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浮世絵師総覧嘉永元年(弘化五年・1848)~六年(1853)浮世絵年表一覧
 ☆「嘉永元年(二月二十八日改元)(弘化五年)戊申」(1848)   (浮世絵)   ・七月二十二日、池田英泉歿す。行年五十七歳。(姓は池田、渓斎と号し名は義信。通称善次郎、又一華           庵可候と号して戯作をものし、無名庵と号しては教訓物或は随筆殊に無名庵随筆は古来           より当時に至る間の浮世絵師の略伝なり)   ・十一月六日、曲亭馬琴歿す。行年八十二歳〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕      正月、葛飾北斎の『絵本彩色通』二冊出版    七月、一立斎広重の『艸筆画譜』出版    十一月、葛飾戴斗の『花鳥画伝』出版 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕      (一般)   ・今年の大小、章の字を以て諳記す。運筆の順により縦を小とし、横を大とす   ・二月六日より晴天十五日の間、筋違橋御門外加賀原に於いて、宝生太夫勧進能興行あり。五月十三日に    終る。興行の日毎に遠近の貴賤輻輳して、錐を立つるの所なし   ・二月二十九日、喜多静廬卒す(八十四歳、名慎言、称三左衛門、号梅園。西久保天徳寺中教受院に葬す。    内外の書籍に渉りし人なり)     筠庭云ふ、姓は北なり。喜多にはあらず。北静廬はもと樽三などの如き料理屋なり。家名住所も聞き     しかど忘れたり。屋根屋が聟となり、茶屋は滅したり木阿弥が社中にて狂歌師なり。網破損針金(アミハ     ソンハリガネ)と云へり。一度古本のせどりと云ふものになりしとか、書籍の表題よく覚えたる人なり。性     質風雅なく、祭礼などの繁華なるを見る事を好めり   ・六月二十五日より八十日、回向院にて、嵯峨釈迦如来開帳(今年の開帳参詣例年よりは少し。境内唐人    踊り、奉書渡り抔とて色々の見せもの出たり)   ・八月(二十六日)浮世絵師英泉終る   ・十一月六日、曲亭馬琴卒す(八十二歳、名解、号蓑笠、玄同、著作堂等の数号あり。始め滝沢清右衛門    と云ひ、薙髪して篁民といふ。著作の事は世の人普(アマネ)く知る所也。天保中明を失ひて後も猶著作少    なからず。小石川茗荷谷深光寺に葬す。著作堂隠誉蓑笠居士と号す。     辞世 世の中の役をのがれてもとのまゝかへすぞ雨と土の人形     筠庭云ふ、曲亭は京伝と一双に称せらる。されど京伝は漢文字よめず、読本と云ふものは曲亭に及ば     ず。唯京伝は和らかに、曲亭は癖説をかざる。もと京伝が深川に居りし時、馬琴いまだ著作したる事     なかりしが、京伝がもとに行きて弟子たらん事を好む。其の頃馬琴口糊もならねば、京伝口を入れて     絵双紙屋蔦屋が店に遣はしたり。馬琴俄に十露盤習ひて、其の店の番頭を勤めたりと、京伝が話なり     〔以上六項『増訂武江年表』〕      〈一般年間〉   ・六阿弥陀残らず開帳   ・湯島の宮芝居休にて両国橋東にて興行す、又人形芝居も同所にて、人形遣ひ国五郎が出て、何れも見物    群〔以上二項『きゝのまに/\』〕    ◯『事々録』〔未刊随筆〕(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (「弘化五年(1848)(嘉永元年)」記事)   ◇義士開帳 ⑥356   〝自三月高輪泉岳寺霊仏開帳始ル、義士の開帳の如し、悉く四十八士像を営ム、是を如霊宝して終に止ら    る〟     ◇錦絵欲 ⑥356   〝錦絵欲といふ獣名つけ、杭につなぐ、此絵、先年土蜘蛛の絵、水野州、矢部駿河等の事をひゆせしにな    ぞらへ、当時青山野州をかたどるといつて多く売たり〟    〈天保十四年刊行の国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」は、この『事々録』を書き留めている幕臣の目には、水野越前守     忠邦とそれに対立して憤死を余儀なくされた矢部駿河守等の事を譬喩的に画いたものとして、捉えられていたのであ     る。国芳は、そのような想像も可能なように自覚的して画いていることは明白である。さて、この弘化五年の「錦絵     欲」という名の獣とされる青山野州は、老中青山下野守忠良であろう。ただ、なぜ「錦絵欲」という獣と見なされ、     しかも杭につながているのかがよく分からない〉     ◇富士牧狩りの絵 ⑥362   〝来酉年御鹿狩被仰出、雑司谷鼠山にて諸御番方ならし日々也、此頃錦絵に頼朝の富士牧狩の絵として、    御鹿狩の始末を書くもよふには掛りの重き御役人の印を形どりたるを画かきたり、衆人是を競ふて買ふ、    されど彼の四天王に偽(ママ)したる絵は其重き役官の可否を論ずるに似たれば罪せらるゝに至る、今度は    只御行粧を偽(ママ)したる也、彼の一枚摺も現に日光御参詣行列附とて売るゆへに咎もなし、此牧狩に偽    (ママ)して御行粧うつしたるは咎るに至るまじくや、板元はさにあらず、一端売出したらん時は罰せられ    んに絶板に及びて、人の忍びて買に高価にて売れり、四天王の錦摺、是をもて徳つきたれば今度も一端    の罰をうけて後、ひそかに売て利を得んとせしが、さはなく咎られず、兼ての工みには相違しけれど多    く売て大利にはいたりしとか〟    〈この「頼朝の富士牧狩の絵」とあるのは、王蘭斎貞秀画「富士の裾野巻狩之図」である。錦絵の方は『藤岡屋日記      第三巻』の貞秀画「富士の裾野巻狩之図」を参照のこと。「彼の四天王~」とは、天保十四年刊、一勇斎国芳画「源     頼光館土蜘作妖怪図」である。こちらは「其重き役官の可否を論ずる」、つまり高官の善し悪しを論ずることになっ     たために咎められ、この「頼朝の富士牧狩の絵」の方は、ただ「御行粧(旅装束)」を写しただけだから、やはり一     枚摺で出た「日光御参詣行列附」と同様、罰せられることはなかったという。しかし、板元の方の目論見は違ってい     る。板元にしてみれば、むしろ一端罰をうけて、密かに売った方が大もうけできるというのだ。咎められた方が過料     を払ってもなお利益があがるというのであろう。危険と高利とが隣り合わせになっていたのである〉    ◯『藤岡屋日記 第三巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇国芳画「亀奇妙々」p246   〝当申四月出板、南油町野村屋徳兵衛板元にて、亀々妙々亀の遊びとて、亀子を役者の似顔に致す候処、    三枚続六十文売にて、凡千通り三千枚程摺込配り候処、百五十通り、四百五十枚計売、跡は一向売れず、    残り候故無是非佐柄木町の天徳寺屋へなげしとなり。       是ハ近年所々造菊大評判ニて、番附も能売れ候ニ付、去年は所々にて板元多くなり、番付一向売       れず、残らず天徳寺ニ致せしとの咄を聞と、右亀之子の板元も天徳寺へ葬りしならん。          工夫して徳兵衛取らふと思ひしに                亀々妙々に売れず損兵衛〟
   「亀奇妙々」一勇斎国芳画(ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)     ◇貞秀画「富士の裾野巻狩之図」p245   〝 嘉永元申年九月出板     右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図 三枚続之絵出板之事    抑建久四年、右大将頼朝卿富士之牧狩は、日本三大壮(挙脱カ)と世に云伝へ、其後代々の大将軍御狩有    し処ニ、御当代に至りては近き小金が原にて御鹿狩有之候処、来酉の年御鹿狩仰出され、去年中より広    き原中に大き成山二つ築立、此所へ御床机を居させ給ひ、三十里四方の猪鹿を追込せ、右の山より見お    ろし上覧有之との評判也、右ニ付、御鹿狩まがい、頼朝卿富士の牧狩之図三枚続き、馬喰町二丁目久助    店絵双紙渡世山口藤兵衛板元にて、画師貞秀ニて、右懸り名主村田佐兵衛へ改割印願候処、早速相済出    板致し、凡五千枚通も摺込、九月廿四日より江戸中を配り候処ニ、全く小金の図ニて富士山を遠く書て    筑波山と見せ、男躰女躰の形を少々ぎざ/\と付、又咄しの通りの原中に新しき出来山を築立、其ぐる    りに竹矢来を結廻し、猪鹿のたぐひを中ぇ追込ミ、右山の上に仮家を建て、此所より上覧之図、三枚続    ニて七十二文に売出し候処、大当り大評判なり。然ルニ古来より富士の牧(巻)狩之図ニは、仁田四郎が    猛獣を仕留し処を正面ニ出し、脇に頼朝卿馬上ニて、口取ニ御所の五郎丸が大長刀を小脇ニかい込、赤    き頬がまへにてつゝ立居ざれバ、子供迄も是を富士の牧狩といわず、是ハいか程の名画にても向島の景    色と(を)書に、三めぐりの鳥居のあたまがなけれバ、諸人是を向島の景なりといわざるが如し。然ルニ    頼光の土蜘蛛の怪も、一つ眼の秀(禿)が茶を持出ると見越入道ハ御定りの画也、然ルを先年国芳が趣向    にて百鬼夜行を書出して大評判を取、いやが上にも欲にハ留どもなき故に、とゞのつまりハ高橋も高見    ニて見物とは行ずしてからき目に逢ひ、これ当世せちがらき世の人気ニて、兎角ニむつかしかろと思ふ    物でなければ売れぬ代世界、右之画の脇に正銘の富士の牧狩ニて、仁田の四郎猛獣なげ出せし極く勢ひ    のよき絵がつるして有ても、これは一向うれず、これ    (歌詞)二たんより三だんのよきが、一たんに勝利を得、外の問屋ハ四たんだ踏でくやしがるといへど     も、五だん故に割印いでず、山口にて六だんめにしゝ打たむくいも成らず、七の段の様に六ヶ敷事も     なく、すら/\と銭もふけ、七珍万宝は蔵之内に充満し、下着には八反八丈を差錺り、九だんと巻て     呑あかし、そんな十だんを言なとしやれ、山口の山が当りて、口に美食をあまんじ、くばりの丸やも     丸でもふけ、いつ迄も此通りに売れて、伊三郎とと(ママ)いる小金処が大金を設(儲)けしハ、これふじ     の幸ひならんか。          小金とはいへども大金設けしは              ふじに当りし山口のよさ      川柳点に                  富士を筑波に書し故ニ          ふたつなき山を二つににせて書き           原中ニ新きに山出来けれバ          原中にこがねをかけてやまが出来              右牧狩之絵、最初五千枚通り摺込候処、益々評判宜敷故ニ、又/\三千枚通り摺込、都合八千枚通りて、    二万四千枚摺込候処、余りニ大評判故ニ、上より御察度ハ無之候得共、改名主村田佐兵衛、取計を以、十    一月十日ニ右板下をけづらせけり。             あらためがむらだと人がわるくいゝ〟    〈この頃の落首に〝来年は小金が原で御鹿狩まづ手はじめに江戸でねこがり〟(『藤岡屋日記』三巻p223)という     のがある。これは、この頃また息を吹き返してきた深川両国などの岡場所に、天保十三年三月の摘発以来、久しぶり     に手入れ(猫狩り。猫とは岡場所の娼婦をさす)があったこと、そして、来年には将軍家慶が小金原で大がかりな鹿     狩りを催すという巷間の評判を取り上げて詠み込んだものである。その鹿狩りを当て込んだ錦絵「富士の裾野巻狩之     図」が九月二十四日出版された。今まで「富士の巻狩り」といえば、仁田四郎が猪に逆さに跨って仕留める図柄が定     番であった、しかし今は「兎角にむつかしかろと思ふ物でなければ売れぬ」世の中である。そこで「むつかしく」み     せるために一計を案じた。富士を大きく画いているものの、男体女体を小さくぎざ/\と画いて筑波に擬え、噂の通     り大きな築山を配したのである。この趣向が小金原の鹿狩りを連想させるのは当然で、板元山口の狙いは当たった。     しかしその評判が逆に心配の種になった。お上のお咎めもないのに、類が自分に及ぶことを恐れたのか、改めの懸か     り名主・村田佐兵衛は板木を削らせたのである。もっともこれはお上への恭順のポーズであって、商売としては、そ     の時点で十分過ぎるほどの利益はあげていた。三枚続きの8000通り(都合24000枚)小売り値段が明確でないが、国     芳の「亀奇妙々」が〝三枚続六十文売〟(『藤岡屋日記』p246)とあるから、それにならうと、売り上げは48万     文にのぼる。銭相場はよく分からないが、嘉永二年末、幕府による銭相場介入鎮静化記事〝初は弐朱に七百十八孔に     かへ、末は七百三十六孔にて年は暮たり〟とあるのを参考に、嘉永元年の相場を、仮に二朱(1/8両)720文とすると     一両5760文、約83両に相当する(天保の改革時(十三~十四年)は一両6500文・二朱812文と定められた)〉
   「富士の裾野巻狩之図」玉蘭斎貞秀画(早稲田大学・古典籍総合データベース)     ◇英泉戯作・国芳画「誠忠義士伝」p246   〝当春中、泉岳寺開帳之節も、義士の画色々出候へ共、何れも当らず、其内にて、堀江町二丁目佐兵衛店、    団扇問屋にて、海老屋林之助板元ニて、作者一筆庵英泉、画師国芳ニて、誠忠義士伝と号、義士四十七    人之外ニ判官・師直・勘平が亡魂、并近松勘六が下部の広三郎が蜜柑を配り候処迄、出入都合五十一枚    続、去未年七月十四日より売出し、当申ノ三月迄配り候処、大評判にて凡八千枚通り摺込也、五十一番    ニて紙数四十万八千枚売れるなり、是近来の大当り大評判なり。           誠忠で小金のつるを堀江町              ぎし/\つめる福はうちハや〟
   「誠忠義士伝」一筆葊誌・一勇斎国芳画(Kuniyoshi Project)     ◇籠細工・大朝比奈図 p246   〝当十一月十日配り、大朝比奈三枚一面、最初板元橋本町一丁目板木屋庄三郎也、此度池端仲町上州や金    蔵勢利、同名弁吉、右板を引請、八百通り三枚続二千四百枚摺込て、十一月十日配り候処、七百枚計り    売、跡は一向に売れず、是も大はづれなり。      此絵ハ去年三月、浅草観音開帳之節、奥山へ籠細工ニて大朝比奈出来之節、板行出来候処、右籠細      工の朝比奈、故障有之候ニ付、右絵も出板致さず差置候処、今度弁吉引請、摺出し候処、是も大は      たきなり          島巡り程あるいてもいけぬはた             銭のもふけはさらになか町〟    〈弘化四年三月「浅草観音開帳・奥山の見世物」参照。以下に示す画像は、嘉永元年十一月のものではなく、前年三月、     浅草奥山での興行にあわせて売り出されたもの〉
   「浅草金龍山境内ニおいて大人形ぜんまい仕掛の図(朝比奈大人形)」玉蘭斎貞秀画    (「RAKUGO.COM・見世物文化研究所・見世物ギャラリー」)      〈参考までに、国芳画「朝比奈小人嶋遊」をあげておく〉
