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浮世絵師総覧明治元年(慶応四年・1868)~四十四年(1911)浮世絵年表一覧
 ☆ 明治元年(慶応四年・1968 四月閏・九月八日改元)   (浮世絵)   ・11月21日、二代目鳥居清満、八十二歳没〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕      〈浮世絵年間〉   ・1867年、巴里万国博覧会で仏国人と日本美術との接触あり〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕      (一般)  ◯『増訂武江年表』2p217(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   ・春より、両国橋詰に足芸女を見世物とす。大坂下り花川小鶴と号し、年齢二十歳計りなり(両足の指を    はたらかす事自在にして、糸車を廻し糸をとり、花瓶の花をいけ火を打ちて行燈(アンドン)へ点(トモ)し、    縫針のわざをなし、煙草をきせるへついで呑み、其の外色々の技(ワザ)をなせり。按ずるに、昔もあり    しもの也。友人楓園がもちたる二二枚折の屏風、寛永の頃の図に、四条河原の見せ物に足芸の女あり、    足の指にて矢を射る所を画けり。其の図は縮して、「声曲類纂」に収めたり)   ・春の頃より、東海道駿河遠江の辺より始まり、虚空より太神宮の御祓太麻(オハライタイマ)ふり、又宇内の神    仏の御影、守護の札ふりしとて、村民等これを尊み祭り、酒飯を調へて親戚知己又は道往く人をさへ饗    し、次第に長じて、男女老幼にいたるまで一様の新衣を着し、花万度(ハナマンド)を持出し伎踊(オドリ)を    催して賑ひける。此の風俗、江府の市中に及ぼし、古き守札など竊(ヒソカ)に降らして惑はせし族(ヤカラ)    もありけるが、程なく止みたり   ・四月、外神田結城座にて、女歌舞妓芝居興行す。見物多し。この頃所々寄せ場にて、当時聞えし人の長    唄をうたはせ、聴主をまねぐ   ・四月、麹町九丁目心法寺境内にて、曲馬の見世物を興行す   ・五月十五日、官軍東叡山に向はれ、山内に籠り居りし彰義隊と号せし脱走浪士と戦闘あり、谷中辺を始    めとして大炮を放され、又三枚橋通へ押寄せ、双方より大炮を発して戦ひに成り、夜に至り山門其の外    に火を放つが故、惜しむべし、さしも甍を並べて壮麗たる根本堂、多宝塔、輪蔵、鐘楼、常行堂、法華    堂、文殊楼(山内)、御本坊、寺中は本覚院、凌雲院、寒松院、凉泉院、覚王院、顕明院、明教院等、    倶に舞馬(ブバ)の阨(ヤク)に罹り、片時の間に烏有(ウユウ)となれり(以下、略)   ・六月八日、かゝる中にも両国川通花火ありて、楼船数多く艚連ねて絃歌喧しく、水陸の賑はい大方なら    ず   ・八月、江戸を号して東京と改め給ふ   ・十月十三日、快晴。今日、御鳳輦(ホウレン)東京に着き賜ふ(九月二十日西京御発輦)。今朝品川駅を発し    給ひ、京橋通りより通町筋、通り壱丁目二丁目の間より西へ呉服町通り、呉服橋を渡らせられ、未刻頃    西城へ着き給ふ。貴賤老稚道路に輻輳して拝し奉る。更に寸地を漏らさず、錐(キリ)を立つべき所もなか    りし   ・十一月十九日より開市相成り、外国人居留交易御宥免等に付き、築地鉄砲洲一円、諸侯の邸跡等取払ひ、    外国人居留地と成り、或ひは町屋と成る。(中略)    新たに娼廓を開かしめられ、新島原と号せらる(以下、略)〔以上『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・写真鏡の技(ワザ)は次第に弘まり、所々へ場を構へ客を招ぎ、其の像をうつし、好みによりて紙に写し、    玻璃漏(ガラス)に写せり。又、山水、台榭(ダイシヤ)、俳優、娼妓の容貌をうつせる物を市店にならべて、    售ふ事は、明治六、七年の頃より始まり、今はこれのみ商ふの家年々に倍せり    〔『増訂武江年表』〕    ☆ 明治二年(1869)   (浮世絵)   ・二代目広重、四十四歳没〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・当時浅草見付附近の路傍にて露店にて黄表紙や尺余に積んだ錦絵を売る。その価一枚一銭位なり。露店    にては、鼠取薬を売るを本業とせる吉兵衛と云ふ男知らる〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    〈西洋における古版画評価の高まりが日本に伝わる以前の値段である〉     (一般)   ・正月十四日より、上野参詣、花見等ゆるさる。