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浮世絵師総覧弘化元年(天保十五年・1844)~四年(1847)浮世絵年表一覧
   ☆「弘化元年(十二月二日改元)甲辰」(1844)   (浮世絵)   ・八月十六日、有阪北馬歿す。行年七十四歳。(天保十一年八月成れる『狂歌続歓娯集』に七十一歳蹄斎          筆と署しあれば、今年は七十五歳なるが如し。北馬俗称有阪五郎八、本姓星野、駿々斎、          秋園等の号あり。北斎の門人なれども、谷文晁と交友あり。版画も少なからざれども北斎          門中肉筆の作の多きは北馬に及ぶものなし)   ・三月、一立斎広重上総鹿野山に登る。   ・十月より、巣鴨染井の植木師再び菊の造り物を始む。浮世絵師の画けるあり    〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕       正月、一勇斎国芳の画ける『滑稽絵姿合』、       松川半山の画ける『阿弥陀経和訓図会』出版 〔以上項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、玉蘭斎貞秀の画ける『和漢英雄百人一首』出版。(柳亭種秀の編なり。これより小本の種々の百       人首出版さる。多くは川柳の編なり)〟〔『【新撰】浮世絵年表』〕   ・京師の画工岸駒が男岸良江戸に来り、浅草観音堂へ揚香の額を掲ぐる。   ・今年長寿の人、水口寿山(百五歳)、末吉石舟(百一歳)、花井白叟(九十八歳)、大岡雲峯(八十歳)    前北斎為一(八十五歳)〟〔以上二項『増訂武江年表』〕      (一般)   ・二月、亀戸天神開帳   ・三月中、牛御前開帳に付、諸商人より出銀致させ候よし、別当閉門、開帳相成らず    〔以上二項『きゝのまに/\』〕   ・七月二十八日、俳師田喜庵護物卒す(七十三歳、号東寅居、浅草称念寺に葬す)   ・十月より、巣鴨染井菊の造り物再び始まる(文化よりこのかた花壇のみにて造物は絶えたりしが、今年、    巣鴨なる霊感院の会式の飾り物とて、宗祖の御難のさま蒙古退治の体など、菊花にて造りしより始まり、    植木や毎に菊の造り物をなして諸人に見せける。翌巳年よりは白山駒込根津谷中にいたる迄、植木屋な    らぬ家までもきそひて造りしかば、凡そ六十余軒に及べり。貴賤の見物日毎に群集し、猶年々に造りし    が、嘉永の今にいたりて少しおとろへたり)     筠庭云ふ、菊の番附次の年も九月売りあるく。数十ヶ所にて夥しき事なりと、見し人云ふ、形もの造     りしははんどに植ゑて宙につるし、又竹筒にさしなど、花の形色は見るに絶へずと云へり。左もある     べし 〔以上二項『増訂武江年表』〕   ・十月十七日より、王子稲荷開帳〔『きゝのまに/\』〕     〈一般年間〉   ・春より夏に至り、両国橋西広小路に大なる仮屋を構へ、こま廻し竹沢藤治(下谷の住)こまに手妻(テヅ    マ)の曲とゼンマイからくりを交へて見せ物とす。見物山の如し(これに続いて浅草に住める奥山伝次と    いへるこま廻し、竹沢の趣向を習ひこまに手妻を交へ、道具建にからくりをなして、浅草寺奥山にて見    せものとしけるがさして行はれず。其の後人形師竹田縫殿介、同所にてもみけし人形の見せ物を出した    り)     筠庭云ふ、小屋壊れて怪我ありしは、三人兄弟とて物まね上手にて、其の頃流行(ハヤリ)しなり。又前     後は覚えず、此の頃竹沢のこま未だ出ぬ時、其処に囲ひもせで、軽業をしたる虎吉とかいへる童は、     小さき台共つみ重ねたる高き上にのぼり、下には抜き身の刃を立てたり。上にふせたる小樽のひらき     て壊れて落ち、刃に貫かれて死したり     曲ごま、二月中旬より八月まで、両国にて行はれ、夫より九月は芝神明に出づ。     其の後は仕掛したる種々のこまを、細工人浅草御蔵前にて大路にて売物とす〟   ・肥前平戸産大男生月(イケヅキ)鯨太左衛門といへる相撲取来る(身の丈七尺五寸、重さ三十六貫、掌一尺    八寸、今年十八歳、十八人力と云ふ。筠庭云ふ、大男去冬より玉垣額之助方に来れり。角力に出でしが、    程なく嘉永三年庚戌五月二十五日死去す)〟   ・越後の産男女の侏儒(コビト)に踊りををどらせ、向両国に於いて看せ物とす(筠庭云ふ、此の短人女はし    らず、男は両国辺に常に耳かき抔(ナド)売りて居りしものなり。時にありては大黒のまねして所々物を    もらひたり)    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十五年(弘化元年)(1844))   (記事は天保十五年のものだが、国芳・貞秀の「頼光土蜘蛛」の出版は天保十四年のこと)   ◇源頼光土蜘蛛の画 p413   〝同(正月)十日      源頼光土蜘蛛の画之事     最早(ママ)去卯ノ八月、堀江町伊場屋板元にて、哥川国芳の画、蜘蛛の巣の中に薄墨ニて百鬼夜行を書    たり、是ハはんじ物にて、其節御仕置に相なりし、南蔵院・堂前の店頭・堺町名主・中山知泉院・隠売    女・女浄るり、女髪ゆいなどの化ものなり、その評判になり、頼光は親玉、四天王は御役人なりとの、    江戸中大評判故ニ、板元よりくばり絵を取もどし、板木もけずりし故ニ、此度は板元・画師共ニさわり    なし。     又々同年の冬に至りて、堀江町新道、板摺の久太郎、右土蜘蛛の画を小形ニ致し、貞秀の画ニて、絵    双紙懸りの名主の改割印を取、出板し、外ニ隠して化物の所を以前の如ニ板木をこしらえ、絵双紙屋見    せ売には化物のなき所をつるし置、三枚続き三十六文に商内、御化の入しハ隠置て、尋来ル者へ三枚続    百文宛ニ売たり。是も又評判になりて、板元久太郎召捕になるなり     廿日手鎖、家主預ケ、落着ハ      板元過料、三貫文也      画師貞秀(過脱)料 右同断也     其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘    蛛のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也。     板元松平阿波守家中  板摺内職にて、                              高橋喜三郎     右之品引請、卸売致し候絵双紙屋、せりの問屋、                        呉服町      直吉     右直吉方よりせりニ出候売手三人、右品を小売致候南伝馬町二丁目、                        絵双紙問屋 辻屋安兵衛 〟     今十日夜、右之者共召捕、小売の者、八ヶ月手鎖、五十日の咎、手鎖にて十月十日に十ヶ月目にて落     着也。    絵双紙や辻屋安兵衛外売手三人也。板元高橋喜三郎、阿波屋敷門前払、卸売直吉は召捕候節、土蔵之内    にめくり札五十両分計、京都より仕入有之、右に付、江戸御構也。画師芳虎は三貫文之過料也〟
   「源頼光館土蜘作妖怪図」 一勇斎国芳画 (早稲田大学「古典籍総合データベース」)
