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浮世絵師総覧寛政元年(天明九年・1789)~十二年(1800)浮世絵年表一覧
 ☆「寛政元年(正月二十五日改元) 己酉 六月閏」(1789)     (浮世絵)   ・七月七日、狂歌并びに浮世絵師恋川春町卒す(通称倉橋寿平、草そうし画作も多くあり、市谷浄覚寺に    葬す)〔『増訂武江年表』〕   (〝七月七日、恋川春町歿す。行年四十六歳。(春町は画を鳥山石燕に学び、俗称倉橋寿平といひ、原来     狂歌師にして狂名を酒上不埒と号し、小石川春日町に住せるを以て、恋川春町とも称し、戯作に工み     にて、安永四年での正月出版の『金銀先生栄花夢』は実に自画作にして、其当時の富川吟雪・鳥居清     経等の画の生硬なる人物に比して、よく柔媚なる容姿を画かるより時好に適し、これより黒本時代と     青本時代の分水嶺を劃出したるは春町の功なりとす。春町も亦偉なりといふべし。春町の死因に就い     ては、十一代家斉将軍の内行を諷刺したる青本仕立の春画『遺精先生夢枕』を著し、為に禍を為して     改易の悲運に至らんとせるを慨し、屠腹して死せりといふの説あり。もとより『鸚鵡返文武二道』な     んども自然禍の因を成せるが如し)〔『【新撰】浮世絵年表』〕     ・正月、勝川春章の『三十六歌仙』       北尾重政の『歴代武将通鑑』出版。   ・三月、北尾政美の『来禽図彙』       蔀関月の挿画に成れる『狂歌つのくみ草』       下河辺拾水の図に成れる『訓蒙図彙大成』出版   ・八月、喜多川歌麿の『狂月妨』出版 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、青本の絶版の命を受けたるもの多く、     一は北尾政美画、恋川春町作の『鸚鵡返文武二道』(前年絶版の命をうけたる『文武二道万石通』の       後編ともいふべきものなり)     一は栄松斎長喜画、唐来三和の作『天下一面鏡梅鉢』     一は北尾政演画、石部琴好『黒白水鏡』     一は大阪出版の草双紙にて怪談物なり。外題は不明なりといふ    以上四部の内、前の二部は『文武二道万石通』と同じく白河楽翁公の政策を愚弄せしものにて、次ぎの    一部は天明年間佐野善左衛門が、老中田沼意知の刃傷に及びしを戯作せしもの、末の一部は奇怪の異説    を綴れるものなり    〈下記『筆禍史』「天下一面鏡梅鉢」「鸚鵡返文武二道」「黒白水鏡」参照〉   ・此頃より世に挿画ある図書最も多く行はるゝに至れり。〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月廿八日、千利休二百年忌なり。数寄者一般に供養の茶会有り、色々面白き趣向多く、一時殊の外盛    なる事なりき 〔『寛政紀聞』〕        ・二月より深川永代寺にて成田不動開帳、参詣多し、奉納物色々あり、古川薬師同時開帳、是の奉納物多    く、参詣群集 〔『きゝのまに/\』〕   ・六月十七日より、目白不動において竹生島弁財天開帳、甚繁昌にて参詣人群集、前代未聞の由。    同じ頃より、武州川口地蔵開帳、是亦大当たり 〔『寛政紀聞』〕   ・七月七日、狂歌師平秩東作卒す(内藤新宿烟艸屋(タバコヤ)金右衛門と云ふ。市谷善慶寺に葬す)〔『増訂武江年表』〕   ・七月二十一日より、市ヶ谷柳町高徳院開帳、大虎之つくり物、高さ十間余、広さ三十間ばかり。是も前    代未聞なり 〔『寛政紀聞』〕   ・十月より始まり、大川筋の外川々御普請、中洲築地取払せられ、翌年に至り元の水面となる    〔筠庭云ふ〕浅草川の洲を浚ひ、隅田川土手普請の土となる。土持人足かよひの為め仮橋かゝる。中洲     取払の時、       屋根舟もやかたも今は御用船ちつゝんは止みつちつんで行く 〔『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・両三年此方、碑文谷法華寺仁王へ参詣多く、断食して籠り宿るものもあり【十余年はやりて後止みたり】    〔『きゝのまに/\』〕   ・永代寺に成田山不動尊開帳あり、奉納物あまたあり、参詣群集す   ・角觝人(スモウトリ)谷風梶之助、小野川喜三郎横綱免許、又九紋龍といへる角力取行はる    〔以上二項『増訂武江年表』〕
     ◯『筆禍史』「天下一面鏡梅鉢」p77   〝唐来三和の著にして、画は栄松斎長喜なり、天明九年即ち寛政元年の出版なるが、是亦前の『文武二道    万石通』と同じく、白河楽翁こと松平定信の文武二道奨励政策を暗に批評したる戯作なりしがため、同    く絶版の命を受けたるなり、其目次にも「上の巻、末白川の浪風も治まりなびく豊年の国民「中の巻、    天下太平を并べ行はるゝ文武の両道「下の巻、月額青き聖代も有り難き日本の風俗」とありて、天満天    神の神徳に擬して褒むるが如くなれども、実は愚弄したる戯作なりしなり〟