   「朝比奈小人嶋遊」一勇斎国芳戯画(ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)     ◇曲亭馬琴逝去 p262   〝十一月六日    曲亭馬琴卒、八十二、名解、号蓑笠・玄同・著作堂等の数号あり、始滝沢清右衛門と云、薙髪して篁民    といふ、著作の事ハ世の人普く知る所なり、天保中明を失ひて後も、猶著作少からず。      小石川茗荷谷源光寺ニ葬。                    著作堂隠誉蓑笠居士      辞世 世の中の役をのがれてミ(も)との儘 かゑすぞ雨と土の人形〟    ☆「嘉永二年 己酉 四月閏」(1849)   (浮世絵)   ・四月十八日、葛飾北斎歿す。享年九十〔『【新撰】浮世絵年表』〕   (四月十三日)浮世絵師前(サキノ)北斎為一(イイツ)卒す(九十歳なり。浅草八軒寺町誓願寺に葬す。     辞世句 人魂でゆくきさんじや夏の原    翁名は辰政といふ。始め勝川春章に学び春朗と号す。後俵屋宗理に学びて二世の宗理となる。一号群馬    亭ともいへり。自ら一化をなして葛飾北斎と改む。夙齢(シユクレイ)の頃草双紙の画作ありて時太郎可候と    しるせり。文化の末より戴斗又為一と号す。寛政の頃より嘉永の今に至りて、刻板の密画、読本のさし    ゑいくばくと云ふことを知らず。「北斎漫画」其の時の粉本世に行はれ、九旬に及びて筆力衰ふること    なく、三都其の外門人数ふるに遑(イトマ)あらず。娘永女も又板本多く画けり)〔『増訂武江年表』〕          ・正月、『北斎漫画』十三・十四の二編出版。   ・五月、一立斎広重の画ける『東海道名所図会』出版。   ・九月、葛飾戴斗の『花鳥画伝』二編出版〟〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕   (一般)   ・三月六日より、独楽(コマ)廻し竹沢藤治改め梅升、其の子万次郎改め藤次とゝもに、両国橋西詰に大なる    仮家をしつらい、独楽に幻戯の曲を交へ、先年に倍したる奇巧をして看せ物とす。見物の諸人群集をな    し、九月末に至りて停む 〔『増訂武江年表』〕   ・三月七日より河原崎座にて、市川団十郎大坂へ登る名残狂言、伊達騒動と弁慶勧進帳を初む   ・三月十八日、将軍、旗本総勢人足五万人を動員し、小金原に猪鹿狸兎狩り   ・四月、回向院にてお竹が大日如来開帳、両国広小路にて先年はやりたる竹沢伝次曲狛出て又はやる   ・閏四月廿日、海老蔵弟子眼玉、河原崎座へ下る。忠臣蔵新狂言始〈『藤岡屋日記』参照〉   ・五月、尾上菊五郎、掛川にて死〈『藤岡屋日記』閏四月廿八日〉   ・七月十八日、身延山開帳、深川浄心寺に初る。(中略)此時毎朝未明より深川開帳に朝参り、太鼓打鳴    して本所辺より多く出づ。(中略)〈八月〉七日、開帳朝参り太鼓、高挑灯止めらる    〔以上六項『きゝのまに/\』〕   ・〈七月頃〉投扇の戯行はる。大坂よりはやり来れり(投扇は投壺より出て、安永の頃大坂の人工夫しけ    るとか。「源氏物語」五十余帖の題号によりて、其の名目を定め甲乙を争ふ。寛政の頃また天保中にも    江戸に行はれしなり)〔『増訂武江年表』〕   ・八月廿日、市村羽左衞門病気全快芝居初、歌右衛門大坂へ登るに付、暇乞い狂言、天一坊本町綱五郎、    河原崎座は市川団十郎、大坂にて親に学び来りし六弥太物語、景清荒事、中村座は先達より忠臣蔵評判    よく、今にその狂言なり   ・九月十二日、此間富士講又々禁ぜらる、三枝六行を始先達共御咎受け、書物共御取上に成る、御触有り、    此御書付に中に、身禄の前に藤仏と云名見えたり、いつの頃のものにか、或云上方の人也、如何あらん、    しらず〔以上二項『きゝのまに/\』〕   ・十月、目黒茶屋町酒肆(シユシ)茶店の園中に、菊の花を以て人物其の外の造り物出来て、行客の足を停む。    また牛御前境内長命寺にも、菊の造りもの花壇等出来たり〔『増訂武江年表』〕   ・十一月五日、松本幸四郎一昨日死【年三十二】今日葬礼、寺は押上也、役者多く送る、見物夥し   ・十二月廿六日、今日八代目団十郎、御番所へ召され、親蝦蔵御赦免之有り〔以上二項『きゝのまに/\』〕     〈一般年間〉   ・今年より四谷新宿後正受院安置の奪衣婆(ダツエバ)の像へ、諸願をかくる事行はれ、日毎に参詣群集し百    度参等となす。(中略)    (又此の頃、愛宕下の吟窓院へ、だつえ婆の巨像を安置す。坐像にして一丈余もあるべし。古筆了伴の     寄附也といふ)   ・近年花菖蒲を愛する人多く、葛飾郡堀切村わけて多し。仲夏の頃、諸人遊観す。小金井村里正(リセイ)孫    右衛門が園中に、梅樹また花菖蒲の其の余四時の草木を栽へて、盛りの頃諸人の縦観をまつ。寺島村里    正三七が園中も、又花菖蒲其の余の草木多し。本所四目植木屋文蔵、芍薬の数種をやしなふ。開花のこ    ろ、諸人遊賞せり〟   ・宇治紫文斎浄るり(一中節より出たる由なり)、一派をなして行はる〟   ・近年烟管(キセル)のラウ竹短きを好み、惣たけ五寸以下なり(明治以来は西洋の風を学びて、殊に短きを    用ふる人多し)〟   ・此の頃、四谷内藤新宿の旅舎豊倉屋何某、同所北裏通北側の谷をならし、梅樹数株を栽へ、また中央に    池を掘り、三方へ心匠の亭をつくり設け、料理を售(アキナ)ひ、春秋亭と号し、遊観の所とす。されど数    年を経ずして閉店す〟〔以上五項『増訂武江年表』〕   ・近年流行四ツ谷の脱衣婆の像は、寺僧、咎に逢て参詣止らる〔以上二項『きゝのまに/\』〕     ◯『藤岡屋日記 第三巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇酉年開帳 p297   〝【日蓮大菩薩七面大明神】霊仏宝等 身延奥院、七月十九日より六十日之間、深川浄心寺    大鳥大明神 武州千住在 本尊釈迦如来 霊仏霊宝等 花又村別当 真言院                          三月二十九日より三十日間 於本社    於竹大日如来 羽州羽黒山金蔵坊并霊宝等   三月廿五日より六十日之間、両国回向院    伝教大師 赤坂一ツ木 海中出現不動明王   三月廿日より閏四月二十日迄六十日間 自坊於開帳    法性坊大権現 開帳  三月廿五日より四月五日迄、十五日間〟     ◇湯島天神境内芝居 p324     〝三月朔日より、湯島天神境内におゐて、芝居興行    仮名手本忠臣蔵  阿波の鳴戸  おはん長右衛門    【下り実悪】市川仲蔵  【下り女形】中村いづみ    【下り女形】板東百々三 【女形】  中村紫丈    【下り女形】中村友栄  【立役】  市川亀十郎    此度之芝居、下り役者大評判にて、大入大繁昌致し、毎日客留有之〟     ◇小金原牧狩り p331   〝三月十八日、昨夜九ッ時之御供揃にて、小金原ぇ為鹿狩被為成〟    〈嘉永元年九月、貞秀画「富士の裾野巻狩之図」参照。p245〉     ◇相撲上覧 p341   〝四月十八日、今五ッ時五供揃にて、吹上ぇ公方様、右大将様被為成、相撲上覧有之。    (以下、取組・勝敗・決まり手あり、略)〟    「嘉永二己酉年 珍説集【正月より六月迄】」   ◇三月、小金原鹿狩り p451   〝嘉永元年申年江戸咄    (上略)    牧狩絵図の山が当り、小金処か大金もふけ、太閤吉野ゝ花見の図、先年出せし其時ハ、板元咎めを受し    よし、此度出板改なく、障りもなけれバ売れもせず〟     ◇入船おこし   〝当二月上旬より入船おこし売来る也、茶色の半天に黄色の麻の腰簑をさげ、おこしの箱を櫂棒にてかつ    ぎ、初めは十人程揃て来る故、立派也。      せりふ     おつと評判だ、入舟おこしを買ておくれ、甘くてかるいが評判だ、おつと入舟だ、諸国湊へ入舟だ      日々に入船のある大都会       こゝぞもふかる株おこしうり〟          ◇三国拳 p456   〝正月十一日市村座芝居新狂言初日也、一番目曽我、二番め青砥草紙、中村歌右衛門、青砥左衞門大当り    也、座本羽左衞門・中村歌右衛門・関三十郎、三人にて三国拳を致す也。     おまへは女の名でおいせさま、かぐらがおすきでとつぴきぴいのぴひ、しゝはもろこしこうしさま、     てん/\てんぢくおしやかさま、丸くおさまる三国拳、そんな事アじやぶ/\、おひげをなで/\     くるりとまわつていつけんしよ    此拳は日本が天照太神、天竺が釈迦、唐土が孔子、右三人の拳也。      又拳かさてけんやくにあきはてた       さひけんならずよし原にしな     (以下略)〟     ◇評判の錦絵 p457   〝当春錦絵の出板、当りハ    一 伊勢太神宮御遷宮之図、  三枚ツヾき、   藤慶板    一 木下清洲城普請之図、   三枚続、     山本平吉    一 羽柴中国引返し尼崎図、  足利尊氏ニ書、  同人    一 姉川合戦真柄十郎左ヱ門討死、是を粟津合戦今井四郎ニ書。    当春太閤記の絵多く出候ハ、去年八月蔦吉板元にて今川・北条との富士川合戦、伊藤日向守首実検の図、    中浦猿之助と書、村田左兵衛の改ニて出たり、此絵ハ首が切て有故に不吉なりとて、余り当らず候得共、    是が太閤記の絵の最早ニて、当年ハ色々出しなり、又夜の梅の絵も、去年の正月蔦吉の板ニて夜の梅、    三枚続出て大当り也、夫故に当春ハ夜の梅の墨絵三枚ツゞき凡十番計出たり、是皆々はづれなり      太閤記の画多く出板致けれバ       小田がいに摺出しけり太閤記         羽柴しまでも売れて豊とミ       夜るの梅昼は売れなひものと見へ〟   〈「太閤記」に取材した錦絵の出始めは嘉永元年(1848)の「富士川合戦」からという。宮武外骨の『筆禍史』によれば、    「太閤記」は受難が続き、古くは元禄十一年(1698)に絶版処分があり、文化元年(1804)には、岡田玉山の『絵本太閤    記』と草双紙武者絵が絶版処分に遭っていた。この時は画工にも累が及んで、喜多川歌麿・歌川豊国・勝川春亭・同春    英・喜多川月麿・十返舎一九等が吟味のうえ手鎖五十日の刑に服していた。今回の「太閤記」ものは、少しは緩んでき    たとはいえ、天保の改革の記憶が生々しい時世での出版である。リスクの高さは予想された。定石通りというか、お上    を憚って木下藤吉郎を中浦猿之助に替えて「富士川合戦」を出版してみた。しかし杞憂にすぎなかった。ただ、首が切    れているのが不吉だとして売れ行きはよくなかった。板元にとっては当てが外れた格好であったが、これはこれで一種    の観測気球にはなったようだ。この程度ならお咎めがないという目安が出来たからだ。この「富士川合戦」は未見。こ    の嘉永二年正月の「木下清洲城普請之図」「羽柴中国引返し尼崎図」「姉川合戦真柄十郎左ヱ門討死」が「太閤記」も    の。このうち「木下清洲城普請之図」は一勇斎国芳画。あとの二図は未見。「伊勢太神宮御遷宮之図」はこの年の九月    に行われる二十年に一度の式年遷宮を当て込んだもの。国芳にもあるが、藤慶板とあるから玉蘭斎貞秀画である。「夜    の梅」の嘉永元年蔦吉板とは渓斎英泉画か、また嘉永二年板の方は国芳などをいうか〉
   「伊勢御遷宮之図」玉蘭斎貞秀画(神奈川県立歴史博物館「貞秀の初期作品」より)
   「木下清洲城普請之図」一勇斎国芳画(「森宮古美術*古美術もりみや」提供)
   「夜の梅」渓斎英泉画(「森宮古美術*古美術もりみや」提供)     ◇曲独楽・竹沢藤次 p457   〝酉年三月      両国二代目竹沢藤次曲こま、又々大評判之次第     此度竹沢藤次義、梅松と改名仕、忰と(に)二代目竹沢藤次の名前を相譲り、又々新曲新工夫仕、十二    ヶ月曲独楽、雷の曲こま、三曲遊び大こま、西両国東詰米沢町の際へ、川ニ向ひて大形ニ小屋を懸、看    板も立派ニ致し、御成之節ニ小屋の取崩し計ニも金十五両も相懸り候程の大仕懸故に、大評判ニて、木    戸銭廿四文、桟敷見物二百五十文ニて、ゑいとう/\とて客留にて、跡札を買て川辺の茶屋ニ待合せ候    者大勢故ニ、是が故ニ此事を聞こし召され、三月六日ニハ藤次が独楽を御覧可有との事ニて、尾州御用    との札を立置候処ニ、間もなく御疱瘡ニて御大病故ニ、先ハ御見物もながれに相成けり、右評判故ニ、    錦絵も凡三十番も出るなり、是ハ一向うれず大はづれ也。曲独楽拳の図も出ルなり。     おまへあんまの名で徳一さん、木琴がお好でかんころりん、琴ハまことにてうしよく、てん/\廻つ    て一拳しよう。     七月十五日、所々湯屋・髪結床へ張出し候番付を見るニ、一枚ハ曲ごまの図、一枚ニ口上書有之、竹    沢藤次、     当春中より十二ヶ月并三曲遊び大独楽等、未熟の芸等御覧ニ入候処、御ひいき御評判ニ預り、いか計    りか難有仕合ニ奉存候、右御礼として何がな御覧ニ入度奉存候処、此度新工夫仕、龍宮城の大仕懸ヶで    姫浦島の新曲、水中ニての龍の早替り御覧ニ入候間、何卒/\御見物様方、栄ひとう/\と大入繁盛仕    候様、御賑々敷御光栄之程、偏ニ奉希候、以上。                                           竹沢 梅松                                           竹沢 藤次〟     ◇赤坂一ツ木威徳寺開帳 p458   〝三月廿日より閏四月廿日迄    伝教大師御作 海中出現不動明王 自坊に於て六十日之間、開帳有之に付、    境内ぇ越後国海中より不動尊出現の図、庭出来候処に、余り大行故に寺社奉行より御差留にて取潰しに    相成候    子供芝居義経千本桜、忠臣蔵裏表、大入大繁昌に、喧嘩有之    (以下略)〟        ◇錦絵勧進帳 p458   〝嘉永二己酉年三月三日より    市川団十郎、御当地御名残狂言、歌舞伎十八番の内、勧進帳興行                            河原崎座     (長唄、唄方と囃子方の名簿あり、略)      勧進帳 市川団十郎、友右衛門、猿三郎、竹三郎、為十郎、宗兵衛、芝雀、歌助、七右衛門、小団次相    勤候      (八代目団十郎の口上書あり、略)     (第一番目「伊達競阿国劇場」役名と役者名あり、略)            八代目三升の上坂を誉て、    遅道      孝行が勧進帳と遙(ハル)/\と        恰(アタカ)も関を越て逢身路    右勧進帳評判故ニ、錦絵出板致し候分、最初出候ハ一枚絵ニて、並木湊屋小兵衛、同三枚続、照降町ゑ    びすや仁兵衛ハ三枚続、馬喰二森治ハ三枚続、両国森川町林や正五郎ハ三枚続、堀江町海老や林之助。      打越て浪花へのぼる弁慶を        関のとがしも留め兼たり                       梅の屋〟     ◇於竹大日如来開帳・見世物   〝三月廿五日より六十日之間、両国回向院に於て開帳    (中略)      回向院境内見せ物之分     操人形芝居、伊賀越道中双六・和田合戦     壱人分百八文、桟敷二百八文、高土間百七十二文、土間百五十六文     太夫(豊竹此母太夫はじめ六人の名あり、略)     人形(西川伊三郎はじめ九人の名あり、略)     三味線(鶴沢勇造はじめ四人の名あり、略)    但し人形大当り、大入也     伊勢両宮御迁宮之図  吹矢  女角力  犬の子見せ物  大碇梅吉の力持見世物 榊山こまの曲〟    〈「伊勢両宮御迁宮之図」は、九月の式年遷宮を当て込んだもの。前出、玉蘭斎貞秀の藤慶板「伊勢太神宮御遷宮之図」     のほかに、一勇斎国芳の山口板「伊勢太神遷御之図」などがある〉