   「源頼光館土蜘作妖怪図」一勇斎国芳画「土蜘蛛妖怪図」玉蘭斎貞秀画    (『浮世絵と囲碁』「頼光と土蜘蛛」ウィリアム・ピンカード著)      〈国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は天保十四年(1843)八月の刊。これはその判ずる内容が幕政を諷したものではない     かと評判をよんだが、お上を警戒した板元伊場屋が絵を回収し板木を削るという挙に出たため、お咎めはなかった。     次ぎに、貞秀の画く「土蜘蛛妖怪図」が同年冬(十月以降)に出回った。これは店先にはお化けのない絵をつるし、     内々にはお化けの入ったものを売るという方法をとった。が、やはりこれも噂が立ち、今度は板摺(板木屋)で板元     を兼ねた久太郎と絵師の貞秀が三貫文の過料に処せられた。そして、天保十四年の暮れか翌十五年の正月早々に、芳     虎の「頼光土蜘蛛のわらいを添」えた画が「たとう(畳紙)」入りの組み物として売り出された。今回は、板摺兼板     元の高橋喜三郎以下、卸問屋・小売り・絵師芳虎ともども、咎を免れえなかった。ところで、貞秀画の板元も芳虎の     板元もそれぞれ板摺となっている、板摺とは板木屋か彫師をいうのであろうから、国芳画の板元・伊場屋とは違い、     板元は一時的なものであろう。高橋喜三郎の場合は松平阿波守家中のものとある。内職にこのような危ない出版も請     け負ったものと見える。あるいは改めを通さない私家版制作に深く関わっていたのであろう。     さて、国芳画の「源頼光館土蜘作妖怪図」の出版は、天保の改革を断行した水野忠邦が老中首座を失脚する直前のも     のである。(忠邦は閏九月に失脚)当時は、幕政と市井との関連が取りざたできるような「はんじもの」が出回り、     さまざまの憶測・風説が巷間に広がっていた。「はんじもの」であるから、絵は読み解く対象になる。読み手は画中     の人物を自分のもつ情報と想像力を駆使して、現実に存在する者となんとか対応させようとする。しかしそれにして     は読み解く根拠も確証も画中にはみつからない。国芳に意図があるとすれば、画中のものを現実のものと特定できる     ような可能性は画くが、特定できるような根拠は画きこまないということではないだろうか。それは一つにはお上か     ら嫌疑がかかった時の弁明というか、逃げ口上にもなりうるし、また判者の自由な想像力をも保証することにもなる     からだ。為政者からすれば、その「はんじもの」が事実を擬えているかどうかという以上に、憶測や風評が燎原の火     の如く広がり、秩序・風紀が乱れてコントロール不能になることが恐ろしいのであった。国芳や板元・伊場仙にそう     した紊乱の意図があるとは思えない。しかし放っておけば制作側の意向を越えて混乱を招く恐れはあった。絵の回収     と板木を削るという処置は、為政者に向けて発した恭順のポーズである。         ところで、鏑木清方の随筆「富士見西行」(岩波文庫本『明治の東京』所収)という文章を読んでいたら、次のよう     なくだりに出会った。「七めんどうで小うるさい、碁盤の上へ網を張って、またその上へ蜘蛛の巣を張ったような世     の中」。碁盤・網・蜘蛛の巣という組み合わせには「七めんどうで小うるさい世の中」という意味合いがあったのだ     ろうか。これを使って判じてみると、七めんどうで小うるさい世の中をもたらしたのは頼光と四天王、つまり為政者     側だ。ところがその為政者側がそんな世相に悩まされて病んでいる、ということなろうか。もっとも国芳が碁盤と蜘     蛛のもつ意味合いを清方同様に共有していたかどうか、これまた確証がない。知らないはずはないだろうという想像     をめぐらすことは可能だが、それを国芳に押しつけることは出来ない。国芳には、お上をもってしても、幕政批判の     意図を持って画いたはずだと断ずることは出来まいという自覚はあったように思う          貞秀の「土蜘蛛妖怪図」は名主の改め印を取っているから、非合法ではなかったが、届けたものの他にお化け入りの     を内々に売ったのが問題だった。お化けがいろいろな憶測を喚起するからだろう。「兎角ニむつかしかろと思ふ物で     なければ売れぬ」世の中とは、弘化五年(1848)、将軍家慶の鹿狩りを擬えた「富士の裾野巻狩之図」(王蘭斎貞秀画)     に対する、藤岡屋由蔵の言葉であるが、判じ物があるはずなのに、それを具体的に案ずることが難しいもの、あるい     は改めを通るのが難しそうに思われるもの、そうしたものを敢えて画かないと売れない時代になっていたのである。          さて、この年の十月十日記事に〝南伝馬町二丁目辻屋安兵衛、笑ひ本一件にて正月十二日より戸〆の処、今日御免也〟     (p449「戸〆」は押し込め=外出禁止)とある。この辻屋安兵衛は芳虎の土蜘蛛画で小売りを行い、手鎖に処せ     られた絵双紙問屋である。では「笑ひ本一件」とは何であろうか。正月十二日より「戸〆」になり十月十日「御免」     になった。「手鎖」は「十月十日に十ヶ月にて落着」とある。「戸〆」も「手鎖」も外出禁止であるから、この二つ     の記事は同じ事件の処罰であろう。そうすると「たとふ入ニ致し、外に替絵にて頼光土蜘蛛のわらひを添て」の「わ     らひを添て」とは「笑ひ本(春本)」化したということなのだろうか〉     ◇牛御前・王子権現開帳 p416   〝二月朔日    本所総鎮守牛御前・王子権現開帳、今日初日なり、参詣大群集致して、隅田川の土手へ葭簾張の茶店を    出して、諸商人大勢出しが、一向に商内はなき故に、      江戸ッ子が恥じを晒か隅田川       うちの御ぜんで銭は遣わず    右開帳に付、牛御前別当最勝寺、土手茶店地代之事に付、被押込、開帳も延引となるなり〟     ◇めんち打ち p416   〝二月六日    市中明地往還等にて、めんち打と唱、子供遊いたし候由、右は賭事に紛敷候之間、右様之儀無之様、町    役人共より申諭、日(ママ)以来、右めんちと唱候品、堅売買致間敷旨、組々不洩様可申通〟     ◇亀戸天神開帳 p417   〝二月廿一日、亀戸天神開帳、今日初る也、三月五日迄十五日之間也〟     ◇曲独楽・竹沢藤治 p417   〝三月朔日 此節両国にて竹沢藤治が駒の曲、大入大評判にて、錦絵・手拭迄出る也〟     ◇開帳 p417   〝三月六日 上総国藻原山祖師、浅草本龍寺へ御着也、九日より六十日之間開帳也    同十日  井の頭弁才天御成跡開帳  十五日之間也    同十三日 中延八幡宮御成跡開帳   十五日之間也    同十五日 池上本門寺御成跡開帳   十五日之間也    同十七日 芸州厳島弁財天御祭礼に付、築地下やしき宮島弁天参詣也      弁天を爰に写てうつくしま いつ迄見てもあきはしませぬ〟     ◇国貞、豊国襲名 p419   〝(四月)此頃歌川豊国弟子五渡亭国貞、二代目豊国と成、此時沢村訥升、沢村宗十郎訥子と改名致し、    梅の由兵衛を相勤ル也。右看板を国貞、豊国と改名致し、始而是を書也、浮世絵師ニて哥舞妓役者の似    顔絵・女絵の名人也、名ハ文左衛門、本所五ッ目渡舟持也、故ニ五渡亭といふ也、亀戸天神前に住ス也。     草双紙田舎源氏、鶴喜板本ニて種彦作、国貞画ニて大評判ニて、三十八篇迄出しが、此度絶板ニなる    也、正本仕立も同く絶板也、右絶板故ニ鶴屋喜右衛門ハ潰れる也〟     ◇巣鴨・染井の菊 p443   〝天保十五秋九月    【巣鴨染井】菊番附順道記     狸腹つゞみ 白山社      菊の石台  小原町 繁蔵     奉納額   小原町 善二郎  瓢簞駒   いなり前 増右衛門     日蓮上人御難 巣鴨 霊感院  扇日の出  巣鴨下組 市左衞門     富士山   すがも 弥三郎  菊花壇   同所  鉄三郎     旭獅子   同四郎左衞門   三宝に御備 同長太郎     菊花壇   同卯之吉     菊花壇   染井  五三郎     竹沢の駒  染井  音右衛門 竹に虎   同源右衛門     菊花壇   同虎吉      蜃気楼   同由五郎     大象    同金五郎     二見ヶ浦  同粂蔵     鴛鴦    同富治郎     屋根舟   同金蔵     亀     妙義坂下 妙義亭 子供力持  殿中 喜兵衛     兎住吉踊  殿中 庄八    菊花壇   吉祥寺前 仙太郎    〆廿四ヶ所之所、十月始に霊感院菊は取払也、殿中庄八が続に、鹿と猿出来る也、    かいろも出来る也、小原町ぇ挑灯に釣鐘出来〟   〝菊見の道草  栗崎常喜作    天保十あまり五ッとせといふ年の菊月の末の頃、巣鴨の里染井あたりに菊の作ものくさ/\出来しとて、    貴賤袖打引て群れ行ける。(以下略)〟   〝(十月)此節巣鴨・染井之作菊、三十三年目にて出来致せし故に大評判にて、見物の群集引もきらず〟     ◇生月鯨太左衞門 p461   〝十一月廿九日、両国回向院にて勧進大相撲、今日初日也    平戸生月鯨太左衞門出。    抑生月鯨太左衞門は、歳十八にして身の丈七尺五寸、重さ四十五貫目也、古今の力士と云べし、(中略)    天保十五甲辰年、十八歳にて中山道より江戸着致し、玉垣勘三郎の弟子となり、生月鯨太左衞門と改る    也、十一月廿九日、相撲初日より大男見物にて大入大繁昌にて      大きくて入山もなき武蔵野に はらいつぱいにてらす生月      いにしゑは石となりたる松浦潟 今は鯨が出来て評判     遅道〟   〝嘉永三庚戌年七月十六日    生月鯨太左衞門、相撲にて越後国ぇ旅立之節、脚気おこりて病死す、時に廿四歳〟