   『天下一面鏡梅鉢』 唐来三和作・長喜画(東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)    ◯『筆禍史』「鸚鵡返文武二道」p78   〝恋川春町の著にして、画は北尾政美の筆なり、此黄表紙も亦前に同じく絶版となる、『青本年表』寛政    元年の項に曰く     鸚鵡返文武二道は、前年喜三二の出せる文武二道万石通の後編に擬しての作なれば、所謂文武のお世     話を主題とし、以て怯弱游惰の武士を微塵に罵倒せし痛快の諷刺作なれば、洛陽の紙価を動せし売行     にて、好評嘖々たりしも亦主家(松平丹後守)の圧迫に遭ふのみならず、一身の進退に関係を及ぼさ     む勢なりしに、今秋七月を以て不帰の客となりし云々〟    ◯『筆禍史』「黒白水鏡」p79   〝石部琴好の著にして、画は北尾政演の筆なり、此黄表紙も亦絶版となり、著画者は刑を受けたり、『法    制論簒』に曰く、     寛政元年の春、石部琴好と戯名せし者、『黒白水鏡』と題して、黄表紙と称する草双紙を著し、北尾     政演これを画けり、琴好は本所亀沢町に住せる用達町人松崎仙右衛門といへる者にて、政演は山東京     伝のことなり、然るに此の冊子は天明の始め、麾下の士佐野政言(善左衛門)が当時威勢熾なりし老     中田沼意次を、営中にて刃傷に及びし次第を書綴り、絵を加へたるものなるからに、忽ち絶版を命ぜ     られ、作者琴好は数日手鎖の後、江戸払となり、画工は過料申付けられたりき〟
    『黒白水鏡』 石部琴好作・北尾政演画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     ☆「寛政二年 庚戌」(1790)     (浮世絵)   ・正月、喜多川歌麿の『絵本駿河舞』       勝川春章の『絵本接穂の花』       勝川春潮の『絵本栄家種』       北尾重政の『絵本武将記録』       北尾政美の『絵本武隈松』       寺沢昌次の『絵本武勇大功記』出版。   ・八月、三熊花顛の『近世畸人伝』出版。   ・九月、月岡雪鼎の挿画に成る『女庭訓御所文庫』出版。   ・十月、大阪の浮世絵師流光斎の『画本行潦』出版 〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、幕府より風俗を乱すもの及び政策上に不利なる絵本読本絵草紙等の取締令を発せり。其地本問屋    行事共え申渡書に    「書物の儀、毎々より厳敷申渡候処、いつとなく猥に相成候。何に寄らず行事改候て絵本絵双紙類迄も     風俗の為に不相成猥ヶ間敷等、勿論無用に候。一枚絵類は絵而已に候はゞ大概は不苦。尤も言葉等有     之候はゞ、能々是を改め、如何成る品は板行為致申間敷、右に付、行事改めを不用者も候はゞ早々訴     可出候。又改方不行届、或は改に洩れ候儀候はゞ行事共越度可為候。右の通相心得可申候。尤も享保     年中申渡置候趣も猶又書付にて可相渡候間、此度申渡候儀等相含改め可申候。寛政二戌年十月二十七     日」    とあり。〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・三月九日、画人劉安生卒す(号寿山、麻布曹渓寺に葬す)〔『増訂武江年表』〕   ・三月十一日、下谷稲荷祭祭礼出し練物町々より出、其後絶   ・三月、十軒店雛屋ども御触を守らず、華麗の品を売たる者入牢、後過料仰せ付らる、雛は焼き捨て也    〔以上二項『きゝのまに/\』〕   ・五月、此頃異学制禁。且つ朱子学衰微に付、林大学頭御叱り仰せ付られ、聖堂の取締りを柴野彦助・岡    田清助に仰せ付らる 〔『寛政紀聞』〕   ・八月二十三日、前句付点者川柳卒す(浅草新堀龍宝寺に葬す。川柳は同寺門前の坊正にして柄井八右    衛門といふ。俳諧の一体に俗談を旨として狂句を作る。其の集を「柳樽」と号し、数編を選ぶ。今にそ    の流たえず(以下略))   ・十一月、琉球人来聘(正使宜湾王子)     筠庭云ふ、琉球人江戸着の日見物多く怪我人あり 〔以上二項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・木挽町森田座替りて河原崎と成   ・京より中沢道二云者来りて、心学を云事講談行はる   ・当年、狩野栄川院、命を受て南殿之賢聖之御障子を画く、然る処不成就して八月死去に付、住吉内記代    りて画く、翌年正月献之 〔以上三項『きゝのまに/\』〕   ・永代寺にて京都大仏の内弁才天開帳、この間境内見せ物に壬生狂言を出す。世に行はれて両国に於いて    も見せ物とし、幇間の輩も酒宴の興にこれを学べり(筠庭云ふ、此の時壬生狂言は大いに流行(ハヤ)りて、    両国の見せ物にも真似て是れもはやりしが、弁天の開帳は流行らず)〔『増訂武江年表』〕    ☆「寛政三年 辛亥」(1791)     (浮世絵)   ・三月、山東京伝(北尾政演)其著洒落本『錦の裏』『娼妓絹篩』『仕掛文庫』の三部の表に特に教訓読    本と記せし段不埒なりとて手鎖五十日の刑に処せられ、板元蔦屋重三郎は身上半減闕所に処せられたり。    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕   (〝作者、山東京伝御咎にて、手鎖にて町内預と成、そのころ大かた古き作者うせて此者専ら戯作をなす、    殊に洒落本と唱ふる小冊多く作り、錦の裏仕懸文庫など大いに行はれたり、専ら此御咎也〟)    〔『きゝのまに/\』〕    〈下記『筆禍史』「仕懸文庫、錦の裏、娼妓絹籭」参照〉          ・正月、北尾重政の『絵本福寿草』       北尾政美の『絵本纂怪興』       下河辺拾水の『絵本千代の松』出版   ・五月、大阪の竹原春朝斎の挿画に成る『大和名所図会』出版 〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年浮世絵にあらざれども余夙夜の『五経図彙』、高田円乗の『唐詩選画本』、五七言排律の部出版。    〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)     ・正月下旬、男女入込銭湯を禁ぜらる。   ・六月五日、吹上にて角力上覧延引、十一日に有之、柏戸、九紋竜、陣幕、雷電、谷風、小野川、凡八十    三番 〔以上二項『きゝのまに/\』〕   ・九月十五日、神田御祭礼、だしの外は太神楽、狛(コマ)廻し。子供角力のみなり。此の時の落書     「御祭は目出たいひれの御吸物出し計にてみどころはなし」   ・神田明神祭礼、当年より御雇こま廻し始まり(享和より軽業となり、後文化年中より踊りにかわる)    〔以上二項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・堺町河岸にて、駝鳥を見せ物とす(黒く大なる鳥也、石を食ひ又堅炭に火を起したるを食す)   ・町火消、纏、箔を改め白漆塗となる 〔以上二項『増訂武江年表』〕    ◯『筆禍史』「仕懸文庫、錦の裏、娼妓絹籭」p81   〝明和安永頃より洒落本又は蒟蒻本といへる、遊里遊女遊客等の状態を細写せる小冊物流行し、戯作者山    東京伝(浮世絵師北尾政演)の如きも亦其時弊に投じて著作したるもの少からざりしが、前項所載の取    締令の発布ありしにも拘らず、本年も亦重ねて此三種(各一冊)の蒟蒻本を出版せしががめ、版元蔦屋    重三郎は財産半没収、著者京伝は戯作者界に前例なき手鎖の刑を受けたり、其吟味始末書に曰く       新両替町一丁目家主伝左衛門悴    伝蔵  三十一歳     右之者儀親伝左衛門手前に罷在浮世絵と申習し候絵を認め本屋共へ売渡渡世仕候処、五六年以前より     不計草双紙読本の類作り出し、右本屋共へ相対仕作料取て売渡来候に付、当春も新板の品売出可申と、     去年春頃より追々作り置候仕懸文庫と申す外題の読本其外、錦之裏、娼妓絹籭と申読本、右三部の内     仕懸文庫と申は御当地深川辺料理茶屋にて、遊興致候体を合含并古来より歌舞伎芝居にて狂言仕候曾     我物語の趣向に当地の風俗を古今に準へ書つゞり、錦之裏と申は前々より浄瑠璃本に有之摂津神崎の     夕霧と申遊女、伊左衛門と申町人と相馴染る趣、并に娼妓絹籭の儀は是亦浄瑠璃本に有之候大阪新町     の梅川と申遊女、忠兵衛と申町人に相馴染候趣を御当代新吉原町の体に準へ相綴り、同七月中右三部     共、前々取引仕候草双紙問屋蔦屋重三郎(蔦屋)方へ売遣候、対談にて相渡作料画工共紙一枚に付代     銀一匁づゝの割合にて、三部代百四十六匁、金に直し金二両三分銀十一匁の内、其節為内金金一両銀     五匁請求候処、同十月の町触に(云々中略)申渡有之承知致罷有候上は其以前重三郎方へ渡置候読本     も同人より行事改更へ可仕儀差図候得共、右三部は遊女の放埒の体を書綴り候本に候得ば行事共へ改     為請候に不及、右の段早速重三郎方へ申談じ売買為致間敷儀に候処、重三郎儀は前書町触以前右本の     板木出来致候に付摺取、同十二月廿日草双紙問屋行事共方へ持参り改更候処、売捌候ても不苦候旨差     図致候由にて三部共可売出段、其砌重三郎申聞、右に付当春已以来右本重三郎方より売出候処、此度     呼出有之吟味に相成候旨申候、此者去年中重三郎より受取候作料残金の儀は右三部共当春より重三郎     方にて売捌の売高の多少に寄り代金増減仕、追々受取の積り、兼ての対談に付、右残金は未請取不申     罷在候旨、右の外去年より当年に至り、読本等作出売渡候儀無之、畢竟余分売捌の儀専一心掛候故、     寓言而已を重に致書綴り候儀有之旨申候に付、書物の類の儀前々より厳敷申渡候趣も有之、殊に去年     猶又町触も有之候処、等閑に相心得放埒の読本作出候て重三郎へ売捌きの段、不埒の旨吟味受無申訳     誤入候旨申候間、五十日手鎖申付候       亥三月        初鹿野河内守      〔頭注〕蔦屋重三郎    同人に対する吟味始末書は、京伝と略ぼ同一にして管々しきにより省く、言渡は「身上半減の闕所」と    いへるなり〟
   『仕懸文庫』 『青楼昼之世界錦之裏』 『娼妓絹籭』 山東京伝作・画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ☆「寛政四年 壬子 二月閏」(1792)     (浮世絵)   ・十二月八日、浮世絵師勝川春章卒す(浅草西福寺に葬す。号旭朗井。俳優肖像を画く事上手なり。門人    春好、春英、春常、春山、春徳、春林、春潮、春玉、その余数多あり)〔『増訂武江年表』〕   (〝十二月八日、勝川春章歿す。行年六十七歳(春章は通称勇助、宮川春水の門人にして、初め勝宮川     を称せり。旭朗井・酉爾・六六庵・李林等の号あり。縦画生と署せり。縦画生とは擅画などといへる     意に同じくして、画法に依らむほしいまゝなる画といふ意なり。役者の似顔を画くに工みにして歌川     豊国なんどのはるかに上にあり。北尾重政と友とし善く、共に一部の絵本に画かるあり)〟)    〔『【新撰】浮世絵年表』〕     ・正月、喜多川歌麿の『絵本銀世界』『絵本普賢像』『絵本和歌夷』等出版       窪俊満・堤等琳等の画ける『狂歌桑之弓』       下河辺拾水『忠孝曾我物語』等出版 〔『【新撰】浮世絵年表』〕    〈桑楊庵(つぶり)光の編になる『狂歌桑之弓』の奥付には「雪山堤等琳画/尚左堂窪俊満画」とある。