山本三右衛門娘りよ、亡父の敵・亀蔵を、護持院が原にて討ち果たす)     ◇木偶人形 p581   〝未年九月頃、浅草奥山に韓信市人のまたを潜る処の木偶を見せ物とす。    人形丈二丈三尺余、衣裳羅紗猩々緋等之類を用ひ、能き細工なれども、餝りたるのみなれば、面白から    ず、されば見物人はなし〟     ◇諸色高直 p581   (戯文、落首あり)     ◇天保通宝通用 p583   〝十一月、天保通宝之銭通用初る也、当百銭といふなり〟    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥131(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝七月より浅草寺町にて柴股村帝釈開帳、閏七月回向院にて鎌倉覚円寺薬師十二神将開帳【鎌倉にて見た    るとかはりもなきに、繁雑の中へ持出ては古仏もさまで殊勝気なし】九月より鼠山に感応寺御建立、翌    年に至て成る、然れども程なく廃せらる〟    ☆「天保七年 丙申」(1836)   (浮世絵)   ・正月、北斎の『絵本魁』『諸職絵本新雛形』       長谷川雪旦の画ける『江戸名所図会』四巻より七巻       京都の菱川清春の画ける『一休諸国物語図会』出版   ・四月、国貞・国直・北馬・国芳・柳川重信・北渓・武清等の挿画に成る『とふの菅薦』出版   ・五月、一立斎広重の画ける『百人一首鐘聲抄』出版   ・八月、北斎の『絵本武蔵鐙』出版〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・葛飾北斎、此年も相州浦賀に滞在す〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月十六日より、芝泉岳寺八相曼荼羅開帳   ・三月朔日より、浅草三社権現開帳   ・三月七日より、奥州柳津円蔵寺虚空蔵菩薩、浅草寺念仏堂にて開帳(奥州会津の産七歳の三つ子、日々    開帳場へ出る。惣領鶴松、二男竹松、三男亀松といふ。容貌よく肖(ニ)たり)   ・三月十一日より、谷中妙福寺日親上人開帳   ・三月より、永代寺にて、勢州国府村府南寺本尊阿弥陀如来開帳   ・三月より、浅草寺境内淡島明神開帳   ・四月朔日より、永代寺にて、葛西半田稲荷明神開帳   ・四月より、浅草寺町蓮光寺にて、遠州貫名山妙日寺祖師開帳   ・四月八日より、大日坂妙足院大日如来開帳   ・六月朔日より、浅草西福寺にて、甲州燈籠仏開帳   ・六月十五日より、回向院にて嵯峨釈迦如来開帳   ・六月十七日より、十四日の間、本所東大寺勧進所にて、二月堂観世音開帳   ・七月、痲疹(ハシカ)流行(豊前国宇佐八幡宮神領小浜村産にて、赤髪の男児二人を猩々翁の形に出立(イデ    タタ)せて、両国に出して見せ物とす。兄は十一歳、猩寿と号し、弟は八歳、猩美と号す)   ・五月に至り霖雨止む時なく、菜蔬生ふる事なし。嵯峨開帳、詣人少く、看せ物あまた出したれども見物    なし   ・是より遙かに後、天保七年回向院に嵯峨釈迦開帳に、亀井町籠細工師みせ物を出す。看板はしころ引の    朝比奈と時致なり。其の細工もとの細工にくらべては抜群にすぐれたり〈文政二年の記事より〉   ・九月十九日、築地御堂大鐘成る。今日、供養撞始めあり(富家の娘撞始む)貴賤群集夥し   〔以上十七項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉  ◯『藤岡屋日記 第一巻』p590(藤岡屋由蔵記)   ◇泉岳寺開帳 p590   〝二月十六日より、高輪泉岳寺釈迦八相曼荼羅開帳。四十七人の宝を見せる、大当り也    半田稲荷・伊勢国府阿弥陀、深川にて開帳〟     ◇開帳、籠細工等見せ物 p590   〝六月十五日より六十日之間、嵯峨清涼寺釈迦如来、回向院にて開帳    大当たり、いろ/\の見せ物出来る也    〈八月十六日より九月十六日まで三十日の日延べ、都合九十日の開帳〉    籠細工富士の牧狩、表看板曽我五郎・朝比奈草摺引、格好よく出来候、亀井町長種次郎作、代三十二文、    笑ひ布袋見せもの廿四文也、虎狩の見せ物廿四文    江の島宮島長崎の女郎屋の見世物、看板遊君の人形・禿人形・ギヤマン家仕立、代三十一文、東海道伊    賀越敵討大仕掛見世物看板、京都清水人形立、代三十二文、三千世界一水大仕懸看板、龍宮女人形五ッ、    代三十二文、此外数多見世物有之、参詣群集致し、朝参り夜七ッ時より出るなり〟   〝三月中より、浅草境内淡島明神、三社権現開帳    同所念仏堂にて、会津柳沢虚空蔵開帳、同所にて出生の男の三ッ子、七才なるが来る也、右に付ギヤマ    ン舟見世物、代三十二文、殊之外評判よろし。     忠臣蔵大仕懸見世物、代三十二文     大坂天保山の景、大仕懸の見世物、代三十二文〟    浅草土富店長遠寺祖師開帳有之〟   〝六月十七日より、南部二月堂観音、御船蔵前にて開帳、十日之間也〟   〝六月朔日より、甲州板垣善光寺灯籠仏、浅草西福寺にて開帳    申三月朔日より六十日之間、浅草三社権現開帳有之〟     ◇子供相撲 p627   〝十一月、本所回向院境内にて大相撲之節、土俵入。信州南原産 神通力国吉 申七才    身丈四尺余、目方廿貫目    木村庄之助、信州にて貰請来る也〟    ◯『事々録』〔未刊随筆〕⑥251(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   〝江戸へ信州川中島の産にて、七才に成る男の二拾貫目有ける大兵の者、神通力国吉と呼ばれ、角力取の    土俵入をなさしむと申すとぞ〟    ☆「天保八年 丁酉」(1837)   (浮世絵)   ・正月、長谷川雪旦の画ける『江戸名所花暦』       北斎・柳川重信・北雅等の挿画に成れる『日光山志』出版     〈浮世絵年間〉   ・此年、芳虎(国芳門人)の画ける一枚錦絵『道外武者御代の若餅』出版。画様は織田信長・明智光秀と       共に餅をつき、其のつきたる餅を豊臣秀吉がのし板にてのし、徳川家康らしき武者が其餅を食ひ       居るところにして、織田明智豊臣等千軍万馬の間を往来して平定したる天下を徳川家康がゐなが       ら取りしを諷せし画なる事は誰か目にも悟り得らるゝ者なれば、幕府の命にて木版は焼棄され、       画工芳虎は手鎖五十日の刑に処せられしといふ       〈下記『筆禍史』「御代の若餅」参照〉     (一般)   ・二月九日、狂歌師文々舎蟹子丸卒す(久保氏。筠庭云ふ、文々舎蟹子丸の名は、もと俳諧師の名なりと    蟹子丸語りき)   ・深川浄心寺にて、身延山祖師開帳   ・八月、薩摩蝋燭售(アキナ)ひ始む。魚蝋と号す   ・九月、神田明神附祭(ツケマツリ)の内、橋本町壱丁目より籠細工の曳物を出す(歌舞伎の趣向にて黒主と桜    の霊の人情也。顔より手足衣裳岩組立木にいたる迄、悉く籠にて造り絵の具にて色どりたる也)   ・十月十九日暁六時、吉原江戸町二丁目より出火、一円焼亡(仮宅、山の宿、花川戸、深川八幡前等なり。    三百日限り地元へうつる)〔以上五項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・(天保七年より)一両年すぎて、浅草奥山に同じ細工人の作、其のみせ物の看板は山姥と金太郎なり。    是れもいと花やかにて、細工は前々と同じく、顔手足籠目あざやかに透け、指など細かなる所いと能く    作れり。此の細工の彩色は、橋本町の水油屋庄兵衛が忰幼名吉之助といひしが、成長して画師等琳が弟    子となりたれども、画は又一風なり。北斎が女を妻としたりしが離別したり。其の故は北斎が女絵をよ    くかき、芥子(ケシ)人形など作るに巧みなり。されど吉之助がを手伝はせず、其の外にはこの女針わざ縫    物などはよくせず、かれこれ心にかなはずして別れたりとぞ。右かご細工はこれが彩色なり。下絵も同    じ。〔『増訂武江年表』文政二年記事〕    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p3(藤岡屋由蔵記)   ◇(大塩平八郎の乱関係の文書多し)     ◇将軍宣下 p34   〝天保八丁酉年九月二日、家斉公二男家慶、将軍宣下〟     ◇吉原焼失 p45   〝十月十九日、朝六ッ時、新吉原伏見町より出火して、廓中残らず焼失也、五十間道と京町の名主残る也〟    ◯『筆禍史』「御代の若餅」p118   〝歌川芳虎筆の一枚版行絵なり(縦一尺二寸横八寸五分)其全図は左に縮摸するが如く、武者共の餅つき    絵なるが、其模様中の紋章等にて察すれば、織田信長が明智光秀と共に餅をつき、其つきたる餅を豊臣    秀吉がのしをし、徳川家康は座して其餅を食する図なり、要するに徳川家康は巧みに立廻りて、天下を    併呑するに至りしといへる寓意なり、徳川幕府の創業は殆ど此絵の寓意に近きものなれども、家康が何    の労力をもせずして、大将軍の職に就きしが如くいへるは、其狡猾を諷せしものなれば、何條黙せん此    版行絵は忽ち絶版の厳命に接せり、しかのみならず、文化元年五月、幕府が令を下して、天正以来の武    者絵に名前又は紋所、合印等の記入を禁じあるにも拘らず、之を犯したるは不埒なりとて、画者芳虎は    手鎖五十日の刑に処せられ、版木焼棄の上、版元の某も亦同じ罰を受けたりといふ    右の事実は古記録にて見たるにあらず、画者芳虎は明治の初年頃まで生存し居り、其頃同人直接の懐旧    談にて聞きしといへる、某老人の物語に拠れるなり     歌川芳虎は一勇斎国芳の門人にして一猛斎と号し、豪放不羈の性質なりしといふ      〔頭注〕水滸伝長屋    一猛斎芳虎は、水滸伝百八人の錦絵を描きて好評を博したる一勇斎国芳の門人なりしかば、自己の居住    せる長屋に水滸伝の放逸人物のみを集めて、水滸伝長屋と称し居たりと『雅三俗四』にあり〟    〈『雅三俗四』は石井研堂著・明治三十四年刊〉