   「不知火諾右衛門」 香蝶楼国貞画 (香山磐根氏「相撲錦絵の世界」)     ◇長寿の人 p463   〝十二月、長寿の人    水口寿山  百五才    末吉石舟  百一才    花井白叟  九十八才   大岡雲峰  八十才    前北斎為一 八十五才〟     ◇寄席御免 p470   〝十二月廿四    江戸中寄場、元の如く御免也〟    ◯『事々録』〔未刊随筆〕(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   ◇西ヶ原梅屋敷 ⑥300   〝天保十五甲辰年二月初旬、西ヶ原の梅やしきは此二三年より人々の遊び所と成る、是は其所の醤油問屋    の隠居が持地にて数株の植ならべたる事、臥竜菊塢にもおとらぬ様なり〟    〈「臥竜」は臥竜梅で知られる亀戸の梅屋敷。「菊塢」は佐原菊塢で、向島の新梅屋敷(現在の百花園)を開発した人〉     ◇竹沢藤次 ⑥301   〝二月ヨリ於両国山下の独楽廻し竹沢藤次、父が年回として曲独楽と名附、からくりを交へ奇々妙々なる    独楽の芸をつくし、評判大にして群集おびたゝしく、桟舗前日より買入ねば其日は客留に至る、三月雑    司谷へ、右大将様御成之節大塚護国寺において上覧〟     ◇矮鶏(チャボ) ⑥305   〝去卯年(天保十四年)より専ら鶏をもてあそぶ、矮鶏(チャボ)トウマルの類専ら也〟     ◇菊造り ⑥305   〝九月後下旬、巣鴨時之鐘霊感院ニて千部経説法興行へ為奉納、稲荷本堂左へ菊之作物、祖師宗門建立之    処、朝日を赤き菊、其外小菊ニて、祖師は面計り人形(二字空白)番并佐渡の難及蒙古破船之所、籏曼    荼羅、此三ヶ所、右手は花壇菊を作り、参詣之外見物群集、凡廿八九年以前、所々の造物菊ニて巣鴨繁    昌せしに立戻り、染井へかけ植木屋共追々作り、再び群集をなす、駒込ニ月ニ兎、植木屋庄八、同力持    人形、同所喜兵衛、妙義坂下、蓬莱の亀、水茶屋妙宜亭、屋形船、植木屋金蔵、染井、鴛鴦、花屋留次    郎、二見の浦、植木屋粂蔵、白象、同金五郎、大花壇、小右衛門、蜃気楼(一字空白)竹に虎、源右衛    門、羽子板ニ独楽、真次郎、大花壇、五三郎、巣鴨、花壇、卯之吉、三宝ニ備、長五郎、花壇、四郎左    衞門、富士、弥三郎、扇、市右衛門、花壇、鉄三郎、瓢簞に駒、増太郎、是を初として種々追々作り出    し、番附道案内板行出来〟     ◇大鯉 ⑥306   〝十月二日御厩河岸ノ面ニ流来鯉、目ノ下四尺三寸鱗壱寸三【二三字破損】四分に至〟     ◇生月鯨太右衛門 ⑥306   〝此冬ノ初、肥前平戸の産ニて、角力大力生月鯨右衛門出る〟     ◇モルモット ⑥306   〝紅毛人モルモツトと言獣持来る。是は蹷兎(ケツト)と漢名す、兎に似て、三毛前足わけて短く、歩行つま    つく度々なり、雄雌渡る〟     ◇禁制錦絵 ⑥307   〝流行年々月々に替るはなべての世の習ひなるに、御改正より歌舞伎役者は皆編笠著、武士は長刀に合口    の風俗をよしとす。江戸錦絵は芝居役者の似顔、時の狂言に新板なるを知らしめたるが、役者傾城を禁    ぜられ、わづか美人絵のみゆるされてより、多く武者古戦の形様を専らとする中に、去年は頼光が病床、    四天王宿直、土蜘蛛霊の形は権家のもよふ、矢部等が霊にかたどるをもて厳しく絶板せられしにも、こ    りずまに此冬は天地人の三ツをわけたる天道と人道地獄の絵、又は岩戸神楽及び化物忠臣蔵等、其もよ    ふ其形様を知る者に問ば、是も又前の四天王に習へる物也、【是は其物好キにて初ははゞからず町老の    禁より隠し売るをあたへを増して(文字空白)にはしる也】〟    〈「御改正」は天保の改革。「頼光が病床~」は一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」。「矢部」は水野忠邦の改革     に反対の立場で対抗した矢部駿河守定兼。しかし、天保十三年十二月、水野の配下・鳥居耀蔵の策謀のため町奉行を     罷免される。翌十四年三月には改易に処せられ、伊勢の桑名藩へ永のお預けとなる。同年絶食して憤死したとも伝え     られる。『事々録』の記者・大御番某の目には、国芳の「土蜘蛛」の画が「権家のもよふ、矢部等が霊にかたどる」     故に「厳しく絶版せられし」と映っていたのである。すると、頼光や四天王が水野忠邦・鳥居耀蔵等の「権家」、そ     して土蜘蛛以下の魑魅魍魎が矢部駿河守をはじめとする改革のいわば犠牲者という読みなのであろう。国芳は表向き     はそんな意図はございませんと言うに決まっているが、「土蜘蛛」の絵を天保改革の絵解きとして、捉えることが出     来るように意図的に画いていることは確かであろう。画中に確証はないが、容易にそれと連想できるように画いてい     るのである。『事々録』に従えば、おそらく土蜘蛛が矢部駿河守の怨霊を擬えているものと考えられる。その矢部が     改革の圧政に虐げられた他の怨霊を従えて、水野たち「権家」を大いに悩ませているというのであろうか。     今年の冬もまた昨年の「土蜘蛛」にならった錦絵が出た。「天道と人道地獄の絵」は歌川貞重画の「教訓三界図絵」     とされる。「岩戸神楽」「化物忠臣蔵」は未詳。これらは始めは憚ることなく売られ、町老(改め掛り名主か)の禁     止(差し止め)で出てからは、隠して高値で売られたようだ〉
   「教訓三界図絵」 歌川貞重画 (早稲田大学「古典籍総合データベース」)    ☆「弘化二年 乙巳」(1845)   (浮世絵)   ・九月、江戸麻布にて唐黍の実変じて鶏冠の如き形となりしを諸人恠みて、国芳なんどは錦絵にまで画き       たり。(色灰白にて柔かく田舎には能くある物にて十に二三は出来るものなり。珍らしき物には       あらず)   ・十二月、三代広重生る。(明治二十七年三月二十一日歿す。行年五十三)〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕           正月、国直・英泉等の画ける『名誉三十六佳撰』。    三月、長谷川雪堤の画ける『調布玉川絵図』一軸出版〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、初代国貞薙髪して肖造と称す。     (一般)   ・五月六日、当八代目市川団十郎、親父海老蔵へ孝心に付き、青ざし十貫文御褒美頂戴の由、間    もなく其の次第板行して売歩行(ウリアル)く   ・一旦止められしが、当三月頃より両国橋辺夜発(オコ)り、又所々に辻講釈昔咄寄場も已前より多    く、定めなければ思ひ/\に始む。去りながら忽ち仕舞ひて、続くはすくなし。浄るりもあれど素語(ス    ガタ)りなり   ・七月吉原燈籠、近年珍ら敷趣向、芸州宮島回廊出来たり      ・九月、牛島所々栽木屋寺院等に菊の造り物出来る(筠庭云ふ、牛島菊の造りもの、出茶屋抔(ナド)しる    したる紙札張りたれども、噂ばかりなりし事あり)   ・九月、麻布にて、唐もろこしの実変じて鶏の頭の形と成しとて、見物あまた有しとぞ、国芳が絵にも見    えたり、是は年の気候によりて実にならず、形状共にかはる草の病なり、実の内鬱して黒き灰すみの如    き物と成、小舎の小児は取て翫弄す、但し江戸には稀なる故、奇とする也     ・十一月二十八日、俳人自然堂鳳朗卒す(板倉に住み、始鴬笠庵対竹と云ふ。