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浮世絵師総覧天明元年(安永十年・1781)~八年(1788)浮世絵年表一覧
 ☆「天明元年(四月二日改元)辛丑 五月閏」(1781)     (浮世絵)   ・正月、湖龍斎の『混雑倭艸画』       鳥山石燕の『百鬼夜行拾遺』       北尾重政の挿画に成れる『俳諧名知折』出版   ・四月、鶴岡蘆水の画ける『隅田川両岸一覧』出版   ・八月、菱川春童の挿画に成れる『見た京物語』出版〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・「隅田川両岸一覧」二巻板行成る(軸物を刊行する事、其の類少なし。鶴岡蘆水の筆にして東江山人の    跋あり。この蘆水は翠松斎と号し、下谷金杉に住し、長寿を保ちて文政の末にも尚存在せしと聞けり)    〔『増訂武江年表』〕   ・此年、北斎是和斎の名を以て青本『本性銘署有難通一字』を画作す   ・此年、鳥山豊章、歌麿と号して、志水燕十作の『身貌大通神略縁記』に画く       又鳥居清長、如閑房の作浮世読本『当世鳥の跡』に画けるあり〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・三月十八日、浅草三社権現祭礼久しく絶えたりしが、今年神輿乗船、産子(ウブコ)の町々より出し練り物    を出す(其の後久しく中絶す)〔『増訂武江年表』〕   ・七月、奥州外ヶ浜百沢寺三社本地仏、回向院にて開帳〔『きゝのまに/\』〕   ・十一月、本所回向院において相撲興行。当年より晴天十日、今までは八日。谷風・渦ヶ淵の取組大評判。   ・十二月、風邪流行。信濃風、三升風、谷風と云う    〔以上二項『天明紀聞』〕     〈一般年間〉   ・下総小金一月寺本尊、本所一ツ目弁天祠にて開帳、到著の時、数多の虚無僧二行に列り来る、見物多く    つゞきて参詣群集す〟〔『きゝのまに/\』〕   ・ちかい頃より、浅草称住院の寺中道光庵にて、蕎麦を製し始めけるが、都下に賞して日々群集し、さな    がら貸食餔(タベモノミセ)のごとし。よって本寺より停められたり。〔『増訂武江年表』〕    ☆「天明二年 壬寅」(1782)     (浮世絵)   ・三月、『翠釜亭戯画譜』出版。蓋し俳優の似顔画なり。〔『【新撰】浮世絵年表』〕   ・三月十一日より、永代寺にて、鶴が岡八幡宮本地愛染明王、頼朝公髻(モトド)観世音開帳(此の時、境内    へ出し巫女のおすてと云へるは、美女の聞えありて、にしき絵にも出たり)〔『増訂武江年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・鳥居清長の『絵本武智袋』    耳鳥斎の『画話耳鳥斎』    北尾重政の『絵本時津艸』『絵本将門一代記』『絵本八幡太郎一代記』等出版。   ・此年、勝川春英の画としての処女作『大阪土産大和錦』       勝川春山の画ける青本『擲討鼻は上野』出版   ・此年、葛飾北斎、魚仏・是和斎等の号あり〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    〈「日本古典籍総合目録」は、岸田杜芳作の黄表紙『擲討鼻は上野』を春山作ではなく勝川国信画とする〉     (一般)   ・三月七日、深川親和死去、三井孫兵衛と称し、当時之能書也。同月、予斎殿も死去、加藤伊予守と称さ    れ画に名高き人なり   ・四月十日、坂東美津五郎死去、戒名是業観道信士〔年三十八〕今度八百屋お七百回忌、岩井半四郎お七    役大当たり。因って同人施主にて新規に石塔を建立、益々芸名高まる〔以上二項『天明紀聞』〕   ・六月三日、戯作者伊庭可笑卒す(四谷理性寺へ葬す。称猪与八)〔『増訂武江年表』〕   ・九月、南海公卒去也、雲州松江之城守松平出羽守殿也、赤坂見付内之屋敷に隠居せられ、不昧と号せり。    