☆「万治元年(七月二十三日改元)戊戌 十二月閏」(1658)
(浮世絵)
・七月、中川喜雲の『京童』出版、古来雛屋立圃の挿絵なりといふも、立圃に似ずして菱川師宣などには
似たり。
此年、又浅井了意の『東海道名所記』成れり。此の書の挿画こそ郤て立圃に似たり。余(漆山天童)
は蓋し元禄元年、服部九兵衛再版のものを見たり
此頃よりして絵入本の出版漸く多くなりて、お伽草紙・仮名草子・浄瑠璃本等数多あり。即ち此年には
『ぶんしやうのさうし』『よこぶえたきぐちのさうし』『志田ものかたり』『富士の人穴さうし』『あ
つもり』『平の維茂もみぢ狩』等あり。又教訓書・随筆等の書には、『女訓抄』『見ぬ世の友』『大ざ
つしよ』等あり。いづれも絵入本なり。〔『【新撰】浮世絵年表』〕
☆「万治二年 己亥」(1659)
(浮世絵)
・五月、山本春正風の絵本入にて『太平記大全』五十冊出版せり
此年、浄瑠璃本には『くらまかくれ文あらひ』『源氏のゆらひ』『道風額揃』『二たんの四郎』『四天
王武者執行』等あり。画工はいづれも菱川師宣なるべし〟〔『【新撰】浮世絵年表』〕
(一般)
・新吉原三浦屋遊女高尾、六代ほどもつゞき候哉。初代よりの伝いかゞ。
高尾が伝は、能ク原武太夫盛和委敷候へき、伝へ請候筈にて終に不果、残念に候。浅草山谷寺町春慶院
に転誉妙身と有之碑、万治己亥十二月五日と切りて、辞世に、
さむ風にもろくもくつる紅葉哉
と有り。塔の屋根に(紋の図あり)此紋切り附たる四面塔の碑は全ク初代の高尾に候。是を土手の道哲
歟(原文、与+欠)似せ碑を造り、二代目高尾と称し人を欺しを、不吟味にて江戸砂子に二代目高尾と
記し候なり。〔『瀬田問答』〔南畝〕⑰377(大田南畝著・寛政二年(1790)頃か)〕
〈これは大田南畝の質問に瀬名貞雄が答えたもの。原武太夫は幕臣で御留守居番与力。三絃の名だたる名人で観流斎原
富と称す。南畝は原富に明和元年、歌の師・内山賀邸宅で出会っている〉
☆「万治三年 庚子」(1660)
〈浮世絵年間〉
・此年、始めて金平云々の外題ある浄瑠璃本出づ。金平本の嚆矢といふべし。即ち『金平末春軍論』これ
なり。版元は京都の正本屋九兵衛なり。〔『【新撰】浮世絵年表』〕
〈一般年間〉
・木挽町五丁目に、森田太郎兵衛始めて芝居興行す(後代々勘弥と号す)〔『増訂武江年表』〕
☆「万治年間記事」
(一般)
・万治の頃、駿州阿部川の辺より、酒落といへる座頭江戸に下り、諸人の慰みに紙帳(シチヨウ)の内に入りて、
鳴物八人の役を独りしてなすよし、「一代女」といへる草紙にいへり。八人芸のはじめにや〟
〔『増訂武江年表』〕