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浮世絵師総覧享和元年(寛政十三年・1801)~三年(1803)浮世絵年表一覧
 ☆「享和元年(二月五日改元)辛酉」(1801)   (浮世絵)   ・正月、歌麿の『絵本四季花』       北斎鳥文斎栄之の画に成れる『女房三十六人歌合』       歌川豊国の『俳優三階興』       鈴木芙蓉の『熊野名勝図会』等出版。   ・三月、大阪の松好斎半兵衛の画ける『嵐雛助死出の山嵐』       下河辺拾水竹原春泉斎の挿画に成る『百人一笑』出版。   ・六月、梨本祐為歿す。行年六十三歳。(祐為は京都下鴨の祠官にして和歌に名あり。絵は西川祐信に学    び、寛政九年出版の五升庵瓦全の編『職人尽発句合』の挿画は実に祐為の画くところなり)   ・八月、俵屋宗理の画ける『挿花衣の香』出版。   ・九月、竹原雲峰の画ける『戯場節用集』出版。   ・十一月、丹羽桃渓の画に成る『河内名所図会』出版。〔以上六項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・北斎此年より画狂人と称せり。〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・三月十八日より十五日の間、浅草観世音開帳。   ・亀戸天満宮開帳。   ・目黒不動尊開帳。   ・四月より、深川法禅寺にて武州熊谷寺阿弥陀如来、蓮生像等開帳。〔以上四項『増訂武江年表』〕   ・六月十五日より回向院にて、嵯峨清涼寺釈迦如来開帳。〔『きゝのまに/\』〕   ・九月十八日、画人蘭斎森文祥卒す(北越の人也。浅草本願寺中妙清寺に葬す。号を蘭畹文良と云ふ。医    師なり。〔『増訂武江年表』〕    ☆「享和二年 壬戌」(1802)   (浮世絵)   ・正月、北尾重政の『絵本高麗嶽』       葛飾北斎の『絵本東都遊』『絵本忠臣蔵』『五十鈴川狂歌集』       歌川豊国の『絵本時世粧』『俳優三十二相』、       岡田玉山の『実語教画本』       松好斎半兵衛の『俳優児手柏』       北斎の画に富士唐麻呂編『潮来絶句集』等出版。   ・二月、速水春暁斎の『世渡名所図会』       蹄斎北馬『狂歌まくのうち』出版。   ・五月、木の元才荘といふ者、焼絵を再興し、会席を設く。〈下記(一般)の『武江年表』記事参照〉   ・六月、窪俊満の『狂歌左鞆絵』出版。   ・八月、西村中和の『絵本年代記』       北尾政美の『魚貝譜』出版。〔以上五項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、子興の口絵にて成三楼作なる洒落本『婦足禿(フタリカムロ)』絶版の命を受く。    又大阪の画工西村中和の画にて秋里籬島の著作なる『絵本年代記』初編五冊絶版の命を受く。版元は京    都の出雲寺文次郎なり。〈下記『筆禍史』「婦足(一字・髟+間)」「絵本年代記」参照〉   ・此年、山東京伝『浮世絵類考』追考を著す。   ・此年、菊麿、喜久麿と改む。〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月、糀町平河天満宮開帳。   ・二月二十八日より、柏木村円照寺薬師如来開帳。〔以上二項『増訂武江年表』〕    ・二月中より四月に至て風邪流行す、是をお七風と呼、民間へ米銭をお救として給ふ、其頃覗きからくり    言たて、節を付て手を打たゝき、八百やお七が事を唄ふ、小児等是を学べり。〔『きゝのまに/\』〕   ・五月、木の元才荘といふ人、焼絵<を再興し会席を設く(焼絵はちいさき鏝(コテ)を焼きて画くなり。濃淡    自在にして筆をもて画けるが如く、昔もありける伎をふたゝび起したる由也。(中略)文化の半ば迄六    十余歳にして存在せしが終りを知らず。焼絵は今に此の伎をなすものあり。近世は鉄筆を号せり)     筠庭云ふ、後文政頃白娥といふ者焼絵をなしたり。〈本HP「浮世絵事典」「焼絵」に全文あり〉   ・七月十八日、狂歌師唐衣橘洲卒す(七十六歳。称小島源之助、一ッ木浄土寺に葬す)    〔以上四項『増訂武江年表』〕    ◯『筆禍史』   ◇「婦足(一字・髟+間)」p95   〝成三楼酒盛の著にして、子興(栄松斎長喜)筆の口絵あり、是亦淫猥の蒟蒻本なりしがため、直ちに絶    版の命を受けたり、其一節に「堪忍しておくんなんしと例の殺し目尻でにつこり、此時の顔、うちへ帰    つても、立つても居ても、寝てもさめても、ちら/\見ゆべし、これより咄いたつて低くなり、何か聞    へるやうで、聞こへぬやうなり云々」とあり、其キワドキ細写の一斑と知るべし     〔頭注〕(髟+間の字)    此字を「かむろ」とよむよし、通気多志と冠して「つきだし、ふたりかむろ」といへり、面倒臭き洒落    にてありける〟