   「御代の若餅」 一猛斎芳虎画 (早稲田大学図書館所蔵)    ☆「天保九年 戊戌 四月閏」(1838)   (浮世絵)   ・正月、「東都歳事記」五巻梓行(月岑著、長谷川雪旦并びに雪堤画)   ・九月、西村中和・小野広隆(大和絵なり)等の画ける『紀伊国名所図会』三集出版    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉    なし     (一般)   ・三月六日より、牛島白髭明神開帳。   ・同十一日より、新寺町玉泉寺にて、下総香取妙興寺祖師開帳   ・同十七より、回向院にて、井の頭弁才天開帳(境内にて人形師泉目吉の細工にて、色々の変死人を    作り見せものとす)   ・同じ頃、市谷茶木稲荷明神開帳(奉納の造り物あまた有り。何れも小間物の類を見立て作りし也)   ・五月二十五日より回向院にて、紀州加田淡島明神開帳(銭にて紙雛の形を作りて納む。其の外奉納物あ    また有り。此の開帳故ありて半途にして止む)   ・十月九日、十日、湯島天満宮地主戸隠明神祭、出しねり物あまた出す。遠近の見物群集す     〈一般年間〉  ◯『藤岡屋日記 第二巻』p46(藤岡屋由蔵記)   ◇開帳 p46・p60   〝三月朔日より、市ヶ谷茶の木稲荷、居開帳也    同六日より、向島白髭大明神、居開帳也    同十五日より、井の頭弁財天、回向院にて開帳也、同月六日御着也〟   〝三月十八日より十五日之間、雑司ヶ谷鬼子母神、居開帳也〟   〝市ヶ谷茶の木稲荷、開帳大繁昌也、奉納物、銭細工、氏子町々より上る也、太田道灌、山吹稲荷神狐の    舞、加藤清正虎狩、伊勢物語井筒、玉藻の前、鶏、殺生石、鉄物細工、獅子の子落し、酒道具にて、鞍    馬山僧正牛若丸、其外いろ/\在り〟   〝五月朔日より、玉川大明神、深川八幡社内にて開帳、改十五日より開帳也〟   〝五月二十五日、紀伊国加太淡島大明神、回向院にて開帳大繁昌、奉納物数々あり、但し五月廿一日御着    之節、大群集致す也。    奉納物 瀬戸物舟、神功皇后、武内宿禰。銭細工で同断。        額巻(ママ)の額、いろ/\細工人形、角力、女子供都合五人、十組問屋中奉納        加田の浦景、子供十五人、米船に乗る        銭細工、紙ひいなの大額        五節句の餝りもの        田舎源氏須磨、男女人形弐人、其外いろ/\〟        ◇禁制 p61   〝閏四月、銀の櫛笄。きせる其外共銀類、百姓町人持候事一切御停止之事〟     ◇敵討ち p62   (元松平加賀守家来足軽奉公・近藤忠之丞、加賀金沢にて、親の敵、同加賀守家来・山本孫三郎を討つ)     ◇諸社祭礼 p69   〝当年、江戸諸社祭り、殊之外宜敷出来也、六月廿一日谷中諏訪社、九月十五日坂本小野照大明神・牛の    御前・亀戸天神・五条天神・根津白山等也〟       ◇吉原仮宅 p71   〝去年焼る信吉原町仮宅、当十二月七日限り不残引越被仰付、仮宅之内、一ヶ年余也〟    ◯『事々録』〔未刊随筆〕(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   ◇西丸焼失 ⑥261   〝三月十日明六ッ時、西丸御台所向より出火、わづかに御書院番所を少々残し不残焼失(以下略)〟     ◇開帳 ⑥283   〝此春は井の頭弁才天を両国回向院にて開帳、向島白髭明神其余も二三ヶ所ありしが、市谷八幡茶の木稲    荷の開帳は世にいふ居開帳なれども、作り物多く、銭もて人物生類奇品を氏子/\より納め、殊之外群    集せり、其中に山雀に歌がるた取らせる芸を見せる茶店出て評判高し〟    ☆「天保十年 己亥」(1839)   (浮世絵)   ・正月、喜多武清の画ける『絵本勲功草』       八島五岳の画ける『貞経』出版   ・三月、柳川重信の画ける『名数狂歌集』出版    〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕      〈浮世絵年間〉   ・此年、一立斎広重の画ける相州江島弁財天開帳参詣群集図三枚続の錦絵あり。又岩屋の図、七里浜の        図等あり〟     (一般)   ・三月朔日より、亀戸天満宮開帳(筠庭云ふ、天満宮開帳に奉納もの種々あり。中にも木彫細工人寄合ひ、    さま/\のものをつくれる額、又歌川国貞「田舎源氏」を書きたる美麗なりき。当時国貞天神門前に住    す。裏家なり)〔『増訂武江年表』〕   ・四月、両国橋御普請、神田明神一の鳥居建替、費用三千金と云〔『きゝのまに/\』〕   ・六月十七日より、回向院にて、川崎平間寺弘法大師開帳(東両国に籠細工十一間の宝船七福神の見世物    出る)〔『増訂武江年表』〕   ・六月、回向院にて川崎平間寺弘法大師開帳、此事奉納横額の様に二間計も作りたる唐銅鋳物の如くみゆ    る細工也、中の文字はいろは仮字、大師やうにて、末に大師の花押有、すべて欸紋陽識(オキアケ)なり、縁    (ヘリ)は雲竜高彫、みな張子紙細工と云、おもふに薫(クスベ)の桐油紙を用ひ、色を付たる物歟、いとよき    手際なり   ・十一月二日町触、町々に近年寄場と唱へ見物人を集め、坐敷浄るり人形を催す事相止申すべし、軍書講    談昔咄は格別云々とあり〔以上二項『きゝのまに/\』〕     〈一般年間〉  ◯『藤岡屋日記 第二巻』p78(藤岡屋由蔵記)   ◇犬の三日酔 p78   〝正月十六日朝四ッ時頃、湯島天神中坂下、手習師匠前にて、酒七八升持候男転び酒不残打こぼしけるに、    犬来りて是をなめけるに、十八日夕方迄犬酒にふら/\致し居候由、犬の三日酔は珍敷事にて見物多し〟      ◇開帳 p83   〝二月廿六日、青山善光寺開帳に付、信州より霊宝到着也、富士講迎ひに出候あり、板橋より筋違御門入、    日本橋通り、新橋より溜池、赤坂、青山善光寺着也〟   〝亀戸天満宮  三月朔日より六十日之間    青山善光寺  三月三日より同    六阿弥陀六ヶ所共に開帳  同七日より三十日之間、千百三十に成也    青山千駄ヶ谷千寿院鬼子母神、同。新日ぐらしと云也    出生観音開帳、同    渋谷天現寺毘沙門天、同    大師河原弘法大師、六月十五日より両国回向院にて開帳〟   〝六月八日、大師河原弘法大師、江戸着に付、富士講其外講中迎に出御(ママ)、群集也。同十七日より六十    日之間、両国回向院にて、開帳有之、大繁昌也〟     ◇桜植樹 p83   〝三月、鼠山感応寺に桜千本植る也〟     ◇豊熟踊り p85   〝三月上旬より、於京都、豊熟都大踊有之〟     ◇初代目市村竹之丞 p89   〝(三月記事)初代市村竹之丞    下総国葛飾郡顕松山安住寺中興開基、権大僧都大阿闍梨誠阿    享保三戌年十月十日入寂、右は初代市村竹之丞と申、天台宗仏法皈依致し、甥を養子となし、比叡山宿    坊安住院住職に相成、其後寛文八年顕松山安住寺再興す、里俗今以、市村竹之丞寺と異名申候。     五代目市村羽左衞門百五十回忌に相当り、打混追善狂言仕候。      花筐未熟道成寺 所作事 十二代目市村羽左衞門相勤候〟     ◇関三十郎逝去 p113   〝天保十亥年九月廿八日    尾張屋歌山病死、中村坐にて忠臣蔵の狂言にて、平右衛門名残     和歌山是証信士 俗名関三十郎 五十四歳    築地門跡中、法重寺に葬〟     ◇市村座の顔見世 p119   〝十一月堺町芝居、顔見世錺出来ず、是は中村歌右衛門、是迄加賀屋、此時より中村坐ぇ出勤之処、当顔    見世より市村坐ぇ出勤故に、留場之者、歌右衛門宅をこわせし故也〟    ☆「天保十一年 庚子」(1840)   (浮世絵)   ・十二月十四日、画人谷文晁卒す(号写山楼、又画学斎、薙髪して文阿弥と云ふ。浅草源空寺に葬す)     筠庭云ふ文一上手なりしが早く死し、文晁も身まかりて、文二画もよくなりしかど、一度もとの宅引     払ひさまよひしが、又もとの二丁目に家作りて住みけるに、これも不幸にして昨嘉永三年歿したりと     ぞ。残りしものは借財と三つになる子ばかりとぞきく、惜しむべし。文一が子ありしが如何なりしか    〔『増訂武江年表』〕    ・八月、蹄斎北馬の画ける『狂歌続歓娯集』出版   ・十二月、国芳の画ける『山海愛度図会』と題せる錦絵出版〟    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、葛飾北斎房総地方の客舎に在りて支那の一覧図を画く   ・一勇斎国芳の傑作『写生百面叢』。北斎の画ける『和漢陰隲伝』。広重の画ける『興歌六々集』出版。    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕      (一般)   ・四月朔日より、芝神明宮内にて、天満宮御筆の像開帳(此の時境内へ、京より来りし壬生(ミブ)狂言を    見せ物とす。後浅草寺境内へも出る。面白き事にて有りしがさしてはやらず)   ・十月十三日、浅草寺本堂修復成就にて、今夜酉下刻、本尊念仏堂(本堂普請中本尊此の堂に安置し奉る)    より遷座あり(遷仏の間は惣門を閉し、講中の外入る事をゆるさず)。終りて暫時開帳あり。道俗群集    す(此の時迄、本堂に曾我蛇足が末孫寂が筆の惟茂鬼女の額、蘭斎文祥が筆の関羽額、鈴木芙蓉が筆の    の予譲の額等ありしが、普請の時はずしたる儘再度掲ぐる事なし。惜しむべし)     筠庭云ふ、浅草寺本堂の額、此の時より見えぬもの猶あり。古き額にて揚香が虎を逐ふ図なくなりて、     今岸良が画見えたり。蘭斎が孔雀などもなし、江漢が油画周防錦帯橋の図、これは本堂修復前より見     えず〔以上二項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・羽州新庄郡、百姓林助が孫長次郎とて十四歳になれるもの、六、七年前より両眼自在に出這入(デハイリ)    す。