   「【おたけ大日如来】略えんぎ」一勇斎国芳画(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)     ◇三人拳 p475   〝嘉永二己酉年      翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画出るなり。    板元麹町湯島亀有町代地治兵衛店、酒井屋平助ニ而、芳虎が画也、但し右拳の絵は前ニ出せる処の図の    如くにして、名主村田左兵衛・米良太一郎の改割印出候へ共、はんじものにて、翁いなり、三途川の姥    婆さまハ別ニ替りし事も無之候へ共、馬込が下女のお竹女が根結の下ゲ髪にてうちかけ姿なり、是は当    時のきゝものにてはぶりの宜敷、御本丸御年寄姉小路殿なりと言い出せしより大評判ニ相成候故、上よ    り御手入れの無之内、掛り名主より右板をけづらせけり、尤是迄ニ出候処之絵、新宿の姥婆さま廿四番    出、外ニ本が二通り出ルなり、お竹の画凡十四五番出るなり、然ル処今度お竹のかいどりの画ニて六ヶ    敷相成、名主共相談致し、是より神仏の画ハ一向ニ改メ出スまじと相談致し、毎月廿五日大寄合之上ニ    て割印出すべしと相談相極メ候、今度又々閏四月八日の配りニて、板元桧物町茂兵衛店沢屋幸吉、道外    武者御代の君餅と言表題にて、外ニ作者有之と相見へ、御好ニ付、画師一猛斎芳虎ト書、発句に、         君が代とつきかためたる春のもち       大将の武者四人ニて餅搗之図     一 具足を着し餅搗の姿、はいだてに瓜ノ内ニ内の花の紋付、是ハ信長也。     一 同具足ニてこねどりの姿、はいだてに桔梗の紋ちらし、是ハ光秀也、白き衣ニて鉢巻致すなり、       弓・小手にも何れも定紋付有之。     一 同具足ニて餅をのして居る姿ハ、くゝり猿の付たる錦の陣羽織を着し、面体ハ猿なり、是は大(太)       閤秀吉なり。     一 緋威の鎧を着し、竜頭の兜の姿にて、大将餅を喰て居ル也、是則神君也、右之通り之はんじもの       なるに、懸りの名主是ニ一向ニ心付ズ、村田佐兵衛・米食太一郎より改メ割印を出し、出板致し       候処ニ、右評判故ニ、半日程配り候処ニ、直ニ尻出て、直ニ板けづらせ、配りしを取返しニ相成       候、然ル処、又々是ニもこりず、同十三日の配りニて、割印ハ六ヶ敷と存じ、無印ニて出し候、       板元も印さず、品川の久次郎板元ニて出し候処の、(ママ、原文はここで切れている)     一 翁いなりと新宿の姥姿の相撲取組、翁ヶ嶽ニ三途川、行事粂の平内、年寄仁王・雷神・風神・四       本柱の左右ニ並居ル、相撲ハ皆々当時流行の神仏なり、是ハ当年伊勢太神宮御遷宮ニ付、江戸の       神仏集りて、金龍山境内ニて伊勢奉納の勧進相撲を相始メ候もの趣向ニて、当時流行の神仏ニハ、       成田山・金比羅・柳島妙見・甲子大黒・愛宕羅漢・閻魔・大島水天宮・笠森・堀ノ内・春日・天       王・神明・其外共、釈迦ヶ嶽、是ハ生月也。              成田山 大勇 象頭山 遠近山 築地川 割竹 関ヶ原 筆の海 有馬山 三ッ柏 堀之内       猪王山 柏手 初馬 綿の山 注連縄 翁ヶ嶽 剱ノ山 経ヶ嶽 於竹山 錦画 御神木 三途       川 死出山、行事長守平内、年寄仁王山雷門太夫・大手風北郎・おひねりの紙、お清メ水有、行       事・呼出し奴居ル、見物大勢居ル也。        此画、伊予政一枚摺ニて、袋ニ手遊びの狐・馬・かいどりの姉さまを画、軍配ニ神仏力くらべ       と表題し、外に格別の趣向も無之様子ニ候へ共、取組の内ニ遠近山ニ三ッ柏と画たり、是は両町       奉行の苗字なるべし、割竹ニ猪王山と云しハ御鹿狩なるべし、外ニうたがわしき思入も有之間敷       候得共、右之はんじものニて人の心をまよわせ、色々と判断致し候より此画大評判ニてうれ候処       ニ、是も間もなく絵をつるす事ならず、評判故ニ引込せ仕舞也。         お竹のうちかけ姿を見て         遅道           かいどりを着たで姉御とうやまわれ         三途川の老婆御手入ニ付、           新宿は手がはいれども両国の             かたいお竹はゆびもはいらず           老ひの身の手を入られて恥かしや             閻魔のまへゝなんとせふづか         両国の開帳           お竹さんいもじがきれて御開帳             六十日は丸でふりつび〟
   「流行御利生けん」(翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画)道外一猛斎芳虎画      (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)
   「【道外武者】御代の若餅」一猛斎芳虎画(早稲田大学「古典籍総合データベース」)      〈一猛斎芳虎画「流行御利生けん」(翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画)に関する記事は、お竹の「下ゲ髪にて     うちかけ姿」が大奥の姉小路を暗示しているのではないかという評判がたち、お上の手入れを恐れて板木を削ったと     いう内容。     同じく一猛斎芳虎画「道外武者御代の若餅」(『藤岡屋日記』は「君餅」とする)の方は、餅を搗くのが織田信長、     以下、捏ね取り明智光秀、餅を延ばすのが豊臣秀吉、最後に竜頭の兜を被って餅を食っているのが徳川家康。神君が     一番おいしいところをもっていったと言う寓意は明らかである。当初、改め名主がその寓意に気がつかず、いったん     市中に出まわってしまったのだが、半日ほどして噂が立ち、あわてて回収にまわったといういわく付きのものである。     だが、余波はおさまらず、今度は版元名のない無届け版が出まわったとある。なお、この「【道外武者】御代の若餅」     の出版時期について、宮武外骨の『筆禍史』は、明治初年頃まで生存していた芳虎本人の懐旧談を聞いた某老人の証     言を拠り所として、天保八年(1847)のこととしている。丁度十二年の隔たりがある。芳虎が酉年と答えたのを、嘉永     二年(1849)ではなく一回り昔の天保八年に受け取ったのかもしれない。         「翁いなりと新宿の姥姿の相撲取組」では、様々な取組のうち、遠近山対三ッ柏という取組があって、これが当時の     町奉行・遠山左衛門尉景元と家紋が三ッ柏の牧野駿河守成綱を擬え、割竹と猪王山の組み合わせは、この三月に物々     しく行われた将軍の鹿狩を判じたものとされる。この絵師は未詳。     このころの錦絵は、様々な禁制や制約を楯にとって「うたがわしき思入も有」るものや「人の心をまよわせ、色々と     判断」できるような「はんじもの」が、とかく評判になって売れる。噂が広がり過ぎると、結局は、板木を削ったり     自主回収してしまうのだが、それまでにどれだけ売りきるか、版元はそこに勝負を賭けているようなフシがある〉     ◇三つ子 p486   〝新吉原にておいらん三ッ子を産し評判左之通り    今度新吉原京町壱丁目の岡本屋長兵衛抱遊女花山、当月十五日三ッ子を産し処、三人共男子に付、右之    わけ御番所ぇ御申上、則御見届之上、太郎・次郎・三郎と名を下され、壱人ぇ壱枚づゝうぶぎ被下、随    分大切にそだて可申候様被仰渡、難有だん御請申上候。      とんだなら早くかしらをあげて見な       これも玉子の四角なるべし〟     〈「女郎の誠と玉子の四角」ありえないものの喩えである〉     ◇人魚 p490   〝閏四月中旬、越後福島潟人魚之事    越後国蒲原郡新発田城下の脇に、福島潟と云大沼有之、いつの頃よりか夜な/\女の声して人を呼ける    処、誰有て是を見届ヶ、如何成ものぞと問詰けるに、あたりへ光明を放ちて、我は此水底に住者也、当    年より五ヶ年之間、何国ともなく豊年也、但十一月頃より流行病にて、人六分通り死す、され共我形を    見る者は又は画を伝へ見るものは、其憂ひを免るべし、早々世上に告知らしむべしと言捨つゝ、又水中    に入にけり。      人魚を喰へば長寿を保つべし       見てさへ死する気遣ひはなし    右絵図を六月頃、専ら町中を売歩行也〟   〝七月盆後より、越後国福嶋潟之人魚之図、先へ三番出し処に、跡追々出て、十六番迄出候よし〟     ◇市川眼玉 p491   〝閏四月廿日より新狂言番付配り    【幕有幕無/十一段裏と表/を引返し廿二幕】仮名手本忠臣蔵   河原崎座     新狂言ニ仕奉入御覧ニ候     大坂下り 市川眼玉 由良之助 定九郎 若狭助 宅兵衛 四役相勤申候    当弥生狂言、右古今稀成大入大繁昌仕候ニ付、右御礼旁、市川眼玉御目見御引合せの口上、市川団十郎    舞台に於て、日数十五日之間、奉申上候。右眼玉と候は、市川蝦十郎、此度市川団十郎を迎ひに参り候    由、名前を替て御目見致し候よし〟    〈眼玉は四代目市川蝦十郎の俳名。この頃役者名としても使用したという〉     ◇尾上菊五郎逝去 p491   〝閏四月廿四日    尾上菊五郎事、大川橋蔵義、先達て上坂致し居候処に、今度病気に付、江戸表なつかしく、何卒出府仕    り度存じ立、病中ながら大坂出立仕候処に、旅中にて病ひ重りて、遠州掛川宿の旅宿に於て今日死去致    し候、行年六十六歳、珍らしき銘人也、然るに、一生涯覚へ得たる処の怪談蝦蟇の妖術にてのたり出し、    雲を起して江戸へ一飛に致す事もならずや、さぞかし一念がこはだ小平次の幽霊となつて、どろ/\ど    ろにて下りつらん。     法号 正定衆釈菊芳梅観信士   江戸山谷一向宗東派 妙徳山広楽寺    但し、掛川宿にて火葬に致し、白骨は江戸表へ持来る也。     辞世 水勢を留んとすれば流れけり    大川橋蔵     大海を渡りし術も尽はてゝ大井川さへ渡られもせず   遅道〟     ◇人形芝居 p491   〝閏四月廿七日初日にて    牛込赤城明神操人形芝居    出世太平記 二番目【お染久松】質見世店    (太夫、人形遣い、三味線方の名あり、略)〟     ◇仮名手本忠臣蔵 p506   〝七月七日初日     仮名手本忠臣蔵 増補十五段続  座元 中村勘三郎    世に知られたる竹田出雲が妙作の十一段へ、御好に任せ銘々伝を綴り合せし幕無の、大道具は花野の秋    のいろはの袖印、御ひいき御恵之神の応護、大星之手配。     【浄瑠璃道行】千種花旅路の嫁入 八段目に相勤申候     (配役名あり、中略)    右狂言の錦絵、豊国画八十番、国芳が画五十番、出板致す也〟     ◇身延山開帳 p507   〝日蓮大菩薩 七面大明神 并、霊仏霊宝等  甲州身延山 久遠寺奥院    七月十九日より六十日の間、深川浄心寺に於て開帳有之〟     ◇国丸画「山水遊覧行列之図」 p523   〝七月廿六日より浅草茅町高野屋友右衛門板、国丸之画ニて、山水遊覧行列之図、三枚ツヾき。    是ハ今度西丸ぇ姫君、京都一条家より御下向ニ付、右之御行列、木曽山中固之図出し候得共、一向不売、    大はづれ〟    〈一条関白実通の娘・寿明姫が次期将軍・徳川家定の正室として、江戸に着いたのが十月四日。そしてお輿入れが十一     月上旬という日取りであった。国丸画「山水遊覧行列之図」は、それに先だっての出版であったが、当てが外れての     である。この寿明姫には次のような噂が巷間に広がっていた〉      ◇「変名問答」p561(嘉永三年、国芳画「【きたいなめい医】難病療治」の項参照。p134)   〝(七月)変名(ヘンナ)問答    纔か三尺の体を以て一条とは是如何に。未だ十四歳なるに老女と言ふが如し。    右老女と云ふは櫛笥侍従隆韶妹にて、当年十四歳也。是は幼稚の頃より一条家へ出入り、寿明君のおも    ちやに相成、御小姓同様にて御側に附居候に附、御奉公人とはなしにづる/\居り候処に、此の度関東    御下向に付、当人も付き参りたがり、姫君も幼少よりのなじみ故に連れ下り候処に、上方にてはひいさ    ま/\とて友達同前にて暮らし候処に、御本丸にては中々に姫君の御前に出ることならず、故に肝をつ    ぶし、姫君も何卒かれを御年寄に致して、是迄の如く御側に置んと致し候処に、江戸附の女中一同不承    知にて、纔か十四に相成り候子守あまつ子の下に付ん事いやなり、有馬附を願わんと、一同申に付、是    非無く小上臈に致し、名を花瀬と改候よし、右故之問答也、姫君御幼年より疳の虫にからまれて成長無    之、御年廿七にて纔か御長三尺の由、形ち小さく、目計り大きなるよし〟    〈寿明姫は身長が小さいだけでなく、片足が短いという噂されていた。翌三年の国芳画「【きたいなめい医】難病療治」     はこの噂を穿ったものとされている〉
   「【きたいなめい医】難病療治」一勇斎国芳画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース)     ◇「宇治川合戦」図 p523   〝(七月)通三丁目、遠彦より盆後出ル、    宇治川合戦佐々木先陣     実ハ阿部豊後守、大川渡り三枚続、    ほめて計り有て、一向ニうれず〟    〈遠彦こと遠州屋彦兵衛板元の一勇斎国芳画「宇治川合戦」であろう。表向きは佐々木四郎高綱の一番乗りだが、実は     「阿部豊後守、大川渡り」を擬えたと読んでいるのである。「阿部豊後守、大川渡り」とは、三代将軍家光の治世、     大川(隅田川)が氾濫を起こした時、対岸江東の地の視察を命じられた旗本・阿部豊後守が、濁流を渡りきって報告     したというもの。現在、旧安田庭園内にある「駒止め石」は、その時、阿部豊後守が愛馬を止めた石だとされている。     それにしても、何に基づいて、この佐々木四郎を阿部豊後守に見立てたのであろうか。また「ほめて計り有て」全く     売れなかったというのだが、これは寓意不足で、江戸っ子にはものたりないという意味であろうか。ところで「七月     五日、今六ッ半時前御供揃にて、大川筋被為成」(p479)と云う藤岡屋由蔵の書留がある。この「宇治川合戦図」     は、この将軍家慶の大川お成りと関連づけようとしたのであろうか〉
    「宇治川合戦」一勇斎国芳画(「森宮古美術*古美術もりみや」提供)    「嘉永二己酉年 珍説集【七月より極月迄】」   ◇中村歌右衛門名残狂言 p523   〝八月朔日より     於市村座、中村歌右衛門、御当地御名残狂言相勤申候。     (歌右衛門の口上あり、略)」     (座元市村羽左衛門の病気全快口上あり、略)〟   〝(外題「詞花紅葉の世盛」)    右天日坊法眼之画、三枚つゞき、    先へ六番出ル也、跡追々出ル也。    右狂言ハ、天一坊宝沢ニて大岡之政要記ニ候間、六ヶ敷からんと存候処、一向ニ障りも無之。    八月九日酉ノ日酉ノ刻ニ木性の者有卦ニ入候ニ付、右之画、先へ三十九番出ル、跡追々出て、残らずニ    ては六十三番も出し候よし、大はたらき也。     人形屋・菓子屋ニ而、ふの字(一字欠)しニて、種々七色の備物有之。      一 公方様も五十七歳ニて、桑の木性ニて有卦ニ入給ふ也。      一 我等も御同年ニて有卦ニ入候ニ付、ふの字七ッの狂哥、         ふくぶくとふとんのうへにふくれ居て           ふだんふでとりふるごとをかく〟     ◇河原崎座狂言 p531   〝八月十二日、新狂言初日    【故郷へ帰る/須磨凱旋】一の谷武者画の土産(イヘヅト)【新板五枚続】〟     ◇田舎源氏一件 p543   〝十月      田舎源氏草双紙一件     文政十二年正月、油町鶴屋喜右衛門板ニ而諺(偐)紫田舎源氏といへる表題ニて、柳亭種彦作、哥川国    貞の画ニて出板致し候処、男女の人情を書し本ニて、女子供のもて遊びニて枕草紙の笑本同様ニて、大    きに流行致し、天保十二年ニハ三十八篇迄出板致し、益々大評判ニて売れ出し候処ニ、天保十三年寅春    ニ至リ、御改正ニ而高金之品物売買之義差留ニ付、右田舎源氏も    笑い本同様ニて、    殊ニ表紙も立派成彩色摺故ニ絶板被仰付候ニ付、鶴喜ニて金箱ニ致し置候田舎源氏の    板けづられ候ニ付、通油町鶴喜、身代退転(二字欠)候、然る処夫より六年過、弘化四年未暮、少々御    趣意も相ゆるミ候ニ付、田舎源氏(一字欠「表?」)題替ニて相願ひ、其ゆかり雛(鄙)の面影と云表題    ニて改刻印出候得共、鶴喜ハ微禄ニて出板自力ニ不及、依之神田鍛冶町(一字欠)丁目太田屋佐吉の両    名ニて、雛の面影初篇・二篇と出し、是田舎源氏三十九篇目故ニ、三十九じやもの花じやものといへる    事を口へ書入、又々評判ニて、翌申〈嘉永元年〉暮ニハ三篇・四篇を出し、作者は一筆菴英泉、画ハ豊国    なり、当酉年〈嘉永二年〉春五篇も出し候処ニ、板木ハ両人ニて分持分居り候処ニ、鶴喜ハ不如意故ニ右    板を質物ニ入候ニ付、一向ニ間ニ合申さず候ニ付、当秋太田や一人ニ而又々外題を改、足利衣(絹)手染    の紫と云題号ニ直し、鶴喜の株を丸で引取、雛の面影六篇と致配り候ニ付、十日鶴喜(文字数不明欠)致    し、太田やへ押懸り大騒動ニ及びて喧嘩致し候得共、表向ニ不相成、六篇目ハ両方ニて別々に二通り出    ル也、太田屋ハ足利衣手染の紫、作者一筆菴、鶴屋は其ゆかり雛の面影、作者仙果、右草紙ニ、仙果ハ    師匠種彦が書残置候写本故ニ此方が源氏の続なりと書出し、一筆菴ハ此方が源氏の後篇なりと書出し、    是定斎屋の争ひの如くなれば、      本来が諺(偐)紫で有ながら        あれが諺だの是が本だの      田舎から取続きたる米櫃を        とんだゆかりの難に太田や〟    〈『偐紫田舎源氏』(初編~三十八編・柳亭種彦作・歌川国貞(三代豊国)画・文政十二年(1829)~天保十三年(1842)     刊)。『其由縁鄙俤』(初編~六編・一筆庵可候(英泉)作・一陽斎豊国(三代)画・弘化四年(1847)~嘉永三年     (1850)刊。英泉は嘉永元年没)。『足利絹手染紫』(六編(『其由縁鄙俤』五編の改題続編)笠亭仙果作・三代歌川     豊国画・嘉永三年刊)。天保改革の余波で『偐紫田舎源氏』が絶版になり家運傾く鶴屋喜右衛門と新興の太田屋佐吉     (神田鍛冶町二丁目)とが、それぞれ英泉と仙果を立てて、柳亭種彦亡き後の後継争いを演じたのである。絵師はと     もに三代豊国が担当したのであるが、仙果は戯作専門であるからともあれ、英泉は自ら絵師である、はたしてどんな     思いでこの合巻を書いていたのであろうか。