   『婦足禿』 成三楼主人作・子興画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     ◇「絵本年代記」p97   〝秋里湘夕(籬島)の著にして、挿画は西村中和の筆なり、湘夕が盛んに名所図会の類を編纂せる間に於    て著したるものにして、神代より人皇四十九代までの年代記を大本五冊に分てり、『絶焼録』の絶版書    目中に此書を加へてあれど、其絶版の理由は解し難し、或は『天神七代記』に類せるものならんか〟
   『絵本年代記』(東京学芸大学付属図書館「望月文庫往来物目録・画像データベース」)      〈望月文庫所蔵本は江戸版で、著者名及び画工名の記載がない。国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は上記本     を籬島著・中和画とする〉    ☆「享和三年 癸亥」(1803)   (浮世絵)   ・此年、芝居に関する絵本数多出版せり。即ち    一月、勝川春英・歌川豊国両人の画にて式亭三馬の著作なる『戯場訓網図彙』八巻五冊、       歌川豊国画て篁竹里著作の『絵本戯場年中鑑』三冊。同じく豊国にて立川焉馬著作の『役者此手       嘉志和』二冊、       大阪の画工松好斎半兵衛の画ける『戯場言葉草』五冊、   ・四月、大阪の画工流光斎如圭の画ける『戯場画史』山水之部二冊、       画工不明の『戯場一覧三座例遺誌』前編一冊等なるが、其中にて『絵本戯場年中鑑』のみは劇道       の秘密を漏らせしとて、芝居の太夫元より苦情ありて絶版せりといふ。       〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕   ・七月、高嵩渓信宜、猩々舞の図を画く。浅草観音堂の外陣に掲ぐ。〔『増訂武江年表』〕          ・正月、北尾重政の『絵本三鼎倭孔明』、       山東京伝(北尾政演)の『奇妙図彙』、       葛飾北斎の『絵本小倉百句』       歌川豊広・歌川豊国両人の画に成れる『御伽かのこ』出版。   ・六月、北尾重政の『絵本江戸桜』、       柳々居辰斎の『新撰狂歌五十人一首』出版。   ・十一月、大阪の耳鳥斎の『かつらかさね』出版。〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年か或は前年享和二年かに疱瘡流行せしなるべし、此年貞之といへる画工『疱瘡請合軽口ばなし』と    いへる紅摺の絵草紙に画きて出版せり。作者は十返舎一九なり。〔以上『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・三月より、浅草玉泉寺にて相州星降山妙純寺祖師開帳。   ・四月より六月に至り、麻疹流行、人多く死す(筠庭云ふ、此節落首「江戸中の端からはしか一面にはや    るは医者とあんまけんびき」はしかも珍しかりし故人死も多かり。其の後は往々ありて死するものなし)   ・五月二十八日より、下谷稲荷開帳。同日より、浅草中梅園院にて相州大山麓龍泉寺小安観音開帳。   ・六月朔日より、回向院にて、鵜木光明寺雷留観世音開帳。同日より、浅草伝法院にて、信州善光寺如来    開帳(筠庭云ふ善光寺開帳不当り「開帳の御手の糸こそ狂ふらめあたりはづれはなきと聞きしが」)   ・六月十日より三十日の間、本所一ッ目弁才天開帳。    ・七月朔日より、浅草寺中金蔵院にて相馬大円寺釈迦如来開帳。同日より、永代寺にて常盤国阿波大杉大    明神開帳。    同日より、浅草寺内正福院にて、越後頸城郡居多大国主像開帳(宗居庵日の丸の号神を拝せしむ)    〔以上六項『増訂武江年表』〕     (一般年間)   ・今年二月中旬より、浅草田圃立花侯御下藩、鎮守太郎稲荷社利生あらたなるよしにて、江戸并びに近在    の老若参詣群集する事夥しく(余り群集しける故、後には朔日、十五日、二十八日午の日開門也)翌文    化元年に至り弥(イヨイヨ)繁昌し、奉納山の如く、道路には酒肆茶店を列ねて賑はひしが、一、二年にして    自然に止みたり(其の時の草紙、一枚絵、小唄の本あまたありし。文化元年抱一上人画会の時「絵をか    くか願ひかくるか此のくんじゆ太郎さまへか屠龍さまへか」)    〔以上『増訂武江年表』〕    ☆「享和年間記事」   (浮世絵)   ・江戸浮世絵師は、葛飾北斎辰政(始め春朗、宗理、群馬亭、後北斎戴斗、又為一と改む)、歌川豊国、    同豊広、蹄斎北馬、雷洲(蘭画をよくす)、盈斎北岱、閑閑楼北嵩(後柳居)、北寿(浮絵上手)、葵    岡北渓。   ・北尾蕙斎略画式と号し、浮世絵の略画を工夫せし彩色摺の粉本数篇を梓行す。   ・浮世絵師二代の春信といひしもの、長崎に至り蘭画を学び、後江戸に帰り世に行はれ、名を司馬江漢と    改む。又銅板画を日本に草創せるも此の人の功也     〈司馬江漢(二代目春信)を「享和年間記事」に組み入れたのは不審。春重および二代目春信を名乗ったのは明和末以     降、銅版画の制作は天明三年のことである〉   ・此の頃迄山水の遠景を画きたる一枚絵を浮絵と云ふ。今此の称なし。    〈『増訂武江年表』の脱稿が嘉永元年(1848)だから、ここに言う「今」とはそのあたりか〉   ・京大坂画者は石田玉山、青陽斎蘆国、一峯斎馬円、丹羽桃渓、合川珉和、松好斎半兵衛、歌川豊秀、速    水春暁斎等其の外数多あり。春暁斎は画人なれども、自ら著述のよみ本数十部あり。     〔以上五項『増訂武江年表』〕      (一般)   ・小金井村の桜、寛政の頃は詠める人もなかりし由、古松軒が「四神地名録」に記したりしが、享和の頃    より騒人墨客多く集ひて、毎春遊観の所となれり(道しるべの冊子一枚摺多く刊行せり)      きゝ渡る天の河原かさく花の雪の中ゆく水のひとすぢ    千蔭     筠庭云ふ、杉田の梅見に騒人出るも同じ頃にや    ・煎茶の会行はる。   ・山東京伝、曲亭馬琴読本、草艸紙行はれて、年々数篇を梓行す。又京大坂より画入り読本、新作あま    た梓行して江戸へ下せり。其の余江戸戯作者は式亭三馬、六樹園飯盛、小枝繁(綘山翁、又歠醨陳人)    感和亭鬼武、十返舎一九、振鷺亭、談洲楼焉馬、高井蘭山、山東京山(百樹)、芍薬亭長根、柳亭種彦、    梅暮里谷峨、神屋蓬州、南仙笑楚満人、東里山人、東西庵南北、其の外多し   ・原舟月、雛人形の製を改めて古今雛と名づけ、世に行はれり。   ・享和中にや有りけん、菊塢(キクウ)といへる人寺島村に花園を設け、四時の花を栽えて遊賞の所となせり。    奥州の人にして(称北平といふ)江戸に下り、此所に住し天保の始め終れり(菊塢、始め或る人名つけ    て帰空といへり。文字をいみてかく改めたりといへり。此の梅園をひらきしあくる正月、園中に小松を    栽えて子(ネ)の日の宴を催したるをり、文人つどひきたりし時の歌に)、      松も引きわかなもつみてけふよりは春のこゝろをおぼえそめけり  千蔭      梅さかばつぎてもとはむ此のやどの松にひかるるけふばかりかは  春海      鴬のはつねの小松ひく袖にあるじがほにもおもふ梅がか      自寛      あらためてひらくやうめの花やしき   (或人の説に、此の地の旧名を多賀屋敷といふ。昔豪民多賀三郎兵衛、同角左衛門、同友三郎、同又三郎    等の人住みたる所なり。其の菩提寺は白髭の後法泉寺なりしと云々)     筠庭云ふ、北平が事もと茶がらを商ひし者なり。初め大門通り横店と称するところにすみ、それより     住吉町裏屋にも居たり。好事者にて書画をすき、大雅堂贋筆を多くなしたり。文字はなけれども諸名     家に立入り、なぐさまるゝをおのれは得意とし、遂に梅屋敷を思ひつき、諸家に募りて梅樹の料を求     め乞ひ、詩を集めて「盛音集」を板にして人々に呈す。各家に嘲弄された文などを、よきことにして     驥尾(キビ)の蠅とならんとす。梅屋敷こゝに於いて成就す。其の後こゝに道具市を立て、素人奢り者     ども会合す。果は金子の売買抔(ナド)に至り、いつも会の終りは、我が娘の吉原町遊女屋に嫁してあ     れば、夫が処へ諸客を誘ふ。戯れながら道具市不正の聞へありて咎められ、入牢して過料追放さま/\     なりき。〈佐原菊塢の新梅屋敷(現在の向島百花園)開設は文化元年(1804)〉   ・地染手拭行はれ、手拭店多く出来る。   ・鼈甲価次第に尊くなり、馬爪にて贋物の櫛(クシ)笄(コウガイ)を製す。   ・蔭絵の戯、昔は黒き紙を切抜き、竹串を四ッに割りて矢羽の如くさし、行燈に写して玉藻の前の姿を九   ・尾の狐に替(カワ)らし、酒顛童子を鬼にかはらするの類にてありしが、享和中都楽といふ者、エキマン鏡    といへる目鏡を種とし、ビイドロへ彩色の絵をかき、自在に働かするの工夫をなし、写し絵として見す    る。是れより以来此の伎行はれて、次第に巧みになり、其の門葉も多くなれり(此の都楽、今年嘉永元    年七十九歳、存生して瀬戸物町に住せり)   ・山谷町八百屋善四郎が料理行はる。深川土橋平清、下谷龍泉寺町の駐春亭、文化年中より盛なり〟