眼の玉大さ一寸余もあるべし。其の出たる眼へ紐を下げ銭貫文を掛くる。つひに江戸に出して宮地    広場等において見せ物とす〔『増訂武江年表』〕    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p126(藤岡屋由蔵記)   ◇開帳 p126   〝当年開帳之分    王子稲荷大明神  二月廿八日より六十日之間。飛鳥山に、京都嵐山の桜を植る    小石川牛天神   三月三日より五十日之間    根津権現地主駒込稲荷社 四月朔日より六十日之間。境内に吉野の桜を植る    芝神明宮地主天満宮 四月朔日より同断    飯田町田安稲荷  三月朔日より    四谷十二社    四月朔日より    佐州塚原根本寺    鎌倉光則寺〟     ◇敵討ち p132     〝四月九日夜四ッ時、飯倉町親の敵討有之    常陸国筑波下武茂郡下那珂西むら百姓乙吉伜乙蔵、親の敵藤十郎を討也、親乙吉を討れ十余年にて討申    候よし〟     ◇天王祭錺物 p136   〝(六月)小舟丁天王錺もの、六ヶ処出来る也    丸太河岸  大坂新町吉田屋坐しきの景、夕ぎり伊左衞門、人形二ッ    薬師堂前  仙台萩御殿場、人形三ッ    諏訪新道  富士之狩場曽我兄弟の夜打之段、人形三ッ    牢屋裏門  伊賀越敵討、人形三ッ    亀井町表町 かさね与右衛門、人形三ッ    裏河岸   宮本武蔵、人形三ッ〟     ◇流行 p136     〝当夏中流行    黒川盗賊   飯倉敵討   榎町流玉   本郷蔵陥   藤橋切捨   霞関身投    荒井紙屑買  合羽坂大馬鹿 押合入替   高輪落馬   品川入水   石町児舂    方丈建直   浅草出奔   千束軍揃   藤間大浚   池端隠居会  神田金拾ひ    石原花火   石原(右京カ)町櫛かたり    奥山大仕掛  百文書画会  常磐津浴衣揃    宮様豊年   秋田大蛙   市川二百年忌 高田揚羽   十二社角乗り 目白聞違    葺屋町実長   以上三十〟    ☆「天保十二年 辛丑 正月閏」(1841)   (浮世絵)   ・此年四月、一立斎広重甲州に行く。    〔『【新撰】浮世絵年表』〕     ・正月、八島五岳の画ける『俳諧画譜』。       竹原春泉の『絵本百物語』。       北斎北渓の画ける『花の十文』出版    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉    なし     (一般)   ・三月二十八日より、浅草寺観世音開帳(奥山にて驢馬を見せ物とす。又菊川国丸といへる者、同所にて    曲鞠(キヨクマリ)を蹴る。見物日毎に山をなせり。又淀川富五郎といへるものゝ作りし貝細工の見せ物もあ    り)   ・五月より、坊間の法度中古に復すべき旨を令せらる(此の事は憚り多ければこゝに略す)   ・五月二十九日、俳人大梅居卒す(七十歳、始め北山門人にして梅外又克徒、詩を善くし後道彦が門に入    りて俳諧の嗜(タシナ)めり。御蔵前の富商小島屋酉之助といふ。家衰へて後元大工町に居し、房斎と号し    て菓子を售(アキナ)ふ。孤山剰庵等の号有り。浅草寺中修善院に葬す。深川長慶寺に碑あり。門人卓郎之    を建つ。辞世、七十やあやめの中の枯尾花)   ・六月より、浅草念仏堂にて、箱根荒人神開帳(境内に大坂細工人柳文三の作瀬戸物細工の見せ物出る)〟   ・九月、両国橋西広小路へ、紀州和歌山生まれにて歯力鬼右衛門といふもの見せ物に出る。磁器の茶碗を    噛み割り、或ひは鐘の龍頭(リユウズ)を口にくわへ、其の余重き物をくはへて自在に扱ふ。又浅草寺の奥    山へ、釣馬となづけて曲馬を乗り、後に馬人ともに宙に釣り上る見せ物出たり〟   ・十月七日、暁七半時、堺町より出火、両座芝居、堀江六軒町、元大坂町、新和泉橋、新乗物町其の外類    焼〔以上六項『増訂武江年表』〕   ・十一月十六日、高直の物飲食衣類髪飾等、花美奢侈の儀厳重御触有   ・十二月三日〈町触れ〉近来役者共芝居近辺に住居致し、町屋同様立交り、殊に三芝居狂言甚だ猥らに相    成り、自然市中へ風俗押し移り、流行事多く芝居より起き候、依て往古は兎も角も当時御城下市中に差    し置き候ては、之を取り締まらざる事に付、狂言座操芝居其外右に携へ候町屋の分残らず引き払ふ仰せ    出だされ候    〈十月七日の堺町中村座、葺屋町市村座の火災を契機に、幕府は芝居及び役者の隔離を計ったのである〉   ・十二月廿八日、鳥居甲斐守殿町奉行仰せ付らる    〈「蛮社の獄」で渡辺崋山や高野長英らの蘭学者を弾圧した鳥居甲斐守耀蔵「妖怪(耀甲斐)」、今度は町奉行として     の登場である〉〔以上三項『きゝのまに/\』〕     〈一般年間〉  ◯『藤岡屋日記 第二巻』p155(藤岡屋由蔵記)   ◇驢馬 p163   〝当二月、浅草観音開帳に付、御入国以前より相続罷在候並木町海苔御用正木庄左衞門事、金設け可致と    存付、大明国大驢馬を長崎表より金四百両に買受候由、見世物小屋掛り迄七八百両も入用懸り候との事、    近々停止沙汰にて大迷惑致し候との事、右は宗対馬守殿御館へ預ヶ置候との事     耳長く惣身鼠色、大さ馬程、鳴く声井戸釣瓶を汲音の由、時をたかへず時刻々に鳴候よし〟     ◇十一代将軍家斉唱逝去 p163   〝天保十二辛丑年閏正月晦日    大御所家斉公薨御 御寿六十九、御治世五十一年〟   〝御停止名中芝居願立之咄し    此度鳴物御停止永く、日限も相わからず、芝居掛り之者共一同困窮仕、妻子置去り、種々難渋致し候者    共出来、実に必至と相成候に付、芝居より一同願ひ出、右困窮申立、何卒格別之御慈悲を以芝居興行仕    度願出候処、御奉行所にても至極尤之様にも思召候得共、天下一同鳴物停止に付、迚も今少し相待候様    被仰付候処、芝居之者共猶又願候は、左候はゞ停止相済候迄鳴物なしに興行仕度由相伺ひ候処、無鳴物    に興行は相成間敷、如何之工夫を以仕候哉と御尋に付、申上候は、時代狂言は無鳴物には仕難く、世話    狂言取仕組可申段申上候処、夫はなんと申狂言を致し候哉と御尋に付、申上候は、春狂言の続き第二番    目上野よし兵衛町人ごろしと申狂言可然候と申上候よし〟     ◇開帳    〝三月廿六日、本所回向院ぇ熊谷蓮生寺開帳着、廿八開帳初日也〟   〝三月廿七日、甲州石和鵜飼山祖師、浅草玉泉寺へ着、廿九日開帳初日也〟     ◇よ組・わ組仲直り p179   〝三月廿五日、神田明神境内伊勢嘉にて、よ組・わ組中直り〟     ◇曲鞠・菊川国丸 p179   〝三月、浅草観音開帳之砌、奥山において三日(ママ)廿三日より、大坂下り風流曲手まり太夫菊川国丸       曲鞠番組 次第    大序 寿三番叟 高まり    第二 ありわらのむかし男の姿とは おこがましくも渡る八ッ橋    第三 豊年を悦ぶ翁煙草 こくうを走る仙人の術    第四 張良が沓を捧し橋ならで 是は風流木曾の桟橋    第五 膝渡し左右流しや滝落し 浪を分つゝ雲にかくるゝ    第六 小廻りしゑを拾いッヽ、遊ぶ鞠 雲井はるかに渡る中釣    第七 生花を受流しッヽ折敷て 大廻りしてむかふ乱ぐひ    第八 登り龍くだりし龍や虎こま(ママ) たすきにかけて雁の入首    第九 柴船を足で留たる平た蛛 高く蹴あげて見るも一曲    第十 八重桜額にかけて腕流し、雲井を通ふ雁金の曲〟     ◇見世物 p181   〝【浅草念仏堂】曽我両社開帳 七月朔日より    瀬戸物細工 牛若弁慶五条橋  樊噲門破り 鬼の念仏藤娘 笑ひ大黒 茶の湯座敷    貝細工   貝細工人 淀川富五郎 人形師和泉屋五郎兵衛          【俵藤太遊女】大蛇に百足【凡十間余前手すり 五条橋】          大原女草苅 雀竹 色遊 其外鉢植二十品    見世もの大評判、其外に    太刀持 子供刀持 神事さゝら獅子 糸細工 空乗大曲馬 小人島足長島 目出太郎 狐娘 角乗    人形 刀持〟       ◇両眼自在 p184   〝羽州最上郡新庄二間村百姓林助孫長次郎とて十四才に成けるが、六七年前より両眼自在に出這入す、眼    の玉大さ一寸余も有べし、其出たる眼へ紐を下げ、銭五貫文、或は石、色々のもの右に順じ懸る故、終    に江戸に出して両国宮芝居広場に於て見せものとす。但し、絹針のめどを通し矢を射る〟      ◇倹約令 狂詩 p193   〝(五月)狂詩五言    世間如享保  衣類道具麁  鼈甲百目櫛  人形八寸雛    印籠無梨地  緒〆禁珊瑚  来春初卯日  驕可限一銖〟       ◇開帳 p200   〝六月廿八日、越後高田善導寺、回向院にて開帳初日也、六十日之間〟   〝七月朔日より、箱根曽我社、浅草観音境内之念仏堂に於て六十日之間開帳有之、六月十二日当地ぇ到着    也、其節江戸中講釈師・富士講、大勢にて御迎に出、群衆致すなり〟     ◇不忍池茶屋取り払い p206   〝(八月)不忍池新土手茶屋其外共、不残取払に相成候。同十一月土手取崩に相成候〟     ◇見世物 p217    〝九月、両国橋西広小路ぇ、紀州和歌山の生れにて、歯力鬼右衛門といふもの見世物に出るなり。磁器の    茶碗をかみ割、或は大だらい差渡し六尺子供二人入れ、是をくわへ踊り、鐘の龍頭を口にくわへ、右臼、    右と左りへ四斗俵のせ、口にくわへ矢をいる、誠に奇妙也、重きもの四五十貫のものをくわへ自在に扱    ふ也〟   ◇芝居火事 p221   〝十月六日、堺町中村座芝居より出火致して、葺屋町市村座茶屋其外とも類焼致し、稲荷堀迄焼る也。