大度寛闊の人にして甚茶道を好めり、裸之茶会一代之逸興、最世に名高し、卒する年五十八、夫人は仙    台侯の女なり、書に妙を得て気象能く夫公に肖たり、世人一双之畸英と称せり   ・十月、雑司ヶ谷鬼子母神にて会式之節、武家之方皆々被参会、茶屋の二階より参詣之女の衣類を見とめ    悉く人を以て住処姓名を被尋、それを懐紙に認め即点景物有り、当意即妙之趣向にて珍敷興也と世上に    云はやせり。此節惣て流行する物は遊事一方なり。中には前代未聞とも可歎挙動までまゝ有之、是等皆    泰平の象とも可祝事共にや如何〔以上二項『天明紀聞』〕       〈一般年間〉   ・近頃牛込赤城明神境内之茶屋にて猫と唱え、遊女がましき者あり。町奉行牧野大隅守、吟味の上、一ヶ    年五百三十両の運上五年間を申し渡す。此外すべて運上専らの世の中なり   ・大伝馬町三升屋製の黒焼き紙(二寸四方、火に置くと灰の中から相撲取り又は役者似顔が現れる)大流    行〔『天明紀聞』〕    ☆「天明三年 癸卯」(1783)     (浮世絵)   ・正月、窪俊満の『画鵠』、       湖龍斎・勝川春章・北尾重政の挿画に成る俳書『両節唫』       勝尾春政といへる者の『絵本見立仮喩尽』       耳鳥斎『徒然睟か川』等出版   ・七月、北尾政演(山東京伝)と北尾政美の画ける『狂文宝合記』出版    〔『以上二項【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉     ・此年、大阪の丹羽桃渓の画ける『みをつくし』出版〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・正月二十六日、浪花の狂歌師芙蓉花江戸に卒す(平の屋清兵衛と云ふ。浅草西福寺に葬す)    〔『増訂武江年表』〕   ・三月より浅草寺観音、卅二年後の開扉にて、境内諸仏開帳〔『きゝのまに/\』〕   ・六月、牛込藁店の司天台、先頃浅草鳥越へ移る。是迄とは一層立派になり台も一際高くなる    〔『天明紀聞』〕   ・十月八日、牛込神楽坂行元寺門前復讐事。(中略)此の復讐を堺町肥前芝居にて新浄るりに作り興行す    〔『きゝのまに/\』〕〈下総の百姓富吉、父の敵甚内を討つ〉   ・十一月、谷風梶之助・小野川喜三郎東西之大関にて取組、本所回向院境内に於て、晴天十日の間角力興    行也。谷風之勝九ノ度にて九日目に引わけに成し計り也、無類之大当り美評之〈ママ〉高き云はかりなし。    勿論谷風は古今無双之大力にて、前後是程之力士は無之由にて、世間之評判格別なり〔『天明紀聞』〕    ☆「天明四年 甲辰 正月閏」(1784)     (浮世絵)   ・正月、鳥山石燕の『百鬼徒然袋』『通俗図画勢勇談』出版。       北尾政演、此年二十四歳にして六枚続きの錦絵『吉原傾城新美人合自筆鑑』を画く。   ・此年春、古阿三蝶(世人古来誤りて古阿を古河と記す)『大倭智恵親玉』『寿御夢想妙薬』『天光地潜        地探』『八代目桃太郎』『三国一大通の本地』『其見乎有難山』『通世界二代浦島』等の青本        に画く。   ・六月、北尾政演『色摺巻紙合』を画く〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉    ・此年、大阪の浮世絵師流光斎『且生言語備』に画く。又俳優板東薪水『梅幸集』に画く    〔以上項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・春の頃、深川霊雲院にて、京師泉涌寺本尊開帳、仏舎利其外霊宝出る、御所車【先主上の御物】有り、    開帳勅許と云札を立たり〔『きゝのまに/\』〕   ・二月二十四日、若年寄田沼山城守伝へ営中に於いて、新御番佐野善左衛門内之意趣にや切懸け、右手疵    にて翌日終に死去也。