☆「慶安元年(二月十五日改元)戊子 正月閏」(1648)
(一般)
・五月、男色をむたひに申掛け、若衆狂ひする事を禁ぜらる。此の時何某鹿蔵といへる美少年の事に付き、
騒動に及びし事「昔/\物語」にいへり。男色の事、此の時より止み、寛文の頃にいた又行はれしが、
ことありて止みたるよし同書にいへり(昔の方言に、男色を若道(ニヤクドウ)、衆道(シユドウ)、野道(ヤドウ)
と云ふ。若道、衆道とは若衆の道、野道とは野郎の道と云ふ縮語(ツヅメコトバ)にして、尤も俗言なり。
〔『増訂武江年表』〕
☆「慶安二年 己丑」(1649)
(一般)
・九月、琉球人来聘(正使具志川王子也)。日光山へ参詣す 〔『増訂武江年表』〕
☆「慶安三年 庚寅 十月閏」(1650)
(浮世絵)
・六月二十二日、岩佐又兵衛勝以歿す。行年七十三歳。(又兵衛勝以、又の名は村直、荒木摂津守村重の
子。新五郎村次の男なりといふ説あり。猶慶長元年の條参照すべし)〔『【新撰】浮世絵年表』〕
(一般)
・四月十三日、侠客(オトコダテ)幡随院長兵衛死す(其の伝、人口に膾炙すといへども、紛々として定かなら
ず。墳墓)は今も浅草源空寺にあり。歌舞妓もの年回を弔へり 〔『増訂武江年表』〕
☆「慶安年間記事」
(一般)
・酒戦といふ事行はる。慶安のはじめ大塚の地黄妨樽次、池上の大蛇丸底深などゝ仮名せし大酒の輩、党
を結びて酒を呑みし事あり。其顛末を記したる「水鳥記」といへる冊子あり 〔『増訂武江年表』〕