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浮世絵師総覧慶長元年(1596)~十九年(1614)浮世絵年表一覧
 ☆「慶長元年(十二月二十七日改元)丙申 七月閏」(1596)   (浮世絵年間)   ・此年、岩佐勝以(俗称又兵衛)十九歳。    岩佐又兵衛は、浮世絵画家の鼻祖と称せらるゝ人なれば、爰に少しく略伝を載すべし。即ち又兵衛は織    田信長の臣、摂津伊丹の城主荒木摂津守村重の末子にして、父村重、信長の意に背き、自殺に当り、又    兵衛の時二歳の幼児なりしが、乳母に助けられて生長、外戚の岩佐姓を名乗り、後織田信雄に仕へたり    しが、幼より絵画を好み、遂に永く斯道に名を垂るるに至れるなり。〔『増訂武江年表』〕    〈李進熙著『江戸時代の朝鮮通信使』(講談社学術文庫)、副使を慶暹とする〉     〈一般年間〉   ・煙草諸州へ弘まる。上下これを翫(モテアソ)ぶ   ・近衛関白信尹公御下向あり。此の時、梅若寺を木母(モクモ)寺と改め給ひ、額を給ふ    〔以上二項『増訂武江年表』〕    ☆「慶長二年 丁酉」(1597)   〈一般年間〉   ・神田に光明山感応寺開創(開山日感上人なり)〔『増訂武江年表』〕    ☆「慶長三年 戊戌」(1598)   (一般)   ・十月、金鳳山高林寺、駿河台に於いて開創あり。後年駒込土物店へ移る 〔『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・松平西福寺、駿州より江戸駿河台の下へ移る(後、寛永十五寅年に至り今の浅草へ移る)   ・三縁山増上寺、日比谷より今の地へうつる   ・猿江泉養寺開創 〔以上三項『増訂武江年表』〕    ☆「慶長四年 己亥 三月閏」(1599)   〈浮世絵年間〉   ・野々口立圃生る。    野々口立圃は、京都住にして、雛人形を製作して生業とし、元来多芸多能の人にして和歌俳諧を善くし    て自画自作の奈良絵やうの冊子を編み、高貴の翫びものとして世に鬻ぎ、或は当時目撃の歌舞伎の姿態    などを精細に描写し以て世に残しゝ人なるが、著書も亦少なからざるは世の知る所なり。    〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・四月、金剛山竜宝寺(天台)神田台に草創 〔『増訂武江年表』〕    ☆「慶長五年 庚子」(1600)   〈一般年間〉   ・六郷橋再び掛かる。   ・池上本門寺大塔建立(翌年に至り全く成就す)〔以上二項『増訂武江年表』〕    ☆「慶長六年 辛丑 十一月閏」(1601)   (一般)   ・十一月二日巳の刻、駿河町幸之丞家より火を出す。此の大焼亡に江戸町一宇も残らず、人多く死す。    (中略)此の序(ツイデ)に皆板葺になすべきよし、官府より命ぜられければ、町中こと/\く板葺に作る    (略、また瓦葺も始まる)〔『増訂武江年表』〕    ☆「慶長七年 壬寅」(1602)   〈一般年間〉   ・小石川無量山寿経寺、御菩提寺と成り、伝通院と号し、殿堂僧坊等御建立あり、紫衣を給ふ。    〔『増訂武江年表』〕    ☆「慶長八年 癸卯」(1603)   〈一般年間〉   ・日本橋をはじめて掛けらる。   ・神田山幡随意院、神田台に草創(開山白道和尚)〔以上二項『増訂武江年表』〕    ☆「慶長九年 甲辰 八月閏」(1604)   (一般)   ・二月、日本橋をもとゝ定められ、東海道及越後陸奥等の諸道へ、一里塚を築かしめらる。三十六丁一里    の積りなり 〔『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉    ・五台山源空寺、湯島に開創(開山円誉霊門上人)〔『増訂武江年表』〕    ☆「慶長十年 乙巳」(1605)   〈一般年間〉   ・大城御普請に付き、柳町の馬場御用地になり、この辺の遊女屋ども元誓願時前へうつる   ・南蛮よりタバコ、蕃枡(トウガラシ)を渡す(一説、天正中蛮人持ち渡るともいふ)    〔以上二項『増訂武江年表』〕    ☆「慶長十一年 丙午」(1606)     〈一般年間〉   ・大城を築き給ふ。