谷中天王寺に葬す)   ・十二月五日、暮六時、吉原京町二丁目より出火、廓中焼亡(仮宅は、花川戸、山の宿、聖天町、瓦町、    浅草山川町、田町、新鳥越、山谷、深川八幡前、同松村町、佃町、同常磐町、八幡宮旅所門前、本所陸    尺(ロクシヤク)やしき、時の鐘やしき、入江町、長岡町、八郎兵衛屋敷、弁才天前、松井町等なり)暮れより    春へ掛けて仮宅をしつらひ、午年九月元地普請成りて引移る(仮宅は二百五十日限りとして元地へ移る。    此の時あらたに出来たる局見せを、吾妻長家、関本長家、永続長家、三長長家といふ。松葉長屋を稲毛    長家と改む)〔以上六項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・当年処々弁天開帳、牛御前も去年延引之開帳有、花盛時節詣人多し〟   ・川口善光寺開帳、回壇出来たり、此は開帳に付ての事にはあらず〟   ・竹沢曲ごま、猿若町操座にて興行す、此度は一向見物なし〔以上三項『きゝのまに/\』〕    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇開帳 p472   〝当年処々開帳    牛之御前 王子権現   二月九日より六十日之間    井之頭弁財天      二月廿五日より三十之間、居開帳なり    柳島妙見宮       三月朔日より十五日之間    吾妻社権現       三月二日より六十日之間    川口善光寺       三月三日より六十日之間    芝増上寺境内白蓮池弁天 三月十五日より六十日之間    山谷安盛寺妙見     同日より十五日之間    下谷泰宗寺薬師     同日より三十日之間    江之島上ノ宮弁才天   同日より百日之間、居開帳なり    深川洲崎弁天      四月朔日より六十日之間    品川鮫洲頭観音     同月二日より六十日之間    下谷入谷鬼子母神    四月八日より三十日之間    本所本仏寺鬼子母神   同日より三十日之間    白山境内八幡宮     八月十五日より六十日之間    駒込妙清寺薬師     九月十二日より六十日之間〟     ◇相撲上覧 p486   〝二月十一日、浅草観音本堂西椽頬にて、角力上覧(相撲取組、勝負は略)〟     ◇鳥居甲斐守失脚 p491   〝二月廿二日、鳥居甲斐守、御寄合にて清水御門番勤務中評定所ぇ呼出され、寺社奉行・町奉行・勘定奉    行・大目付・御目付、五手吟味有之候故に落首      御番所は清水御門を勤めても 濁れるゆゑに五手吟味なり〟    〈五手吟味とは三奉行に大目付・御目付を加えた五者による裁判、老中が命じて臨時に設置されるもので、幕政の一大     事にかかわるような事件を扱う。十月三日、京極長門守への「永御預け(終身禁錮刑)」を仰せ付られ、十月廿九日、     藩主・京極長門守の丸亀へ向け出立〉     ◇目黒不動尊開帳 p498   〝目黒不動尊開帳にて参詣群集に付、門前の茶屋繁昌致し大混雑之取込なり(以下、茶屋の対応に怒った    侍を狂歌で宥めた挿話あり、略)〟     ◇白亀 p501   〝三月十五日     石町辺、鼈甲屋より不忍池ぇ白亀を納ル也、見物群集致すなり、初之内ハ池の中に垣をゆひて其内ニ    入置見せしなり、大評判ニて絵双紙屋へ壱枚絵 なり、又ハ板行ニ致し江戸中を売歩行也。     淡路国より出しといふ、大サ壱尺九寸、眼中ニ銀光二筋有之。       池水に千とせの松の蔭うきて 実に面白き亀の遊哉     水あしき故ニ、後ニ死せしよし〟     ◇鳳凰竹 p501   〝当三月三日より六十日之間、川口善光寺開帳 参詣群集致し候処、右開帳中、川口宿百性家の庭ニ    鳳凰竹 ほうおふの形の竹、自然と生たり、是の一枚絵、及板行ニ致売歩行也。       聖代の世と知られけりかわぐちの 宿にも出来る鳳凰の竹     鳳凰竹之図(図略)〟     ◇異国船浦賀へ着岸 p504   〝三月、相模国浦賀ノ港に異国船着岸也    本船 北亜米利加州之内 ネウヨルグ(ニューヨーク)一小島州、船銘 マンハット(マンハッタン)〟     ◇岩井半四郎逝去 p510   〝弘化二乙巳年四月朔日    七代目岩井半四郎紫若卒、四十二歳    瓔晃歓喜紫若日馨信士  深川浄心寺      ぬぎ捨て今日ぞ小袖の別れなか〟      ◇娘二人入水 p520   〝四月廿三日夜五ッ過也    両国吉川町湯屋の娘十四才、同広小路角居酒屋の娘十五才、右之両人平生中よろしくて、夜中両国の川    へ両人一所に入水致すなり〟     ◇上覧 p522   〝五月二日、右大将様、橋場筋御成也    浅草観音にて、松井源水こま上覧也〟     ◇孝行奇特の者・市川団十郎に褒美 p524   〝(五月)四年程以前より毎朝精進茶だちにて、成田村新勝寺旅宿不動へ日参致、父之身分無事之帰国を    祈り、母の心をも慰め、右体孝心を尽し、兄弟等之世話行届候段、奇特之儀に付、為御褒美鳥目拾貫文    をとらせ遣す〟    〈八代目団十郎〉     ◇禁制に緩み p524   〝此節(五月)、御趣意も段々ゆるみて、人形身振咄し吉田千四、松永町へ出る、講談咄し扇拍子、西川    伊三郎、竹者連中、上野広小路三橋亭ぇ出る也〟     ◇天狗の誘拐 p524   (五月、吉之助(十九才)天狗にさらわれ日光山~石山寺~二見浦を巡ると評判になる)   (五月、助八、天狗にさらわれ日光~伊勢神宮~金比羅~安芸宮島を巡って還ると評判になる)     ◇三つ子誕生 p528   〝三州設楽郡下津久村 百姓 栄蔵 二十七 同人妻 三十六    右栄蔵妻、天保十五辰年七月廿三日、三ッ子出生、内二人男、壱人女〟     ◇玉菊灯籠 p533   〝七月、新吉原、例年之通玉菊が追善之灯籠、当年は大仕掛にて、芸州宮島の風景、大門の内に鳥居を建、    中の町廻廊にて、水道尻は拝殿也、同揚屋町は京都清水観音舞台景也     吉原に宮島の景を移す前に 船を繋(ウカ)べて客を乗す     多くは皆芸州の湊入込 終は身上灯籠の如くになる      清水の地主の桜と詠むれど 冬枯時は同じ柴かな〟     ◇異形のもの二点 p534   (七月盆後、南大坂町家主田中屋久蔵方の唐黍へ異形の花咲く)   〝花びらは木耳の様に至て厚く、花の色白く、先の所薄赤色に咲、日々追々花形替り、異変の花故、日増    に風聞高く相成、人々見物に群集致し候〟   (七月、品川宿の久兵衛方で、鶏の頭の如き形をした唐黍が生ずる)     ◇鬼子母神開帳 p536   〝七月十八日、下総中山鬼形鬼子母神、浅草正覚寺にて六十日之開帳、日延十日、十月八日迄開帳也〟      ◇名代の老舗、没落 p550   〝(八月記事)    上野御成街道にて、亀屋の柏もち・鴻池の鯉こく    両家名代なりしが、亀屋は当春つぶれ、家作は六十両余に売渡し、跡万屋清八と云小間物びん付油屋に    に成る      繁昌はいつもかわらぬ御成道 亀屋の跡が又も万せひ    御成道角、鴻池又三郎は当所は百余年住居せし居酒屋にて、鯉のこくせう名代にて、此辺の番所帰りに    は是非共当家の鯉こくを出さねば、馳走にならぬ様に思ひしとなり、然る処近年おとろへて、当秋は天    麩羅屋へ五十七両三歩に売物に成也      龍門の滝へものぼる鯉こくの 天上したか今は天麩羅    其節、御成道ぇ三人の見世出し、何れも裏店横丁より出て出世也、紙屋徳八は唐人舘横丁より出、三河    屋喜左衞門は山城屋又三郎裏より出、本屋由蔵は市野屋三郎兵衛裏より出る也、此節評判に、      御成道見世出し三幅対       天地人に見立評判記 本由作       裏の天下の 天  天麩羅        天麩羅もかせぎ出して金麩羅の         山吹色がふゑて喜左衞門       頓て地主と成 地  かみ徳        かみ徳の恵みに金も貸本や         今はしよりんの問屋株也       小人の 人  本由        月花の永き詠も板庇し         今は本屋となりて由蔵〟    〈本由こと本屋由蔵は『藤岡屋日記』の記者・藤岡屋由蔵。