おそらく『偐紫田舎源氏』では、国貞(三代豊国)画のはたす役割があ     まりにも大きかったので、読者は無論のこと板元にも豊国以外の起用など思いも及ばなかったのだろう。英泉自身も     あるいはそれを認めていたのであるまいか。定斎屋(ジョウサイヤ)〉は行商の薬売り。鶴屋と太田屋の後継争いを薬屋の     本家争になぞらえたのである〉     ◇里見八犬伝、後日話 p544   〝爰ニ故人曲亭馬琴が老筆をふるひて、初篇より九篇迄百八冊書残し置里見八犬伝、大評判ニて流行致し    当時丁子屋平兵衛板元ニ候処、南伝馬町一丁目蔦屋吉蔵板元ニて、右の本を丸取ニ致、馬琴のちからを    盗て、為永春水作、国芳画ニて、芳談犬の双紙と題号し、弘化四年未秋ニ合巻出板致し、当酉迄十三篇    迄出、流行也、丁平ニて是を聞て立腹致し、余り残念故ニ自分も同未年暮ニ同様之合巻ヲ出板致し、仙    果作・豊国の画ニて、仮名読八犬伝と表題致し、是も当時九篇出、流行致し候得共、元々の八犬伝ハ丁    平の株ニ候を蔦吉ニて類板致し候ニ付、今迄中之宜敷処不和ニ相成候よし       芳談と其仮名読ハわかれ共          心の犬がいがみ合けり    又、侠客伝・美少年録も馬琴ニて、丁平板元ニ是も又々おつかぶせ、蔦吉板元ニて、一九作・豊国画ニ    て、御年玉美少年始と題号し出板致し、当時ハ四篇迄出ル也。    又 侠客伝仦(ヲサナ)画説と題号し、是も当時三篇迄出ル也、右故ニ弥々中悪敷なりけれバ        丁平のたいらもこぶがいでるとは           さて蔦吉もよくなひと見へ〟    〈『南総里見八犬伝』(馬琴作・柳川重信、二世重信、英泉、貞秀画)は文化十一年(1814)から天保十三年(1842)まで     二十九年に及ぶ読本のロングセラー。「日本古典籍総合目録」は『犬の草紙』を笠亭仙果作・三代豊国画とし、『仮     名読八犬伝』を為永春水二世作・国芳画とする。前者は嘉永元年の初編から途中絵師を替えながらも明治以降に及ぶ。     後者もまた嘉永元年の初編から作画者共に替えながら慶応三年(1867)まで刊行された。『南総里見八犬伝』が文字通     り『犬の草紙』と『仮名読八犬伝』という「犬(似て非なるもの)」を生んだのである〉    ☆「嘉永三年 庚戌」(1850)     (浮世絵)   ・四月九日、魚屋北渓歿す。行年七十歳。(北渓姓は岩窪、俗称初五郎又金右衛門といひ、北斎又葵岡と         号せり。葛飾北斎の高弟なり。魚商を生業とせしを以て魚屋と称す)〔『【新撰】浮世絵年表』〕   ・六月二十六日より三日間鳴物停止、西丸御簾中寿姫逝去の故なり(法号澄心院、此の君少し跛(ビツコ)な    り。歌川国芳筆三枚続きの錦絵女医師のもとに療治を受くる図中に、美婦の下駄と草履と、    かた/\に履きたるを画きしは、此の君の事を諷せしものなりといふ)〔無補〕〔『増訂武江年表』〕            ・正月、北斎の画ける『絵本和漢誉』。       渓斎英泉一立斎広重の画ける『名所発句集』。       葛飾戴斗の画ける『万職図考』出版。   ・七月、一立斎広重の『草筆画譜』及び『絵本江戸土産』初編より四編出版   ・八月、宮武外骨氏の筆禍史に浮世絵師説諭と題して下の記事あり、同年(嘉永三年)八月十日、錦絵の    認め方につき、浮世絵師数名役人の糾問を受けたる事あり『御仕置例題集』によりて其憐愍書の一節を    左に録す。     一体絵類の内人物不似合の紋所等認入れ又は異形の亡霊等紋所を付け其外時代違の武器取合せ其外に     も紛敷く兎角考為合買人に疑察為致候様専ら心掛候哉に相聞え殊に絵師共の内私共別て所業不宜段入     御聴重々奉恐入候今般の御沙汰心魂に徹し恐縮仕候    以下尚長々と認め、此度限り特別に御憫察を乞旨を記せり、其連名左の如し                         新和泉町又兵衛店      国芳事 孫三郎                         同人方同居         芳藤事 藤太郎                         南鞘町六左衛門店      芳虎事 辰五郎                         本町二丁目久次郎店清三郎弟 芳艶事 万吉                         亀戸町孫兵衛店       貞秀事 兼次郎        南隠密御廻定御役人衆中様    隠密といへるは現今の刑事巡査(探偵)の如き者なり。浮世絵師数名はあやまり證文にて起訴さるゝ事    もなく、平穏に済みたるなり。と 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    〈下記『筆禍史』「浮世絵師説諭」参照〉     (一般)   ・二月、俳優市川団十郎(号白猿)驕奢に長じたる故を以て、天保の末追放せられしが、今年大赦に遇ひて       二月帰郷し、三月十七日より再び芝居へ出る 〔『増訂武江年表』〕   ・浅草観音、三月朔日より開帳   ・三月三日より浅草寺町にて、【ニイサウ】子安日蓮開帳   ・猿若町二丁目、沢村長十郎、二代目三代目年回に付追善狂言、小野道風を勤む   ・此頃阿芙蓉異聞抔を訳して海外異聞と名付、絵入よみ本に作り、咎有て絶板と成る   ・三月廿五日、回向院にて相撲初る、此節両国橋東に虵の子とて、肌に鱗生たる小児をみせ物とす、作り    物に非ずとて見物多し、四月に至りいよ/\評判高く、上野山下浅草花川戸抔にも、虵の子みせ物出た    り   ・四月、猿若町三丁目下り市川蝦蔵、景清二番め幡随長兵衛大入客留め、二丁目長十郎、道風大当り、一    丁目小団次、八重姫、二番め団十郎助六、是も評判よし、近年稀成る繁昌也、此節はやりごとに、人を    呼て返事をすれば塩梅よしといふ、又はよかつたね抔云へり、先年も同様にしてポカンと云しこと有り    き、尤もわろきざれ言也 〔以上五項『きゝのまに/\』〕   ・四月十七日より七日の間、十三代目中村勘三郎代替り寿狂言興行   ・四月、流行詞(ハヤリコトバ)に人を呼んで返事をすれば塩梅よし、又はよかつたねなどいふ。先年ぽかん    といひしと同じ事也   ・五月二十六日、大男生月(イケヅキ)鯨太右衛門瘡毒にて死す〔無補〕   ・六月六日、画人宋紫崗卒す(七十歳なり。称楠本雪渓、紫石の末なり。東本願寺地中徳本寺に葬す)〟   ・十月晦日雨降る。琉球恩謝の使節江戸へ着す(正使玉川王子、副使野村親方なり。十一月十九日と二十    二日登城、十一月二十七日上野参詣す。十二月二十日発足す)   ・十一月、三座歌舞妓の入替り顔見せ狂言、古例の通り十一月になる   ・十一月、上総国より鬼若力之助といへる男童、冬角力の時土俵入をなす(八歳にして丈四尺、目方十八貫目)    〔以上七項『増訂武江年表』〕    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥164(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝(六月)廿六日、来月三日迄鳴物停止、西丸再度之御簾中様御逝去、上野へ被為入【寿明君様、御法号    ハ澄心院様、実ハ七日御逝去と云、此君にや、御ミあし少し揃はせられずと申めり】国芳と云画師、三    枚つゞきの錦絵に、女医者のもとに療治を受る女をかきたるに、肥満したるお末女には尻に箍(タガ)を    懸る処有、又美麗の少婦に下踏と草履とかた/\づゝはかする処有、是極めて彼風説によりたる戯れと    見ゆ、いともかしこき不敬のやつこなるに、かゝる物を板行するを改めざるはいかにぞや【風説はそら    ことにて、実はさる事もあらせられず共、其説を書あらはすは不届至極也】、明の馬皇后の事を、上元    の判じ物行燈の絵に書たる家有て、一家滅せられたるをや〟    〈この三枚続きの題名は「【きたいなめい医】難病療治」。根拠のない風説を戯画化した国芳、喜多村信節には恐ろし     い不敬の奴に見えたようだ。明の馬皇后ととの関係はよくわからない〉
   「【きたいなめい医】難病療治」一勇斎国芳画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース)    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵記)   「嘉永三庚戌年 珍話 正月より七月迄」   ◇開帳 p74   〝嘉永三戌年中、所々開帳之覚    日像菩薩御作【開運除厄】日蓮大菩薩 并霊仏霊宝 下総国小金領八木  本妙寺                    三月九日より六十日之間、浅草新寺町本蔵寺に於て開帳有之    東叡山清水 千手観世音 主馬判官盛久守本尊  清水堂                   二月三日より四月三日迄、日数六十日之間、於自坊、令開帳者也    芝神明社内 宝禄稲荷大明神 芝神明 社役                   三月三日より五月三日迄、六十日之間、於境内開帳、二月五日焼失也    子安日蓮大菩薩 并霊仏霊宝等 三月三日より六十日之間、浅草新寺町正覚寺に於て開帳有之                   但し、宝禄稲荷仮普請出来に付、同年一月廿五日より開帳相始め候処                   に、参詣は一向に無之、神明の祭礼に相成候はゞ参詣有べし    浅草観世音開帳        三月四日より四月十五日迄、十五日間開帳有之  金龍山浅草寺。    信州善光寺大本上人兼帯所 一光三尊阿弥陀如来                   三月廿日より四月十九日迄、三十日之間開帳。青山善光寺役人    奥沢九品仏千部        四月三日より同十二日迄    谷中新明院万巻        三月廿七日より四月六日迄    二月堂御正体観世音  大仏殿勧進所  六月朔日より晦日迄開帳、日のべ七月十六日より廿日まで    祐天寺千部          七月十六日より同廿五日まで    奥沢九品仏廿五菩薩練供養   七月十六日より廿二日迄、但、五ヶ年に一度也。     男女児八人、音楽僧十人計、夫より廿五菩薩練也、跡が地蔵菩薩也、右供養中、霊仏・霊宝開帳有之、     老若男女群集致し、毎夜二千人宛も籠り有之よし。但し、菩薩練は朝四ッ半時、昼八ッ半時、毎日二     度づゝ有之    秩父 子大権現神体 本地釈迦如来 其外霊宝等                   八月十日より六十日之間、目黒不動尊於境内開帳。別当天龍寺別事                   但し、八月六日着也。江戸中木魚講中御迎に出る也、                   十月廿五日、御成道通り、千住へ出立つ也〟     ◇蛙合戦 p77   〝正月廿一日朝より麻布古川通り肥後橋続、青木駿河守様御屋敷前、古川橋往来際にて、何方より群集致    候哉、数千之蛙寄集り、蛙合戦有之候由風聞高く、近隣は申不及、見物に罷越候者多人数有之、全数千    疋の蛙寄集、喰合候様子に相見へ、作日廿一日中度々群集致し、又は散乱致候由(以下略)〟     ◇彼岸桜 p85   〝二月十九日、上野山、此節彼岸ざくら半開の盛りにて、見物群集致すなり〟     ◇蛇の子 p87   〝(二月、惣身に鱗、蛇皮のような肌の子供・金太郎(七歳)の風聞)    蛇之子之画姿を一枚摺に致し出板致候者共、絵草紙懸り名主取調に相候候事                     浅草誓願寺門前  玉屋惣兵衛                     同、阿部川町   同源次郎                     横山同朋町    板木屋金次郎    右三人之者、此度蛇之子説有之候に付、改め不請、壱枚絵に仕立出候処、絵草紙懸り名主方より買集め、    当三月十日に三人之者を通三丁目寿能次郎と申水茶屋ぇ呼、引合人、左之通り                     尾張町二丁目   津田屋吉兵衛                     南伝馬町三丁目  日野屋由三郎                     通三丁目     遠州屋彦兵衛                     同、二丁目    総州(ママ)屋与兵衛                     青物町      万屋四郎兵衛                     本石町二丁目   武蔵屋三四郎                     同、三丁目    井筒屋庄吉                     通油町      藤岡屋慶次郎                     横山町三丁目   菊屋市兵衛                     両国回向院前   伊勢屋小兵衛                     本所相生町    伏見屋茂兵衛    右之者共、当三月十三日に家主同道、寿能次郎方迄罷出候事。     真事蛇によつて売れるじや、当るじやととつくじやさかい、板をけづるじや、誠になんじやか五じや     /\して、一向わからんじや      春雨のねむけざましのおちやの子にちよいとつまんでひどきめに逢      灰吹の中から出し蛇にあらず人の腹から出たじやとの沙汰    然ば、右板元板上ゲけづり、絵双紙屋の小売之者、絵を取上ゲ、翌三月十四日、御月番処北御番処井戸    対馬守殿ぇ願出候に、是式之事願出候〟     ◇大蛇の見世物 p87     〝三月廿一日、大蛇之見せもの、今日初日にて、向両国の左り側、あわ雪の前角に出るなり    小屋も大形ニ致し、日本一大蛇の子といへる大幟を立、一間四方程の大看板の画ニ、滝の下ニて狼三疋    を手取ニ致し、一疋ハ足ニふまへ一疋ハ滝壺へ打込候処、一候ハ差上ゲ居候処、上ニ雲の中ニ龍顕れし    処、母親おどろき欠付て留候処の絵也、脇ニ口上書の立看板有之、右口上書ニハ、奥州牡鹿郡反鼻多山    麓蛇田村旧家里長何某孫ニて、其母大蛇ニみいれられ懐妊致せし男子金太郎、故ニ山中ニて猛獣ニもお    それず、水中ニ入、暫く居候にてもおぼるゝ事無之よし     木戸銭一人前廿四文ヅヽニて、大入大当り也、然ルニ山師共、右蛇子を金百両ニ買取、七月迄之極ニ    て、当座ハ廿両遣し候由。    斯て四月十日、右懸り合絵草紙屋共、懸り名主宅ぇ呼出し有之、以来無印之物は売捌有之間敷由申渡、    右一件落着に相成候。      初めには蛇の出るやふな騒ぎにて蚊もいでざればぐうの音も出す    右一件相済候に付、豊嶋町岡本栄太郎方にて、直政が画にて蛇の子絵出候得共、一向にうれず〟     ◇竹沢藤治 p87   〝二月廿四日夜、新吉原揚屋町寄せ こま廻し 竹沢藤治 興行    右寄場大入にて、弐階落候に付、即死三人、怪我人数多有之候よし      よせ/\と言のに多く揚屋町弐階が落てとうじ迷惑〟     ◇市川海老蔵赦免 p90   〝当戌春(二月廿九日)市川海老蔵御赦免に付、被召返候趣に付、    三下り ゆびおりて、飛たつ程に小松竹の、千代も三升も寿は、だい/\江戸の錺りゑび、        嬉しい春じやないかいな〟     ◇中村伝九郎、十三代目中村勘三郎襲名披露の摺物   〝(三月三日より御礼のための猿若狂言興行。並びに猿若町内に摺物を配る。その摺物の挿絵)    門松  門松錺り有之、大紋・烏帽子・万歳の形、長上下着、三人居    猿若  猿わかおどり、長上下着、廿二人居る也    新発意 正面に楽太鼓有之、僧三人居る也         鳥居清忠画〟   〝(四月)右之摺物、袋に入有之、其袋之表に一面に舞鶴を書、口に銀杏をくわへ居、下に寿の字書有之、    かたに、二百二十七年、下に猿若町十三代目猿若、勘三郎     (中略)    右摺物を町中に配り候に付、集金六百四十両有之候と也、右入用金四百両も相懸り候よし、差引残り金    弐百四十両も有之候得共、坐元勘三郎借金にて、残らず引取られ候よし〟     ◇禿・新造の花見 p100   〝新吉原町禿新造、花見通るなり、花やかにてきれいなる事なり、昨年の春初て出しより、当年も又々出    るなり、道筋、蔵前通りより藤堂御屋敷前へ出、大通りより御成道へ出、夫より上野花見也〟       ◇絶版・板木没収処分 p115   〝四月廿四日之配りニて、紫野大徳寺信長公焼香図。     照降町蛭子屋仁兵衛板元ニて、芳虎画、大法会之図と大焼香場之図を三枚続きに致し出候処、秀吉束    帯ニて三法師君をいだき出候処の図也、是ニてハ改印六ヶ敷候ニ付、村田佐兵衛へ改ニ出候節ハ三法師    をのぞき秀吉計書て割印を取、跡ニて三法師を書入たり、是ニていよ/\焼香場ニ相成候ニ付、大評判    ニて売れ候ニ付、同月廿八日ニ板元上ゲニ相成候、五月六日落着、絶板也。      三の切能く当たったる猿芝居       南無三法師とみんなあきれる    〈板元は、改め名主・村田佐兵衛に、問題になりそうな所を取り除いて差し出し、出版許可をもらう。だが、実際の売     り出しには、削除部分を加えて原画と同じものが配られた。これでは改め名主は防ぎようがない。そんな挙に出る板     元もあったのである。禁じられている「太閤記」ものであるから、おそらく板元も絶版覚悟の出版であったろう。評     判になれば、短期間で大量に売れる。当局の手の入る頃には売り抜けて、板木の方は用済みという計算なのであろう〉           同日の配りニて、馬喰町二丁目山口藤兵衛板、貞秀が画ニて大内合戦之図、大内義弘家臣陶尾張守謀叛    ニて、夜中城中へ火を懸候処、いかにも御本丸焼の通りなりとて評判強く、能く売れ候ニ付、御廻り方    よりの御達しニ有之候哉、五月三日ニ懸り名主村田佐兵衛、板元を呼出し、配り候絵買返しニ相成、板    木取上ゲニ相成候よし、五月六日落着、色板取上ゲ。      能く売れて来たのに風が替つたか       つるした絵まで片付る仕儀      異国船焼討の図の絵も出候由、いまだ分明ならず、焼香場ニて      せふかう(小功・焼香)で当てたいかう(大功・太閤)立る也      又々五月中旬、日本橋元大工町三河屋鉄五郎板元ニて、国芳之画三枚つゞき、真那板ヶ瀬与次郎灘之図、    豊臣太閤、肥前名護屋引返し之処、長門下之関ニて大難船、毛利家の船ニ助られし処の図、国芳筆をふ    るひ候得共、余り人が知らぬ故に売れず〟