〔『天明紀聞』〕    ・四月十六日、吉原焼亡、仮宅は回向院前浅草並木通り黒舟町に至る〔『きゝのまに/\』〕   ・十一月、桐長桐芝居櫓を改めし時、馬揃(ウマゾロエ)と云ふ狂言をなす(天冠、狩衣、大口の衣裳にて出、    鼓一挺にて唄ひ舞ふ。是れ昔の女舞の遺風也といふ)〔『増訂武江年表』〕    ☆「天明五年 乙巳」(1785)     (浮世絵)   ・三月十八日、福王雪岑卒す(御能役者、福王茂右衛門也。一号白鳳といふ。英家の画を学び、宝暦の頃    より能の図を画けるもの、巻物掛幅等数多なり。深川心行寺に葬す)〔『増訂武江年表』〕    (三月十八日、福王雪岑歿す。行年八十五歳。(雪岑は御能役者福王茂右衛門なり。白鳳軒と号し、一     蝶風の画を学び、享保の頃より能の図を画くことを専らとせり〔『【新撰】浮世絵年表』〕)   ・四月三日、鳥居清満歿す。行年五十二歳。(清満は鳥居家の三代を継ぎ、実に清倍の次男なり。今の所    謂三色版を発明し、我版画界に特に功績ありし人なり)〔『【新撰】浮世絵年表』〕   ・五月二十五日、浮世絵師石川秀葩豊信の卒す(馬喰町旅舎ぬかや七兵衛といふ。狂歌師六樹園飯盛の父    也。浅草榧寺に葬す)〔『増訂武江年表』〕    (五月二十五日、石川豊信歿す。行年七十五歳。(豊信は通称七兵衛、馬喰町の旅宿屋糠屋の主人にし    て絵画を好み、西村重長に就いて浮世絵を学び、明篠堂秀葩の別号あり。多く紅絵を画けり     〔『【新撰】浮世絵年表』〕)       ・正月、鳥居清長の『絵本物見岡』       北尾重政の『源氏百人一首錦織』出版   ・八月、北尾政美の『江都名所図絵』一巻出版。(藍摺に朱と藤黄の彩色を用ひ世人に珍とせらる)   ・九月、橘国雄の『挹芳斎襍画』出版   ・十一月、嶺琴舎慶子(俳優瀬川富十郎)の『慶子画譜』三巻出版〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・鳥文斎栄之、青本『其由来光徳寺門』を画く   ・此年、葛飾北斎、春朗を改めて群馬亭と号す   ・此年、春川友重『狂文棒歌撰』に、つむり光『俳優風』に、雪蕉斎『絵本拾葉』に画けるあり   ・政演の挿絵としての傑作洒落本『令子洞房』出版〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕      (一般)   ・三月、中村座にて市村羽左衛門、一世一代三ッ人形狂言興行、近代之大入也〔『天明紀聞』〕   ・六月半より本所一ッ目八幡宮旅所にて、上州館林茂林寺観音開帳に、守鶴が分福茶釜出、此時菓子にて    焼作りたる茶釜を笹の先に結び付たる手遊びを、売もの摸(カタ)残て有と見えて、近くまで手遊に売しが、    まゆ玉其外種々張子など、笹に付たる物流行出てより、釜は見えずなりぬ〔『きゝのまに/\』〕   ・八月、吉原大びしや遊女琴浦と寄合藤枝外記【四千五百石/湯島妻恋】吉原より出奔、琴浦殺害後自害。    同じ頃、永田馬場安部式部【七百石】、吉原扇屋遊女花扇と情死をはかるも仕損じで存命、双方相談し    て内々に済す〔『天明紀聞』〕   ・九月朔日迄、回向院にて、嵯峨釈迦清凉寺釈迦如来開帳(当年、暑季殊に甚だし。朝来群集する事夥し    かりしとぞ)〔『増訂武江年表』〕   ・浅草門跡焼亡後御堂普請出来、九月入仏、同月十日より深川霊雲院にて、水戸祇園寺心越禅師持渡之天    妃関羽両像開帳、宝物出〔『きゝのまに/\』〕   ・九月十七日、諸侯の納戸を専門に狙った盗賊稲葉小僧逮捕〔『天明紀聞』〕     〈一般年間〉   ・三股中洲へ築出し地出来。又両国橋向ふ築出し新地、川岸長さ八十四軒、南の方十三間余あり。本所一    ッ目より、逆井まで、川浚の土を以て築かるゝ所也。寛政元年に至りて、元の如く川と成る    〔『増訂武江年表』〕    ☆「天明六年 丙午 十月閏」(1786)     (浮世絵)   ・十二月四日、月岡雪鼎歿す。