右    火事に付、芝居浅草へ引る也〟     ◇町触 p228   〝同日(十一月廿九日)諸向達町触    之絵柄、近来彩色等致し、無益之手数を懸ケ、高直之品有之趣相聞候、此節仕廻時節ニ付、依頼右様    之凧、并大なる凧、決而仕入申間敷候〟     ◇三芝居移転 p228   〝(十一月)三芝居ぇ被仰渡候条    此度市中風俗改候様御趣意有之候処、近年役者共芝居近辺に住居致し、町家之者同様立交り、殊に三芝    居共狂言仕組甚猥に相成、右に付自然市中ぇ風俗押移り、近年別て野鄙に相成、又は流行之事抔多くは    芝居より起候義に付、依て往古は兎も角も当時御城下市中に差置候ては御趣意にも相戻り候、一躰役者    共義は身分之差別有之候処、いつとなく隔も無之様に相成候は不取締之事に付、此節堺町・葺屋町両狂    言座并操芝居、其外右に携候町屋之分不残引払被仰付、乍併弐百年来居付之地相離難候者、品々難義之    筋も可有之に付、相応手当可被下、替地之義は取調べ、追て可及沙汰、木挽町芝居之義は追て類焼又は    普請大破に及候節、是又引払可申付候間、兼て其旨可存、尤権之助狂言座之義は来春興行相始候共、仕    組方役者共猥に素人に不立交候様、取締之義も厚く心得可申事〟   〝〈替地について、十二月十八日、水野越前守殿より町奉行への書付〉    (前略)    替地之義も浅草今戸聖天町近辺にて可成丈ヶ一纏に可相成場所取調、可被相伺候、尤木挽町芝居之儀も    追て類焼致候哉、普請大破に及候節、為引払候間、其心得を以替地取調可被申聞候、且又芝居に携り候    町家之義も入替致候積もり、地坪并御手当金之義取調可被申聞候、(以下略)〟   〝十二月    堺町中村座・葺屋町市村座両芝居、引払被仰付、浅草にて替地被下、引料金五千五百両被下。    右廿九日に厳敷被仰渡候〟    〈翌十三年正月十一日、中村座及び市村坐へ沙汰あり、替地は小出伊勢守下屋敷、一万七十八坪。二月     朔日、千四百二十二坪追加、そして、四月廿八日、町名を猿若町とする旨の申し渡しあり〉     ◇娘浄瑠璃 p230   〝(十一月廿六日、女浄瑠璃三十五人召し捕られ、家主は手鎖、席亭女子は入牢)     題娘浄瑠理狂詩    当時流行人寄場   多是浄瑠理語嬢   日夜平生棹与撥   朝暮無隙紅粉粧    坐料内々金百疋   太平仮名新六行   勤番稽古更如鼾   鼾義太夫誉如鴬    君不見一月雑用   旦那半分見透贈間夫 町内評判千本突   又言仇名万年雛    度々看触少雖隠   平均名付莫止時   売淫天罰已為廬   将是因縁地獄堕    未忘昨夜巫山雨   難歩今朝行後路   空叫非常眼泣腫   坐食握飯口猶腥    呼出吟味白州上   見物大勢伝馬町   俄誦発心観音経   頻祈父母責聖天    一把大根捧欲油   二朱死金護摩烟   堪笑復古是享保   可足栄花幾何年〟     ◇町触 p239   〝十二月(女髪結いの渡世を禁ずる)〟   〝櫛笄又は手拭其外之翫様之物に、歌舞伎役者之紋所付候義、是又風俗之妨にも相成    候間、以来は右様之品々、役者紋付候義堅致間敷候〟    ☆「天保十三年 壬寅」(1842)   (浮世絵)   ・六月、国貞の画にて種彦の作なる『偐紫田舎源氏』を出版せる鶴屋喜右衛門、町奉行所に召喚せられ板       木取上げられ且つ所払の刑に処せらる。作者種彦は調べ中翌七月、此の事を苦に痛みて歿せり。       当時は水野越前守忠邦諸政改革の折とて、六月の禁止令に『自今新板書物の儀、儒書仏書神医書       歌書都て書物類其筋一通の事は格別、異教妄説を取交へ作り出し、時の風俗、人の批判等を認候       類、好色画本等堅く可為無用事』といふ箇條あり        〈下記『筆禍史』「偐紫田舎源氏と水揚帳」参照〉     ・六月四日、幕府絵草紙人情本等の取締令を下し、俳優妓女等の一枚摺錦絵の刷行併びに売買を禁じ、且         つ合巻絵双紙の絵組に俳優の似顔狂言の趣向を用ひ、或は表紙上包に一切彩色を施す事を厳         禁せり        〈下記『筆禍史』「絵草紙人情本等取締厳令」参照〉     ・七月、更に令を発し、人情本の売買貸借を禁止し、書肆蔵する所の其書冊併せて板木を没収せらる        〈下記『筆禍史』「人情本春画本数種」参照〉     ・十一月、晦日、幕府又令を書肆組合世話掛名主に下し、合巻絵草紙の類、都て草稿中に掛りの名主番の        認印を受け、出版の際検定せしむる事とせり〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、名古屋の永楽屋東四郎より『蕙斎麁画』出版。渓斎英泉、梅亭華渓等の画なり    〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・去年十月、堺町葺屋町の芝居焼失後、両座并びに操人形座、浅草山の宿小出侯御下屋敷の地へ引き移る    べき旨の公命ありしが、当二月三日同所にて替地を下し給はる(四月二十八日より町名を猿若町と号す。    木挽町の芝居も追つてはこゝに引かるべきよしにて、三町分替地惣坪数一万七十八坪余と聞ゆ。この庭    中に昔の一里塚の跡といふもの、五間に十間高一丈余の山あり。又姥が池の旧地と称するものあり。池    を埋めて小祠を建つる。小出家の御下やしきは鼠山へ移させらる。是れより後歌舞伎役者他町の住居を    禁ぜられ、この三町の内に住居せしめらる。又途中編笠をかむる。      をちこちのたれのむれくる山の宿さるわかまちとよぶ小鳥か那〟   ・三月十八日、官府より命ぜられて、江戸端々の料理茶屋二十余箇所取払ひ、酌取女(シャクトリオンナ)は吉原へ    入る(八月迄次第に引き払ひ、吉原へ一家引移りて娼家となるもあり)   ・〔筠補〕六月初旬、絵草紙屋芝居役者遊女など悉く停止。又人情本作者為永(タメナガ)春水手鎖(テグサリ)    〔以上三項『増訂武江年表』〕   ・当月〈六月〉始め、絵草紙屋に芝居役者并に遊女絵悉く停止、人情本と云ふ中本の作者為永春水入牢、    柳亭種彦【高屋彦四郎】は頭【永井五右衛門歟】より呼出し、其方に柳亭種彦と云ふ者差置き候由、右    の者戯作致す事宜しからず、早々外へ遣し相止めさせ申すべしと云ひ渡したりとかや、春水が作は元よ    り、柳亭が田舎源氏など皆絶板と成る、【板本横山町鶴やは元より家業難渋にて、源氏の草さうしを思    ひ付て、柳亭を頼み作らせしが、幸いに中りを得て本手多く入て、段々つゞき出し售ければ、やゝ生活    を得し処、其板を失ひ忽ち没落せり、柳亭も此本の作料に利有て、元の住所より遙かによき家を求て移    住、此節は大病にて、此事有て弥々以てわろく遂に身まかれり】    いとおかしきは国芳が書る、頼光病床に在て四天王の力士らの夜話する処、上に土蛛の化物顕れたる図、    俗に有ふれたる画也、夫を何者か怪説を云う出し、当時の事を諷しある物とて、此絵幸に売たり、此内    おかしと云るは、彼土蛛いかにも画工の筆めかぬ不調法なるが、却て怪くみゆ、是は本所表町、俗に小    産堀と所に提灯屋有り、初めは絵かく事を知らぬ者にて、凧を作りて猪熊入道とやら云て、髑髏の様な    る首をかき、淡墨と藍にて彩る、其辺の子供ら皆是を求めしが、国芳此をかたどりて書たりとみゆ〟    〈国芳の「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」の出版は天保十四年のこととされる。『武江年表』の補注者でもある記者・喜     多村信節がなぜ十三年の項に書き入れたものか不審である〉〔『きゝのまに/\』〕   ・六月より、回向院にて、南都法隆寺聖徳太子開帳(霊宝数多拝せしむ。何れも古物なり。当春深川の開    帳よりして、乱杭渡(ラングイワタ)りといふ物行はれ、此の度も境内へ出る難波亀吉、菊川伝吉などいふも    の也)〔『増訂武江年表』〕   ・六月九日、猿若町地渡あり、当月俳優市川海老蔵奢侈之御咎にて欠所追放に成、一旦総州に成田に引退    き、後大阪へ登る。欠所中に真の鎧有、狂言に用たる也、又成田不動は祖先より信仰之仏にて、是を祈    る須弥壇は、相応の寺院に用る計の結構也と云り〔『きゝのまに/\』〕   ・七月十九日、戯作者柳亭種彦卒す(称彦四郎、号足薪翁、赤坂浄土寺に葬す。辞世、散るものに極る秋    の柳哉)     筠庭云ふ、高屋彦四郎、頭より呼ばれて申付けられるゝやう、其の方に柳亭種彦といふものありて戯     作致すよし、已来戯作致させ申間敷(モウスマジク)との事なりとかや。程なく歿す(興云ふ、種彦は切腹     して死したるなりと)   ・八月、猿若町操芝居初興行(結城座)   ・九月、猿若町一丁目中村勘三郎、同二丁目市村羽左衛門が芝居初興行〔以上三項『増訂武江年表』〕   ・猿若町普請追々出来、人形芝居結城座は八月より、羽左衞門は九月廿四日頃、勘三郎は九月六日頃より    興行之由〔『きゝのまに/\』〕     ・十一月、琉球人来聘、正使浦添王子、副使用座喜見親方なり〟   ・当冬、木挽町五丁目河原崎権之助芝居顔見世狂言興行中、命せられて猿若三丁目へ引移るべき替地を給    ひ、翌卯年秋にいたり土木の功成りて、芝居掛りの者残らず移る〔以上項『増訂武江年表』〕   ・十一月廿一日、回向院にて相撲初る、不知火諾右衛門横綱免許〔『きゝのまに/\』〕     〈一般年間〉  ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇開帳 p244   〝当年開帳分    湯島天神     三月朔日より六十日之間    神奈川浦島寺観音 深川八幡境内にて、同日より同断    成田不動尊    同前にて三日より同断    中野宝仙寺不動  四月朔日より同断、居開帳也    品川千体荒神   右同断    高輪太子堂    右同断    浅草柳の稲荷并本地仏 右同断    大和国法隆寺   六月朔日より回向院にて六十日之間〟     ◇禁制 p245     〝二月十四日より寄場・講釈場御禁制なり、江戸中二百十三軒之内十五軒御免に成、三十五年以前之寄     は残し、三十四年以後は取潰す也、但し、女浄瑠理は不及申、鳴物音曲は不相成、軍書講談・昔噺し     計、十一日に江戸組々取締懸名主御呼出にて、遠山左衞門尉様御番所にて申渡之〟     ◇曲芸 p264   〝四月廿九日    此節、深川八幡・成田山開帳にて成和亀吉乱杭渡り大評判なり〟     ◇歌舞伎役者の処罰 p264   〝四月二日、南番所にて、市川海老藏、本名は成田屋七左衞門、手鎖に相成る、是は格別に奢に依て也    右に付、木挽町芝居大入之処、休に成也   〝同十日、中村歌右衛門、相撲見物して預けに相成也〟   〝同十四日、市村羽左衞門・板東彦三郎・嵐吉三郎・中村歌右衛門、御呼出し有之。