   「豊前国与次兵衛難之図」一勇斎国芳画(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)       ◇「【きたいなめい医】難病療治」国芳画 p134   〝六月十一日之配りニて     通三丁目遠州屋彦兵衛板元にて、一勇斎国芳筆をふるい書候はんじもの、百鬼夜行の類ひならんか。    きたいな名医     難病療治、女医師【廿四五才位、至て美し、風団之上ニ居】、弟子四人惣髪ニて、何れも年頃也、美     しき女のびつこ・御殿女中の大しり・一寸ぼし・人面瘡・疳癪・やせ病、何れも四人之弟子、種々に     療治致居候処、其外溜りに難病人大勢扣へ居候図也。      右女医師の名、凩コガラシ    一 右之絵、七月初には少々はんじ候者も有之、御殿女中の大尻は御守殿のしり迄つめるとはんじ候よ      し、段々評判に相成、絵は残らず売切、摺方間に合不申候。        難病の療治姉御は広くなり跡より直に詰るせわしさ      藪井竹斎の娘、名医こがらし    一 近眼は阿部の由、鼻の先計見へ、遠くが見へぬと云事なるよし      〈「阿部」は当時の老中阿部伊勢守正弘。一条家の寿明(すめ)姫を家定の正室に見立てたのは、阿部伊勢だと巷間      は見ていた。しかも「遠くが見へぬ」近眼の見立てであったと、揶揄している〉    一 一寸ぼしは牧野にて、万事心が小さきとの事なるよし    一 びつこは寿明印にて、御下向前に御召衣裳も残らず出来致し居り候処に、御せい余り小く衣服長過      て間に合兼候に付、下着計にて足を継足し候よし     〈一条関白実通の娘・寿明姫は、前年冬、徳川家定の正室になったばかり。しかし、お輿入れの前から寿明姫には身      体に関する噂が流れていた。この年六月廿八日逝去。二十八歳であった。嘉永二年七月頃「変名問答」(p561)及      びこの年六月の逝去記事の参照〉    一 鼻なし、西尾にや、蔦の紋付也、是は嫡子左京亮、帝鑑間筆頭を勤、男は(一字不明)し、行列は      五ッ箱、虎皮鞍覆自分紋付二疋を率、万事不足無之自慢に致し、鼻を高く致し居り候処に、六月五      日に忰左京亮卒去、国替同様なりと云しと也    一 あばた、銅の面を当て、釜ニ湯をわかしてむし直候処、精欠(ママ)にや、故は右器量にて、加賀をは      ぶかれ、金と威光にて有馬へ取替遣し候なり    一 ろくろ首、むしば、かんしやく女    一 せんき、菊の紋、人面瘡、米代金十五両八分余    一 やせ男、りん病     右はんじもの画、国芳を尋られ候処に、是は今度私の新工夫にも無之、文化二年式亭三馬作にて、嬲     訓歌字尽しと申草紙ニ、右轆轤首娘有之、是を書候由。        いろ/\な大難風が発りてもすら/\渡る遠州の灘    一 右難病療治大評判に相成、ます/\売れ候故、諸方に重板出来致すなり。      最初    三鉄     二番目丹半  是ハ初〆ハ      両人のり  越前屋    板木屋太吉  両人のりニて      壱板ニて相談之上、三枚之内、太吉ハ職人故壱枚持、丹半ニて二枚持、合にて摺出し候処ニ、後に      丹半一枚彫足し三枚ニ致し、勝手次第ニ沢山ニ摺出し候ニ付、太吉も二枚摺足し、三枚ニ致し摺出      し候に付、板木二通ニ相成候。       三番目 大面(西カ)伊三郎一枚持候       四番目 芝口三丁目 和泉屋宇助一枚       五番目 釜屋藤吉一枚彫刻致候       〆 六板也、本板共に七枚也。      右絵、最初遠州屋彦兵衛願済にて摺出し候節、卸売百枚に付二〆三百文、段々売れ出し候に付直下      げ二〆文、又々壱〆六百文、又々一〆二百文に下げ候、然る処に重板出来致して、売出しは百枚に      付卸直一〆文、又は二朱也    一 七月廿五日 三鉄配り候処、其日に北奉行所へ遠彦より願出し、板上る也、釜藤は八朔より重板配      候処、同十日馬込ぇ板上る也     難病療治の絵、落着之事          八月廿五日                     通三丁目寿ぇ掛り名主寄合                               釜屋左治郎                               越前屋平助    板木・摺本取上げ、板は打割り、摺本包丁を以、名主切さき捨候、凡摺本六百枚計きり捨る也。       凌ぎよくなりて難病快気なり〟      〈嘉永二年(1849)十一月、一条関白実通の娘・寿明(すめ)姫が、次期将軍・徳川家定の正室として京よりお輿入れに     なったが、それ以前から、この寿明姫には次のような噂が流れていた〉        〝(七月)変名(ヘンナ)問答    纔か三尺の体を以て一条とは是如何に。未だ十四歳なるに老女と言ふが如し。    右老女と云ふは櫛笥侍従隆韶妹にて、当年十四歳也。是は幼稚の頃より一条家へ出入り、寿明君のおも    ちやに相成、御小姓同様にて御側に附居候に附、御奉公人とはなしにづる/\居り候処に、此の度関東    御下向に付、当人も付き参りたがり、姫君も幼少よりのなじみ故に連れ下り候処に、上方にてはひいさ    ま/\とて友達同前にて暮らし候処に、御本丸にては中々に姫君の御前に出ることならず、故に肝をつ    ぶし、姫君も何卒かれを御年寄に致して、是迄の如く御側に置んと致し候処に、江戸附の女中一同不承    知にて、纔か十四に相成り候子守あまつ子の下に付ん事いやなり、有馬附を願わんと、一同申に付、是    非無く小上臈に致し、名を花瀬と改候よし、右故之問答也、姫君御幼年より疳の虫にからまれて成長無    之、御年廿七にて纔か御長三尺の由、形ち小さく、目計り大きなるよし〟    〈寿明姫は身長が小さいだけでなく、片足が短いという噂されていたのである〉
   「【きたいなめい医】難病療治」一勇斎国芳戯画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)     ◇貞彦画、小売り禁止 p135   〝(七月)馬喰町山口藤兵衛板元ニて、四国合戦伊予掾純友謀反船軍焼討之図三枚続き、貞彦画にて出板    致し、七月十一日絵双紙問屋名主八人、通三丁目寿ぇ寄合之節、右之絵を改出し候処に、船軍の躰相い    かにもイギリス軍船の模様に能く似たる故に、先売出しは差扣へ可申之由被申候に付、先は配りは相な    らず候、尤先達て名主改め割印は出居り候。       改めはすみ友なれば伊予のぜふ摺りいだしたら山ぐちを止〟    〈貞彦画「四国合戦伊予掾純友謀反船軍焼討之図」は、名主の改めは済んでいたが、売りだしはならなかった。理由は     画中の船がイギリスの軍船に似ているというものである。なお、この貞彦、『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世     絵師」には見当たらない〉     ◇女芸者逮捕 p135   〝六月十一日、両国茶屋、大花火にて貴賤群集致し候処、柳橋にて女芸者三人被召捕也。    当時、両国にて女芸者五十六人有之候よし、右之内にて名うての三人を召捕候由、親子廿六人被召捕候    由、此節、手前ゆるみにて内々ころび候よし、今宵は大花火故に書入に致し居、衣裳着錺り出候処に、    右三人被召捕候に付、五十六人残らずいづこへか逃去候よし。      大花火合図に芸者逃散りて調子もくるふ両国の茶や〟     ◇芳虎画 p138   〝六月十七日頃配り     芝神明前和泉屋市兵衛板元ニて、芳虎画六枚続き、高松水責の図、大評判にて、同廿五日ニ引込ス也。    是ハ太閤記備中高松城水責に候得共、城一面水びたしに相成候処は大海の如くにて、舟より三重の櫓へ    石火矢を打懸候処の勢ひおそろしく、さながらイギリスが浦賀へ押寄候ば如斯ならんと有様を見せしな    らん、初め懸り名主改之節は三枚続二つに致し改、石火矢もけむりも無之候間、右程すさまじくも無之、    名主も心付ず、割印出し候処に、彩色にてけむり付候ニ付、おそろしき有様ニ相成、唐人が御城を責る    に尤(異カ)ならずとて、右配り候絵を引込せ、石火矢を除き、出し候様にとの事也。       もふけるをせん市向ふみづ仕懸け〟     ◇敵討ち p140   (六月十日、湯嶋横町荒物屋庄助、兄清左衞門の敵・藤田春庵を、信州飯田において討ち取る)   〝忠孝はまたと外にはあら物やこの評判はたれも庄助〟     ◇麦湯見世禁止 p142   〝六月廿四日、当年市中所々ぇ麦湯見世夥敷出し候に付、御差留一件    (中略)    此節夜中往還ぇ麦湯見世差出候者夥敷相増候、何も深更迄罷出、中には、年若成女子を雇、銭を出し湯    汲に致し、涼台にて酒喰を致し候、客と取、如何之義有之、殊に門附と唱、唄・浄瑠璃・三味線を弾候    女子共を呼寄、酒之相手に致し候趣相聞、第一火之元にも拘り、不可然義も有之間、(中略)此上右体    之風聞於有之は無用捨召捕、厳重之咎可申付候(以下略)      まつしろ白な雪の肌へのあつくなり麦湯で夏も凌がれぬしぎ〟      ◇寿明(すめ)君御逝去 p142   〝嘉永三年六月廿四日、右大将家定公二度目御簾中寿明君御逝去之事    一条関白実通公息女、同大納言忠香卿之御妹君なり。     西丸御簾中寿明君御逝去、御年廿八日、御法号澄心院殿、東叡山葬、御別当。     (中略)    嘉永三戌年五月廿七日より、御簾中様御発病之由、六月六日之夜御逝去之由〟   〝落首 三尺の身丈けのものを壱丈(一条)とさすは姉御(姉小路)のつもりそこない〟      ◇寿明君御逝去余波 p146   〝七月三日、阿部伊勢守病気にて引込候処に、街の風説/\にて、因州養子一件に懸り合に付、切腹いた    し候共、又は西丸御簾中様御逝去一件に付、右大将様御尋に、なぜあの様成病身者を貰ひ来り候哉と被    仰しにより、伊勢守、姉ヶ小路、両人ながら引込候よし、専ら評判致し候処に、同七日朝出勤致し、八    日朝上野御法事ぇ参詣有之候。      阿べこべの悪魔がいでゝきたるとも吹払ふたる伊勢の神風〟         ◇吉原灯籠番附(作品名のみ。制作出展した店名は省略) p146   〝戌六月晦日より七月十五日迄 新吉原灯籠之番附     大門入右側江戸町一丁目         軒灯籠竹取物語図  ギヤマンの灯籠  釣りもの養老の滝  同絵合人形雪見の図       釣し物四季見立て  同深川八幡    同牛若十二段     大門入左側同二丁目分          伊勢物語兵庫屋の絵 筒井筒業平    井筒姫の図     江戸町一丁目入口    義経千本桜人形     同続、揚屋町木戸際迄         三河八ッ橋図    十六むさし見立て うちはおしゑ  浄るり外題   二幅対懸物     同右側揚屋町木戸より京町一丁目木戸迄   浅草寺境内図  三保の松原体  江戸名所図     同二丁目入口      昔し咄し見立てぢゝ・ばゝ     同続、角町木戸際迄   軒灯籠 名所尽くしの見立     同左側角町木戸先    内灯籠 向じまの景    内灯籠・軒灯籠・絹張武者・硝子細工・竹細工・善尽美尽・家毎に提灯・ぼんぼり十二三宛、花やかな    る事いわんかたなし〟     ◇吉原灯籠(作品名のみ。制作出展した店名は省略) p152   〝七月十五日より三十日迄 新吉原灯籠二の替り番附     大門入右側江戸町一丁目         内灯籠書画会のてい  同三井寺さくらつりがね班女       軒灯籠釣物角灯籠押絵 同額行灯島原の画    同釣り芝山二王境内図       内灯籠顔見世     同屏風へ鶴岡の画切ばり     江戸町二丁目入口            軒灯籠不破名古や押絵 通天閣の図       両国涼みの体  おしゑ五人男の見立       釣しものすわこ水   宇治川戦陣の体人形二つ 和藤内虎狩の体     同続揚屋町木戸際迄       釣しもの吉原古画の図 内灯籠春日見立     軒灯ろう廿四孝御殿場  和藤内       鉢の木最明寺どの   三幅対             同右側 揚屋町木戸より京町一丁目迄       軒灯ろう花車     遠見の画        紅葉の画    懸物三幅対       大津絵        秋の七草        切込灯籠            大門入左側二丁目分    軒灯籠秋の野虫籠釣しもの     同二丁目       軒ギヤマンつるし一つ くす玉釣し  くじら汐ふき  両国見世物       軒灯籠釣し 蘭丸・光秀人形 八文嶋の体  梅やしきの体  床の間三福対  十二ヶ月見立     同続角町喜木戸際迄       軒灯籠桃太郎     天拝山図   秋の七草    軒灯籠三幅対  妹背山の段       内灯籠狐子わかれ   軒灯籠三幅対 ほたる狩体     同左側角町木戸より先       内灯籠鎌倉御所    忠臣蔵三段目 瓢簞棚人形   髪ゆい床    国姓爺紅流       廿四(以下字を欠く)    右之外、種々の灯籠有之候〟     ◇真薦の馬に毛が生える・芳藤画 p155   〝七月、板橋宿手前、滝の川三軒家百性、種屋友次郎家ニて、真薦の馬へ毛の生し一件     是ハ去年七夕ニ備へ候真薦の馬を、家根へ上ゲ置候処ニ、今度是へ馬の毛生じて、引抜候ニ肉付候由、    見物人多く参り候ニ付、箱ニ入金網を張置て、仕廻置候よし、山師共買ニ参り候得共、売不申よし、地    頭御先手頭野馬忠五郎殿、七月廿四日見分ニ参り、右馬ハ屋敷ぇ預り置候よし。        練馬の大根種は生れども          真薦の馬がはへし評判     右之一件、七月下旬ニハ霊岸島、田中鉄弥と申者、右評判記を出板致し、売出し申候、又国芳弟子ニ    芳藤図ニて、左り甚五郎作の馬の生て野ニ出し処の壱枚絵出ル也。       右、真薦の馬ニ毛の生し次第之書ハ     頃ハ嘉永三戌年七月、王子滝野川村百性友次郎と申者、常/\神仏を記念致し、例年之通聖霊棚きれ    いニ餝り、灯明を上ゲ候処ニ、十四日夜明ヶ方、夢中ニ馬の鳴声を聞付て、友次郎目を覚し辺りを見廻    し候へ共、何の子細も無之、夫より身を清めて仏前を拝し見るに、不思儀(議)成哉、真薦草ニて作りた    る馬に生るが如く毛はへ候、家内之者奇異の思ひをなし、夫より隣家之者始メ村役人立合、地頭処ぇ訴    候処、御地頭様御見分之上、右馬ハ友次郎ぇ御預ケニ成候、誠ニ世に珍らしき事共也。         