行年七十七歳。(雪鼎は近江の人、京都及び大阪に住せり。名は昌信、通          称丹下、露仁斎・信天翁等の号あり。初め高田敬輔に学び、後一家を成し即ち月岡流の一          派を立てたり。美人を画くに最も柔媚の態を能くし、春画に長ぜり)          〔『【新撰】浮世絵年表』〕       ・正月、北尾重政勝川春章の合作『画本実のいとすぢ』、北尾重政の『絵本吾妻抉』『絵本八十宇治川』       喜多川歌麿の『潮干のつと』『絵本江戸爵』       桂宗信・耳鳥斎・瀬川慶子の挿画に成れる浮世読本『つべこべ草』       司馬江漢の挿画ある『六物新志』等出版   ・十月、下河辺拾水の『源頼光昔物語』出版〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、歌川豊国、青本『無束話親玉』に画く、蓋し処女作なるべし   ・此年、北尾政演『後編小紋新法』の著あり〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・七月より関東諸国大洪水、折から開発中の下総印旛沼の新田も悉く崩れ、元の沼となる〔『天明紀聞』〕     〈一般年間〉   ・あしき風時(ママ)行むとの呪ひとて、紅絹にて猿をぬひ、鈴をつけて、小児の帯に付る事行はれしが何ご    ともなし〔『きゝのまに/\』〕    ☆「天明七年 丁未」(1787)     (浮世絵)   ・七月一日、勝川春常歿す。(春章の門人にして、俗称安田岩蔵といふ。青本を多くがけり)    〔『【新撰】浮世絵年表』〕     ・正月、鳥居清長の『彩色美津朝』       喜多川歌麿の『絵本詞の花』       北尾重政の『絵本武者鞋』『絵本錦衣鳥』       北尾政美の『絵本吾嬬鏡』『絵本都の錦』出版   ・此年五月、歌麿の画ける洒落本『不仁野夫鑑』出版(此の書東湖山人の作にして、安永四年に成れるも    のなれば、世人為に誤りて歌麿も安永四年に画けるものと為せり。実は長く写本にてありしを、本年出    版に際して挿画を歌麿に画かせしものなれば、安永四年の画とはいひ難きものなり。歌麿の処女作は安    永八年に豊章と称して口画を画ける洒落本『すゝはらゐ』『おきみやげ』等を以て嚆矢とすべきが如し)    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕   ・五月、屠竜翁高嵩谷、浅草寺観音堂へ頼政猪早太鵺退治の図を画きたる額を納む(横二間、竪九尺もあ    るべし。此の額に付きて、色々の評判あり。甲冑其の外、故実を失ひたる由いふ人あれど、古画を潤色    せる所にして、人物の活動、普通(ナミ)の画匠の及ぶ所にあらず)〔『増訂武江年表』〕    〈『【新撰】浮世絵年表』もこの記事を引く〉     〈浮世絵年間〉     (一般)   ・六月、松平越中守老中首座となる   ・十月二日、田沼意次、逼塞を命じられる。(十二月、田沼の遠州相良城取り壊し)   〝世間一時に被行候者は学問武芸節倹の三ツにて、格別厳重の被仰出なり、遊山観水の類、歌舞の芸は一    切御停止、市中ぇも同様に被相触候(中略、十一月頃)世上一般に学問流行にて、山下辺にては、辻講    釈までも論孟を専らに為るよし聞伝ふ〟〔以上二項『天明紀聞』〕   ・十一月九日、暁卯刻過ぎ、吉原角町より出火して、廓中残らず焼亡。花川戸迄類焼す(仮宅、大橋側深    川新地八幡前中洲、富永町、高輪等なり。三めぐりの鳥居の足がみじかくてのび上らねば見えぬ仮宅    (蜀山人(ママ)))〔『【新撰】浮世絵年表』〕    〈四方赤良(大田南畝)が蜀山人の号を使用し始めるのは享和二年以降〉    ☆「天明八年 戊申」(1788)     (浮世絵)   ・八月三日、鳥山石燕歿す。行年七十七歳。