上野御成町への出店は弘化二年(1845)の八     月であった〉     ◇開帳 p553   〝九月九日より十五日迄御開帳、南都二月堂観音、深川御舟蔵前大仏勧進所において為拝、廿日迄〟   〝同十二日より十一月十二日迄、六十日之間、駒込薬師坂妙清寺、春日作薬師如来開帳也〟     ◇造り菊 p554   〝弘化二年秋の末、巣鴨・小石川・染井・駒込・千駄木・谷中辺、植木屋造り菊出来、見物之諸人群衆致    すなり     (出展作品名・句・制作者名からなる「乙巳秋菊百句合」は省略)    但し、追々に作り菊出来致し、根津・谷中・染井・駒込・巣鴨・小石川・白山辺、八十ヶ処余有之、番    附も数多出て一様ならず    十月朔日頃より初り、同廿九日に仕舞候よし。    去年よりも群集す也    向島ぇも作り菊出来る也、番附出る     (番付あり、省略)    此節、本町三丁目裏河岸(△の中に「二」の字の図)鱗二といへる薬種店の主、なぐさみに庭ぇ菊を植、    手入致し候処、菊殊の外によく相成、花檀に拵へ、凡百本余にて、丈ヶも延候故、近所よりも見物に参    り、夫より大評判となり、諸方より見物参り候に付、いや共言われず、鳶の者抔懸置て、諸人に見物致    させけるに付、大群集致し、往来ぇは食物等の商人迄出候程の処、見物之内にて足踏候とか何とか申、    公論致し、是が喧嘩となり騒動致せし故に、夫より見物を止て、菊を取払候なり      おとなしく見て翁草何故に     遅道       すむのすまぬのきくのきかぬの     菊の番付、九月十六日より売出し廿二軒、九月末には板元六十軒計也、向島の菊の番付四文とて売歩行    也、今年の菊、都合にては八十軒も出来之由、右番付も絵双紙懸り名主村田佐兵衛、浜野宇十郎へ願出、    割印出て板元百軒の命も出来しとの事成〟     ◇すわり夜鷹 p558   〝十月二日夜より、深川八幡表門前、川向あひる居見世有よし、跡ぇさゝやかなる仮家を作りて、すわり    夜鷹と唱し、遊女七人出る也、花代百廿四文也、是切見世の真似故に居り夜鷹と唱し、勤は廿四文にて、    外に百文は客より相対にて貰ふ由、右久々にて出し故に珍らしく、殊之外繁昌致し、右場処賑ひて法会    之如く、諸人群集致す故に往来ぇは商人迄出る也、右に付、是にて故障も無之に於ては切見せに致し候    積り之処、惜しい哉、纔に三日にして、同四日表向之御沙汰は無之候得共、御仁政を以、内々取払申付    る也、四日昼八ッ時に取払也。    但、天保十三寅年三月御改正之後は、所々隠売女は厳敷御法度に相成候に付、弘化元辰年十一月廿七日、    初て本所吉田町増田屋千太郎と申者、両国橋へ夜鷹を五人出せし処、大繁昌にて五十文宛にて売る也、    此時の川柳に      太刀の鞘両国で売はじめ〟     ◇吉原焼失 p601   〝十二月五日、暮六ッ時より、新吉原京町弐丁目川津屋鉄五郎宅より出火致し、廓中残らず大紋迄焼失、    五十間道少々残る也、      けふ待て逢ふた間もなく焼出され もふ是からは女郎川津や  本由      きのふ迄のめやうたへや京は火事 これでは女郎うらず川津や 栗喜〟    ☆「弘化三年 丙午 五月閏」(1846)   (浮世絵)   ・正月、歌川芳虎『絵本大将揃』       玉蘭斎貞秀の画ける『歳時記図会』       松川半山の画ける『御迎船人形図会』出版   ・四月、一勇斎国芳の『一勇画譜』出版   ・前々年より流行物なる染井の菊の造り物の為に前よりの企てにて白山人北為といへる絵師『菊のすがた    み』と画きて出版せり    〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉     (一般)   ・四月二十三日、俳師小蓑庵碓嶺卒す〟   ・八月六日、護持院原(ゴジインガハラ)に於いて、井上清十郎、父の讐(アダ)本荘茂平次を討つ    〔以上二項『増訂武江年表』〕   ・八月、人形遣ひ西川伊三郎名誉の者也、歌舞伎役者たて者共皆此が人形の活動の形を学べり、本所荒井    町に住て、当八月十二日死、翌日葬礼に三芝居役者共、岩井杜若親子・松本幸四郎・中村芝翫・関三十    郎其外多く送れり、見物多し、寺は東本願寺塔中の佳 〔『きゝのまに/\』〕     〈一般年間〉    ◯『藤岡屋日記 第三巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇孝行糖うり p3   〝孝行糖うり    二月の頃孝行糖といへる菓子売来るなり、藍鼠色に雪降に竹の子の付たる半天を着て、うこん三尺帯を    〆売あるき、せりふ     むかし/\其昔、廿四孝の其中の、孟宗と云人は、親に永いきさするとて、こしらへ初めし孝行糖     トコトコ/\(以下略)〟     ◇稲荷ずし p4   〝去る巳年(弘化二年)十月頃専ら流行也、本家は平永町なり、筋違の内へ出るの是本家也、其後より替    也、此すしは豆腐の油揚に飯・から、いろ/\のものを入て一つ八文也、甚下直にてあさびせふゆにて    喰する也、暮時より夜をかけ、往来の繁き辻々に出て商ふ也、当午の春に成ても益々大繁昌なれば、当    時流行唄にも、     坊主だまして還俗させて稲荷鮨でも売せたや。      ごぞんじのいづくも爰にいなりずし ます/\売る初午のとし    (すし売りの挿絵あり、詞書きに「いなりずし 元祖 花色の半天 うこんの手拭にて鉢巻也」とあり〟     ◇開帳 p25   〝三月朔日、小川町御土堤上三崎稲荷疱瘡守護神、今日より三十日之間開帳也。    同日より武州新坐郡下新倉村吹上観音、行基之作成、居開帳三十日之間也〟   〝三月十五日より、柴又帝釈天、浅草本蔵寺にて開帳也、六十日之間〟   〝四月朔日より六十日之間、深川富ヶ岡八幡宮境内、七渡弁財天開帳なり。    (四月廿六日より、深川八幡社内にて「天竺徳兵衛」を上演。この芝居は大道具大仕掛、水中早替わり     が呼び物であった)    然る処、五月廿二日夜四ッ時頃より、寺社奉行より御手入にて、翌日朝迄に取払になる也、湯島も同時    に取払也〟    〈「湯島」については四月十日の記事参照〉   〝四月十日、湯島天神於境内、四月三日より野嶋地蔵尊開帳に付、先達て取崩しに相成候処之芝居再興之    義相願、御免を蒙りて普請出来致し、今日初日也。狂言は     十帖源氏物草太郎  二番目 天網嶋紙屋治兵衛    (中略)    然る処、五月廿二日夜四ッ時頃、寺社奉行より御手入にて、芝居・猿芝居、其外見世物小屋迄、翌朝迄    に取払に相成也〟     ◇大坂新町俄の事 p58   〝六月、大坂新町俄之事、十余年目にて今年六月出来、名前左の通り    鍾馗 尾張屋紫 楓屋三ッ扇 牛若 伊勢屋照葉 芦川 千切屋玉川 江口 東扇屋緑木太夫     狐小鍛冶 よしや恋衣 魚籃観音 松屋三枡野 兎 尾張屋佐代鶴 東坡居士 槌屋花露太夫    蟻通宮守 折屋りう 神あそび 加賀屋旅鶴 春日龍神 東扇屋都路太夫 宗近 吉屋歌野 飛騨内匠    倉橋屋道里 貫之 折屋あき 舟弁慶 西応屋揚巻太夫     右新町太夫・天神・鹿恋・芸子等出る也     右之肖像画之上に其唄物を書附し、彩色摺出来、但立四寸、横壱尺程の紙也〟     ◇平川天神再建 p100   〝十一月、麹町平川天神先年焼失に付再建、旁参詣群集の為に、境内において百日間香具芝居興行之義相    願候処、十月より興行致す也〟     ◇赤城明神再建 p101   〝十一月十六日初日也。牛込赤城明神、先年焼失に付再建、旁百日之間香具芝居・子供狂言、并かんざし    ・はみがき商内相願候処、御聞済有之、百日之間興行、雨天日送り也〟    〈子供芝居の出し物は「本朝廿四孝」。