北、遠山佐衞門尉様    御白州にて、素人と立交り申間敷段、被申渡候〟     ◇役者似顔絵禁止 p271   〝天保十三寅年五月    飛騨内匠棟上ゲ之図、菅原操人形之図役者似がほニて御手入之事    去十一月中、芝居市中引払被仰付、其節役者似顔等厳敷御差留之処、今年五月、神田鍋町伊賀屋勘左衛    門板元ニて、国芳之絵飛騨内匠棟上ゲ図三枚続ニて、普請建前之処、見物商人其外を役者の似顔ニ致し    売出し候処、似顔珍らしき故ニ売ル也。又本郷町二丁目家根屋ニて絵双紙屋致し候古賀屋藤五郎、菅原    天神記操人形出遣之処、役者似顔ニ致し、豊国の画ニて是も売る也     右両方の画御手入ニて、板元二人、画書二人、霊岸島絵屋竹内、日本橋せり丸伊、板摺久太郎、〆七     人三貫文宛過料、     画師豊国事、庄蔵、国芳事、孫三郎なり    六月中役者似顔・遊女・芸者類之絵、別而厳敷御法度之由被仰出〟    〈この二つの役者似顔絵、「飛騨内匠棟上ゲ図」(国芳画・伊賀屋板)と「菅原操人形之図」(豊国画・古賀屋板)に     関して、曲亭馬琴が次のような記事を残している〉     (天保十三年九月二十三日付、殿村篠斎宛書翰(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-10)⑥50)   〝当地之書肆伊賀屋勘右衛門、当夏中猿若丁両芝居之普請建前之錦絵をもくろミ候所、役者似顔絵停止ニ    成候間、其人物の頭ハ入木直しいたし、「飛騨番匠棟上の図」といたし、改を不受して売出し候所、其    絵ハ人物こそ役者の似面ならね、衣ニハ役者之紋所有之、且とミ本・ときハず・上るり太夫の連名等有    之候間、役者絵ニ紛敷由ニて、売出し後三日目に絶板せられ、板元勘右衛門ハ御吟味中、家主ぇ被預ケ    候由ニ候。又、本郷辺之絵双紙や某甲の、改を不受して売出し候錦絵ハ、似面ならねど役者之舞台姿ニ    画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きたるを画き添候。是も役者絵ニ似たりとて、速ニ絶板せ    られ候由聞え候。いかなれバこりずまニ、小利を欲して御禁を犯し、みづから罪を得候や。苦々敷事ニ    存候。是等の犯人、合巻ニもひゞき候て、障ニ成候や。合巻之改、今ニ壱部も不済由ニ候。然るに、さ    る若町の茶屋と、下丁成絵半切屋と合刻にて、猿若町両芝居之図を英泉ニ画せ、四五日以前ニ売出し候。    是ハ江戸絵図の如くニ致、両芝居を大く見せて、隅田川・吉原日本堤・田丁・待乳山・浅草観音抔を遠    景ニ見せて、人物ハ無之候。此錦絵ハ、館役所ぇ改ニ出し候所、出版御免ニて売出し候。法度を守り、    後ぐらき事をせざれバ、おのづから出板ニ障り無之候を、伊賀屋の如き者ハ法度を犯し、後ぐらき事を    せし故ニ、罪を蒙り候。此度出板の両芝居の錦絵ハ高料ニて、壱枚四分ニ候。夫ニても宜敷候ハヾ買取    候て、後便ニ可掛御目候〟        〈馬琴記事の「飛騨番匠棟上の図」と「似面ならねど役者之舞台姿ニ画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きた     る」図とは、その板元名から『藤岡屋日記』の国芳画「飛騨内匠棟上ゲ之図」と豊国(国貞)画の「菅原操人形之図」     に相当すると考えられる。しかし、藤岡屋記事の方は「役者の似顔ニ致し」たのが処分理由であり、馬琴の書翰にい     う「似顔ならねど」「役者絵に紛識」故の絶板処分とはちがっている。とりあえず、双方の記事に信を措いてみると、     『藤岡屋日記』の「飛騨内匠棟上ゲ之図」と馬琴書翰の「飛騨番匠棟上の図」とは別ものと考えられる。馬琴のもの     は、禁制の役者似顔をやめ入木して頭を直し紋所を入れたものであった。つまり似顔絵仕立ての原画が存在すること     になる。それは『藤岡屋日記』が記す五月に手入れに遭い板元・絵師ともども過料を命じられた「飛騨内匠棟上ゲ之     図」であろうか。しかしそうだとすると、似顔絵仕立ての「飛騨内匠棟上ゲ之図」とその自主規制版である「飛騨番     匠棟上の図」とがそれぞれ処罰されたことになる。五月、似顔仕立てに対して処分が下ったのち、こりずにまた入木     して異版を出す、それが三日も経ずしてまたもや絶板処分である。いかに「こりずまニ、小利を欲」する板元だとし     てもそんな危険を冒すであろうか。いずれにせよ、馬琴記事と藤岡屋記事との関係については、後考に待ちたい。と     ころで、幸いなことに、似顔絵仕立ての画が残されているので、画像を引いておく。ただ、画題は藤岡屋の記す「飛     騨内匠棟上ゲ之図」ではなく「飛騨匠柱立之図」である。それで、藤岡屋由蔵が「柱立之図」を「棟上之図」と書き     誤ったとする説もあるのだが、これまたよく分からない。ともあれ豊国画の「菅原操人形之図」の方も役者絵に紛ら     わしいという理由で、即刻絶版になった。役者似顔絵にとって、受難の時代がなお続く、九月下旬になると、英泉画     の「猿若町両芝居之図」が館市右衛門の改めを通して出回るようになったが、これは人物像のない「江戸絵図」のよ     うな芝居図であり、依然として役者絵の出版に関しては警戒すべき状況が続いていたのである。参考までに、英泉の     「猿若町芝居之略図」(大々判錦絵、板元、中野屋五郎右衛門・三河屋善治郎、文花堂庄三郎)も併せてあげておく〉
   「飛騨匠柱立之図」一勇斎国芳画    (ウィーン大学東アジア研究所FWFプロジェクト「錦絵の諷刺画1842-1905」データーベース)
   「飛騨匠柱立之図」 一勇斎国芳画    (Kuniyoshi Project「Comic and Miscellaneous Triptychs and Diptychs, Part I」に所収)
   「猿若町芝居之略図」 渓斎英泉画 (東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)     ◇役者似顔・遊女芸者絵の禁制 p275   〝六月、役者似顔、遊女芸者類ひの錦絵・合巻・草紙の類御法度被仰出之〟     ◇町触 p276   〝六月四日 町触    錦絵と唱、哥舞妓役者・遊女・芸者等を一枚摺ニ致候義、風俗ニ拘り候ニ付、以来開板ハ勿論、是迄仕    入置候分共、決而売買致間敷候、其外近来合巻と唱候絵草紙之類、絵柄等格別入組、重ニ役者の似顔、    狂言之趣向等ニ書綴、其上表紙上包等粉(ママ)色を用、無益之義ニ手数を懸、高直ニ売出候段、如何之義    ニ付、是又仕入置候分共、決而売買致間敷候、以後似顔又ハ狂言之趣向等止、忠孝貞節を取立ニ致し、    児女勧善之為ニ相成候様書綴、絵柄も際立候程省略致、無用之手数不相懸様急度相改、尤表紙上巻(包    ?)も粉色相用候義、堅可為無用候、尤新板出来之節は町年寄ぇ差出改請可申候。      但、三枚続より上之続絵、且好色本等之類、別而売買致間敷候〟     ◇市川海老藏、江戸十里四方追放 p277   〝六月廿二日、木挽町芝居外題、五ッ調金紋五三の桐狂言興行中、狂言役者市川海老蔵被召捕〟    〈倹約令違犯、曰く「向長押作り、塗がまち等致し、道具類其外花美高価の品所持致し、奢侈之所業に及候」〉     ◇市村座看板上がる p283   〝(七月)猿若町一丁目操人形大薩摩坐、第一番に普請出来也。市村坐も建也、七月十六日に看板上る也〟     ◇町触 p284   〝七月七日 町触    近来人情本と唱候者流行致候処、右ハ風俗ニ拘り不宜候ニ付、本屋共所持之本并板木は取上ゲ候間、以    来売買貸借等決而令停止候事。     此日端々葭簀張之出茶や取払〟     ◇柳亭種彦逝去 p284   〝七月十九日    戯作者柳亭高谷(屋)種彦卒。    称彦四郎、号薪翁(足薪)、赤坂浄土寺ニ葬。      辞世 散るものに極る秋の柳かな〟