日毎に遊観多し   ・正月二十三日、二十四日、二十五日、吹上御庭へ貴賤男女拝見をゆるし給ふ。半蔵門より吹上西御門へ    入り、植木御門より竹橋御門へ出る。群集夥しくして終日縦観す   ・正月二十七日より六十日の間、高輪泉岳十一面観世音摩利支天開帳(淺野家義士の遺物を見せしむ。こ    の時、境内見世物に一間余りの螺の形を作り、山伏二、三人驚きたる体の偶人を作れり、(以下略))。   ・五月の始めより、浅草三好町に、不思議の見世物と号して興行す(天井へ足を付けてさかさまにあるき、    或ひは電信機会をもて釣りたる太鼓をならし、大人ももたげ得ざる重き箱を少女に持たせて、やす/\    かたげよせ、猫を躍らせ、其の外色々の工術をもなして見せけるが、さのみ見物人もあらざりし。   ・浅草奥山に女芝居はやり、又女の能あり   ・六月末より、浅草奥山に瞽者(コシヤ)の角力を見せものとして行はれたり   ・八月、新島原、吉原の例にて俄祭を行ふ。見物群集して賑へり   ・九月二十二日、二十三日、招魂社(九段坂上)祭礼御執行。此の辺の町にて、道戯踊等を催し詣人多し   ・九月二十二日、二十三日、土州侯御邸鎮守稲荷社祭礼あり。飾り物多く出来、声妓七、八十人木遣(キヤリ)    をうたふ。能、芝居、角力等あり。両日、庶人参詣見物をゆるさる。夥敷き群集なり    〔以上『増訂武江年表』〕    ☆ 明治三年(1870)(十月閏)   (一般)   ・四月朔日、両国橋際の拍戸(リヨウリヤ)にて、声妓清元房八といふもの書画会を催す   ・吉原町娼楼に於いて遊女の踊はやる。錦絵に多く印行せり   ・五月二十二日、画人鈴木鵞湖卒す(五十余歳)   ・今年夏、本銀町壱丁目なる高山幸助といふもの、人力車製造の事官府へ願ひ奉り、免許を得て是れを造    らしめ、日本橋の南に二、三輪を置き、曳車夫(ヒキテ)を側に居らしめ、幟を立て客を待ちけるが、次第    に世に行はれて轂(コク)下に充満し、近在近国にも及べり。此の物始まりてよりこのかた一、二里の片程、    片時に来往し、且つ行歩の労を休め、其の価廉なるを以て籃輿は更に廃れたり(以下、略)   ・九月、巣鴨菊の造り物、十三箇所程出来る    〔以上『増訂武江年表』〕      〈一般年間〉   ・此の頃、伊予奉書の八枚切の錦絵を板行售ひけるが、嬰児これを好んで求むるより次第に新版出来る    〔『増訂武江年表』〕    ☆ 明治四年(1871)   (一般)   ・正月より、上野山下に、柳川一蝶斎てづまの芝居興行   ・二月より、浅草寺奥山にて、西国三拾三所観世音霊験の活偶人見せ物出る(松本喜三郎作なり)   ・三月二十日より六十日の願にて、本所回向院に於いて相州関本最乗寺道了菩薩開帳あり(中略)    境内に蹴鞠の曲まりの見せ物出る。又紅勘と呼ばれるゝ老夫音曲をなし、道化の所作をなす見せもの出    たり   ・染井栽木屋にて、躑躅花壇を源氏五拾四帖になぞらへて見する   ・此の頃、常盤橋御門外篦頭舗(カミユイトコ)に、西洋風髪剪所の招牌を出す。太き棹の頭に宝珠の形を彫り、    右の棹へは朱白藍色の左巻きといふ塗分けにして立つる。これより諸方に、これに擬して一般の形状と    なれり   ・七月十七日、新島原娼廓御廃止、娼家七月限り引払候様仰付けられたり(渡世替又は元吉原町へ示談の    上移住、商売いたし候様御沙汰あり)娼家引払の後、此所を新富町と改め、一丁目より七丁目迄あり。   ・九月、染井巣鴨団子坂、菊の造物あり   ・十月二十六日より、招魂境地に於いて、異国の男女曲馬の見せ物興行す(二階上棟敷代一人二百疋、一    番より三番迄、一人百疋、又一人三朱と二朱のさじきあり、仏国スリエといふが催しなり。見物少し。    面白からずして価貴く、日は短くなり寒気にも向ひし故なり)   ・十一月十一日、九段坂上招魂社前に燈台御建立成りて、今夜より燈火を点ぜらる(石を組みて台とし上    に大なる金燈籠を置けり)    〔以上『増訂武江年表』〕    ☆ 明治五年(1872)   (一般)   ・二月、異国人男女の曲馬軽わざ、浅草奥山に於いて興行す   ・二月二十九日、猿若町三丁目狂言座守田勘弥、新富町四丁目へ芝居移転の儀願之通仰付けられ、是れよ    り造作取掛り、芝居并びに茶屋等造作追々出来、十月より新芝居興行す   ・三月三日より二十日の間、湯島大学校にて博覧会御開、古書古画古器珍物多く出て追追に御引換あり。    これによつて、好事の輩日々に集りて帰路を忘る(又戌年には古書画展覧会あり)   ・三月十一日より百日の間、浅草伝法院博覧会あり   ・三月初旬より、浅草御蔵前大円寺境内にて、腹の中にて物を云ふ盲女見せ物に出る。   ・四月九日、招魂社本社成就、正遷宮丑時御執行あり   ・七月十五日より二十日間、回向院に於いて、下総幸手宿の辺、中田光了寺(真宗)不動尊、白拍子静    の現影開帳あり。当時什宝、義経より給はりし白拍子静が舞衣を見せしむ(此の間詣人少くして、静御    前の名もしるし、宝剣ともにてありし)   ・七月より、浅草寺奥山に、南京の背高き人見せ物に出る(詹正丸といふ。身の丈八尺余なり。このみに    より扇面又唐紙の類、紙半幅の物へ書をなす。匹夫とは見ゆれど流石に国風と見えたり)   ・同九月、鉄道御開業成功に付き、十二日、開業式行はせらる。同日、臨時行幸仰せ出ださる。朝八時、    新橋より鉄道横浜へ行幸、御当日、新橋の横浜鉄道館及び浜離宮御園林延遼館等、諸人参拝をゆるされ    しかば、貴賤群集夥しかりし。新橋南北京橋辺、所々車楽伎踊台を設けて賑へり。鉄道の入口には、足    台を組みて紅白の挑灯夥しくかゝげ、境内樹木の枝にも挑灯を下げ、夜に入りて燈火を点じたれば、其    の光景いはむかたなし。其の外の経営、市中の繁昌、言語にのべがたし(夜に入りて花火あり)。右相    済みて後、市中へ御酒肴を賜はる。翌十三日より始まり、新橋ステーシヨンより横浜へ汽車運転業を肇    らる   ・十月、新富町芝居興行   ・十一月二十日、今般太陰暦を改められ、太陽暦御頒行之有り、来る十二月三日を以て明治六年一月一    日と御定に相成り候旨御布告あり。   〝十一月二十七日より、山下御門内元薩州侯屋敷にて、博覧会拝見を免(ユル)し給ふ。金、銀鉱、銅鉱、    化石、薬種、石炭、奇竹、塗物、鋳物、花瓶、磁器、和絵類、小児玩具、木偶、土偶、写真画、竹細    工、農具、織物、蚕繭類、書籍、奇獣、干ッシタル物、羆(ヒグマ)、白茶鳥(干したるなり)、樹木、    穀類、蝶種類、水晶類、其の余古物等数多飾りてあり    〔以上『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・此の頃より始まりて、を弄ぶ人多し。高価を以て購ひ勝劣を争う輩あり(所々会合を催す)   ・所々に西洋画の覗きからくりを造り設け、見物を招く。夏の頃より浅草寺奥山花屋敷の脇に始まる。    夫れより続いて出来る。(以下、設置場所の記事あり。省略)〔以上『増訂武江年表』〕    ☆ 明治六年(1873)   (浮世絵)   ・五月一日、画人狂斎、柳橋河内屋半次郎が楼上に於いて、千枚画をなす。草筆の達者なり    〔『増訂武江年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・五雲亭貞秀、六十七歳(?)没。〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    〈現在、貞秀の没年については明治11-12年頃と推定されている〉     (一般)   ・四月、下谷元おなり道東側裏にて、春五郎といふ者、歌舞伎狂言にてづま軽業綱亘り等を交へて、芝居    興行(故ありて間もなく止む)   ・五月一日、画人狂斎、柳橋河内屋半次郎が楼上に於いて、千枚画をなす。草筆の達者なり   ・五月十五日より六十日間、回向院に於いて、高野山弘法大師開帳(十二日着あり。其の日の群集夥しか    りし)、開帳中、境内に撃剣会、西洋覗きからくり朝比奈三郎と。大黒天の巨像(各三丈余の座像なり)    の活人偶(イキニンギヨウ)化(バケ)もの二ヶ所、其の外見せ物多く出る   ・十二月、京橋より新橋迄、新築馬車道落成に付き、戌年一月五日より諸車通行を開かる    〔以上『増訂武江年表』〕    ☆ 明治七年(1874)   (浮世絵)   ・ウィーンの博覧会へ美術品出品の整理の為め、最初の貿易商社たる起立工商会社立つ。社長松尾儀助、    副社長若井兼三郎(若井おやぢ)なり。〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治八年(1875)   (浮世絵)   ・六月十六日、三代目鳥居清忠、五十九歳没。〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・万民苗字を称せしむ     〈これを契機に自らの名字を画姓とする絵師も登場し始める〉   ・国沢新九郎京橋竹川町に我が国最初の展覧会を開く    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治九年(1876)   〈浮世絵年間〉   ・小林清親の作品出だす。〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕      (一般)   ・工部寮に美術学校を置き、教師に伊人フオンタネヂー、カペルチー、ラグーザを聘す    〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕      ☆ 明治十年(1877)   〈浮世絵年間〉   ・この頃西鶴本五銭なり。歌麿流行し歌麿保護会出来る。これ国内に於て漸く浮世絵趣味のきざるによる   ・この時分、吉原遊郭内にて錦絵の陳列会、浅草松山町我楽堂にて細絵の陳列、猿若町の芝居にて演劇に    関する展覧会等行はれ、古版画趣味漸く普及す   ・この時代の古書店として知られたるは三久、京常、淡路町の斎藤(綽名バイブル)、酒井好古堂(当時    和泉町)等なり。   ・欧州では、既に浮世絵を注目す。大体仏英独米の順なり。而して学術的な研究の外に、浮世絵を実用的    に生活に応用すること行はる。   ・村上友吉、仮名垣魯文等のきも入りで吉原で吉原に関する絵、猿若町の芝居で演劇に関する絵の展覧会    開く    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・第一回内国勧業博覧会上野に開かれ、美術部の設けあり。   ・『日本製品図説』刊(高鋭一編)内務省蔵板    〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治十一年(1878)   〈浮世絵年間〉   ・巴里万国博へ林忠正事務官として赴任〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・盬田真等毎月一回上野不忍池畔生池院に美術品評会を開く。後の龍池会なり   ・菊池容斎歿す    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治十二年(1879)   〈浮世絵年間〉   ・我が国に浮世絵の真価を知らしめし米人フエノロサ聘せられて来朝東大教授となる   ・京都の画商先代松木善右衛門浮世絵を始む    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治十三年(1880)   (浮世絵)   ・一月十一日、龍池会(不忍池畔龍池院内)殆ど肉筆画に限る   ・四月十七日、歌川芳宗六十四歳没   ・七月二十日、四代目歌川豊国(二代目国貞)五十八歳没    〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・此頃フエノロサ、ペンケイ、ビゲロー、キヨソネ、ワグネル等、浮世絵に関心もち、国内に於て買集め    る。為めに錦絵商活気を生じ、買入広告   ・当時国内人にして浮世絵に注目した人々としては、学者で岡倉覚三、商人で林忠正、松尾儀助、若井兼    三郎、小林文七なり    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・佐野常民を会頭とし、副会頭を河瀬秀治として盬田真等の美術品評会は龍池会と命名さる    〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕       ☆ 明治十四年(1881)   (浮世絵)   ・六月、第二回龍池会。〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・フエノロサ初めて日本画推奨の意見を発表す〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・第二回内国勧業博覧会上野に開かる〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治十五年(1882)   〈浮世絵年間〉   ・若井兼三郎起立工商会社を退く〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・第一回内国絵画共進会上野に開かる〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治十六年(1883)     〈浮世絵年間〉   ・錦絵漸次国内に流行す〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・東洋絵画会成り、東洋絵画雑誌を発刊す。