三月より始まり九月に成就あり。〔『増訂武江年表』〕     ☆「慶長十二年 丁未 四月閏」(1607)   (一般)   ・二月二十日、御城の辺にて、出雲の御子(ミコ)お国、勧進哥舞妓興行あり(「慶長見聞集」に、おくには    出雲国小村三右衛門といふ人の娘云々。おくにかぶきの事、山東の「骨董集」にくはし)    〈山東京伝の考証随筆『骨董集』は文化十年(1813)の序〉   ・閏四月、朝鮮信使初めて来聘(正使呂祐吉、副使慶邏、従事丁好寛)〔以上二項『増訂武江年表』〕    〈李進熙著『江戸時代の朝鮮通信使』(講談社学術文庫)、副使を慶暹とする〉     〈一般年間〉   ・煙草諸州へ弘まる。上下これを翫(モテアソ)ぶ   ・近衛関白信尹公御下向あり。此の時、梅若寺を木母(モクモ)寺と改め給ひ、額を給ふ    〔以上二項『増訂武江年表』〕    ☆「慶長十三年 戊申」(1608)      (必要とするデータなし)    ☆「慶長十四年 己酉」(1609)   (一般)   ・八月、阿蘭陀始めて入貢奉書、唐船始めて来る 〔『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・煙草御禁制(一説に、元和元年ともいふ)〔『増訂武江年表』〕    ☆「慶長十五年 庚戌 二月閏」(1610)   (一般)   ・八月、琉球始めて駿府并びに江戸御城へ入貢。王尚寧来聘。〔『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・芝愛宕権現、本社拝殿閣門石階等御建立   ・銀(シロガネ)町に知足院御建立(護持院の旧名なり)   ・弥勒寺建立。〔以上三項『増訂武江年表』〕    ☆「慶長十六年 辛亥」(1611)   (一般)   ・六月二十四日、加藤肥後守清正卒す 〔『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・竜徳山雲光院、阿茶局建立(馬喰町の続きなり)〔『増訂武江年表』〕>    ☆「慶長十七年 壬子 十月閏」(1612)   〈一般年間〉   ・大鳥逸兵衛并びに同類誅せらる(喧嘩を好み辻切りをなすの悪党なりしとぞ)〔『増訂武江年表』〕     ☆「慶長十八年 癸丑」(1613)   (一般)   ・六月七日、神田社地より、南伝馬町へ始めて御旅出あり 〔『増訂武江年表』〕    ☆「慶長十九年 甲寅」(1614)   (一般)   ・十月、「慶長見聞集」成る。写本十冊(編者三浦浄心は、北条家に仕へし士也)〔『増訂武江年表』〕  ☆「慶長年間記事」   (一般)   ・この時世、風呂屋湯女(ユナ)はやり出す。(「見聞集」に、天正の頃の銭湯の事を云ひて後に云ふ、その    頃は風呂不たんれの人あまたありて、あゝあつの湯の雫や、息が詰りて物もいはれず、烟にて目のあか    れぬなどゝ云ひて、小風呂の口に立ちふさがり、ぬるき風呂を好みしが、今は町毎に風呂あり。びた十    五銭二十銭づゝにて入るなり。湯女といひてなまめける女は、二十人、三十人ならび居て、あかをかき    髪をすゝぐ。扨(サテ)又、其の外にようしよくたぐひなく、心ざまいうにやさしき女房ども、湯よ茶よと    いひて持ち来り戯れ、浮世がたりをなす云々とあり。「落穂集」に云ふ、風呂屋江戸所所にあり。朝よ    りわかし晩七時に仕舞ひ、昼のうち風呂に入る人の垢を流し候湯女も、七つ切りに仕舞ひ、夫よりは、    身の支度を調へ、暮れ時に至り候へば、風呂の上り湯を用ひたる格子の間を座敷にかまへ、金の屏風な    どを引廻し、火を燈(トモ)し、件(クダン)の湯女は衣服をあらため、さみせんをならし小歌やうのものを    うたひ、客集めをせしなり。右の風呂や木挽町辺にも一、二軒ありしと云々)〔『増訂武江年表』〕    〈「見聞集」は三浦浄心著『慶長見聞集』(慶長十九年(1614)奥書)。「落穂集」は大道寺友山の著作(享保十三年     (1728)成立)であろうか〉