   「柳亭種彦肖像」 国貞画 (早稲田大学「古典籍総合データベース」岩本活東子撰『戯作六家撰』)     ◇沢村宗十郎・尾上梅幸御咎 p289   〝九月十九日、哥舞伎役者   宗十郎 梅幸 御咎    右は編笠冠り候様兼々申渡置候処、木挽町芝居ぇ罷出候役者之内、右両人編笠失念致し、冠り不申候に    付、吟味中手鎖之処、同日過料三〆文ヅヽ被申付〟      ◇市村座興行 p290   〝九月廿七日、市村坐芝居普請出来に付興行、狂言伊賀越也〟     ◇出版関係者の処罰 p291   〝十月十六日  寺門五郎左衛門 号静軒    一 江戸繁昌記作者、板本小伝馬町丁子屋平兵衛御咎メ、所構ニ而、大伝馬町二丁目ぇ引越ス。    一 田舎源氏作(者脱)柳亭種彦・小説(以下ママ)田舎源氏作者為永春水・南仙笑杣人二世 人情本作者      右三人当時之人情を穿、風俗ニ拘候間、以来右様之戯作可為停止、叱り、板木取上ゲ焼捨也〟     ◇和田源七処罰 p294   〝十月十日、鈴木町名主和田源七、私に庇を取らせ候に付、糺之上押込、相済候て隠居致し候、勤役五十    四年之内、年は七十余歳也。仙女香の見世を出し置、絵双紙懸也〟     ◇不知火横綱免許 p394   〝両国回向院にて勧進相撲興行    肥後、不知火諾右衛門、横綱免さる也〟       ◇色摺り回数制限 p302   〝十一月 町触    絵双紙類、錦絵三枚より余之続絵停止。    但、彩色七八扁摺限り、直段一枚十六文以上之品無用、団扇絵同断、女絵ハ大人中人堅無用、幼女ニ限    り可申事、東海道絵図并八景・十二・六哥仙・七賢人之類は三枚ヅヽ別々に致し、或ハ上中下・天地人    抔と記し、三ヅヽ追々摺出し可申分ハ無構、勿論好色之品ハ無用之事〟    〈天保の改革によって様々な制限が課せられた。値段は一枚16文。なお八月に銭相場が一両6500文に定められた〉    ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十二「娼家下」③364   (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝岡場所    おかばしよと訓ず。江戸吉原のほか、非官許の遊女の地を俗に岡ばしよと云ふなり。天保十三年、官命    してこれを禁止す。三月、官命して八月晦日に仲町以下これを止め、尋(ツイ)で家居を壊(コボ)ち廃す。    その後、他業の者家居を造り、遊女今に至りて再行せず〟    ◯『筆禍史』「偐紫田舎源氏と水揚帳」p139   〝柳亭種彦著なり、『戯曲小説通志』に曰く     田舎源氏は頗る傑作として当時に持囃されたり、此書たるや、源氏物語を根拠として時代を近古に取     り、文詞の優麗、語句の精妙は云ふに及ばず、数十婦女の容貌気質を写出して、各種各様、姿を換へ     態を異にし、筆々変転、絶えて類似の痕跡だに露はさゞるが如き、実に草双紙中の覇王たり(中略)     然れども種彦が禍を買ひしも、亦此田舎源氏に在り、天保十三年閣老水野忠邦の弊政を釐革し、風紀     を匡正するや、卑猥の稗史小説を挙げて悉く絶版を命ぜしが、此際人あり上告して云く、種彦幕府の     禄を食み徒に無用の文筆を弄し、其著はす所の田舎源氏は、托して以て殿中の陰事を訐きたるものな     りと、是に於て種彦亦吏の糾訊する所となれり、然れども組頭の弁疏頗る理ありしかば、事暫く解く     ることを得たり、此より種彦禍の其身に及ばんことを憂ひ、恐懼の余り終に病を発し、同年七月十八     日を以て歿す、享年六十歳。    又『史海』には、柳亭種彦が其著『水揚帳』といへる春画本のために、糾問を受けんとせし事ありし旨    を記せり、又種彦は病死に非ずして自殺なりとの説あり、大槻翁の談に曰く      柳亭種彦自殺説      柳亭種彦は本名高屋彦四郎といふ旗本の士であつたが、最初田舎源氏のために、高屋彦四郎名義宛の     差紙(呼出状)が来たので、奉行所へ出頭すると、奉行遠山が「其方の宅に柳亭種彦といふ戯作者が     居るそうであるが、近年如何はしい作本をいたして不都合であるから、其方より以後はさやうの戯作     相成らぬやう申聞けよ」と達せられた、役人の方では、彦四郎と種彦とは同人であることを知つて居     ながらの訓戒であつたのだ、そこで当日種彦は、唯々恐縮低頭で引下つたが、さて其後『水揚帳』と     いふ春画本も、種彦の作なりと告げる者があつたので、奉行所から再び差紙が来た、すると種彦大き     に愕いて、今度は迚も逭れられまいが、何とか方策はあるまいかと心配の極、兎も角もとて、病気届     をして出頭の延期を願つた、ところが「病気の由なれどもたつて出頭これあるべし」と重ねての差紙     が来たので、種彦は其夜終に自殺をして、昨夜病死いたし候といふ死亡届をなさしめたのであるそう     な、しかし、種彦の門人梅彦などは此説を非認して居たが、某々等は自殺を事実として居た云々       〔頭注〕淫書研究家の著作    柳亭種彦は淫書研究家たりしなり『春画好色本目録』といへる元禄前刊行の絵入本解題の著あり、また    『水揚帳』のみならず『春色入船帳』外数種の淫本をも著作して秘密に出版せしめたりといふ              源氏絵の大流行    『田舎源氏』は徳川大奥の状態を写せしものなりとて、満都の歓迎を受け其売行も非常なりしかば、当    時その『田舎源氏』によれる源氏絵といふ錦絵大に流行せり              田舎源氏の版元    天保十三年寅六月、合巻絵草紙田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門を町奉行所へ召出され、田舎源氏作者種彦    へ作料何程宛遣し候哉を吟味与力を以御尋有之、其後右田舎源氏の板残らず差出すべしと被仰付候、鶴    屋は近来渡世向弥不如意に相成候故、田舎源氏卅九編迄の板は金主三ヶ所へ質入致置候間、辛くして請    出し則ち町奉行所へ差出候処、先づ上置候様被仰渡て、裁許落着は未だ不有之候得ども、是又絶板なる    べしと云(著作堂雑記)〟     〈『偐紫田舎源氏』の画工はすべて歌川国貞。『水揚帳』は婦喜用又平(国貞)画で天保七年刊。『春色入船帳』は九尻    亭佐寝彦(種彦)篇・一妙開程よし(国芳)画で天保八年刊〉
   『偐紫田舎源氏』 柳亭種彦作・歌川国貞画 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース)    ◯『筆禍史』「絵草紙人情本等取締厳令」p133   〝六月四日幕府令を下し、俳優妓女等の一枚摺錦絵の刷行并売買を禁じ、且つ合巻絵双紙の絵組に俳優の    似顔狂言の趣向を用ゐ、或は表紙上包に一切彩色を施す事を厳禁す、七月幕府更に令を発し、人情本の    売買貸借を禁止し、書肆蔵する所の該書冊并板木を没収せらる。    十一月晦日令を書肆組合世話掛名主に下し、合巻絵草紙の類、都て草稿中に掛りの名主月番の認印を受    け、出版の際査照せしむる事とせり     大久保葩雪曰、草双紙の全盛期は此五六年以前より打続き、極彩色の表紙を附し、上包にまで彩色を     施して、専ら美麗に仕立られありしに、此夏六月閣老水野越前守が風俗矯正の厳法は、是等の出板売     買を禁止し、翌月は又人情本の売買貸借を禁止するのみならず、現在の板木及び書冊を悉皆没収し、     冬に至りて原稿検閲の制を厳にする等、当時の出版界を驚動戦慄せしめたるは、大に峻酷の如くなる     も、時の風紀を戒飾矯正し、奢侈淫風の盛んなる人心をして、勤倹主義に誘導するの策としては、時     の有司の当然執るべき手段にして、水野閣老が果断の措置を称揚せざるべからず     当時に於ける草双紙の内容は、云ふまでもなく、男女の痴態情話を唯一の骨子として作意となすの外、     他に着想なきものゝ如く、又一面には一層激烈なる人情本の行はるゝあれば、公然の秘密とも謂ふべ     き竹天屯日の冊子類、亦闊歩横行する等、風俗の紊乱は、殆ど頂点に達したる堕落社会なれば、極端     なる法令にあらずんば、到底矯正の実を挙ぐること難かりしなるべし、されば此法網に包み纏はれた     る当年の稗史界は、呆然自失したりしなるべく、加ふるに十一月晦日に下りし原稿検閲令は、板元な     る書肆に対して如何に大打撃を与へたりしか、想像するに余りあり(増補続青本年表)〟    ◯『筆禍史』「人情本春画本数種」p138   〝為永春水の著作なり、その題号は未だ詳かならず、『春色梅暦』なりといふ人あれども、同書は天保三    年四年の出版なるを以て、その時代違へり、春水は、春色辰巳の園、春雨日記、春色恵の花、春色恋の    白波、梅の春、春告鳥、春色籬の梅、春色田舎の花、春の若草、春色玉兎、春色霞の紫、春の月、春色    花見舟など題せし人情本といへるものを数多く公刊せしめたりしが、いづれも誨淫小説にして、其名の    如く春画好色本に似たる卑猥の作のみなりし(秘密出版の春画好色本も亦多し)、斯くの如き風致に害    ある著作を専らとせしがため、其最後天保十二年の出版にかゝる「梅暦再開」といへる『春色花見舟』    及び春画本にて捕へられたるならん、『著作堂雑記』に曰く     天保十二年丑十二月、春画本並に人情本と唱へ候中本の儀に付、板元丁子屋平兵衛外七人、並に中本     作者為永春水事越前屋長次郎等を、遠山左衛門尉殿北町奉行所え召出され、御吟味有之、同月二十九     日春画本中本の板木凡五車程、右仕入置候製本共に北町奉行ぇ差出候、翌寅年春正月下旬より右の一     件又御吟味有之、二月五日板元等家主へ御預けに相成、作者為永春水事長次郎は御吟味中手鎖を掛ら     れ、四月に至り板元等御預け御免、六月十一日裁許落着せり、右の板は皆絶版に相成、悉く打砕きて     焼棄られ、板元等は過料全各五貫文、外に売得金七両とやら各召上られ、作者為永春水は改めてとが     め手鎖を掛けられて、右一件落着す    版木五車程といへば、其数多しといへども、春画本等を合せての事なれば、人情本は二三編の版木に過    ぎざるべし、『法制論簒』に拠りて、春水に対する申渡書を左に録す       神田多町一丁目五郎兵衛店    為永春水事    長次郎     其方儀絵本草紙の類風俗の為に不相成猥ヶ敷事又は異説等書綴り作出し候儀無用可致旨町触に相背地     本屋共より誂へ候とて人情本と唱候小冊物著作致右之内には婦女の勧善にも可相成と心得違致不束之     事ども書顕し剰へ遊所放蕩之体を絵入に仕組遣し手間賃請取候段不埒に付手鎖申付る          〔頭注〕其人格と家庭    為永春水教訓亭号す、文政中人のために吾(馬琴)旧作の読本抔を筆削し、再板させて多く毒を流した    れば、実に憎むべき者なり、性酒を貪りて飽くことを知らず、且壬寅の秋より人情本という中本一件に    て、久しく手鎖を掛けられたる心労と内損にて終に起たずといふ、子なし養女一人あり、某侯へ妾にま    いらせしに近ごろ暇をたまはりて他人へ嫁しけるに、其婿強飲粋狂人にて親の苦労を増たりといふ(著    作堂雑記)     〈手鎖刑の原因とされる天保十二年の『春色花見舟』とは翌十三年にかけて出版された『春色梅美婦禰』の誤記であろう    か。