願いには十九才を頭として提出したが、実際は四、五十才だったり、随分さば     を読んでいた〉     ◇流行物 p101   〝十一月、此節専流行にて、おたふく・金太郎其外の面形、飴の中より出る、大坂下り細工飴売大勢出る    也、背中におかめの面付候、花色木綿の半天を着し、     船の中からおたやんがにこ/\笑てとんで出る、と云て売歩行なり〟    ◯『事々録』〔未刊随筆〕⑥339(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   〝九月末より十月中旬迄、巣鴨染井根津造菊植木屋凡四拾軒程群集見物、其形作ニ至て常盤津浄瑠璃ニ題    し、根津及び中七面坂等、中にも料理茶屋玉屋は暖簾ニ菊花染、大江山と言文字を附ケ、此脇植木屋関    の戸ト言浄瑠璃人形、面ト双手は人形、衣類を菊花、其側に玉屋主ト成て、同大江山をかたどり、金太    郎山姥等を作る、染井巣鴨は思ひ/\の物を作る、中にも菊のみにて鶴を作りたるは手際と見ゆ、中々    くわしくは見尽しがたし〟    ☆「弘化四年 丁未」(1847)   (浮世絵)   ・八月一日、小林清親生る。(大正四年十一月廿九日歿す。行年六十九)   ・此年三月八日より信州善光寺如来の開帳。三月二十四日、夜に入りて大地震人馬多く死す。錦絵に鯰を    画きて種々所作を附加せるは此年の出版に係れるもの多し    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕       ・正月、北斎の女応為の画ける『女重宝記』       磯野文斎の画ける『長崎土産』       歌川国盛の『浮世画手本』       静斎英一の『地口絵手本』等出版   ・四月、渓斎英泉の画ける『神事行燈』五編出版   ・五月、小田切春江の画ける『名区小景』初編出版   ・十二月、歌川国英の画ける『諸国道中たび鏡』出版〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉     (一般)   ・三月二十五日、小山田与清 国学をよくす。幼名高田茂右衛門、又六郎右衛門、後に小山田将曹と    改む。号知非斎、松の屋、擁書倉といふ。今年六十五歳、深川霊巌寺中霊哲寮に葬す)   ・河原崎芝居春の狂言に、虫拳、狐拳、虎拳 を催しけるが、世に行はれて諸人酒席の戯れにこれを    真似たり〔『増訂武江年表』〕   ・三月十八日より浅草観音卅三年め開帳、奥山に朝日奈人形作り物出る由、先日より一枚絵に出たり、四    月初やう/\出たれども忽差止らる、此に付て当開帳中諸みせ物出す、朝日奈大さは其煙草入より拍子    方子供大勢出る、此にて知るべし、大造の物は其頃も御触有しに、心なき事也    〔『きゝのまに/\』〕   ・春、浅草寺の奥山へ見世物に出さんとて、朝比奈の人形を造る。頭の大きさ一丈余、煙草入の大きさ二    間なり。後につくりしは惣丈一丈余の物也   ・三月二十四日、信州大地震、人多く死す。江戸も此の夜少しの地震あり。(中略)     筠庭云ふ、此の時落書流行、拳文句     「さきは信州善光寺、開帳ぶら/\出かけます。泊り屋ぐら/\御堂へ参りましよ。だんだん/\く      えてきた。爺さまも婆さまもひしやがれた。供はほう/\にげてきた。迎にさあきなせ」     これは当春、猿若町二丁目の狂言に拳ありて、このごろ流行(ハヤ)れるなり〔以上二項『増訂武江年表』〕   〝六月八日、芝居女形岩井半四郎葬礼、大川ばた石原通り深川浄心寺に至る   〝七月廿五日、尾上菊五郎一世一代、五十三次怪談狂言、松緑が卅三年忌追薦也、又盆前に羽左衞門弟子    嵐三八、涼み舟にて水死   〝九月、三代目板東三津五郎十七年追善、羽左衞門座にて板東秀哥、羽左衞門七変化所作勤む〟   〝十一月、猿若町顔みせ、二丁目へ市川小団次下りて七変化見物大入〔以上三項『きゝのまに/\』〕      〈一般年間〉   ・天保五年頃、吉原仮宅におつこちといふ俗語流行、其節大に丸き絞り染をおつこち絞りと云てはやる、    アサリヤなんとカヽと云童謡も其頃也【巷説に云、カヽとは大奥にカヽと召されし女中有しといへり】    当年石垣絞りはやり出し、次て革色といふ染色はやる、おつこちも石垣も大かた縮緬の紅ぞめ也、革色    は菖蒲の色なり。(以下、髪形衣服の流行記事、略)〔『きゝのまに/\』〕   ・目黒茶屋菊造り物出来る〔以上項『増訂武江年表』〕    ◯『事々録』〔未刊随筆〕(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   ◇おたさん ⑥341   〝(正月)飴売に背へお福の面を染著し、飴の中からおたさんがにこ/\笑てひよりと出たといふて売る、    此頃先達て致仕隠居、太田備後守は老職の頃、浜松侯と聊あらそひありて致仕たりと風聞あり、今度隠    居登城にて再び君恩ありて、政事御内談も有べくやと風評、あめの中からおたさんといふを【アベノナカダ    チヲヲタサンガ出タ】太田の出られしといふなど、あらぬ事を例の民俗のかたり合イぬ〟    〈浜松侯は水野忠邦〉     ◇朝比奈人形 ⑥351   〝浅草寺開帳、初日前々より看板を出し、丈余の朝比奈の人形 、是が腰さげの物より人出て、さま    /\の芸をなすは、彼の小人島に比したるなり、然るに其小屋高く広やかに、近世見せ物奉納の分を過    ぎたるを禁せらるが故に止められて、いたづらに其様子、錦絵にのみ残りて、是に費やせし金銀の損失    大かたならず、開帳済べき末にいたり、其半減に作りつゝ、よふ/\ゆるしをうけて人形のいさゝかは    たらきを見せけり〟       ◇役者似顔絵 ⑥351   〝歌舞伎役者岩井半四郎は頗る生延びて七十余に及び、去年も桂川の狂言にお半の娘がたなどなしけるが、    此水無月初に死て、深川浄心寺に棺送りも、其輩は皆々供にたち、又見る者も山をなせり、只近き頃に    しき絵の似顔 れ、にしき絵の辞世なんどの絵は出さず、因みいふ錦絵役者絵の禁ぜられては、    武者絵専ら行はれしが、今年にいたり名にはあらはさねど、役者似顔絵ひさぐ事に成たり〟    ◯『藤岡屋日記 第三巻』(藤岡屋由蔵記)     ◇当年開帳 p105   〝信州善光寺常灯明所 一光三尊阿弥陀如来并光明灯火霊宝等 四月朔日より六十日之間 下谷 灯明寺    厄除弘法大師 御同作 三月三日より三十日之間 西新井 惣持寺    浅草観世音開帳    三月十八日より六十日  金龍山 浅草寺    市ヶ谷八幡宮開帳   三月朔日より六十日   別当東国寺    諏訪大明神     当五月朔日より五十日之間 浅草(二字ムシ)寺町大仙寺において開帳                          武州埼玉郡中馬場村 妙光寺    荒沢不動尊     当三月十八日より六十日之間、自坊において開帳 浅草寺境内 荒沢堂    慈覚大師御作 野嶋地蔵尊 並霊宝等 来る閏(ママ)三月三日、三十日之間、                      湯島天神於境内、令開帳者也 野嶋山浄山寺    西新井 厄除弘法大師 五月十五日より同廿九日迄、十五日間開帳也〟     ◇夜鷹 p105   〝去午年(弘化三年)夏頃より今川橋へ夜鷹五人計出で、群集致す也。此頃は新シ橋・和泉橋辺へひつぱ    りと云歳間女出で、客に逢て相談を致し、宿ぇ連行、泊る也、つとめ金弐朱也、是地獄也。      地獄とはいへ共鬼はおらずして        迷ふ男を救ふ女菩薩〟     ◇恵比寿大黒 p105   〝正月元日より諸方大道にて、金弐朱に笑比寿大黒を付て一つ三十二文宛に売出し、評判宜敷売る故に、    後に此金を以て夜中紙に包み買物致せし者も有之、亦は錺屋にて是を拵るとて、まぎらわしき金を拵へ、    三月頃より右大黒金も差留に相成けり、亦二月頃より壱歩銀も拵出し、三十二文位に売しが、是も後に    は十六文位に売けり、この銀は故障もなく売、其後差留也、大坂今宮笑比寿と云て売出せし也〟     ◇細工飴 p105   〝去年(弘化三年)中より大坂下り細工飴とて、大勢売来る也、花色の半天にお多福の面形を付、売歩行    ことばに、飴の中からおたさんがにこ/\笑てとんで出る、おたさんがいやなら金太さんにしよう、金    太がいやなら法界坊にしよう    右色々の面形、飴の切口より出る也      世の中の人はみんながうれしがる 阿部の中ヶ間に出る太田さん〟            ◇菓子売り p124   〝二月中旬之頃より、宝おこし・車輪糖売来る也、初日には大勢揃て来る故立派也、売人の形は半天股引、    半天の背に源氏車朱にて付、惣地茶色宝尽しの中形、傘一ぱいに車を付、身ぶり致しながら売歩行、其    せりふに     夢の浮世に夢見てくらす、天道様は毎日東から西へ廻る、兎角しんぼがかんじんだ、くる/\廻りの     よいのは車輪とふ、宝おこしが来たわひな    同時に雷おこし売出る也、但し形は半天脚絆、黒雲に稲光、傘同断、太鼓の形の箱に菓子を入、荷ひ来    り、せりふに     三国一の観世音、日本一の大開帳、浅草名物かみなりおこし、雷よけにおかひなさひ    但し、三月十八日より浅草観音開帳ゆへに、このせりふなり。    