(石燕は本姓佐野、名は豊房、零陵洞の号あり。初め狩野玉    燕に学び、純浮世絵師にあらざる如きも、其の門人には浮世絵師として大家歌麿を始めとして、長喜・    春町の如き傑物を出だせり。其没年に就いては区々の説あるも、天明四年春出版の『通俗画図勢勇談』    及び『百鬼徒然袋』に七十三翁と署せり。此二書正月の出版なれば、其前年に画きたるものなるを知る    べく、七十三翁と記せるは其前年天明三年の意なるか、将た其翌年の出版を見越して記せるものなるか    明かならざるも、此年天明八年に七十七歳にて歿せしことは信を措くに足るものゝ如し)    〔『【新撰】浮世絵年表』〕        ・正月、歌麿の『画本虫ゑらみ』       北尾重政の『絵本花異葉』『絵本琵琶湖』出版〔『【新撰】浮世絵年表』〕   ・六月十二日、二代目英一蝶卒す(西門跡真光寺に葬す)〔『増訂武江年表』〕    (〝六月十二日、二世英一蜂(始め一蜒と号す)歿す〟)〔『【新撰】浮世絵年表』〕)   ・九月、長谷川光信の『鳥羽絵扇的』出版   ・十二月、『唐詩選画本』五言絶句の部五巻出版。橘石峯の挿画なり    〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、歌麿の門人行麿の画ける青本『文武二道万石通』といへる三冊物絶版の命を受く、朋誠堂喜三二       の作にして版元は蔦屋重三郎なり。これ天明七年六月松平定信(楽翁)が幕府の老中となりて、       文武二道の奨励をなせしを風刺愚弄せしものなりしかば忽ち絶版されしとなり       〈下記『筆禍史』「文武二道万石通」参照〉   ・此年、北尾政演門人の政てるの挿絵に成る青本『真字手本義士の筆力』出版       勝川春泉の画にて『浮世草紙』といへるあり   ・此年、豊丸の画ける『鳴通力』       礫川亭永艃の画ける『青楼五ッ雁金』       千杏といへる者の画ける『女郎買の糠味噌汁』       内田新好の画作『一目土堤』       京伝の画作『夜半の茶漬』等の洒落本あり〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    ◯『筆禍史』「文武二道万石通」p74   〝朋誠堂喜三二(平沢平格)の著にして、画は喜多川歌麿の門人行麿の筆なり、此書が絶版となりしは、    其序文にも「質勝文野暮也、文勝質高慢也、文質元結人品として、月代青き君子国、五穀の外に挽ぬき    の、おそばさらずの重忠が、智恵の斗枡に謀られし、大小名の不知の山、三国一斗一生の、恥を晒せし    七温泉の垢とけて、三島にあらぬ大磯の化粧水に、しらげすませし文武二道万石通と名けしを云々」と    ある如く、これ天明七年六月、松平越中守定信が幕府の老中となりて、諸政を改革し、文武二道の奨励    をなせし事を諷刺せしものにして、記述は鎌倉時代の事に托しあれども、全篇の主旨は、松平定信の政    策を愚視せしものなりしかば、市民の好評を得て売行盛んなりしが、忽ち絶版の命を受くるに至りしな    り    著者喜三二こと平沢平格は、佐竹藩の留守居にして、多能の人なりしも、此戯作のため、藩主より諭旨    ありて、爾後戯作の筆を絶ちしといふ〟
   『文武二道万石通』 朋誠堂喜三二作・行麿画 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     (一般)   ・三月四日、松平越中守定信、将軍補佐を兼任。   ・十月、是までしばらく芝居桐座へ相ゆずり置候処、此度市村座へ取戻し、再興の上、来る十一月朔より    顔見世の噂なりき〔以上二項『天明紀聞』〕    ☆「天明年間」(1781~1789)     (浮世絵)   ・天明の名家    画家 宋紫石、嵩谷、嵩渓、芙蓉、山興(桜氏)、秋山(桜井氏)    俳諧 蓼太、完来、妍斎、珠来、得器、金羅、貫阿、玄武、祇尹、白雄    狂歌 四方赤良(蜀山人)、朱楽菅江、元の木阿弥、大屋裏住、宿屋飯盛、鹿津部真顔、銭屋金持、       きゝら銀鶏。    