画工は歌川国直静斎英一である〉    ☆「天保十四年 癸卯 九月閏」(1843)   (浮世絵)   ・正月二十八日、画人長谷川法橋雪旦卒す(六十六歳、名宗秀、厳岳斎、一陽庵等の号有り。浅草幸龍寺    に葬す)   ・十二月二十一日、画人英一珪卒す(八十余歳、二本榎承教寺中顕乗院に葬す)    〔以上二項『増訂武江年表』〕   ・十二月二十六日、歌川貞秀も亦似寄りたる頼光の錦絵の為に罰せらる    〔『【新撰】浮世絵年表』〕   ・正月、『北斎画苑』出版   ・七月、松川半山の『絵本狂歌笑茸』出版   ・十月、歌川国貞の画ける『相撲取組図画』       歌川国安の画ける『四十八手最手鏡』出版。蓋し再版なり    〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、一勇斎国芳の画ける三枚続きの錦絵『源頼光公館土蜘蛛妖怪図』と題せるもの絶版の命を受けし       といふ。此絵は源頼光土蜘蛛の怪に悩まさるところにして四天王灯下に囲碁の遊びをなし、上方       に種々の怪物合戦の図あり。而るに此絵は当時の政体を誹謗するの寓意ありとて罪せられしとな       り。これ時の将軍徳川家慶を頼光に擬し、閣老水野越前守が非常の諸政改革を行ひしを以て土蜘       蛛の精に悩まさるゝの意を寓せしものなりといふ       〈下記『筆禍史』「偐紫田舎源氏と水揚帳」参照〉   ・鮮斎永濯生る。(小林氏、明治二十三年五月二十七日歿す。行年四十八歳)〔以上二項『増訂武江年表』〕     (一般)   ・四月、将軍家日光山参詣、四月十二日発、同廿一日着〔『きゝのまに/\』〕   ・九月、猿若三丁目河原崎権之助芝居初興行〟   ・閏九月、吹上御庭に於いて、相撲上覧、大関剣山、不知火〔以上二項『増訂武江年表』〕   ・十一月、猿若町河原崎芝居初る〔『きゝのまに/\』〕     〈一般年間〉  ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇神田明神祭礼画 p314   〝天保十四卯年春    本郷二丁目古賀屋板元にて、神田明神祭礼の画を出して、よく売れて損をせし事    是は祭礼之図三枚に紅をたんと遣いて極彩色に致し、能売候得共、前々と違ひ高直に売事ならず、一枚    十六文宛にては少々損参り候に付、能売候程たんと損が参り候に付、     古賀やめが祭りを出して声とあげ      きやりのやふななきごへがする〟     ◇長谷川雪旦逝去 p314   〝正月廿八日    画人長谷川法橋雪旦卒、六十六、名宗秀、厳丘斎、一陽等之号在、浅草幸龍寺ニ葬ス〟   ◇河原崎座移転 p317   〝去暮、木挽町河原崎座芝居、浅草猿若町三町目ぇ引地に相成候て、当正月中より地形に取懸り、役者共    大勢人夫に出るなり、夫に付て見物群集致す也〟     ◇板東秀佳逮捕 p317   〝二月二十七日、猿若町にて板東秀佳、女湯に入て召捕る也、湯屋の亭主も召捕る也〟    〈六月廿一日、秀佳・菊二郎・藤蔵、鳥居甲斐守より過料三貫文に処せらる〉     ◇中村富十郎三ヶ国追放 p324   (三月、歌舞伎役者中村富十郎(四十一歳)、家屋・名石園庭・茶道具に贅を尽くし、名筆名画を収集す    る等の奢侈のため、居宅取り崩し地面取り上げのうえ摂津・河内・和泉の三ヶ国追放の刑に処せらる)   〝右富十郎は若女形名人にて、中村松江と名乗候節、先頃江戸表へ参り、評判宜敷三四年罷在、文化十三    年秋、名残狂言所作相勤上京致し、其後古人富十郎名跡を継、富十郎と改名致し、極上上吉千両余之立    者に相成候に付、自然と奢侈増長に及、此度御咎めに相成申候〟     ◇河原崎座移転後初狂言 p336   〝五月五日    猿若町三丁目、此地ぇ河原崎座引ヶて初日狂言天神記と忠臣蔵、朝より終日迄幕なく、廻り舞台大仕掛、    尾上菊五郎工風にて大評判大当り、菊五郎、勘平の役にて持出候鉄炮、誠の鉄炮哉と御糺之処、同人手    細工、紙にて張貫候に付相済候、天神記菅丞相の装束、是も手細工之由に候得共、余り手数懸り候に付、    過料三貫文にて即日落着相済候。     但、三芝居共此地ぇ引、諸事下直に可致旨被仰渡、土間割壱人四匁、弁当九分、外に何品にても取候     餅菓子の類、都て七分宛也〟     ◇豊国画絶板 p337   〝五月十九日    此節豊国の画、子供踊りの錦絵、絶板ニ相成、其外役者名前紋付候品、同断也〟      〈豊国とあるが、五月廿四日の記事と同じであることから、国貞のことであろう〉     ◇国貞画絶版 p340   〝五月廿四日    子供踊錦絵、国貞画、板行御取上ゲ也、売々(買)御差留、其外役者名前紋付候もの、同様ニ御差留也〟     ◇奥沢九品仏開帳 p353   〝七月、奥沢九品仏開山珂碩上人百五十年忌、十七日より四之之間、二拾五菩薩繞堂在     大蓮社超誉碩公大和尚    開帳の什物、血の池に染たる古衣     血の色に染し衣は今見ても うそなまぐさきいわれなりけり〟         ◇頼光土蜘蛛画(『藤岡屋日記 第二巻』p413(天保十五年(1844)正月十日))   (記事は天保十五年のものだが、国芳・貞秀の「頼光土蜘蛛」の出版は天保十四年のこと)   〝(天保十五年正月)十日      源頼光土蜘蛛の画之事     最早(ママ)去卯ノ八月、堀江町伊場屋板元にて、哥川国芳の画、蜘蛛の巣の中に薄墨ニて百鬼夜行を書    たり、是ハはんじ物にて、其節御仕置に相なりし、南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠売    女・女浄るり、女髪ゆいなどの化ものなり、その評判になり、頼光は親玉、四天王は御役人なりとの、    江戸中大評判故ニ、板元よりくばり絵を取もどし、板木もけずりし故ニ、此度は板元・画師共ニさわり    なし。     又々同年の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、絵    双紙懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋見    せ売には化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚続    百文宛ニ売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり。     廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ      板元過料、三貫文也      画師貞秀(過脱)料 右同断也     其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘    蛛のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也。     板元松平阿波守家中  板摺内職にて、                              高橋喜三郎     右之品引請、卸売致し候絵双紙屋、せりの問屋、                        呉服町      直吉     右直吉方よりせりニ出候売手三人、右品を小売致候南伝馬町二丁目、                        絵双紙問屋 辻屋安兵衛 〟     今十日夜、右之者共召捕、小売の者、八ヶ月手鎖、五十日の咎、手鎖にて十月十日に十ヶ月目にて落     着也。    絵双紙や辻屋安兵衛外売手三人也。板元高橋喜三郎、阿波屋敷門前払、卸売直吉は召捕候節、土蔵之内    にめくり札五十両分計、京都より仕入有之、右に付、江戸御構也。画師芳虎は三貫文之過料也〟
   「源頼光館土蜘作妖怪図」 一勇斎国芳画 (早稲田大学「古典籍総合データベース」)
   「源頼光館土蜘作妖怪図」 一勇斎国芳画「土蜘蛛妖怪図」 玉蘭斎貞秀画    (『浮世絵と囲碁』「頼光と土蜘蛛」ウィリアム・ピンカード著)      〈国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は天保十四年(1843)八月の刊。これはその判ずる内容が幕政を諷したものではない     かと評判をよんだが、お上を警戒した板元伊場屋が絵を回収し板木を削るという挙に出たため、お咎めはなかった。     次ぎに、貞秀の画く「土蜘蛛妖怪図」が同年冬(十月以降)に出回った。これは店先にはお化けのない絵をつるし、     内々にはお化けの入ったものを売るという方法をとった。が、やはりこれも噂が立ち、今度は板摺(板木屋)で板元     を兼ねた久太郎と絵師の貞秀が三貫文の過料に処せられた。そして、天保十四年の暮れか翌十五年の正月早々に、芳     虎の「頼光土蜘蛛のわらいを添」えた画が「たとう(畳紙)」入りの組み物として売り出された。今回は、板摺兼板     元の高橋喜三郎以下、卸問屋・小売り・絵師芳虎ともども、咎を免れえなかった。ところで、貞秀画の板元も芳虎の     板元もそれぞれ板摺となっている、板摺とは板木屋か彫師をいうのであろうから、国芳画の板元・伊場屋とは違い、     板元は一時的なものであろう。高橋喜三郎の場合は松平阿波守家中のものとある。内職にこのような危ない出版も請     け負ったものと見える。あるいは改めを通さない私家版制作に深く関わっていたのであろう。     さて、国芳画の「源頼光館土蜘作妖怪図」の出版は、天保の改革を断行した水野忠邦が老中首座を失脚する直前のも     のである。(忠邦は閏九月に失脚)当時は、幕政と市井との関連が取りざたできるような「はんじもの」が出回り、     さまざまの憶測・風説が巷間に広がっていた。