真薦馬、丈ヶ四寸五分、長サ七寸余        これハ真こも馬だといへば趙高笑ひ顔        腐れてはへたといわれては馬らなひ     右馬の画、板元ハ本郷四丁目、絵双紙屋丹波屋半兵衛ニ而、芳藤の画也〟     ◇絵双紙屋への通達 p158   〝七月十七日、通三丁目寿ぇ絵双紙懸名主八人出席、絵双紙屋へ申渡之一条     去ル丑年御改革、市中取締筋之儀、品々御触被仰渡御座候処、近来都而相弛、何事も徒法ニ成行候哉、    畢竟町役人之心得方相弛候故之義と相聞候旨御沙汰ニ而、此上風俗ニ拘り候義ハ不及申、何ニ不限新工    夫致候品、且無益之義ニ手を込候義ハ勿論、仮令誂候者有之候共、右体之品拵候義は致無用、事之弛ニ    不相成様心付、其当座限ニ不捨置様致世話、此上世評ニ不預、御咎等請候者無之様、心得違之者共ハ教    訓可致旨、先月中両御番所ニ而、各方ぇ被仰渡御坐候由、絵(一字欠)之義ハ前々より之御触被仰渡之趣、    是迄度々異失不仕様御申聞有之、御請書等も差出置候処、近来模様取追々微細ニ相認候故、画料・彫工    ・摺手間等迄差響、自然直段ニも拘、近頃高直之売方致し候者も有之哉、右ハ手を込候と申廉ニ付、勿    論不可然、銘々売捌方を競、利欲ニ泥ミ候より被仰渡ニ相触候義と忘れ候仕成ニ至、万一御察斗(当)請    候節ハ、元仕入損毛而已ニハ無之、品ニ寄、身分之御咎も可有之、錦絵・草双紙・無益之品迄取締方御    世話も被成下、御咎等不請様、兼而被仰論候は御仁恵之至、難有相弁、此上風俗ニ可拘絵柄は勿論、手    を込候注文不仕、篇数其外是迄之御禁制(二字欠)候様、御申論之趣、得と承知仕候、万一心得違仕候    ハヾ、何様ニも可被仰立候間、其印形仕置候、以上     錦絵壱枚摺ニ和歌之類并草花・地名又ハ角力取・歌舞妓役者・遊女等之名前ハ格別、其外之詞書認申    間敷旨、文化子年五月中被仰渡御坐候処、錦絵ニ歌舞妓役者・遊女・女芸者等開板仕間敷旨、天保十三    寅年六月中被仰渡之、已来狂言趣向之絵柄差止候ニ付、手狭ニ相成差支候模様ニ付、女絵而已ニ而は売    捌不宜敷、銘々工夫致、狂画等之上ぇ聊ヅヽ詞書書入候も有之候得共、是迄為差除候而は難渋可仕義と、    差障ニ不相成程之詞書ハ其儘ニ被差置候処、是も売方不宜敷趣ニ付、踊形容之分、御手心を以御改被下    候ニ付、売買之差支も無之、前々より之被仰渡可相守之処、詞書之類も追々長文ニ相認、又は天正已来    之武者紋所・合印・名前等紛敷認候義致間敷之処、是又相弛ミ候哉、武者之伝記認入、右伝記之武者は    源平・応仁之人物名前ニ候得共、内実ハ天正已後之名将・勇士と推察相成候様認成候分多相成、殊ニ人    之家筋・先祖之事相違之義書顕し候義御停止、其子孫より訴出候ハヾ御吟味可有之筈、寛政度被仰渡有    之、仮令天正已前之儀ニ候共、伝記ニハ先祖之系図ニ至り候も有之、御改方御差支ニも相成候間、其者    之勇略等、大略之分ハ格別、家筋微細之書入長文ニ相成候而は、御改メ被成兼候段承知仕、向後右之通    相心得、草稿可差出候〟    〈天保十二(丑)年以来の改革で強化した市中取締に緩みが生じているので、「改め」を行う「懸り名主」と絵草紙屋     に対して、もう一度趣旨を確認し徹底させようという通達である。時の風俗に拘わる絵柄は勿論、彫り・摺りに手間     のかかる高直のもの、そして是まで禁制であったもの、これらを再度禁じたのである。そのうえ万一おとがめを受け     た場合には原材料の損ばかりでなく、身分上の処罰も覚悟せよという圧力まで加えた。文化元年(1804)五月、錦絵・     一枚摺に和歌の類、草花・地名・力士・歌舞伎役者・遊女等の名前を除いて、それ以外の詞書きを禁止。天保十三年     六月、歌舞伎役者・遊女・女芸者の出版を禁止して統制を強化した。商売に差し支えが生じた板元達は銘々工夫して、     詞書き入りの狂画などを出してみたがあまり売れ行きがよくない、それで歌舞伎と言わず「踊形容」として、手心を     加え許可したところ商売が持ち直しのはよいが、今度は、詞書が長くなるなど、また緩み始めた。特に武者絵の緩み     は甚だしく、天正年間以降の武士の紋所・合印・名前等の使用を禁じられているのに、それらと紛らわしいものが出     始め、伝記絵に至っては、表向き源平・応仁時代の名前にして、内実は天正以降の名将・勇士に擬えるのものまで出     回っている。もっと検閲を強化せよというのである。当時『太閤記』を擬えた武者絵が、国芳・貞秀・芳虎等によっ     て画かれている。いうまでもなく、この通知は、こうした出版動向と改め名主の緩みに対する牽制である〉     ◇山車、差し止め p160   〝七月廿六日、当年、谷中惣鎮守諏訪大明神本祭り之積りにて、出し等も荒方出来致し候処に、今度御趣    意の御触に付、名主より差留る也     右祭礼に付、出し九本出来也     一 加藤清正人形の出し 善光寺寺坂   一 五虎将軍関羽出し 八軒町     一 熊坂長範の出し   上三崎町    一 鞍馬山僧正坊出し 下三崎町     一 戸隠明神天の岩戸  新古門前町   一 龍神干珠の出し  茶屋町     一 神功皇后の出し   中門前町    一 信玄川中嶋出し  七面前町     一 鎮西八郎為朝出し  日暮里               〆以上九本    右之通り出し人形も修復致し、加藤清正出し抔は新規に出来致し、浴衣単もの揃等出来致し、子供は襦    袢・半天の類ひ立派に出来致し候処に、今度御趣意触出し厳敷候に付、名主より差止に相成、出し人形    は町内に錺り置候。      本祭り見て日ぐらしと思ひしに       やなかになれど出しも渡らず〟         「嘉永三庚戌年 珍話 八月より極月迄」   ◇大筒一件 p170    〝八月八日 通三丁目寿ぇ絵草紙懸り名主八人出席致、市中絵草紙屋を呼出し、大筒一件之書付を取也。     大筒之狼烟相発候傍ニ、驚怖之人物臥居候体之錦絵、内々売々(買)致候者は勿論、彫刻并ニ摺立候者    有之哉之旨、厳重之御尋ニ御座候、前書被仰含候絵柄之義は、市中ニ験(ママ)類に携候者共、蜜々精々探    索仕候得共、決而無御座候、何様押隠取扱候共、私共不存義ハ無御座候処、右図柄ニ限り及見聞候義無    御座候、若向後見聞仕候ハヾ早々可申上候、外より相知候義も御座候節ハ、何様ニ被仰立候共、其節一    言之義申上間敷候、為後日御請印形仕置候、以上。                            絵草紙屋糶       絵草紙懸名主                     廿四人        佐兵衛殿初                       印        同外七人 名前    一 八月三日、通三丁目寿ニ於て、町方定廻り衆二人出席有之候て、絵草紙屋を呼出し御詮義有之候ハ      富士山の下ニ石火矢の稽古有之、見分之侍五六人床机をひつくり返シ倒れる処の画出候ニ付、御奉      行よりの御下知ニて買上ゲニ参り候よし申され候ニ付、懸り名主より絵草紙やを銘々吟味有之候処      ニ、一向ニ手懸り無之候ニ付、右之由申上候。    一 是ハ先達浦賀表ニ而、大筒のためし有之、其時出役之内、石河土佐守・本多隼之助両人、三拾六貫      目大筒の音の響にて床机より倒れ気絶致し候由の噂、専ら街の評判ニ付、右之画を出せしよし。    一 然ル処、右之絵、所々を穿鑿致候得共、一向ニ相知れ申さず、見たる者も無之候ニ付、八月八日、      寿ニて寄合、前書之通、書面を取也。    一 但し、大筒ためし横画一枚絵出候よし、是ハ浅草馬道絵双紙や板屋清兵衛出板致し候よし。    一 又一枚絵ニて、大鰒の腹の下へ大勢たおれ居り候処の画出ル、是ハ大きなる鉄炮故ニ大筒なり、大      筒の響にて倒れ候と云なぞのはんじものなり、板元芝神明町丸屋甚八なり、是の早々引込せ候よし。    一 雷の屁ひりの画も出候よし、是の大筒のなぞ故ニ、引込せ候よし。         ねをきけバたんと下りて扨つよく           長くこたゆる仕入かミなり〟     ◇落雷場所附 p175   〝八月十七日之配り    本郷金助町板木屋太吉板元ニて、為直画、落雷伊予政壱枚綴出ル。袋ニ、名倉の門口へ雷の怪我人を戸    板ニ乗せ、黒雲がにない込候処、肩ニ落雷場所附、入口の札ニ、骨接泥鏝療治所、応需為通(ママ)画、墨    ・丹・藍の三扁摺ニて、五十文也、尤無印也。    外科骨接名人先生一人紙布を着し、弟子六人、何れも惣髪ニて黒の羽織を着し、怪我致し候雷十人、外    ニ女雷壱人、子雷壱人、療治ニ来ル処の絵也、水戸殿御門の家根へ落し、瓦ニて尻を打やぶり、瓦のか    けを尻より堀ス処、茅場町へ落しハ土蔵ニて足をくじきし療治を致す、背骨を打折しハ焼べらへ当ル也、    脾腹を強く打し療治、腕の療治、角を打折、牛の角と植替ルハ、折角をのミニて堀、入替る、子雷ハ親    と一処出(ママ)、落て首をくじき、療治ニ母鬼抱て居る也、其外怪我雷大勢。     右図の肩ニ、落雷の場所附有之(五十八個所の落雷場所、省略)    右之絵、八月十七日売出し候処ニ、無判故ニ直ニ翌十八日取上ゲニ相成候処ニ、又々直ニ品川(以下数    字空白)重板致し、益々売出し候よし〟     ◇琉球人参府、番付一件 p206   〝十一月、琉球人行列付、一件之事                  北八丁堀鍛冶町新道      願人               品川屋久助                  芝神明前      相手               若狭屋与市     右番附ハ、先年天保十三寅年十一月参府之節ハ、神明前丸屋甚八板元ニて英泉画出板致し候処ニ、此    度ハ同処若狭屋与市、薩州屋敷へ願ひ、重久画にて出板致し、十月晦日琉球人到着の日ニ御免ニ相成売    出し候処ニ、北八丁堀品川屋久助、京都幸町通り錦小路上ル菱屋弥兵衛願済の板行、延一枚摺番附を摺    出し、十一月二日より江戸中絵双紙屋其外へ配り候処ニ、三日より五日迄三日の間ニ、右久助配り候番    附を若狭屋より人を出し、残らず取上ゲ歩行也、右故ニ久助、若狭屋へ参り懸合候処、薩州留守居方よ    り手人を出し取上ゲ歩行候よし申候ニ付、久助、薩州屋敷へ参り、用人友野市助ニ付而、右一件相尋候    処ニ、此方屋敷ニ而は一向ニ左様之事無之由申候ニ付、夫より絵双紙懸り名主、白山前町衣笠房次郎・    京橋弓町渡辺源太郎・新両替町三丁目村田佐兵衛・麻布谷町米良太一郎方へ参り、右番附売出し願出候    処、若狭屋与市願済ニ候間、重板不相成候由申候ニ付、久助申候ハ重板ニ而ハ無之、京都ニ而願済ニ相    成候板ニ而、私板が正銘御免の板行ニて、与市板が贋物なり、薩州の改印と申候ハ謀判也、縦令本判ニ    も致せ、板元一軒と限り候は如何之事ニ候哉、既ニ天保十三寅年御改正之後ハ株式御取潰ニ而候処ニ、    右板元一軒ニ限り候得ば、株ニ御座候間、御改正之御触ハ反古同前也、私板行御差留ニ候ば、私義直ニ    御番所ぇ願ひ出候、右ニ付而は各々方御名前も書入相頼候間、苗字を書入苦しからず候哉、又ハ御免無    之候哉、承りたしとて理をつめ断りけり。     一 斯て十一月十九日、琉球人登城ニ付、右行列附売候者共大勢出候処ニ、若狭屋出板の行列附を持       候者ハ壱枚三枚続ニて三十六文と言也、廿四文ニ付候得共売らず、是ハ卸百文ニ五枚故也、然ル       処ニ脇ニ同様之番附を売り居候男ハ十六文宛ニ売候間、売れる事数知れず、若狭屋の売子是を見       て不思議ニ思ひ、卸五枚の物を十六文に売候てハ、肥前(ママ)四文宛損をして売ハ奇妙也、四文銭       三文(ママ)なれバ売れる筈なりとあきれて見て居る処へ、安売の男来り申候ハ、貴様ハ廿四文ニ付       けられてなぜ売らぬといへバ、四文しか口銭がないから売らぬと言、此男申ハ、おいらハ十六文       ニ売ても壱枚で十文宛口銭有、貴様ハ若狭やのを売が、其様な物を売て、此せちがらい世せかい       で妻子がすごせるものかと笑ひけれバ、此者肝を潰し、うそならんと言、うそなら其直段ニて如       何程も可売と言、私しハ若狭屋ニて五枚の割ニて今朝十把買込候由、右之男より二把買入、早速       に若狭へ参り、今朝仕入候番附を御返し申候由申候処ニ、是程仕入之参り候処ニ返し候ハ何故の       訳合ニ候哉と申候得バ、右之男申候ハ、私ハ三十六文と申候ニ、脇ニて十六文宛ニ売候ニ付、此       者計売れ、我等ハ一向ニ売不申候故、右男ニ相尋候処ニ、新右衛門町定斎屋の裏に紐庄と申者有       之、此者行列附を十六文ニ売出し候ニ付、十六文ニ売候ても十文の口銭有之由ニ付、右番付ニわ       (二把カ)買取候とて見せけれバ、若狭屋与市あきれて肝を潰しけり。     一 右重板ハ紐庄計ニあらず、都合七板ニて、本板若狭屋共〆八板也。右行列附、跡より出板之分ハ、       品川屋久助二板、紐庄二板、茶吉壱、唐がらし常一、大丸新道金兵衛、是ハ古板也、都合本板若       狭屋共八板也。     一 右重板ニ付、若狭与市より懸り名主渡辺源太郎宅へ久助を呼出し相尋候は、其方ハ若狭屋与市の       重板致し、横行ニ卸売致し候由、如何之義ニ候哉と相尋候処ニ、是ハ先日芝切通しニてならべ本       やの見世へ、板摺躰の男、右番附を凡壱〆計持参り、買呉候様申候得共、銭無之とて不買、然ル       処ニ私居合候ニ付、如何程にても宜敷候間、買呉候様申候ニ付、直段承り候処ニ金壱歩二朱也と       申候ニ付、代呂もの改見候処ニ、中ニやれも有之候間、是ハやれのはね出しニて候哉と相尋候処、       左様之由申候ニ付、左様ならバ反古の直段にて弐貫文ニて買取由申候処、右之者もて余し候体ニ       て早速売渡候ニ付、右之品仕立致し、百文ニ十六枚宛ニ売出し候由申聞き致し候得共、是真赤な       いつわりなり。     一 斯て十一月廿三日、八丁堀より向両国へ出候ならべ本屋新助方ニて、右行列附九枚を両人来りて       取上ル也、壱人ハ革羽織を着、壱人ハ職人躰ニて腹掛を致し居候由、名前相尋候処ニ、衣笠房次       郎召仕之由ニ候間、相渡候、渡辺源太郎・衣笠房次郎、絵双紙懸りにて行列附へ割印出せし名主       也、右故ニ源太郎宅ニて右番附之一件相尋候処ニ、分明なく割印先判が衣笠故ニ、白山へ可参由       申候ニ付、早々白山へ参候。     一 久助、衣笠へ参り相頼候ハ、頼(私カ)事今度琉球人御免之番附を売出し候処、若狭屋与市先板願       済之番附にて、私番附ハ重板之由御差留ニ候得共、私方が正銘の御免の板行ニて、与市板が贋物       也、御奉行所ニて御免之板行ニ各々方之改印ハいらず、御両人之改印有之候ハ是慥ニ贋物之証拠       なりと申候へバ、房次郎申候ハ、此方にて改候下絵ニハ、御免とハ無之、久助、乍憚拝見仕たし       と申ニ付、出し見せ候処ニ、是ニハ御免とハ無之、久助申候ハ、是偽り之贋物ニて、改絵にはヶ       様ニ致し売出し候番附は是也とて出し見せ候処ニ、是ニハ御免と書有之候。     一 右は若狭やニもあ(ママ)だかまりの落度有之、名主へ申分無之義ニ付、久助是を付込、重板を二枚       ニ致し大行ニ売出し候ニ付、又々懸り名主へ呼出し相尋候処ニ、此度ハ銀座にて壱〆たらず反古       の直ニて買取候由申わけ致し候得共、是も真赤な偽りなり。        但、晦日頃、京橋ニて壱〆半壱歩二朱ニて買取候よし、是も偽り也。     一 若狭屋ハ薩州屋敷、其外名主共へ多分之賄賂致、琉球人行列附を願ひおろし、〆売致候積りニて、       四文計懸り候者を、五枚ニ売出候処、重板七ッ出来致し十六枚ニ売出され、七十両計の損金致し       候よし。         十分に是で与市と思ひしにさて久助に灸をすへられ       久助、芝切通しニて行列の摺本を紙屑の直ニて買取候と偽り申けれバ、         久助もくずにハせずに銭もふけ重板の名前の歌、          あの人ハ常々金兵衛もふけるから、随分重板もひも庄久しいものだとおちつひて茶吉で居     一 紐庄も若狭屋を贋ざれバ売れぬ故に、若松屋佐巾と致し候ニ付、          ふせた/\若松佐巾(サハバ)、江戸へさかへて、板元のおめでたや       川柳         大井川下官も王の気で渡り         神無月晦日唐人まつを売       渡辺源太郎も久助ニハてこずりければ、         渡辺(の脱カ)手にも及ばぬ鬼のびら〟     ◇国芳画、牛若丸弁慶五条大橋の立ち回り、大当たり p209   〝十月十日配り    日本橋遠彦板元、国芳画にて、源牛若丸京都五条橋ニて弁慶と立合之処、八天狗助太刀致し候図。    鞍馬山僧正坊、彦山の豊前坊、大峯の善鬼、飯縄三郎、愛宕の栄術太郎、大山伯耆、比羅治郎坊、雨降    山相模坊、      以上八人也、右之絵大当り也        牛若の五条の橋が大当り         これ八天狗の働きとみえ〟     ◇敵討ち p209   (十月十八日、八丁堀にて、中橋下槙町の米屋越後屋の定吉・政吉兄弟、親の敵・宅次を討つ)     ◇敵討ち p213   (十月二十二日、上州あわやの村にて、金井千太郎、父の敵・金井忠右衛門父子を討つ)     ◇相撲・鬼若力之助 p214   (十一月二十二日、回向院において相撲興行)   〝初日より土俵入り致し候    丈ケ四尺一寸、重サ十八貫目、鬼若力之助 少年八歳     生国上総国武射郡戸田村にて、相撲年寄浦(ママ)の浦与一右衛門門人に相成候〟    〈下記の国芳画には「勝浦与一右衛門門弟」とある〉