戯作者 通笑、喜三二、恋川春町(狂歌并びに浮世絵)、芝全交、万象亭(二代風来山人)、        唐来三和。右三六人を戯作者の六家撰といへり。其の外、可笑、七珍万宝、蔦の唐丸、        観水堂丈阿、芝蘭、樹下石上などゝあまたあり    (筠庭云ふ、山興は氏を一字に桜とも書きたる落款もあるべけれども、桜井氏なり。次の秋山にはしか     記せるは如何にぞや。秋山は山興が女(ムスメ)なり。鹿津部は鹿杖とかけり。金持は金埒の誤りなるべ     し。金鶏なり。錦の字にあらず。参和なり。三和は非なり〔『増訂武江年表』〕     〈芝蘭は南陀伽紫蘭、即ち窪俊満〉   ・如何なる方面にも文化的黄金時代なるが、殊に浮世絵界には前後比類なき大家の出でたる時にして、即    ち鳥山石燕・石川豊信・勝川春章・一筆斎文調・歌川豊春・石田玉山・北尾重政・恋川春町・司馬江漢・    鳥居清長・喜多川歌麿・窪俊満・葛飾北斎・北尾政演・北尾政美・湖龍斎・長喜・勝川春潮・勝川春好・    竹原春朝斎等あり    戯作者に朋誠堂喜三二・市場通笑・伊庭可笑・芝全交・志水燕十・恋川春町・万象亭・岸田杜芳・唐来    三和・恋川好町あり    狂歌師には四方赤良・鹿津部真顔・朱楽菅江・元の木網・きゝら錦鶏・宿屋飯盛・大屋裏住等のあるあ    り    俳諧師には蓼太・蕪村・白雄・太祇・完来・暁台・闌更のあるあり    書家には・三井親和・東江源麟・韓天寿・関其寧等のあるあり    和歌者流には千陰・春海・蘆庵・諸鳥等のあるあり、    実に文化燦然たる黄金時代なりといふべし〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・八人芸 川島哥命行はる。弟子に哥遊あり〟   ・天明の頃、地口(ジグチ)の変態にて、語路(ゴロ)といふ言葉はやる〟   ・料理茶屋行はれしは、葛西太郎(牛御前の門前、平岩の所なり)、大黒屋孫四郎(同所秋葉社手前也)、    武蔵屋権三郎(同所麦斗庵といふ)、甲子屋(真崎)、四季庵(中洲新地)、二軒茶屋(永代寺山内)    百川(いせ町裏川岸)、升屋宗助(深川州崎)(此の升やといへるは江戸料理屋の魁首にして、尤も大    厦(タイカ)なり。あるじ宗助、升億と号す。薙髪して祝阿弥と云ふ。京丸山の茶阿弥といへるに傚へるな    るべし。包丁に名を得たる者にして、しかも好事也。其の家の経営、美を尽し、数寄屋二、三ヶ所、鞠    場まで構へたり。貴人公子もここに遊び給ひ、或る君より望陀覧といへる文字を鋳物にしたる扁額を給    ひぬ。其の頃の富商も、皆こゝに遊びけるとぞ。寛政の始め津浪にかゝりて、其の所だになくなれり。    此の額のみいかゞしてか残りてありしを、俳優何某に与へし人ありとぞ。望陀覧は望陀都を覧(ミ)るの    意歟。同時、包丁に名高きは樽屋三郎兵衛、此升や宗助也。三郎兵衛は中洲に出て天明二年終れり)〟   ・此の時、カゲマ屋、芳町、木挽町、湯島天神内、麹町ぬし町代地、神田花房町、芝神明前、市谷八幡宮    内。勧進比丘尼、芝八官町、神田横大工町より出る。是に続きて、浅草田原町、同三島門前、新大橋河    岸等なり。ケコロといへる茶屋女、下谷広小路御数寄屋町、同提灯店、仏店、広徳寺前堀田原辺、其の    外諸所にありしが、寛政以来これなし〟   ・天明の始めより、京烏丸、枇杷葉湯売り歩行(アル)く〟   ・撫牛(ナデウシ)行はる〟   ・女芸者、振袖の衣類を着す〟   ・神田佐柄木町、山東といへる料理屋にて、シツポク料理をなし行はる。しつぽく料理は、都(スベ)て宝    暦明和の頃より世に行はれしかば、浪花の禿(カムロ)掃子「しつぽく料理趣向帳」といへる草紙をあらは    し、明和八年に梓に行へり〔以上八項『増訂武江年表』〕