洋画家八十余名両国井生村楼に大会を開き洋画頽勢挽回の    策を講ず〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     ☆ 明治十七年(1884)   (浮世絵)   ・十月十日、歌川芳盛、五十五歳没     〈浮世絵年間〉   ・交換会「紙集会」生る。主催者は清水晴風、花屋花影、世話係は村上友吉、鈴木雅楽堂、    常連として三代目広重、仮名垣魯文、梅素薫、元禄屋主人等なり。これ交換会の始めならん。   ・当時浮世絵の海外へ流出する径路は、紙集会→村上友吉→若井兼三郎(骨董商、京橋瀧山町)→松尾儀    助(木挽町)→林忠正なり   ・当時の浮世絵の価格は懐月堂十枚一円六十五銭。清信の細漆絵七枚で五十銭五厘。    「絵本舞台扇」は一円にて高価なりと云はる    〈当時の古版画の値段、単純計算すると、懐月堂は10枚1円65銭であるから、一枚は16銭5厘、同様に清信の漆絵は一枚     7銭2厘。勝川春章と一筆斎文調の『絵本舞台扇』(明和7年刊・1770)が一円銀貨一枚で百銭という〉   (参考までに朝日新聞社刊『値段史年表』によると、当時の物価は以下の通り    うな重 20銭 明治10年・大工手間賃 50銭 明治12年・巡査初任給 6円 明治14年・総理大臣年俸 9600円 明治19年    コーヒー 3銭 明治19年・食パン一斤 5銭 明治20年・白米10キロ 46銭 明治20年・クリーニング背広上下 30銭 明治20年    そば  1銭 明治20年・国会議員年俸 800円 明治22年・ビール1本 14銭 明治25年・歌舞妓桟敷席 4円70銭 明治22年)       ・東京の錦絵売買店としては、上述の村上、鈴木の外酒井藤兵衛(好古堂)吉田金兵衛等あり。酒井吉田    は、浮世絵商として元祖なりと云はる。他は骨董商又は古書籍商の副業なり    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・四月第二回絵画共進会開催。   ・文部省に国画教員調査所設けられ、フエノロサ、岡倉覚三、狩野芳崖、小山正太郎、今泉雄作等委員    となる    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治十八年(1885)     (浮世絵)   ・一月三十日、反古庵第一回開かる。会場は呉服町柳屋にして、集まる人々は、鈴木我楽堂、村上、清水    晴風、仮名垣魯文、三久、三宅彦次郎等十余名にして、古版画の持寄入札会なり。懐月堂一枚七十銭位    で十枚も揃つて出たと云ふ。以後この会盛会にて暫く続く。当時浅草元禄茶屋にて乾什会ありたるも永    続せず〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・この頃吉田金兵衛複製版画を作り、真物として外国へ売りしと云はる〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・東京美術学校の濫觴たる国画取調掛が文部省出来る。フエノロサ、岡倉覚三、鑑画会を起す    〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治十九年(1886)     (浮世絵)   ・五月中旬に新聞記事あり。即ち「錦絵の古物古きを温ね新しきを知る了簡か。此節東京にて外国人が頻    りと我錦絵を好み買入る故非常に捌方よく其代価一枚絵にて二円位から二円八九十銭位迄の高価に騰貴    せしかば、是は面白き儲け事なりとて、該営業者は田舎までへも立越し其古物を買入れる由」とあり。    当時歌麿、春信を一枚二三円で外国へ売却せし時代なり〟    〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・小口木版を将来せし、合田清仏国より帰朝、洋画家山本芳翠等と共に生巧館を組織す    〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治二十年(1887)   (浮世絵)   ・林忠正巴里より帰る〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・龍池会組織を改め日本美術協会となる。〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕  ☆ 明治二十一年(1888)     (浮世絵)   ・七月二十二日、二代目歌川国明、五十四歳没   ・林忠正巴里へ〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕   ☆ 明治二十二年(1889)     (浮世絵)   ・四月二十六日、河鍋暁斎、五十九歳没   ・六月、瀧村弘方、二十二歳没   ・六月『新増補浮世絵類考』刊(龍田舎秋錦著)   ・九月十四日、井上安治(探景)二十六歳没    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・この頃古書蒟蒻本一冊二銭乃至五銭が商人の買入価なり〈「蒟蒻本」とは洒落本のこと〉    〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・二月、東京美術学校開校   ・十月、雑誌『国華』創刊〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治二十三年(1890)   (浮世絵)   ・五月二十七日、小林永濯、四十八歳没   ・十一月十八日、鳥居清種、六十一歳没    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・フエノロサ帰国し、ボストン博物館東洋部々長となる。〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕        (一般)   ・三月、第三回内国勧業博覧会〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治二十四年(1891)   (浮世絵)   ・四月『増補浮世絵類考』刊(斎藤月岑著)(温知叢書)   ・七月、柴田是真、八十五歳没。   ・十二月『浮世絵編年史』刊(関場梅屋著)    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・浮世絵良品は、小林文七、村金、足立良弼、独商人(ベンケイ・ウインケルン商館)、吉沢商会等によ    つて海外へ流出するもの多く、国内には払底せしが、一方海外よりの浮世絵熱の輸入により国内覚醒を    見、その蒐集に向ふものを生ぜしめ、作品の価格は漸次高値に向ひつゝあり    〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕      (一般)   ・英人洋画家ワーグマン五十七歳没〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治二十五年(1892)   (浮世絵)   ・二月一日、五姓田芳柳、六十六歳没。   ・六月九日、大蘇芳年、五十四歳没。   ・八月十九日、三代目鳥居清満、六十一歳没。   ・十一月十二・三日、浮世絵展(小林文七主催・上野松源楼)    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・此時代より海外及外人の刺戟により国内に漸く浮世絵に対し関心がたまる。即ちフエノロサの活躍と、    小林文七、吉田金兵衛等の薦めにより、高嶺哲夫、九鬼隆一、服部一三、本田耕曹等の蒐集始まる。   ・当時春信の中判十円位    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     ☆ 明治二十六年(1893)   (浮世絵)   ・九月『浮世絵師便覧』刊(飯島虚心著)    九月『葛飾北斎伝』刊(飯島虚心著)    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・二代目新井芳宗、京橋南重六町に画博堂と称し、新画の陳列販売店を開く。この店後に松井栄吉に譲る。   ・ルーブル美術館の浮世絵版画、当時五十枚なるも、今日の蒐蔵品の核心と云ふべし     〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治二十七年(1894)   (浮世絵)   ・三月二十八日、三代目広重没。〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治二十八年(1895)   〈浮世絵年間〉   ・この年の東京地本彫画営業組合の名簿によれば、会員一二六人なり。これを一段落とし、絵草紙店の凋    落を見る。〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕  ☆ 明治二十九年(1896)     〈浮世絵年間〉   ・フエノロサ再度来朝   ・紐育に、歴史的展列による浮世絵展覧会あり。斯る展列法の嚆矢なり    〈「紐育」はニューヨーク。