車輪とふくる/\廻つて歩行ても(一字ムシ)銭がまわりてかふ人もなし      雷がごろ/\さわぎあるひても へそくりぜにのとらるゝもなし    然れ共車輪とふのおのがせりふにも、しんぼが大事と云ひて、毎日/\くる/\廻ても売れないには、    しんぼも出来ず、雷おこしもとろ/\となり、歩行ても日本一の開帳の六十日もしんぼも出来ず也〟     ◇とてつる拳 p129   〝(二月)此節猿若町河原崎座にて、とてつる拳の狂言大当りにて、花見に出る程の人は姥婆かゝに至る    迄、此拳を知らぬものは大なる恥と思ひ、十六文出し、とてつる拳の稽古本を買て、皆々往来をけんを    しながらかゑるなり      けんとふも違へず当る成駒や 江戸市川で客はまつ本〟    〈この狂言は正月十五日より上演された「飾駒曽我(ノリカケソガ)道中双六」。その狂言中「笑門俄七福」と題された浄瑠     璃の場で、中村歌右衛門・市川九蔵・松本錦昇(幸四郎)の三人によって「とてつる拳」が演じられた。所謂「三す     くみ拳」と呼ばれるもので、この「とてつる拳」では、虫拳(がま蛙・蛇・ナメクジ)、虎拳(虎・和藤内・婆さま)     狐拳(狐・庄野・漁師)を一つにして、がま蛙・虎・狐の組み合わせにしている。これを一勇斎国芳が「道化拳合」     と題して、がま蛙は成駒屋・中村歌右衛門、虎は市川九蔵、狐は松本錦昇、それぞれ役者の似顔で描いている〉
   「道化拳合」 一勇斎国芳画    (ウィーン大学東アジア研究所FWFプロジェクト「錦絵の諷刺画1842-1905」データーベース)     ◇西新井大師開帳 p130   〝三月三日より三十日之間居開帳    西新井厄除弘法大師  総持寺    当寺、近年は大師河原に劣らず発向致し、江戸にも講中多く、奉納もの多し、近在村方より奉納もの多    く有之、殊之外参詣群集致し、先は当年開帳内にて大当也    (奉納物のリストあり、略)    奥院ぇ行く道に、池の彼方に猟人の人形在、池の向に大きさ凡五間程の大猪在、毛はそだ也、細工人尾    村松五郎と在、当村の納め也。(中略)見もの・おでゞこ芝居、商人多く出る也。門前料理茶屋何れも    賑はしき中にても高砂や殊に繁昌也〟     ◇閻魔の目玉抜き取られる p131   〝三月六日夜     四ッ谷内藤新宿浄土宗大宗寺閻魔大王の目の玉を盗賊抜取候次第    右之一件大評判ニ相成、江戸中絵双紙やへ右の一枚絵出候、其文ニ曰、     四ッ谷新宿大宗寺閻魔大王ハ運慶作也、御丈壱丈六尺、目之玉ハ八寸之水晶也、これを盗ミ取んと、    当三月六日夜、盗賊忍び入、目玉を操(ママ)抜んとせしニ、忽ち御目より光明をはなしける故ニ盗人気絶    なし、片目を操(ママ)抜持候まゝ倒レ伏たり、此者ハ親の目を抜、主人の目をぬき、剰地獄の大王の目を    ぬかんとなせしニ、目前の御罰を蒙りしを、世の人是ニこりて主親の目をぬすむ事を謹しミ玉へと、教    の端ニもなれかしとひろむるにこそ。     亦閻魔と盗人と坊主、三人拳之画出ル。     (歌詞)さても閻魔の目を取ニ、這入る人こそひよこ/\と、夜るそろ/\目抜ニ参りましよ、しや     ん/\かん/\念仏堂、坊さまニどろ坊がしかられた、玉ハ返しましよ、おいてきなせへ人の目を、     抜て閻魔の目をぬひて腰がぬけたで、きもと気がぬけ。        めを二(一)ッ二ッまなこで盗ミとリ 三ッけられたる四ッ谷新宿        五く悪で六で七(ナ)し身の八じ不知 九るしき身となり十分のつミ     右閻魔の目を操抜候一件、種々の虚説有之候、一説ニ同処質屋の通ひ番頭忰、当時勘当の身、閻魔堂    ニ入、左りの目の玉を操抜取、右之方を取んとする時、閻魔の像前ぇ倒レ候ニ付、下ニ成て動く事なら    ずして被捕し共云、亦一説ニハ、同処ニ貧窮人有之、子供二人疱瘡致し候故、閻魔ぇ願懸致し候処、子    供二人共死したり、右故ニ親父乱心致して、地蔵ハかハいゝが閻魔がにくいとて、目の玉を操抜しとぞ、    是ハ昼の事ニて、子供境内ニ遊び居しが、是を見付て寺へ知らせし故ニ、所化来りて捕しともいふなり、    亦一説ニハ、近辺のやしき中間三人ニて閻魔堂ぇ押入、二人は賽銭箱をはたき逃出し、一人は残り、目    玉を抜取し故、被捕し共いふ也。       閻魔の目を抜候錦絵一件     未ノ三月六日夜、四ッ谷新宿大宗寺閻魔の目玉を盗賊抜取候次第、大評判ニて、右之絵を色々出板出    (致)し、名主之改も不致売出し候処、大評判ニ相成売れ候ニ付、懸り名主より手入致し、四月廿五日、    同廿六日、右板元七軒呼出し御吟味有之、同廿七ニ右絵卸候せり并小売致候絵双紙屋九軒御呼出し、御    吟味有之、五月二日、懸り名主村田佐兵衛より右之画書、颯与(察斗)有之。     南御番所御懸りニて口書ニ相成、八月十六日落着。       過料三〆文ヅヽ        板元七人                      世利三人                  絵草紙屋       同断               小売     但し、右之内麹町平川天神絵双紙屋京屋ニてハ、閻魔の画五枚売し計ニて三〆文の過料也。     板行彫ニて橋本町彫元ハ過料三〆文、当人過料三〆文、家主三〆文、組合三〆文、都合九〆文上ル也。〟     ◇浅草観音開帳・奥山の見世物 p135   〝三月十八日より六十日之間、日延十日、浅草観世音開帳、参詣群集致、所々より奉納もの等多し    (奉納物のリストあり、略)    奥山見世もの     一 力持、二ヶ処在、     一 ギヤマンの船     一 三国志  長谷川勘兵衛作     一 伊勢音頭     一 朝比奈    浅草田歩六郷兵庫頭、是迄登城之節、馬道ぇ出、雷神門内蕎麦屋横丁ぇ雷神門より並木通り通行せし処、    今度開帳に付、奉納の金龍山と書し銭の額、蕎麦や横丁ぇ道一ぱいに建し故に、六郷氏通行之節、鎗支    へ通る事ならず、右故に少々片寄建呉候様相頼候得共、浅草寺役人申には、片寄候事決て相ならず、右    奉納之額邪魔に相成候はゞ脇道御通行可被成之由申切候に付、無是非是より幸龍寺の前へ出、登城致し    候処、此節六郷兵庫頭、常盤橋御門番故に、早速御老中廻り致し相届候義は、今度浅草寺奥山に広大な    る見世物小屋相懸候に付、出火之節御城之方一向に見へ不申候に付ては、万一御廓内出火之節、見そん    じ候て御番所詰相闕候事も計り難く候間、此段御届申候と、月番ぇ相断候に付、早速右之趣月番より寺    社奉行へ相達候に付、寺社方より奥山朝比奈大細工の小屋取払申付る也、是六郷が往来を止し犬のくそ    のかたき也。      島めぐり田歩めぐりで取払     一 こま廻し 奥山伝司    至て評判あしきに付、落首      奥山にしかと伝じも請もせず 㒵に紅葉をちらす曲ごま〟    〈浅草寺に奉納された銭細工の額によって、通行に支障をきたしたうえに、浅草寺の役人から迂回を命じられた六郷     兵庫頭が、その意趣返しに、奥山の広大な見世物小屋が邪魔で江戸城を見渡せず、万一出火した場合、番所に詰め     るのも難しいと老中に訴えたのである。それが大細工・朝比奈の撤去になったというのである〉
   「浅草金龍山境内ニおいて大人形ぜんまい仕掛の図(朝比奈大人形)」 玉蘭斎貞秀画    (「RAKUGO.COM・見世物文化研究所・見世物ギャラリー」)      〈参考までに、国芳画「朝比奈小人嶋遊」をあげておく〉