「はんじもの」であるから、絵は読み解く対象になる。読み手は画中     の人物を自分のもつ情報と想像力を駆使して、現実に存在する者となんとか対応させようとする。しかしそれにして     は読み解く根拠も確証も画中にはみつからない。国芳に意図があるとすれば、画中のものを現実のものと特定できる     ような可能性は画くが、特定できるような根拠は画きこまないということではないだろうか。それは一つにはお上か     ら嫌疑がかかった時の弁明というか、逃げ口上にもなりうるし、また判者の自由な想像力をも保証することにもなる     からだ。為政者からすれば、その「はんじもの」が事実を擬えているかどうかという以上に、憶測や風評が燎原の火     の如く広がり、秩序・風紀が乱れてコントロール不能になることが恐ろしいのであった。国芳や板元・伊場仙にそう     した紊乱の意図があるとは思えない。しかし放っておけば制作側の意向を越えて混乱を招く恐れはあった。絵の回収     と板木を削るという処置は、為政者に向けて発した恭順のポーズである。         ところで、鏑木清方の随筆「富士見西行」(岩波文庫本『明治の東京』所収)という文章を読んでいたら、次のよう     なくだりに出会った。「七めんどうで小うるさい、碁盤の上へ網を張って、またその上へ蜘蛛の巣を張ったような世     の中」。碁盤・網・蜘蛛の巣という組み合わせには「七めんどうで小うるさい世の中」という意味合いがあったのだ     ろうか。これを使って判じてみると、七めんどうで小うるさい世の中をもたらしたのは頼光と四天王、つまり為政者     側だ。ところがその為政者側がそんな世相に悩まされて病んでいる、ということなろうか。もっとも国芳が碁盤と蜘     蛛のもつ意味合いを清方同様に共有していたかどうか、これまた確証がない。知らないはずはないだろうという想像     をめぐらすことは可能だが、それを国芳に押しつけることは出来ない。国芳には、お上をもってしても、幕政批判の     意図を持って画いたはずだと断ずることは出来まいという自覚はあったように思う          貞秀の「土蜘蛛妖怪図」は名主の改め印を取っているから、非合法ではなかったが、届けたものの他にお化け入りの     を内々に売ったのが問題だった。お化けがいろいろな憶測を喚起するからだろう。「兎角ニむつかしかろと思ふ物で     なければ売れぬ」世の中とは、弘化五年(1848)、将軍家慶の鹿狩りを擬えた「富士の裾野巻狩之図」(王蘭斎貞秀画)     に対する、藤岡屋由蔵の言葉であるが、判じものがあるはずなのに、それを具体的に案ずることが難しいもの、ある     いは改めを通るのが難しそうに思われるもの、そうしたものを敢えて画かないと売れない時代になっていたのである。     処罰されるたびに謹慎の姿勢を示すのであるが、難しいものを求める世の欲求に応えようとすると、どうしてもきわ     どい画き方をしてしまうのである。          さて、この年の十月十日記事に〝南伝馬町二丁目辻屋安兵衛、笑ひ本一件にて正月十二日より戸〆の処、今日御免也〟     (p449「戸〆」は押し込め=外出禁止)とある。この辻屋安兵衛は芳虎の土蜘蛛画で小売りを行い、手鎖に処せ     られた絵双紙問屋である。では「笑ひ本一件」とは何であろうか。正月十二日より「戸〆」になり十月十日「御免」     になった。「手鎖」は「十月十日に十ヶ月にて落着」とある。「戸〆」も「手鎖」も外出禁止であるから、この二つ     の記事は同じ事件の処罰であろう。そうすると「たとふ入ニ致し、外に替絵にて頼光土蜘蛛のわらひを添て」の「わ     らひを添て」とは「笑ひ本(春本)」化したということなのだろうか〉     ◇上覧相撲 p378   〝天保十四卯年閏九月廿五日     於吹上、上覧相撲(以下、取組あり、略)〟     ◇水野忠邦老中御役御免 p374   〝閏九月十三日    水野越前守御役御免被仰渡、相済候後、於堀田摂津守殿御宅。堀出雲守     越前守西丸下御役屋敷、今十三日夕六ッ時過迄に引払、三田中屋敷へ罷越、御沙汰有之候迄、急度慎     可罷在度     右摂津守申渡之〟     ◇三つ子誕生 p405   (十一月五日、上総国埴生郡矢筈村 百姓 久兵衛 三十三 同人妻 三十六、男子三人出生)       ◇勧進相撲 p405   〝十一月中、於回向院、勧進相撲興行有之、大関不知火、横綱免許にて、三日程負候に付、     不知火がしめか錺か橙か けふも負たりあすも負たり〟    ◯『筆禍史』「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」p146   〝一勇斎歌川国芳が画ける錦絵に、頼光病臥なして四天央是を守護し、様々の怪物頼光をなやますの図は、    当時幕政に苦しむの民を怪物なりとし四天王を閣老なりと、誰いひふらしけるとなく、其筋の聞く所と    なりて、既に国芳は捕縛せられ、種々吟味せられしが、漸くにして言訳、からくも免罪せられしといふ    とは『浮世絵師系伝』の記事なるが『浮世絵画人伝』には左の如くあり     天保十四年の夏、源頼光土蜘蛛の精に悩まさるゝ恠異の図を錦絵にものし、当時の政体を誹毀するの     寓意ありて、罪科に処せられ、版木をも没収せられたりき、其寓意と云へるは、頼光を徳川十二代将     軍家慶に比し、閣老水野越前守が非常の改革を行ひしを以て、土蜘蛛の精に悩まさるゝの意に比した     りといふにありき(浮世絵画人伝)    当時玉蘭斎貞秀も亦国芳の頼光四天王図に模倣したるものを描きて出版せしがため、貞秀及び版元等関    係者四名は過料五貫文宛に処せられ、販売せし絵草紙屋は売得金没収の上、過料三貫文に処せられたり    と『浮世絵編年史』にあり     天保十四年十二月二十六日、歌川貞秀等戯画の事にて罰せらる(中略)右は国芳画頼光四天王の上に     化物有之絵に種々浮説を書含め彫刻絵商人共売方宜敷候に付、又候右の絵に似寄候錦絵仕立候はゞ可     宜旨久太郎存付最初は四天王土蜘蛛の下絵を以て改を請相済候後貞秀に申談四天王の上の土蜘蛛を除     き種々妄説を付化物に仕換改を不請摺立売捌候段不埒の次第に付右の通り過料申付           〔頭注〕摸倣絵と縮刻絵    『源頼光公館土蜘蛛作妖怪図』が売行よかりし事は、貞秀等に対する刑罰申渡書中にもある如くに、当    時類似の物も数種出たるなり、同じ一勇斎国芳の筆にても、頼光が土蜘蛛を退治するの図もあり、いづ    れも彩色ある大錦絵形三枚続なり     雨花子の寄書に曰く    頼光土蜘蛛の錦絵に付きては、『黄梁一夢』に左の記事あり     (上略)解者曰、其四天王暗指当時執政、群鬼中分得意者、与失業者、為甲乙、又皆有暗符歴々可徴、     一時流伝、洛陽為之紙貴、巳而官停其発行    なほ当時の落首等の中、耀甲斐(鳥居耀蔵)咄し中「手下の化物には一ッ目小僧(長崎与力小笠原貢三    のことを指すなりとぞ)小菅小僧(普請役小菅幸三郎)金田小僧(勘定組頭金田郁三郎)云々」とあれ    ば是等も右の錦絵中にあるならんか〟
   「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」「土蜘蛛妖怪図」 一勇斎国芳画・玉蘭斎貞秀筆    (「浮世絵と囲碁」「頼光と土蜘蛛」図版6-4・6-6 ウィリアム・ピンカード著)    ☆「天保年間記事」   (浮世絵)   ・浮世絵師国芳が筆の狂画一立斎広重山水錦絵行はる。     筠庭云ふ、此の頃国芳、頼光病床四天王の力士直宿を書きたる図に、常にある図なれど、化物に異変     なる書き様したり。其の内に入道の首は、已前小産堀と呼ぶ処本所にあり、爰に提灯屋にて凧を売り     しが画をかき得ず、猪の熊入道とて、彩色は藍ばかりにて書きたる首即ちこれにて、悪画をうつした     るなり。この評判にて人々彼是(カレコレ)あやしみたるもおかし。板元の幸にて売れかた多かりき。近時     も療治をする所のつまらぬ錦絵を色々評判うけて売りたり。皆不用意にして幸ありしなり     〔『増訂武江年表』〕    〈喜多村筠庭の云う「療治をする所のつまらぬ錦絵」とは、嘉永三年(1850)の国芳画「【きたいなめい医】難病療治」     をいうか〉     (一般)   ・かひ鳥は鴬専らはやり、養ひかたも昔より精し、向島に会有て甲乙を定む、天宝(ママ)にいたりて、ちや    ぼ碁石鳥を好む、文鳥はやりて多く出来て、かなありあより下直と成る、あひるは多く飼ひ、大方しや    もと同く煮売をなす〔『きゝのまに/\』〕    〈碁石チャボは白黒斑模様の羽毛をしたチャボ〉   ・煎茶の会行はる   ・現在の文人墨客諸芸人、又諸售物(ウリモノ)等を角力に取り組み、甲乙を記せし物はやる   ・六字南無右衛門、左門、よしたか等が流れを汲める女太夫行はれて、場を構へ高座に登りて恥づる色な    く、婦女子のにげなき義太夫の浄るりかたりける。愚夫愚婦きそひてこれを聞きこれを看て、芸の巧拙    をいはずして容貌の美悪を論じけるが、やがてこれを禁ぜらしかば、此の輩いづちへか去りたり   ・横縞の染物はやる〟   ・人情本と唱へて、男女の私情淫奔のさまをのべたる草紙数多刊行しけるが、天保以来新作なし   ・近頃月琴を弾きすさぶもの多し   ・皇朝を弄(モテアソ)ぶ事いにしへよりかはらず。然るに近年殊に盛にして、養ふ事も次第にたくみになり、   ・毎年正月二月、此の鳥を飼ふともがら、都下の鳥屋茶店等に会して、音声の美悪を論じ風流の名を設く   ・近頃春日山と号するもの尤も絶妙にして天下第一と称し、三笠山と号するもの是れに亜(ツ)げりとぞ   ・深川仲町一鳥居の傍に在りし富士山を毀して町屋とす    〔以上十項『増訂武江年表』〕