この制作年代順の展示方法は日本でも小林文七が翌三十年早速取り入れた〉   ・Fenollosaka「The Masters of Ukiyoe」    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治三十年(1897)   (浮世絵)   ・一月、浮世絵歴史展(小林文七主催上野美術協会)〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕      〈浮世絵年間〉   ・この時分の蒐集家の分野は、東京…九鬼隆一、高嶺哲夫、小林文七。神戸…服部一三、秋岡恕卿、竹岡    豊太、ハツパー、デボー。大阪…岡本喜平。松江…桑原半次郎   ・此以前より小林文七は、米国へ二奥村・鳥居の漆絵大判、歌麿、写楽、清長、春信等の作品を流出せし    む   ・当時秋田の本庄より大判丹絵十二枚が五百円で堀出さる。しかし、米人研究家ハツパーも、美術商山中    商会も、四千円でこれを買入こと能はず、小林文七が三千円にて買ふ。小林文七主催の浮世絵展覧会は、    前年紐育で行はれたる歴史的展列の模倣にして、此種の展列法は本邦に於て最初なり    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治三十一年(1898)   (浮世絵)   ・四月、小林文七主催入札展(於上野伊香保)   ・六月『浮世絵備考』刊(梅本塵山)〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    〈この展示会の目録(『浮世絵展覧会目録』)に、フェノロサは「浮世絵展覧会目録緒論」という一文を寄せている。     その中で、前出、明治29年のニューヨークの展覧会を取り上げて、その意義を述べている。(「浮世絵展覧会目録緒     論」は本HPのTop画面にある「その他(明治以降の浮世絵記事)」の中の「フェノロサ」の項を参照)〉      ☆ 明治三十二年(1899)   (浮世絵)   ・五月『本朝画人伝』刊(関根只直著)   ・六月二十八日、中井芳瀧、五十九歳没    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕 ☆ 明治三十三年(1900)   (浮世絵)   ・七月一日、豊原国周、六十六歳没〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・巴里に万国博覧会開かれ、林忠正の最も得意の時代にして、曽根と伊藤博文の引立により、同博覧会の    事務官長となり 後に勲四等正五位を賜はる   ・豊原国周歿して、絵草紙屋は漸次葉書店になると云はる    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・私製葉書の発行許さる〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治三十四年(1901)   (浮世絵)   ・二月十四日、鳥居清貞、五十八歳没。     〈浮世絵年間〉    ・フエノロサ三度び来朝    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・横井時多の『日本絵画史』刊行さる〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治三十五年(1902)     (浮世絵)   ・一月十五日、松尾儀助(起立工商会社長)六十八歳没。   ・十二月十四日、岡野芳秀、七十一歳没。    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・宮武外骨浮世絵研究始まる〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)    ・六月、逓信省より万国聯合二十五周年記念絵葉書発行され、我が国絵葉書発行の初めと云はる    〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治三十六年(1903)   (浮世絵)   ・一月十八日、田口米作、四十歳没。   ・八月二十二日、二代目年信、三十八歳没。   ・十一月二十日、野村芳国、四十九歳没。    