   「朝比奈小人嶋遊」 一勇斎国芳戯画 (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)
   「【キヤマム】細工舩」 貞重改 国輝画 (「RAKUGO.COM・見世物文化研究所・見世物ギャラリー」)     ◇小山田与清逝去 p155   〝弘化四丁未年三月廿五日     小山田与清卒、六十五    国学をよくす、初名高田茂右衛門、又六郎右衛門、後に小山田将曹と改、号知非斎、松の屋、擁書倉と    いふ。深川霊巌寺中霊哲寮に葬す〟     ◇三人娘の身投げ p162   (五月十日、酒屋の娘およね、魚屋の娘ちか、八百屋の娘ひさ、三人申し合わせて入水。理由は不明)   〝酒盛に娘をちよつとつまみもの魚類精進あとはどんぶり    酒魚青物なぞで流行の拳をうつゝの夢の世の中〟     ◇子供芝居 p166   〝五月廿八日、湯嶋天神境内ぇ此度坐本七右衛門、晴天百日之間、香具・子供芝居相願候之処、此度御聞    済に相成、今日目出度三番叟を舞、六月三日狂言初日也    (演目、木下蔭狭間合戦・一谷嫩軍記・忠臣蔵裏表・義経千本桜)    桟敷壱〆五百文、土間六人詰九百文、土間割込壱人前百五十文、木戸廿四文    右は芝居葦簀張の源にて興行致し、御停止・盆休等の日送りに致し、九月廿四日目出度千秋楽也〟     ◇岩井杜若逝去 p167   〝六月六日、岩井杜若卒、行年七十壱歳、深川寺町法苑山浄心寺に葬。     法号 天慈永久日受信士    老木の花の色うすくて、其つとめもなりがたけれど、諸君の御めぐみをちからに有しが、常なき風にさ    そはれて      辞世 御ひいきをちからにもちしかきつばた〟     ◇吉原灯籠 p172   〝(七月)新吉原灯籠も、始めは評判悪敷候処、盆後替りて至て評判宜敷、中にも江戸町一丁目分、中の    町茶屋若水屋常七灯籠、忠臣蔵初段より十一段目迄残らず小く致し拵る也、亭主常七の作にて大評判な    り。次に京町一丁目分、中の町小竹屋彦兵衛たぬき茶の湯の作りもの、是も評判なり、其外、盆後の灯    籠至て評判よし〟     ◇尾上菊五郎一世一代 p172   〝七月十五日より、尾上菊五郎一世一代     【東海道五十三次】尾上菊五郎一代噺 二日替り    父松緑三十三回忌に相当り候に付、十三ヶ年以前当芝居にて相勤候五十三次の狂言、古今稀成大入大繁    昌仕候間、右之狂言を一世一代に仕り、且又私家に伝り候三幅対と申狂言未だ相勤不申候間、右之内一    幅を追善として差加、是迄の五十三次は一日に致して、悉く御覧に入難く、御慰みも薄く候へば、此度    は二日替りに仕、初日京より大井川迄大道具大仕懸に仕、後日は藤枝宿より日本橋迄取揃、怪談大仕懸    御覧に入候(以下略)〟    〈嵐団七、菊五郎より是非にと請われて幽霊役を引き受けしが、衣裳を見てはますます気がふさぎ、ついに病気にな     るという怪異記事が続く〉     ◇菊の番附 p192   〝九月末、巣鴨、染井、根津、谷中、千駄木、駒込、殿中、其外共菊の番附    (市川団十郎人形、助六揚屋町の場、梅王丸・松王丸人形、八重垣姫・勝頼人形、殺生石に九尾狐等の     番付あり、省略)    菊現物、十月朔日初日にして、十一月五日仕舞なり〟     ◇市川小団次 p194   〝十一月四日、市村坐顔見世狂言初日なり、大坂下り市川小団次大評判也、市川白猿の弟子也。    (中略)    七変化、下り市川小団次相勤候候。牛若丸、女郎、客人、かみなり、船頭、乙姫、大黒    雷の所作事、大評判大当りにて、江戸市中を乞食芝居迄、右雷の所作事を致し歩行程の大当り、其外早    替り・珍らしきはなれ業、大評判大入にて、顔見世狂言、霜月四日初日にて極月迄狂言致し、大入大繁    昌なり。      雷の鳴響きある大入は 江戸市川の是は小団次〟     ◇往来にわらい本を並べし事 p201   〝十一月十二日、永代橋御普請に付、御見分として南御奉行遠山殿新堀通り御通行之処、新堀の往還にわ    らい本ならべ有之、御目に留りて直に御取上げに成、翌十三日、江戸中にならべ有わらい本御取上げ也。    是は遠山殿の仰に、我が通る処にさへ如斯大行に春画ならべ有からは、江戸中の往来にならべ有べしと    て、翌十三日に町方同心名主差添、江戸中にて取上る也、凡百十一人也、本と取上げ名前を留て行也、    柳原土手計にて拾両計の代呂もの也〟    〈なぜ、江戸中の路上に春本が並べ置かれたのであろうか。橋の普請と関係あるのか。町方同心や名主が回収した     とあるが、しかし奉行所には並べた者を詮索して咎め立てようとする様子はないし、また並べた方にもお上に逆     らって意図的に置いた感じもない。一種のお呪い・風習らしくも思われるが、よく分からない〉     ◇吉原俄 p202   〝十一月十五日より十九日迄五日之間、新吉原秋葉縁日後の俄番出る也    鉄棒二人  和泉屋のぶ 升見屋よし    獅子    若水屋みき 桐やくま まきやなつ まきやかま 升湊やしま 荻江あき 金子やせき          万屋ひで いせやとし    (以下「俄手遊び人形尽し」として、紙吹人形、豆人形等あり。また「鹿島の事触」「俄汐干狩」等の     演目が続く)    但し、右俄番附、不許売買、飛板也〟    ☆「弘化年間記事」   (浮世絵)  ◯『筆禍史』「奥女中若衆買の図」p165   〝若衆といひ野郎といひ「かげま」といふは、男色を売る美少年のことなるが、単に男子を客として色を    売るのみならず、淫婦の望みによりては、天賦の情交にも応ぜしなり、此かげま茶屋といへるもの江戸    にては芳町、湯島、芝神明前にありて男女いづれの客をも迎へしなるが、天保九年十二月に幕府は之を    禁止し、尚風俗等を絵画として出版する事をも禁止せり、然るに此奥女中若衆を買ふ図は、大錦絵三枚    続として出版せしなり、其図中に題号なく又何等の説明をも加へざりしため、其出版前制規によりて役    人の検閲を受けし際、役人等は普通の女子ども遊興の体ならんと見て、許可の検印を下せしなるが、其    出版後に至りて、かげま茶屋に於て奥女中が若衆を買へる図なること発覚し、直ちに絶版を命ぜられた    りといふ、但し最初役人の方に、許可の印を与へし不注意の廉ありしを以て、版元及び画者には何等の    咎めなかりしといふ     此図の出版は、歌川国貞が天保十四年の夏、三代目豊国と名乗りし後の筆にて、其画風及び欵識等に     よりて察すれば、弘化初年頃のものならんと思へども、其年月不詳なるを以て茲(*「出版年代不詳     の図書」)に録する事とせしなり           女かと見れば男のカゲマ茶屋    別印刷として添ふる『奥女中若衆買の図』は往年予が翻刻発行せし大錦絵三枚続を今回縮成せるものな    り     図中の四人の内楊枝を口にせるは奥女中、島田髷にて女装せる三人は皆若衆即ちカゲマ(男)なり      〔頭注〕かげまの歴史    若衆考と題する、男色史の詳細なるものに、浮世絵師の筆に成れる絵図を数多挿入せるものを発行せん    と前年来企画し居れども未だ其機を得ず〟
   「奥女中若衆買の図」 歌川豊国(三代)画 〔『筆禍史』所収〕     (一般)   ・根岸新田といふ所に梅屋敷をひらく。園中広からねど紅白枝を交へて頗る壮観なり(庵主富右衛門とい    ふ。此の家にも鴬の会あり。抑(ソモソモ)此の地を初音の里と号し鴬の名所とす。東叡山凌雲院主某、初音    の里のゆゑよしを記して此所に碑を建てらる。碑蔭に当時江戸に勝れたる鴬の名寄(ナヨセ)を鐫(セン)して    あり)   ・皮色といふ染色、石垣しぼりといふ染模様はやる〟   〝絵直しといふ戯れ行はる。無心にして一ッ二ッの点画を施し、余人これに筆を加へて画になすの戯れに    して、大人の喜ぶべきものにあらず     筠庭云ふ、絵直し、悪絵などいふ戯れ、昔もありしが、さして行はれもせず、文化八年辛未四月頃、     京師にて絵直しあり。点者より一筆書きて出すを、人々思ひよれる儘に是れを絵となす。点者それを     選みて甲乙を定むる事なり 〔以上二項『増訂武江年表』〕