雪山を名乗る     からこの等琳は三代目である〉     〈浮世絵年間〉   ・此年、橘保国歿す。行年七十六歳(守国の男なり)       小松屋百亀歿す。行年八十余歳。(江戸飯田町の薬種屋の主人にして、俗称三右衛門、剃髪して       小松軒百亀と号せり。性絵画を好み、殊に京都の西川祐信の絵を私淑し、春画に工みなり)       〔『【新撰】浮世絵年表』〕     〈一般年間〉   ・護国寺にて、秩父三十四番観世音開帳   ・谷中感応寺(今天王寺)五重塔、明和九年二月二十九日焼けたるを今年再建あり    〔以上二項『増訂武江年表』〕    ☆「寛政五年 癸丑」(1793)     (浮世絵)   ・正月、北尾重政の『唐詩選画本』七言絶句続編、『絵本将門一代記』       岡田玉山の『絵本黄昏草』『絵本太閤広記』       竹原春朝斎の『絵賛常の山』『鳥羽画あくびとめ』等出版   ・三月、勝山琢眼の画ける『榻扇志』出版   ・四月、狩野正栄の画ける『芭蕉翁詞伝』出版 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、耳鳥斎歿せりといふ。(耳鳥斎は大阪の人にして俗称松屋平三郎といひ劇道に通じ、又浄瑠璃を    語るに堪能にして、家産を蕩尽してより骨董商となれり、絵はいはゆる鳥羽絵にして、長谷川光信の流    を汲めるが如し)〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・六月二十一日、築地本願寺再建上棟、見物群集す 〔『増訂武江年表』〕   ・同日、老中松平越中守信、将軍補佐役御免、同家に先例なき少将に任ぜられ、溜詰仰せ付らる。〔『寛政紀聞』〕   ・九月、先達て魯西亜(ロシア)へ漂流して帰朝せし、伊勢白子の船頭幸太夫、磯吉江戸へ来る   ・十月二十五日、湯島松平雲州侯御別館より出火、神田辺本町、石町、堺町、葺屋町芝居、日本橋辺迄類    焼す。〔以上二項『増訂武江年表』〕    ☆「寛政六年 甲寅 十一月閏」(1794)     (浮世絵)   ・正月、北尾政美『絵本武勇一の筆』『女今川小倉文庫』       清線館主人の『絵本世吉の物競』       大阪の浮世絵師流光斎の『絵本花菖蒲』       山東京伝(北尾政演)の『絵兄弟』       柳々居辰斎の画ける『狂歌三十六歌仙』等出版   ・四月、葛飾北斎、叢春朗と号して『狂歌連合女品定』に画き出版せるあり   ・六月、岡田玉山の画ける『住吉名勝図会』出版   ・十二月、北尾政美の『諸職画鑑』出版    十返舎一九の処女作画京伝の作『初役金烏帽子魚』に現はる 〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕    〈「日本古典籍総合目録」は三陀羅奉法師編『狂歌三十六歌仙』を葛飾北斎画とする〉     〈浮世絵年間〉   ・此年、日光廟造営あり、葛飾北斎、狩野融川に随うて絵事に従事せり。幾程も無しくて江戸に帰れり。   ・此年、出羽国最上より十二歳(或はいふ十一歳)にて二十二貫目の体重ある大童山文五郎といへる者出       で錦絵に画かる。角力となりしが、年長じて弱くなれりといふ   ・此年、葛飾北斎、叢春朗と称す 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・三月、川口善光寺如来開帳、参詣群集して川口の渡し船覆り、怪我人多くあり   ・四月二日亥半刻、吉原三十六江戸町二丁目より出火、一廓焼亡(仮宅、田町、聖天町、山の宿、瓦町等    へ出る)   ・四月頃、出羽国より大童山文五郎出づ、十一歳。肥満して二十二貫あり。角力を取りしが年長じて弱く    なれり。   ・十一月四日、篆刻蔵六居士卒す(本所霊山寺に葬す)〔以上三項『増訂武江年表』〕    ☆「寛政七年 乙卯」(1795)     (浮世絵)   ・正月、勝川春章の遺作『絵本松のしらべ』       勝川春常の『百体百人一首吾妻鑑』       北尾重政の『絵本たとへ草』       北尾政美の挿画に成れる『教訓鄙都言種』       歌川豊広の画ける『狂歌三十六歌仙』出版〔『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、鳥文斎栄之の画に成れる青本『怪物つれ/\雑談』、       又二代目春町(行町なり)の画ける青本『万歳諷諸神柱立』あり〟〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・正月九日、谷風梶之助終る(四十六歳、仙台へ葬す。江戸にて贔屓ありし角力取なり)     筠庭云ふ、勝川春英よく谷風、小野川が肖像を書きたり。其の他も多かれども、わきて谷風が肖貌な     らでは、角力らしく思はれぬ程なりき。珍しき力士なりといふべし。〔『増訂武江年表』〕   ・三月三日、小金原にて御鹿狩之有り。〔『きゝのまに/\』〕   ・三月十八日より六十日、浅草観世音開帳、風雷神門再建成りて、三月十日二神を安置す。     筠庭云ふ、雷神門の真中に懸けたる、しん橋と書きたる提燈は、此の時作る。屋根屋三右衛門これが     請負にて屋根を葺きて、桃燈も其の職人等打ちよりて納めしなり(只誠云ふ、風雷神門は明和焼後、     寛政五年より普請にかゝり今年成就す)〔『増訂武江年表』〕     〈屋根屋三右衛門は国学者・北静廬〉    ☆「寛政八年 丙辰」(1796)     (浮世絵)   ・四月十二日、一筆斎文調歿す。行年七十歳。