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕 (一般)   ・『真美大観』成り、これより古名画の復刻公刊漸く多し   ・藤岡作太郎の『近世絵画史』刊行    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治三十七年(1904)   (浮世絵)   ・二月六日落合芳幾、七十二歳没   ・四月、歴史風俗画展(日本美術協会)    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕      〈浮世絵年間〉   ・Strange『The colour-prints of Japan』   ・Perzynski『Der Japanische Farbenholzschnitt』    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕      ☆ 明治三十八年(1905)     (一般)   ・大下藤次郎雑誌『みづゑ』を発刊す   ・Tei-San(comte G.de Tressan)『Notes Sur L'Art Japonais』    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治三十九年(1906)     (浮世絵)   ・四月十日、林忠正、五十四歳没   ・五月、久保田米僊、五十五歳没   ・六月『浮世絵派画集』(大村西厓)四十年十一月迄に五冊刊行    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    〈吉田暎二は『浮世絵派画集』を「浮世絵を文化史的体系的に記述した書籍として、まだその本質は画集ではあつたが、     本邦に於ける最初のまとまつたもの」と高く評価している。同ページ「第三期大正十二年迄」の解説〉     (一般)   ・絵葉書の大流行    ☆ 明治四十年(1907)   (浮世絵)   ・五月十九日、二代目歌川芳丸、六十四歳没   ・十二月『続浮世絵類考』(斎藤月岑著)(燕石十種)    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    〈『燕石十種』所収の『続浮世絵類考』は無名翁(渓斎英泉)著。別名『無名翁随筆』〉     〈浮世絵年間〉   ・執行弘道が広重の作品に目をつける。前年物故せる林忠正の蒐集品が、此の年から四十五年頃迄、数回    に亘つて売立整理さる。主なるものは美術倶楽部で三回。その他神田の倶楽部等なり。   ・Kurth『Utamaro』    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     (一般)   ・文部省美術展覧会開設を公布する〔「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治四十一年(1908)   (浮世絵)   ・四月七日、水野年方、四十三歳没   ・十二月二十二日、若井兼四郎(若井おやぢ)七十四歳没    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕     〈浮世絵年間〉   ・フエノロサ 五十六歳にて倫敦で客死〈「倫敦」はロンドン〉    〔以上「明治以降浮世絵界年譜稿」〕    ☆ 明治四十二年(1909)     〈浮世絵年間〉   ・『菱川師宣画譜』刊(宮武外骨著)   ・Vignier Inada『Estampes japonaises primitives』    ☆ 明治四十三年(1910)   (浮世絵)    ・六月、歌川芳満、七十四歳没。      ・一月『此花』(大阪)創刊。    ・四月『奥村政信画譜』刊(宮武外骨著)     〈浮世絵年間〉    ・画商村金が、林忠正の妾から林蒐集品の委託を受けて売立、売上二万円。これ浮世絵に於ける大売立会の始めなり    ・この頃美術倶楽部の入札で、写楽、二百円位、清長の保存良好なる三枚続を岩崎家が四千円にて落札す    ・この時分、画商川口が役者絵等安物を問屋式に夜店から大量に仕入れ外国へ売却せり。川口は桑港に店を持つ     〈「桑港」はサンフランシスコ〉    ・Kurth『Syaraku』『Suzuki Harunobu』    ・Vignier,Inada『Harunobu Koriusai Shunsho』   ☆ 明治四十四年(1911)   (浮世絵)   ・四月、江戸時代婦人風俗に関する絵画服飾展覧会(帝室博物館)   ・九月『西川祐信画譜』刊(宮武外骨著)      〈浮世絵年間〉   ・京都で第一回浮世絵肉筆版画展   ・Vignier,Inada『Kyonaga Buncho Syaraku』   ・Kurth『Der japanische Holzschnitt』   ・『此花』続刊