     「鬼若力之助」一勇斎国芳画(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)     ◇国定忠治、磔刑 p211   (嘉永三年十二月二十一日、上州吾妻郡大戸の御関所において、国定村忠次郎、磔の刑に処せらる)   〝国を定め忠義治(ヲサメ)るとも行ず国を騒がす不忠ものなり    剱逆で関所を越る大戸ものかゝる仕置きは国の定めか〟     ◇高野長英一件落着 p215   〝十二月廿七日、高野長英一件落着 牧野備前守殿御指図    存命に候得ば死罪。然る処、十月晦日召捕に相成候節、自害致し相果候に付、死体は翌日牢屋敷へ遣し、    大瓶へ塩漬に致し、持人十六人懸りにて、浅草溜へ遣し、囲之内へ入置て番人を附置也、十二月廿七日    落着に付、死骸取捨也、但し小塚原御仕置場へ埋る也〟     ◇琉球使節、江戸参府 p232   〝十一月十九日、琉球人登城〟    (正使・玉川王子以下の行列名、略)    ◯『筆禍史』「浮世絵師説諭」p154   〝同年八月十五日、錦絵の認め方につき、浮世絵師数名役人の糾問を受けたる事あり、『御仕置例題集』    によりて其憐愍書の一節を左に禄す     一体絵類の内人物の不似合の紋所等認入れ又は異形の亡霊等紋所を付け其外時代違の武器取合せ其外     にも紛敷く兎角考為合買人に疑察為致候様専ら心掛候哉に相聞え殊に絵師共の内私共別て所業不宜段     入御聴重々奉恐入候今般の御沙汰心魂に徹し恐縮仕候    以下尚長々と認めて、此度限り特別に御憐察を乞ふ旨を記せり、其連名左の如し              新和泉町又兵衛店      国芳事  孫三郎              同人方同居         芳藤事  藤太郎              難鞘町六左衛門店      芳虎事  辰五郎              本町二丁目久次郎店清三郎弟 芳艶事  万吉              亀戸町孫兵衛店       貞秀事  兼次郎       南隠密御廻定御廻御役人衆中様           隠密といへるは現今の刑事巡査(探偵)の如きなり、浮世絵師数名はあやまり證文にて起訴さるゝ事も    なく、平穏に済みたるなり      〔頭注〕浮世絵師四名    いづれも歌川派の浮世絵師なり、国芳は初代一陽斎豊国の門人、芳藤芳虎芳艶は国芳の門人、貞秀は国    貞の門人なり     国芳  一勇斎 井草孫三郎     芳藤  一鵬斎 西村藤太郎     芳虎  一猛斎 永島辰五郎     芳艶  一英斎 三輪 万吉     貞秀  玉蘭斎 橋本兼次郎〟    ☆「嘉永四年 辛亥」(1851)   (浮世絵)   ・正月、一立斎広重の『東海道風景図会』及び『略画立斎百図』初編、奇特百歌僊』『艸筆画譜』四編出       版。   ・八月、葛飾為斎の画ける『興歌手向花』出版〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・正月十九日より十日の間、狂言座十三代目市村羽左衛門、竹之丞と改名、相続き寿狂言興行   ・春より所々に芝居興行あり。谷中惣持院門前明地、湯島天神社地、茅場町薬師境内(開帳に付きてあり)    本所回向院境内等なり   ・春より浪花の幇間(ホウカン)市丸新玉などいふもの、江戸の戯作者十返舎一九が編の「道中膝栗毛」を趣向    とし、世にいふ茶番狂言の脚色(シクミ)にて、滑稽を旨とし、両国西詰にて興行す。見物多し(其の後所    々へ出る)   ・三月、吉原角町万字屋茂吉、江戸中へ遊女大安売りの報帖(ヒキフダ)を配る(これにならひし家二軒あり)〔以上四項『増訂武江年表』〕   ・三月朔日、下総諏訪明神、浅草幸竜寺にて開帳、今日より初、六十日の間也   ・当年天満宮九百五十忌に当る、武州入間郡北野神社、当月(三月)廿五日より開帳    〔以上二項『きゝのまに/\』〕    ・四月朔日より六十日の間、茅場町薬師如来開帳。参詣多し(宝物の内に豊太閤の馬印千なり瓢の一を見    する。木製にして金箔剥落せり)。境内芝居興行あり   ・四月十一日朝、荏原郡大井村御林町の海浜へ小鯨一喉よる(長さ三間余、頭長さ三尺八寸余なり。死に    て後なり。浅草寺奥山へ出して見せ物とす。臭気たへ難きゆゑ見物少し。又深川にて得たるスナメリと    いふ九尺計の魚を鯨と号し、両国橋畔にて見せ物とす)   ・四月二十日より六十日の間、東本願寺徳本寺に於いて、三州勝鬘皇寺(シヨウマンコウジ)聖徳太子像開帳(土    佐光信筆「太子伝絵巻」四幅、呉道子仏画、其の外霊宝多し)〔以上三項『増訂武江年表』〕   ・五月五日より六十日の間、回向院境内に於いて、豆州八丈島為朝明神像開帳(境内へ見せ物多く出る。    縫物細工といふ見せ物出る。其の内に二丈余の大黒天あり。腹の内より寿老人出て躍ることあり)    〔『きゝのまに/\』〕   ・秋より、猿若町一丁目中村勘三郎が芝居にて、中古下総国佐倉にて事ありし佐倉惣五郎が事跡を狂言に    取組興行、俳優市川小団次この役をつとめる(柳亭翁が作の「田舎源氏」といふ稗史(ハイシ)とつゞり合    せたり)。見物の貴賤山をなし、佐倉の村民も此の噂をきゝ、競うて江戸に来り此の芝居を見物せり    (江戸よりも芝居掛りの者、各報賽として彼の地の霊社へ詣して香火をさゝげしとぞ)   ・巣鴨染井の里造り菊今年は甚だ少し 〔以上二項『増訂武江年表』〕   ・(九月)市村羽左衞門改名して、今秋上京せんとて名残狂言、熊谷蓮性をせしに、秋暑つよく見物少な    き故、暫く休み居たる内、不快にて当月十二日死す、表向葬礼は廿日也、菩提所本所押上大雲寺也〟   ・此説猿若町二丁目団十郎全快、狂言不動に成る   ・十月廿七日、狂言座中村勘三郎死、今日葬送、大雲寺檀家也、役者共大勢参る、又此頃市村竹之丞口寄    と云う戯れ浄るりを、浅草花川戸にて催すと云う 〔以上三項『きゝのまに/\』〕   ・十月、両国橋西詰に虎の見せものとて出る。是れは豊後国より生捕りし猫の大なるものなりといふ(声    云ふ、是の時其の鳴く声の聞えざる様、拍子鳴物にて紛らしたりといふ)   ・十月廿七日、狂言座中村勘三郎死、今日葬送、大雲寺檀家也、役者共大勢参る、又此頃市村竹之丞口寄    と云う戯れ浄るりを、浅草花川戸にて催すと云う 〔『きゝのまに/\』〕   ・十一月六日、画人大西椿年卒す(称竹之助、字大寿、号楚南、運霞堂、浅草寺地中金剛院に葬す)    〔『増訂武江年表』〕   ・十一月十五日、鷲明神縁日、堀田原池田屋が催しにて、太鼓持女芸者召し連れ、舟にて浅草の鳥明神に    詣で、夫より向島へ渡り、大七にて支度し、都て柳亭が田舎源氏の学びにて装飾し、土手通りを大川橋    の方へ練り行き、橋の辺に船は待せ置り、小屋形の舟に絹の幕を打たり、此辺往来繁き所にて惣踊りを    なす、見物夥しと云う、此事聞へて御咎にて、廿三日北御番所にて手鎖に成たる者二十六人、内九人は    女也、皆浅草寺内猿若町山の宿辺の者共也、是等其所へ預けになり、一件済む迄は池田が失費成べし、    落書、はねた名をとりのまちぞと向島むかふみずなるばかをつくして、叱られたばかりですむか隅田川    くろい積りの似せの紫、御咎めはしれた看板煉つたのは膏薬ならぬ土手の行列 〔『きゝのまに/\』〕   ・〔無補〕十一月十五日、鷲明神縁日、堀田原池田屋が催しにて、幇間及び女芸者召連れ、舟にて浅草の    鷲明神に詣で、夫れより向島へ渡り大七にて支度す。道中すべて柳亭種彦作「田舎源氏」をまねびて装    飾し、土手通りを大川橋の方へ練り行く。舟は橋の辺へ待たせ置きたるが、絹の幕を打ちたり。此の辺    往来繁き処なれば、見物夥しきに乗じ総踊りを演ず。此の事官に聞へ咎にて、二十三日北御番所にて手    鎖になりたる者二十六人(内女九人)なり 〔『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・諸人編(アヤ)藺笠(イガサ)をかむる事行はる。間もなく廃れたり   ・海老色(エビイロ)といふ染物はやる    ◯『藤岡屋日記 第四巻』(藤岡屋由蔵記)   「珍説 嘉永四亥年」   ◇市川団十郎逝去 p398   〝五月廿三日、八代目市川団十郎死去之由にて、追善発句を売る也    是は五月五日初日にて、市村坐にて市川団十郎、鳴神上人、其外曽我・八百屋お七にて五役相勤候所に、    此間より持病の疝癪差発りて打伏居候に付、父海老蔵・九蔵両人にて代り相勤候処に、今日昼頃、右病    差発り、二時計の間気絶致し居り候に付、海老蔵は舞台より狂言之儘にて欠付候由、惣役者共見舞にて    大群集致し候よし、娘子供はなきわめくも有之候よし、右に付、廿四日廿五日まて(ママ)売歩行(ママ)也。     当月廿三日、八代目市川団十郎無常の風にさそはれ、惣役者より追善手向の発句、寺は芝増上寺地中     常照院、葬礼は廿五日九ッ半時之よしにて、市中を売歩行也。       ほんとうに死にもさんしやく其内に響はたかき鳴神の芸     右追善手向之発句、四板出来也、何れも先年出板之古板を相用ひ候なり、右板本四軒は       深川八名川町 叶屋源吉    八丁堀七軒町 松坂屋菊次郎       霊岸島川口町 田中鉄弥    下谷山崎町  才治     〆四板也〟   〝八代目市川団十郎病死致し候処に、成田不動尊の御利益に依て蘇生致し右口上の番附売来る也、右番付    は半紙一枚摺にて、八代目風団之上に起返りて不動尊拝し居り候図を書〟    〈口上及び図略〉     ◇尾上松助逝去 p420   〝七月三日、尾上松助死去致して今日葬送出るなり、菩提処、一向宗東派、今戸妙徳山広楽寺也。    右松助事は故菊五郎惣領に候処に、此度死去に梅幸・菊次郎も居りながら、追善手向の発句も出さず、    内証同様にて出し候事、なげかわしき事也、尤大出(ママ)になり候菊五郎の本葬さへ出さぬ事なれば、尤    の事に候得共、不人情の至りなりけり。    扨又八代目、死にもせぬに追善にて大騒ぎ致し、死たる松助は一向に沙汰も無之候故      死にもせぬ追善見ます大騒ぎこれは真事に音羽やもなし〟     ◇大蜘蛛百鬼夜行絵番付 p429   〝七月廿五日取上ゲ、大蜘蛛百鬼夜行絵之番付之事     神田鍛冶町二丁目太田屋左吉板元ニて売出し、盆前ニ配り候処、今日御手入ニて残らず御取上ゲ也。       こりもせず又蜘蛛の巣に引かゝり         取揚られるめには太田や      右番附は、袋ニ上ニ蜘蛛が巣を懸ケし処を書、正面ニ碁盤ニ大将の刀掛、紫のふくさをかけ在、燭     台を立、碁もならべ有之、化物評判記ニ在。      番附ハ、      昔々在た土佐絵の巻物ニ碁、今ハ野暮百気夜興、化物評判記さへ箱根の先ニもなき。       中ニ百鬼の絵五十計有之、正面ニハ奢と書し玉の人物、鼠色の着物着しふんまたがり、大勢の百      鬼ニ手をとられ、是をとらへ又は喰付、或ハ八方より鑓ニて突懸ん(ママ)候図也、上下ニは右之外題      書有之、左之通り也      実と見へる       忠と見せる      善と見へる       虚の化物        不忠の化物      悪の化もの      倹約と見へる      金持と見へる     貧客と見せる       驕奢之化物       乏(ママ)人の化物    金持の化物      利口と見せる      としまと見せる    新造と見せる       馬鹿の化物       娘の化もの      年増の化物      医者と見へる      女房と見せる     革と見せる       坊主(の脱)化物    妾の化もの      紙烟草入の化物      親父と見せる      米と見せる      若く見せる       息子の化物       さつま芋の化物    親父の化もの      おしやう様と見せる   冬瓜と見せる     鉄瓶と見せて       摺子木の化物      白瓜の化物      土瓶の化物      殿と見せて       山谷と見せる     ふとんと見せる       手玉の化物       色男の化物      ふんどしの化物      火縄と見せる      鴨と見せる      鮒と見せる       麦わらの化物      あひるの化物     こんぶ巻の化物      鰻と見せる       武士と見せる     物識と見せる       あなごの化物      神道者(の脱)化物  生聞の化物      銀と見へる       血汐と見せる     佐兵衛と見せる       鉛の化物        赤綿の化物      猿の化物      お為ごかしニ見せる   不思議ニ見せる           欲の化物        造化の化物    一 右は七月廿五日、板木・絵共不残御取上ゲニ相成候処ニ、直ニ重板出来也                            八丁堀鍛冶町                                品川屋久助                            本郷四丁目                               丹波屋半兵衛      右二板出来ニて安売致ス也。        生ケ取て丹波やからハいでる筈品川からもいでる化もの〟     ◇佐倉宗五郎狂言大当たり p437   (八月から市川小団次の佐倉宗五郎新狂言「東山桜荘子」大評判大入大繁昌)   〝中村坐惣役者中、宗吾詣の絵三枚続き、飯田町人形屋太吉方にて出板致し、十月廿日過には配り候積り〟   〝十月廿日過に配り候積り、中村坐役者中松翁大明神詣之図三枚続之絵、漸く霜月十一日配りにて出候〟   〝極月十二日、八丁堀茶金、宗吾の板、半紙六図も摺込候て、福嶋三郎右衛門へ板を差出し候由、右騒ぎに    て、布袋市も商内を三日休み候よし、紐庄は一向構ひ不申候よし〟     ◇市村竹之丞逝去 p456   〝八月十九日     市村竹之丞死去、行年四十一歳、法名、現童院香誉家橘信士、本所押上浄土宗、長行山大雲寺葬。      常なき風に誘れし花橘狩野之助の昔しを思ひて        極楽の蓮の坐元のたち花や歌舞の卉の仲間入して      桃栗山人        呼とめむかいもなぎさの熊が谷を帰らぬ旅の名残にぞしつ  梅の屋      (中略)    右竹之丞墓処へ尾州の奥女中参詣致也、竹筒・生花壱対上ゲ候よし、右花に短冊を付る、追善の句に、      千代経べき名に有ながら照月の雪に折たる竹ぞはかなき    市村竹之丞、生年三十九歳共云、法名、位牌には祥運院賢誉竹栄居士と有之由、辞世の発句等はなし〟     「珍説 嘉永四亥年」   ◇本朝振袖之図 p466   〝九月三日の配りニて、      本朝振袖の始 横絵壱枚       但し袋ニ、目吉の化物、蝋燭ニて累・与右衛門土橋之図     板元神田久右衛門町板摺彦兵衛、糶配りハ馬喰町三丁目徳三郎也、右板行ハ、去ル御やしきニて趣向     致し、今度株敷再興之事を工夫致し、画板行ニ致し彦兵衛へ遣し、売候様申ニ付、一向ニ訳も存ぜず     売出シ候よし、素戔鳴尊妖怪調伏之図、稲田姫神鏡を持、是より光明暉き妖怪驚き騒ぎ候処、右光り     ニ見へ候ものハ、売女屋・髪結床・絵双紙や・箱や・玉子や・其外さま/\数知れず、又株の定りし     ハ尊の前へ出、平伏致し、手判ヲ押居る処ぇ、戸(ママ)腐問屋・両替や・水鳥や、其外也。      右絵、初四枚宛ニ配り、三十六文売ニ致し候処ニ、評判夥敷相成、百文ニ売候やからも有之候由、     右風聞ニ付、九月七日定廻り同心、右絵双紙やニ釣し有之候を残らず取上ゲ歩行候よし、其後一向ニ     御沙汰も無之内ニ、重板(二板)出来ル也、右二軒は橋本町板摺ニ、浅草地内ならべ本やのよし、右重     板出て六枚ニ卸候よし        株式がそろ/\極りそウさのふ(素戔鳴尊)も          不正のものはいなだひめ(稲田姫)也〟