(文調は初ね石川幸元に絵を学び、後石川豊信・鈴木春信          等を私淑し、勝川春章と共に俳優の似顔を画くに妙を得、春章合作の『絵本舞台扇』を画          くに至れり。絵本は多く画かざりしも、細絵の役者似顔絵は春章に匹敵するものゝ如し)   ・四月十二日、狂歌師桑楊庵光歿す 〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕   (〝四月十二日、狂歌師桑楊庵光(ヒカル)卒す(称岸右衛門。駒込瑞泰寺に葬す)〟)〔『増訂武江年表』〕      ・正月、喜多川歌麿の『絵本百千鳥』       慶遊斎歌政(歌政は名古屋の人にして、牧墨僊の初め歌麿の絵を学びし時の号なり。墨僊は名は       信盈、通称新次郎、後登と改め、又助右衛門といへり。別に北僊・百斎・月光亭・北亭・斗岡楼       等の号あり、尾張藩士にして禄五十石を食めり。文雅の士にして初め歌麿を私淑せし時は歌政と       いひ、後葛飾北斎に学ぶに及びて、歌政の号を其門人沼田月斎に譲れり。北斎五十八歳にして名       古屋に入りし時、墨僊が家に客たりといふ。墨僊文政七年、歳五十にして歿せりといへば、今年       は実に二十二歳の青年たり。著書には『一宵話』『真草画苑』『画賛図集』等あり)の画ける俳       句集『常棣』       竹原春朝斎の画ける『和泉名所図絵』       窪俊満・堤等琳等の挿画に成れる『狂歌百さへずり』       岡田玉山の『絵本頼光一代記』等出版。   ・九月、竹原春朝斎・同じく春泉斎・丹羽桃渓・石田友汀・西村中和等の画ける『摂津名所図会』前編四       冊出版。(後編八冊は寛政十年の出版なり)〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、葛飾北斎、百琳宗理と称して『帰化種』を画く   ・此年、清線館主人廬朝の『絵本たのしみくさ』出版 〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月より、谷中感応寺毘沙門天開帳。   ・夏矢口新田明神開帳。〔以上二項『増訂武江年表』〕   ・六月九日、鳥越明神祭礼出し練物出る、其後中絶、此時お駒飴と呼者、奴凧の形に成る大若衆、是を揚    る学びあり(安永五年頃にも評判になる、中略)寛政の此頃は、春さき向島の秋葉の山に遊山多く、水    茶屋に酒食持ち行きて楽めり、彼飴売必ず爰に来て、おどけたることなど云へり 〔『きゝのまに/\』〕   ・六月十五日、画(ママ)家沢田東江卒す(六十五歳。源鱗、一号玉島山人、称文二郎といふ。東本願寺に葬    す)〈沢田東江は書家。『異素六帖』(1757年)の戯作でも知られる〉   ・十一月、琉球人来聘、正使大宜見王子、副使安村親方(柴野彦輔琉球人と筆談贈答あり)    〔以上二項『増訂武江年表』〕   ・十二月十二日、琉球人来朝、上野東照宮へ参詣、道楽を奏す。琉球国王代替わりに付来朝 〔『寛政紀聞』〕      〈一般年間〉   ・当年浅野家義士百年忌に付、泉岳寺春より開帳在り【但九十六年なり】〔『きゝのまに/\』〕    ☆「寛政九年 丁巳 七月閏」(1797)     (浮世絵)   ・六月三日、狂歌師蔦屋重三郎歿す。行年四十八歳。(唐丸は絵本・細見或は軟派書類の書肆蔦屋重三郎    なり。蔦屋の為に当時の戯作者浮世絵師殊に山東京伝・喜多川歌麿等の庇護せられ其驥足を延ばし得た    るは世の知るところなり。唐丸没後と雖も、一かどの書肆なりしが、唐丸生前よりは振はざりしが如し。    山谷の正法寺に葬る)   ・八月、北尾政美の『鳥獣略画式』出版   ・十月二十日、大阪の浮世絵師蔀関月歿す。行年五十一歳。(関月は大阪の人にして初め月岡丹下に学び    たるも後浮世絵を画かずして終れり。通称原二、名は徳基、字は子温、中江藍江は実に関月の門より出    でしといふ)〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     ・正月、歌麿の『絵本天の川』『絵本譬喩節』       北斎・重政・堤等琳の画ける『狂歌柳の糸』       緑毛斎栄保の画ける『集外三十六歌仙』       梨本祐為の画ける『職人尽発句合』       鳥居清長・勝川春潮・同春好・同春英・歌川豊国等の挿画に成れる『美満寿組入』       二柳斎吉信の『ころばぬ先の図会』等出版   ・五月、蔀関月の画ける『伊勢参宮名所図会』出版   ・十一月、北尾政美・竹原春泉斎・其他浮世絵師にあらぬ、石田友汀・西村中和・原在正・山口素絢・田    中訥言・円山応挙・同応受・月渓・奥文鳴・土佐光貞・佐久間艸偃・下河辺維恵・狩野永俊・大雅堂余    夙夜の挿画に成れる『東海道名所図会』出版 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    〈大雅堂余夙夜は二世大雅堂・青木夙夜〉     〈浮世絵年間〉     (一般)   ・春、三田魚籃観世音開帳   ・相州江の島弁才天開帳、江戸より詣人多し   ・四月二十七日、画人三輪花信斎卒す(名は在栄、猿を写す事殊に上手なり。川崎の平間寺にも猿を画き    し額ありしが今は見えず。四谷勝興寺に葬す)   ・猿江泉養寺庭中の蓮花、牡丹芍薬に肖(ニ)て咲く。見物群集せり〟   ・六月三日、狂歌師并びに戯作者蔦の唐丸卒す(蔦屋重三郎と云ふ絵草紙やなり。