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浮世絵師総覧寛文元年(万治四年・1661)~十二年(1672)浮世絵年表一覧
   ☆「寛文元年(四月二十五日改元)辛丑 八月閏」(1661)   〈浮世絵年間〉   ・此年、雛屋立圃の『十帖源氏』十冊出版。挿画も立圃の筆なり 〔『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「寛文二年 壬寅」(1662)   (浮世絵)   ・正月、菱川師宣の画とおもはるゝ『案内者』六冊       又曾我自休の作『為愚癡物語』八冊、又『親子物語』二冊等出版   ・三月、師宣の画の『水鳥記』三冊出版   ・七月、吉田半兵衛画とおもはるゝ『狂言記』五冊出版 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「寛文三年 癸卯」(1663)   (浮世絵)    ・三月『楊貴妃物語』三冊出版、蓋し丹緑本なり   ・五月、菱川師宣風の挿画にて『曾我物語』十二冊出版 〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「寛文四年 甲辰 五月閏」(1664)   (浮世絵)   ・十一月、師宣の挿画にて『義経記』八冊出版   ・十二月、師宣の挿画にて『大和孝経』六冊、『ぶんしやうのさうし』二冊出版    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈一般年間〉   ・けんどん蕎麦切り始まる(価八孔づゝと云ふ)   ・市村竹之丞、玉川主膳等座元にて芝居興行し、続狂言引幕大道具立等はじまる    〔以上二項『増訂武江年表』〕    ☆「寛文五年 乙巳」(1665)   〈一般年間〉   ・「諸家深秘録」の要を摘みて云ふ、江戸木挽町に大和慶庵といふ医あり。又同町に伊達三郎兵衛、長谷    川助右衛門といふ浪人、彼の慶庵に入魂し、人々の出入或ひは公事訴訟、男女の媒酌等の肝煎して、謝    物を受けるが、或る諸侯の息女縁辺の事に付き、偽りをかまへよからぬたくみをなせしかば、其の事露    顕して寛文五年八月追放せらる。其の頃よりして謀計をなす人を慶庵といひけると云々    〔『増訂武江年表』〕    ☆「寛文六年 丙午」(1666)   〈一般年間〉   ・中村勘三郎が芝居にて総踊りをはじむ(其の図「芝居年代記」等の草紙に見えたり)    〔『増訂武江年表』〕    ☆「寛文七年 丁未 二月閏」(1667)   〈浮世絵年間〉    ・師宣の絵入本にて『吉原讃嘲記』は此年の刊行なるが、其の月をしらず 〔『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「寛文八年 戊申」(1668)   〈浮世絵年間〉   ・此年、師宣風の絵入本にて『身のかゞみ』三冊あり 〔『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「寛文九年 己酉」(1669)   (浮世絵)   ・九月三十日、雛屋立圃歿す。行年七十一歳なり。(立圃、姓は野々口、名は親重、通称紅屋庄右右衛門、    一に市兵衛、又次郎左衛門・宗左衛門等の数称あり。号は立圃の外に松翁ともいへり。もと丹波の人に    して京に出でて雛人形を商うて生業とせり。天性多能の人にして、書を能くし、画を善くし、連俳・和    歌・国文等を善くせざるなく、生業として人形を商ふ傍ら、自ら書し自ら画きて奈良絵本の如き極彩色    の絵入本を調製して鬻げるものゝ如く、此頃の絵入本に立圃の自筆自画の冊子は今に至りても稀に観る    ところなり)〔『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「寛文十年 甲戌 十月閏」(1670)   (浮世絵)   ・正月、雛屋立圃の遺著『幼源氏』十冊出版。版元は八尾勘兵衛なり。又林市三郎版にて『判官みやこば    なし』五冊あり 〔『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「寛文十一年 辛亥」(1671)     (一般)   ・七月、琉球人来る(正使金武王子、日光山へ参詣す)〔『増訂武江年表』〕    ☆「寛文十二年 壬子 六月閏」(1672)   (浮世絵)   ・師宣五十五歳、此年正月、師宣の挿絵にて『武家百人一首』出版。絵師菱川吉兵衛と署名せり。(此以    前にも師宣の絵入本数多あれども、署名のあるものは此武家百人一首を以て嚆矢とせるが如し)   ・四月、雛屋立圃の『幼源氏』を江戸にて再版して挿画は師宣なるが如し    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月二日、牛込浄るり坂敵討あり(奥平源八といふもの党をかたらい、親のかたき同姓隼人(ハヤト)一類    を討ち遠流に処せらる、此のこと「江戸名所記」「むらさきのひともと」にあり。その頃の狂歌に「か    たれきこ浄るり坂のかたき討ちさても其の後流されにけり」延宝六年二月に至り一統御赦免有り)    〔『増訂武江年表』〕  ☆「寛文年間記事」   (一般)   ・この頃、侠客(オトコダテ)の額を抜上ぐる事行はれしなり。浪花の宗因江戸に来りし時、深見十左衛門が額    を見て、「名月や来て見よかし額ぎは」、是れ広く抜上げたるゆへなり。唐犬権兵衛が額づきより出で    たり。但し権兵衛は承応のころにて少し古し(小仏小兵衛といへるも此のころの男伊達(オトコダテ)なり)     筠庭云ふ、此の句「洞房語園」に見えたり。其の文の書きやう深見十左衛門が発句と思はる    〔『増訂武江年表』〕〈所謂「唐犬額」の流行記事である〉