☆「明暦元年(四月十三日改元)乙未」(1655)
(浮世絵)
・四月八日、辻村茂兵衛なる者、諸侯行列の図を画きて、京都の清水寺に額を納む〟
〔『【新撰】浮世絵年表』〕
(一般)
・九月、朝鮮人来聘(正使翠屏趙珩、副使秋漳瑜瑒、従事南竜翼、旅宿本誓寺也。韓人日光山拝詣す)〟
〈李進熙(巳が己)著『江戸時代の朝鮮通信使』(講談社学術文庫)は、副使を潭翁兪瑒とする〉
〔『増訂武江年表』〕
☆「明暦二年 丙申 四月閏」(1656)
(一般)
・浅草寺山門の仁王尊、この頃涎(ヨダレ)を垂るとて世に云ひふらし、貴賤群集す。
・本町二丁目和泉屋九左衞門(呉服屋)、穴蔵をつくる。これ江戸に於ける穴蔵の濫觴なり(「我衣」
に出づ)〔以上二項『増訂武江年表』〕
☆「明暦三年 丁酉」(1657)
(浮世絵)
・八月、雛屋立圃『源氏小鏡』に画き、安田十兵衛より出版〔『【新撰】浮世絵年表』〕
(一般)
・正月十八日~二十日にかけて大火。所謂、明暦の大火「振袖火事」(二月二十九日)焼死者埋葬の
ため本所に回向院建立
・正月下旬、吉原町小屋掛けを命ぜられ(「事跡合考」に、この時一旦本所の内、今の弥勒寺の所、其
の頃荒地にて在りし所へ移る由、云へり)、六月今の地へ引きうつり、新吉原と号し、八月より商売
をはじむ〔以上二項『増訂武江年表』〕
〈一般年間〉
・大火の後、江戸中町家瓦葺を禁ぜらる〔『増訂武江年表』〕
☆「明暦年間記事」
(一般)
・浅草見附前玉屋勘五兵衛、笹屋利兵衛といふ船宿にて、始めて猪牙船二(チヨキブネ)を製す。山谷通ひの
輩これに乗る
筠庭云ふ、猪牙船、こゝにいへるは「江戸砂子」の説なり。又一説あれども、いづれもひが事なり。
ちよき船悪所通ひに用ひそめし頃は、二挺立といへり。三挺立もあり。これら御停止にて、今は艪
一挺なれども三挺の名は残れり、二挺も三挺も皆ちよき船にて、もと漁猟の船なり
〔『増訂武江年表』〕