山谷正法寺に葬す)〟   ・橘の異品を弄ぶ事流行(「橘品并びに橘品類考」等京にて梓行す)〔以上六項『増訂武江年表』〕   ・十一月、顔見世より堺町都伝内名代中村勘三郎に改、河原崎権之助、森田勘弥に成、森田座は翌年入替    り役者付いづる 正月十日 〔『きゝのまに/\』〕   ・十二月晦日、江戸の中田屋(煙草入れ等商う)、銀細工所持の廉で、町奉行より手鎖。品物没収の上、    罰金を科される。麹町辺下谷の大槌屋、本町丸角同断 〔『寛政紀聞』〕     〈一般年間〉   ・両国橋懸る。   ・鉢植のマンリヤウ立花異品を翫ぶ事流行【其品種々、実は黄のみ、白き葉には、ちりめん、シユス、烏    頭、イサ葉も色々】〔以上二項『きゝのまに/\』〕    ☆「寛政十年 戊午」(1798)     (浮世絵)   ・正月、北尾重政の画ける『四季交加』       北尾政美の『絵本大江山』       下河辺拾水速水春暁斎の画ける『絵本諸人道しるべ』       石燕門人恋川春町の画ける『画本賛獣録禽』出版    仙台の蠖斎社中の画ける『優游一奇』出版 〔『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、歌麿の口画にて式亭三馬の作になれる洒落本『辰巳婦言』幕府より絶版の命を受けたり    〔『【新撰】浮世絵年表』〕〈下記『筆禍史』「辰巳婦言」参照〉     (一般)   ・二月末より、品川海晏寺山内銀杏の大木を中にこめて、色々の桐油紙を覆ひ、盧遮那仏の像を作りて観    せ物とす【白毫は大銅だらひ、螺髪は蜜柑籠をならべ、指爪はすげ笠なり、合羽細工なれば雨にぬるゝ    もいとはず、大さ知るべし】。〔『きゝのまに/\』〕   ・二月、町奉行、神田下町辺の女芸者十人召し捕り吟味、いずれも遊女がましき所行有りとして、皆吉原    へ下す 〔『寛政紀聞』〕    ・戯作者芝全交、合羽大仏略縁起を作りて印行す、全交は山本藤十郎と云能狂言師なり、戯作に長じ、流    行たる作多し、喜三二春町に続きて、京伝らより先輩也、此縁起抱腹すべきもの也、此人芝瓦器町に住    せり、享和のはじめ身まかる、扨この見せ物大いに評判有て貴賤群集したり、開帳は寺の本尊にや、忘    れたり、此大仏海上よりも見えて、深川州先より遠目鏡にて見せたり。〔『きゝのまに/\』〕   ・四月、根津権現境内にて弁財天開帳、是は元来吹上御園中に鎮座の由。参詣人夥しく群集せり。米屋仲    間、商売道具を以て長さ数十間の大蛇(山より池へ下る姿)を拵える 〔『寛政紀聞』〕   ・五月朔日、品川沖より鯨上る。長さ九間一尺高さ一丈余あり(此頃何れの寺の本尊にや、高輪如来寺に    開帳ありし時、境内山の上に笊籠を以て大仏の像を造り、桐油にて包みたり。海上より遙かに見えたり    とぞ)     筠庭云ふ、此の作り物のしるし様わろし。品川海晏寺本尊開帳なり。銀杏の木を中にこめ、桐油合羽     (カツパ)もて盧舎那仏を作る。らほつは蜜柑籠、白毫は銅だらひ、指の爪はすげ笠にて有りしと覚ゆ。     「合羽大仏略縁起」を芝全交作れり。捧腹すべき文なり。其の頃深川州崎弁天境内にて、遠目鏡にて     此の造り物を見せたるは、目がねの中にも作りものありしなるべし。鯨は品川漁師其の沖にて突留め     たり。背通り長さ九間一尺、高さ六尺八寸、色は青く黒かりしが、次第に黒くなれり 〔『増訂武江年表』〕   ・十一月十二日、新大橋向ひ深川富橋町に敵討あり。南塗師町権三郎店、山崎彦作後家みき(四十一)、    同人娘はる(十七)外一人深川森下町吉兵衛店手跡指南平井仙柳(二十六)、敵は寄合神保左京家来崎    山平内(三十一)    〈『きゝのまに/\』『寛政紀聞』に詳細記事あり。共に負傷して敵討ち果たさずとある〉   ・十一月、桐長桐へ暫く譲っていた市村座、当年再興、霜月朔日より顔見世狂言始まる。旧三座に復す    〔『寛政紀聞』〕   ・十二月十二日、狂歌師朱楽菅江卒す(六十一歳。称山崎郷介、牛込二十騎町に住す。青山青源寺に葬す      辞世 執心の心や娑婆に残るらん吉野の桜更科の月 〔以上二項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・此頃、夜々大ふく餅といふ物を拵へ売歩行き、世間甚流行也。籠の内へ火鉢を入れ焼き鍋をかけ、其上    に餅をならべ、むしやきにせし物にて至てあたゝか故、冬の夜の寒さの折はうけの宜敷餅なり。    〔『寛政紀聞』〕    ◯『筆禍史』「辰巳婦言」p91   〝式亭三馬の著にして、関東米の序、馬笑の跋、喜多川歌麿筆の口絵普賢像あり、小本一冊にして、「石    場妓談」と標せり、石場とは江戸深川の花街七場所の一なり、其地に於ける妓女の痴態を写せるものに    して、所謂蒟蒻本なり、此書亦風教に害ありとして絶版の命を受けたりといふ、されど著者には何等の    累を及ぼさゞりしが如し〟
   『辰巳婦言』口絵 歌麿筆(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ☆「寛政十一年 己未 四月閏」(1799)     (浮世絵)   ・正月、北斎の『江戸勝景東遊』       歌麿・豊国・国政三人の手に成れる『俳優楽室通』       蔀関月の遺作『山海名産図会』       国政・春好・春英・俵屋宗理の挿画ある『今日歌白猿一首』出版   ・五月、西村中和・佐久間草偃・奥文鳴等の画に成る『都林泉名勝図会』出版   ・十月、北尾政美の『人物略画式』出版   ・十二月、北斎・秀成等の画に成れる『こずゑのゆき』出版 〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕   ・二月十七日より始まりし三囲稲荷の開帳、北斎、提灯絵、狂歌・俳諧連中の額に作画、殊に「婦人の雷    に驚きしに蚊帳を釣りし体至ておかしく、また見殊なり」という 〔『寛政紀聞』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、町奉行よりの一枚絵板木に付いての布令に    「華美なる一枚絵、ならびに大小(大小とは柱暦を云ふ)を翫びに拵候板行、右の品板木雕刻候者共に     て誰より誂候哉承り糾し為届奉行所にて一覧の上華美に候歟、又は如何は敷風俗に候はゞ雕刻為致申     間敷候」    とあり。   ・此年、葛飾北斎、宗理の称を門人に譲り更に北斎辰政と号す 〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月十五日より、三囲稲荷開帳(奉納造り物品々あり、日本橋白木屋より、天鵞絨(ビロウド)にて張りた    る牛、黒木売の木偶(ニンギヨウ)を収む。開帳の飾物に美をつくすの始なり。参詣人群集することおびただ    し)。〔『増訂武江年表』〕    同開帳、向島土手通りに六百張の奉納提灯・竹林に雌雄の虎の造り物・糸細工の白狐二匹・御所車・花    万度・北斎画の極彩色提灯絵と狂歌、俳諧連の奉納額・吉原松葉屋の奉納蒔絵額等大評判    〈『寛政紀聞』にも詳細記事あり〉   (〝大川橋往来多く、三月十五日には渡銭三十八貫文之在り、十六日には二十貫余と云、武蔵屋は金二十     六両ありしとぞ〟〔『きゝのまに/\』〕    〈武蔵屋は三囲稲荷に近い向島牛島の料亭、鯉料理が有名〉   ・当夏江戸は桃の実多く出来て、価殊の外下直也、翌年は実少かりしが大さ今年に倍せり    〔『きゝのまに/\』〕   ・五月六日、歌舞妓役者市川団十郎病死   ・同十八日、四ッ谷天王祭礼、近年になく華美の由。緋縮緬・もみちゞみ・絽すきやの類の衣裳。煉り屋    台は美麗を尽くす。ビロウドは咎められる   ・六月十五日より、暫く中止していた赤坂氷川祭礼復興。〔以上三項『寛政紀聞』〕     〈一般年間〉   ・聖堂御再建境地広がる   ・谷原村長命寺山内ユツリハの木の瘤、人面に似たりとて見物人出【ユツリハは交譲木と云とぞ、もとよ    り樹に瘤多者なり、奇なるにあらず】〔以上二項『きゝのまに/\』〕    ◯『筆禍史』「侠太平記向鉢巻」p92    〝式亭三馬(菊池太輔)の著にして、画は北尾重政の筆なり、黄表紙三冊物、此書は絶版なりしにあらざ    れども、御用火消組の者を誹謗したるがため、騒擾を起したりとて、著者三馬は手鎖の刑を受けしなり、    『青本年表』に曰く     寛政十一年正月五日、式亭三馬並西村新六の二家、よ組鳶人足の為めに破壊せられ、遂に公事となり、     後ち人足数名は入牢し、新六は過料、作者は手鎖五十日に処せらる、其起因は客歳鳶人足間に闘争の     事実ありしに基づき、今春『侠太平記向鉢巻』の作を出せしに、其書中によ組の鳶を誹謗せし点あり     しとて、此騒擾を惹起せしなり、然れども三馬はこれが為めに其の名を高めしとなり〟     〈宮武外骨は『侠太平記向鉢巻』の画工を北尾重政とするが、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は初代豊      国画とする〉
   『侠太平記向鉢巻』 式亭三馬作・歌川豊国画〔『筆禍史』所収〕    ☆「寛政十二年 庚申」(1800)     (浮世絵)   ・正月、北尾政美の『山水略画式』『絵本太平記』       北斎の『東都勝景一覧』       歌川豊国の画ける狂歌書『若紫』。同じく豊国が画ける『戯子名所図会』       十偏舎一九の画作『夷曲東日記』       蹄斎北馬の画ける『狂歌花鳥集』等出版   ・七月、名古屋の月光亭歌政の画ける『願廼糸』       大阪の流光斎如圭の画ける『役者百人一衆化粧鏡』出版   ・十二月、大阪の浮世絵師松好斎半兵衛の画ける『戯場楽屋図会』出版 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、大阪の浮世絵師竹原春朝斎歿す。(春朝斎は春泉斎の父にして名を信繁といひ、本姓松本氏、通       称竹原門次といふ。大岡春卜の門人なりといふ説あるも、月岡雪鼎に私淑せるものゝ如く、当時       出版の名所図会に多く画き、亦近路行者の読本の挿画は多く春朝斎の画けるところなり)   ・此年、魚屋北渓の口画にて塩屋色主作なる洒落本『南門鼠』絶版を命を受く    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕   ・「浮世絵類考」成る、写本一巻(山東京伝著。笹や「邦教追考」をあらはす。又式亭三馬書入の本有り、    近頃渓斎英泉増補して三巻とす。抑(ソモソモ)浮世絵は大津又兵衛、英一蝶、宮川長春等を始祖とし、江戸    に名人多し。又天明寛政の頃より劂人(ホリニン)刷人(スリニン)の上手出て巧を尽し、次第に美麗の物出来て、    方物の第一となれり。諸国にまねぶ物あれど及ばず。     筠云ふ、「浮世絵類考」はもと杏花園の輯録にて、又浮世絵始系といふものは、本銀町縫箔屋新七が     しるせるなり。それを附録にして、杏花園が跋を書けるは庚申の中夏とあり。山東京伝その追考を書     きたるは、享和二年壬戌十月なり。「浮世絵類考追考」といへり)〔『増訂武江年表』〕    〈斎藤月岑は「浮世絵類考」の著者を山東京伝としているが、喜多村筠庭の補注にあるように杏花園、即ち大田南畝が     正しい。南畝は、寛政十二年五月晦日、笹屋邦教の『古今大和絵浮世絵始系』を写して自分の『浮世絵類考』に補綴     した。さらに、享和二年(1802)十月には、山東京伝の『浮世絵類考追考』を写して一本化している。筠庭はこの経緯     を把握していたが、月岑は来歴をしらなかったようで、自らの『増補浮世絵類考』の天保十五年の序にもやはり「浮     世絵類考」の編者を笹屋邦教・山東京伝としている。本HP「浮世絵類考」「増補浮世絵類考」の項参照〉     (一般)   ・二月二十三日、亥半刻、田圃龍泉寺町より出火、吉原京町に飛び、廓中焼亡(仮宅、田町、聖天町、山    之宿、瓦町、新鳥越、山谷町、横山町)   ・七月朔日より、護国寺にて秩父三十四番観世音開帳   ・十月九日、奥州仙台の者徳力貫蔵(二十八歳)、浅草御蔵前片町にて敵討ちあり   ・十月二十五日、画家佐久間東仙卒す(茂之。本所法恩寺に葬す)〔以上四項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・銀座常是、銀座町より蛎殻町へ移る。   ・当年庚申六十一年目にて、富士山へ女人登山を許す 〔以上二項『増訂武江年表』〕    ☆「寛政年間記事」     (浮世絵)   ・画家 高嵩谷、谷文晁、董九如、長谷川雪嶺、鈴木芙蓉、森蘭斎。   ・浮世絵師 鳥文斎栄之、勝川春好、同春英(九得斎)、東洲斎写楽、喜多川哥麿、北尾重政、同政演    (京伝)、同政美(蕙斎)、窪俊満(尚左堂と号す、狂歌師なり)、葛飾北斎(狂歌の摺物読本等多く     画きて行はる)、歌舞伎堂艶鏡、栄松斎長喜、蘭徳斎春童、田中益信、古川三蝶、堤等琳、金長。     筠庭云ふ、(中略)狂歌には三陀羅法師、浅草庵市人、二世桑楊庵干則又多し。俊満は只職人をよく     つかひて、誂への摺物を請取りて巧者に注文したるものなり。政演も画は自分には其の志あるまでに     て、書くことはならず。大方代筆をたのめり。俊満は左手にて手は達者にかきたり。よきにはあらず。     北斎は画風癖あれども、其の徒のつはものなり。政美は薙髪して、狩野の姓を受けて紹真と名乗る。     これは彼等が窩崛を出て一風をなす、上手とすべし。語りて云ふ、北斎はとかく人の真似をなす、何     でも己が始めたるものなしといへり。是れは「略画式」を蕙斎が著して後、北斎漫画をかき、又紹真     が江戸一覧図を著して工夫せしかば、東海道一覧の図を錦絵にしたりしなどいへるなり    すべて狂歌或ひは名弘(ナヒロメ)の摺物に、劂工刷工の巧を尽し花麗を極むる事、此の時代より盛なり。   ・浅草随身門前の茶店難波屋のおきた、薬研堀の高島おひさ、芝神明前同菊本のおはん、この三人美女の    聞え有りて、陰晴をいとはず、此の店に憩ふ人引きもきらず(筠庭云ふ、随身門前は見物の人こみ合ひ    て、年の市の群集に似たり、おきたが茶屋の前には水をまきたり。両国のおひさが前は左程にはなかり    き。此のおひさは米沢町ほうとる円の横町に煎餅屋今もあり、その家の婦にてありし    〈下記『きゝのまに/\』記事参照〕〉   ・児輩の玩ぶ切組燈籠絵は上方下りの物なり。夫故始めは京の生洲(イケス)、大坂の天満祭の図様を重板せ    り。寛政享和の頃、蕙斎政美多く画き、又北斎も続いて画けり。文化にいたりて哥川国長、豊久、此の    伎に工風をこらし数多く画き出せり。其の梓今にありて年々摺出せり(筠庭云ふ、浮世絵なども北斎    蕙斎の二の舞なり)〔以上四項『増訂武江年表』〕     (一般)   ・狂歌師 唐衣橘洲、尚左堂俊満(又浮世絵をよくす)、狂歌堂真顔、六樹園飯盛、蜀山人、芍薬亭長根    〈蜀山人は四方赤良(大田南畝)だが、蜀山は享和元年からの使用である。また南畝は寛政年間、狂歌界とは疎遠にな     っていたので、そもそも載っていること自体奇妙である。何かとやかましい喜多村筠庭の補注がないのも不思議だ〉   ・鞘絵の戯れ行はる   ・いつの頃より始まりしか、西が原に湯島の牡丹屋太右衛門の別荘ありて、花壇に紅白の牡丹英(エイ)をあ    らさふ。盛りの頃貴賤群集せり(文化の始めに絶えたり)〟   ・酒楼に於いて書画会を催す事此の頃始まる(近頃印行の「名家書画談」に、書画会は寛政の頃、鎌倉の    僧雲熙といふものより始まりしよしいへり)   ・寛政十一年春より、王子村料理屋海老や扇屋見せ開きあり    〔以上五項『増訂武江年表』〕    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥73(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝此頃水茶屋女容色高かりしは、浅草随身門難波屋おきた、両国橋高島やお久、神明前菊本やおはん、此    三人殊に勝れて聞へ、錦絵色々出たり、昔の笠森おせんは知らず、浅草に通行に両国も通りしかど、高    島はさのみならねど、難波やは夥しき見物にて、門前往来成難し、店前水を洒ぎてよりがたきもいとは    ず、或は用水桶縁に上りなどして覗くけしからぬ事也き、こゝは観音参詣の往還の故なるべし、高島は    薬研堀不動の脇なる煎餅(ママ)それが家也、今に在、其他は知らず、中村鬼治が拍子舞と云狂言唄、今も    唄ふ、此茶屋女、家名其文句に出たり〟