   「本朝振袖之始 素盞烏尊妖怪降伏之図」葛飾北輝画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)   ◇虎の見世物 ④492   〝十月九日より 於西両国広小路、虎の見世物興行仕候  見料三十二文、番付十六文     正面の看板【二間四方計の大看板に墨絵の虎を画、竹三本】    左右之立看板、右は豊歳国の産(賛カ)。左りは虎斑の毛物、天幕には竹に虎、提灯を十一つるし、幟    豊歳国の産、虎ふの毛物二本立、木戸番は竹の大形の模様半天揃也      口上    一 虎の形形体惣身一面金毛色有、頭に八将軍の八字を頂き、全体は八方無敵黒毛の八字を負ひ、画虎      に等猛獣也。    一 是は対州の深山にて生どりし山猫の由、彼国にても珍敷ものなるよし、至て猛き獣なり、鳥の生餌      計喰し候よし。       山猫かともあれ猛き獣をどこの山でかよくとらゑたり〟    ☆「嘉永五年 壬子 二月閏」(1852)   〈浮世絵年間〉   ・一勇斎国芳の画ける、彩色を以て有名なる錦絵、橋本屋白糸の像出版、彫刻師は彫竹、版元は赤阪の金    吉なり。(武江年表本年の條に「猿若町二丁目市村羽左衛門が芝居にて、享保の頃青山辺なる鈴木主水    といふ武士、内藤新宿の賤妓白糸と倶に情死せしこと俗謡に残りしを狂言にしくみて興行しけるが殊の    外繁昌しければ、俳優二代目板東秀佳、内藤新宿北裏通成覚寺へ、白糸が墳墓を営みたり」とありて、    此の国芳の画ける白糸に紛せる像は板東秀佳の似顔なり   ・此年国政(二人あり、初の国政にあらず)二代国貞と称す   ・武江年表、本年の條に「豊国(初代国貞をいふ)が筆に天明の頃より文化頃までの俳優似顔絵を梓行せ    しむ」とあり。即ち『俳優見立五十三次』をいへり     (一般)   ・二月十九日、千駄木七面坂下紫泉亭(植木屋宇平次といへる旧家なり)梅園をひらく。又四時の花を栽    へ、盆種の艸木を育て、崖のほとりに茶亭を設け眺望よし。諸人遊観の所となりて、日毎に群集するも    の多し   ・閏二月下旬より、浅草寺奥山に鯨細工看せ物出る(鯨の骨を以て長さ十間の鷲、その余の物を作る。色    々の偶人のはたらきあり。招きに弁財天、時政の木偶、大蛇をつくる。細工人浪花の大江忠兵衛・長谷    川平吉・竹田由三郎等なり)   ・幼児の手遊びに、河豚の皮を茶碗の類へ張り、竹にて打ちて音を出す事はやり。街に售ふ   ・初音人形と号し、木偶の腹を押せば笛の音ありて、啼声を出すもの京より下りて行はる   ・春の頃より、浅草奥山乾の隅林の内六千余坪の所、喬木を伐り梅樹数株を栽へ、また四時の草木をも栽    へ、池を掘りて趣をなし、所々に小亭を設く。夏に至り成就し、六月より諸人遊観せしむ(千駄木植木    屋六三郎の発起なり)   ・七月、魯西亜船一艘、我が国の漂流民三四人を載せて浦賀に来る   ・八月下旬より百日の間、麹町平河天満宮境内にて子供芝居興行す   ・十月、雑司ヶ谷法明寺会式中、境内に蕃椒(とうがらし)をもて大なる達磨をつくる   ・十月、山田屋某、浅草奥山粟島社の後に園地を拓き、菊を植えて遊覧に供す、見物多し。茶店を出し餅    を売る    〈一般年間〉   ・近年、一の字つなぎ二の字崩しといふ染物はやる。是は町火消一番組二番組救火卒(ひけしにんぷ)の目    印なるを、それと知らで求むる人あり  ◯『藤岡屋日記 第五巻』「嘉永五壬子年 珍説集【正二三四】」   ◇中村歌右衛門逝去 ⑤46   〝嘉永五壬子年二月十七日      四代目中村歌右衛門死去。     【大極上上吉/給金千両】中村哥右衛門、俳名翫雀。     江戸長谷川町産ニて、藤間勘十郎忰也、幼名吉太郎と云、其後亀三郎と改、森田坐ぇ振付ニ出ル也、    十七歳之時、三代目加賀屋哥右衛門の門弟となり大坂へ上り、中村藤太郎と改メ、又鶴助と改、其後芝    翫となり、文政十亥年江戸中村坐へ下り、其後中村哥右衛門と改名也、然ル処ニ、嘉永二酉年八月、於    市村坐名残狂言致し、師匠中村玉助十三回忌ニ付、上坂致し候処ニ評判宜敷、夫成ニ大坂道頓堀中に芝    居へ出勤致し、当春ハ狂言四海波平清盛と申名題ニて、青砥の善吉を加へ、大切所作事六哥仙、何レも    古めかしき乍事、御蔭を以大入大繁昌仕候、然ル処、二月十三日之頃より腮の下へいささかの腫物出来    候得共、押て罷在候処に、清盛・黒主抔の冠の紐を結び候ニ邪魔ニ成候故、医師ニ相談致し候得ば、腫    物ニ致候へバ出勤も成兼可申と申候ニ付、大入之芝居一日も難相休候間、無是非ちらし薬相用候処、障    り候哉、十五日於芝居、俄ニ病気差重り、療養手当致し候得共不相叶、十七日八ッ時、無常の風ニ誘わ    れて終ニはかなくなりニけり。     俗名中村哥右衛門、法名哥成院翫雀日龍信士、行年[(空白)]、浪花中寺町浄円寺葬。          辞世       如月の空を名残や飛ぶ雀              世の中の芝居を於て二の替り        哥舞のぼさつの樂やせん      〈「死絵」には〝世の中の芝居をすて二の替り歌舞のほさつの乗こみやせん〟とある〉       わざおぎの神とも人のあおぎしを         仏の数に入りてはかなし                         加茂の屋       武蔵野をしきりニ恋しきじの声          川柳       御病死の御入りと極楽へ哥右衛門       哥右衛門回向だんはな三ッ具足       金主ハ往生哥右衛門に入れ仏事      中村哥右衛門葬送     葬送行列先ぇ、寺七ヶ寺行列、挟箱徒四人、侍四人宛也、役者六十人計上下ニて二行、棺は乗物也、    左右へ弟子十五六人、乗物之先ぇ、位牌三尺計、忰福助持也、乗物之跡ぇ、弟子三四十人立也。       中村哥右衛門翫雀死去ニ付、     御当地御名残之節は天日坊ニ涙を残し、其節の入は皆様御存じと見て、       天日無藤石橋が一六六三十六       哥せん引れんからば(ママ)い       清盛し七八五十六死す          菅原の哥       浪波津に其名も高きうら梅も        時吹風に散りて哀ぞ     一 右、大海屋より出板之涅槃像の絵ハ中彩色三篇摺ニて、前ニ名倉弥次兵衛・野田平・国芳・藤間       勘兵衛、其外役者大勢なひ(泣い)て居ル処の絵也、二枚絵ニて、鶴林袋入配り、壱部ニて壱匁五       分売、大評判也。       抑去年江戸で死したる江戸ッ子の尾上菊五郎の忰松助死去の節ニは、追善の絵一枚も不出、然ル処ニ    今度大坂ニて死去の哥右衛門追善の絵いでる、共/\凡出板六十三番、外ニ写本彫懸共、都合八十二番、    板元三十三軒也。     右之内ニて馬喰町三丁目江崎屋板にて清盛大入道の画、当り也、又和泉橋いせや平吉板の浪花土産と    云、極楽よりの手紙の文言ニて、竹之丞と哥右衛門両人ニて口上の画、梅の屋作ニて面白く、外ハ残ら    ずはづれニて損金也。     右ニ付、川柳、丸鉄の作、       追善の跡の始末は天徳寺     右は追善の絵余り多分出候とて、絵双紙懸り名主福嶋三郎右衛門より手入ニて、二月廿七日板行取上    ゲ之上、御奉行所ぇ伺ひニ相成候、右之内堀江町三丁目大梅屋久太郎板ニて、釈迦の涅槃の処彫懸ニて、    板上ル也。       大海も呑勢ひで懸りしが         寐釈迦となりてみんな損金     又北八丁堀品川屋久助ニて、鞘当・清盛・狐忠信道行、三番出来、残らず上ル也       静ニて清く盛んニ売積り         鞘当違ひミんな香奠〟
   「中村歌右衛門」死絵 無款(東京都立図書館・貴重資料画像データベース)
   「中村歌右衛門」死絵 酔放散人画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)
   「中村歌右衛門」死絵 酔放散人画(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)   ◇梅屋敷 p48   〝二月、梅やしき  北本所請地、小村井(ママ)村 名主 小山孫右衛門    右孫右衛門地面、去亥年梅樹数多植込、当子二月梅屋敷全く庭出来候に付、二月十八日始て御成有之候      遙々と尋て爰へきた本処花にひかれて誰もこむらひ〟    〈亥年は嘉永四年〉       ◇花屋敷 p48   〝(二月)花やしき  駒込千駄木団子坂  植木屋宇平次    右宇平地面へ梅桜、其外植木夥敷差置、花屋敷に相成、子二月十九日より四季の花草木、庭開き致し候      駒込でいざ見に行ん山の手の是ぞ花ゆへ団子坂まで〟     ◇大相撲 p57   〝閏二月八日、子春相撲、於両国回向院に興行    (勧進元・武隈文右衛門。大関、鏡岩・剣山)    当相撲上出来は、雲龍・響灘・象ヶ鼻。      雲龍は響灘にて巻揚て象が鼻にて降らす大雨    不出来なるは、小柳・荒馬・常山      小柳の風に靡くはよけれ共あら馬ならでまけが常山〟     ◇鯨大細工 p64   〝閏二月廿八日初日 浅草鯨大細工之事    浅草観音奥山念仏堂之脇に、鯨にて大細工之見せ物有之、まねき看板に龍の頭にて姫乗り居、宝珠を持    二人居、俵富太人形、鯨細工の鷲開き、中より太夫出る也。右に義太夫、左に富本出る也。    弘法大師鐘をたゝき居候が、引くり返ると唐人を天人四人上る也〟     ◇まねき猫 p65   〝嘉永五子年春 浅草観音猫の由来    浅草随神門内三社権現鳥居際へ老女出て、今戸焼の猫をならべて商ふ、是を丸〆猫共、招き猫共いふな    り、是は娼家・茶屋・其外音曲の席等は余多の客を招き寄候とて、是を求め信心致す也、又頼母子・取    退無尽等は壱人にて丸〆に致候とて是を信じ、又公事出入・貸借等も此猫を信ずる時は勝利となりて丸    〆に致し、又々難病の者、此猫を求め信心致し候説時は、膝行は腰が立て親の敵を討、盲人は眼が開き    目明しと致し、又は脚気症等よい/\にて歩行自由ならざる者も、此猫を信ずるがさいご忽ち両足ぴん    /\と致し、余り退屈だから昼飯に小田原迄初鰹を喰に参り候との評判にて、飛脚屋より京都へ三日限    の早飛脚を頼まれ、余多の貸銀を丸〆としたるとの風聞より、欲情の世界なれば、我も/\と福を招き    て丸〆/\。      丸〆に客も宝も招き猫浅草内でこれ矢大臣〟     ◇はやり物 p66   〝壬子年春流行角力    鉄棒   割竹   大宗山  番太郎    稲荷鮓  茶飯野  翁山   三途川    万久山  玉子豆  ほらヶ嶽【引分】  土場講釈     三ッ星  玉水   鹿裏   吾妻下駄    居夜鷹  引張   柳川   竹沢    淡嶋   権渕   赤大黒  袴屋    木地新【引分】  箱清  夏鴨  正覚坊    富士松  鶴賀峰  経木山  竹の皮    端唄川  江戸節  雁鍋   立場山    住吉   紅勘   おてゝ山 軽業    源氏画  八犬士  七分屋  百膳    海老屋  河邑   宇治川  都一    成田山  小団次  塙野   夏かけ    矢の倉【引分】 玉ヶ池  角筈  今井谷    多紀音  伊東山  有馬川【引分】  丸亀    三十番〟     ◇平河天神、開帳 p82   〝麹町平川天神、二月廿五日より六十日の間開帳、十日之日延にて四月五日迄開帳也。    天満宮神影、御真筆神影。    右開帳に付、作庭三ッ出来、□(ママ)納金・四神剣・発句れん、外に額種々有之、本哥之類も有之、境内    に曲馬、柳川一蝶斎手妻、大坂下り鉄割藤吉、同伜音吉、足の□(ママ)、両国より当処へ出る也〟    「嘉永五壬子年 珍説集【五六七八九十十一十二】」   ◇三獣拳 p98   〝【新宿狼、高輪狸、浅草猫】三獣拳    おまへ高輪でおたのさん、おそばがお好でする/\すゝ、ぬしは新宿おかめさん、てん/\手のある白    糸さん、丸く納る丸〆猫、にやんのこつたにやう/\、御客招き/\風団の上で一服せふ〟     ◇大津絵節 p98   〝江戸名所大津絵節    浅草の奥山で、御客どん/\招き猫、おばあさんひとりでおまへが丸〆猫。    狼で御客はさつぱり内藤宿、朝からたへぬが馬ばかり。    高輪で狸がおそばを買に来る、若い者、お足はどこだと咎められ、仰天し、いへ/\木の葉で御座り升、    ぶちのめせあいたしこ、そろ/\尻尾を出しかける〟     ◇女陰陽師 p104   〝子年夏の頃より、浅草御蔵前森田町坂倉治兵衛前ぇ、上方女にて三十位之陰陽師出る也    随分美しき女にて、手の筋占を法楽に致し、男の手をにぎり候故、色男之男共、是を悦び、大流行にて    大群集致し候、尤当用十六胴也、右易者大流行に付、外にも同様之女二人出候よし。      にぎられて早当たりけり顔の色〟     ◇麦湯見世引き払い p112   〝嘉永五壬子年五月廿五日、市中麦湯見世一件    (嘉永三戌年六月二十四日、居付茶見世以外の往還における麦湯見世の禁止通達)    右之通、去る戌年申渡置候処、追々暑気之時節に相成候に付、居付茶見世之外、猥成麦湯、醴見世抔差    出候者も有之哉にも相聞、此節町々夜番も申付候折柄、火之用心之為、別ての義、市中風俗に不拘様、    弥右申渡之趣無遺失可相守旨、町役人共より無油断可申聞候、尚此上右体之風聞於有之は、急度可及沙    汰候〟    〈「右体之風聞」とは、路上、年若い女を雇って深夜まで酒食を供し、また門付けの唄浄瑠璃・三味線弾く女子供を呼     び寄せて商売すること〉     ◇木魚講禁止 p113   〝五月廿五日、木魚講中御触之次第    開帳仏江戸着并出立之節、迎ひ又は送り抔と号、或は神仏縁日等ぇ木魚講と唱、大き成木魚を蒲団に乗    せ襟に懸、往来を打ならし念仏を唱、多人数押歩行候義、増長致候よし、以之外之事に候、右は神仏崇    敬之意味にたがひ、市中風俗にも拘り候義に付、早々相止候様、町役人共より可申聞候〟    〈嘉永六年(1853)五月七日「国府弥陀着に付、木魚講一件」(五巻p301)は以下のように記す〉   〝抑、木魚講之義は、寛政之頃、浅草寺観世音の御花講と唱し、木魚講を目論見、念仏にきやり同様の節    を付候故、流行出し、二三講も浅草にて出来候所、其後追々人数もふへ候(以下略)〟     ◇彫物師処罰 p117   〝(嘉永五壬子年六月十五日、山王権現祭礼において、静人形の山車を引く本湊町の若衆)    体中彫物之揃にて、上に紗乃襦袢を着し目立候よし。    是は、当所船頭之多き所にて彫物多く、夫より思ひ付、外之者も今度新キに彫候よし、十一才の子供壱    人彫殺され候由、外に九才、七才二人之小児彫殺し候由申候得共、是はうそにて、実は背中藍にて書候    よし、右に付、南御奉行之御目に留り、右名前書出しに相成、御呼出し之上、御吟味厳敷、彫物師白状    に及び候処、御先手同心三人之よし、右之者被召捕、入牢致し候よし、是は軽くも御奉公相勤御扶持人    之身分にて彫物を内職に致し候御咎めなり〟     ◇吉原灯籠 p129   〝七月、新吉原灯籠【六月晦日より七月十四日迄】十弐日間    中の町、江戸町壱丁目、二丁目分茶屋、両側残らず軒灯籠絹張にて、絵兄弟見立、同右側揚屋町木戸際    迄、四ッ目垣に切子灯籠、同左側角町木戸際迄三面絵合、左側角町木戸より先銘々内灯籠色々在、右側    揚屋町木戸より京町壱丁目木戸迄、軒灯籠伊加保八景なり。     同七月十五日より二の替り灯籠    江戸町壱丁目・二丁目分、両側家別にて人形の類ひ多し、同町続き揚屋町木戸際迄、軒灯籠縁日商人尽    し之見立之処、吉原も不景気にて、家台見世を茶屋にて出し候との大不評判也。    其外、硝子細工、竹細工、人形等有之〟     ◇ころり流行 p135   〝子年(嘉永五年)盆前頃より、三日ころりといへる病ひ流行致し、此難を除候には餅米七合を牡丹餅に    致し、是を家内中にて喰仕舞候得ば、是にて右頓死の禍をのがれ候とて、専ら牡丹餅を拵へ、右呪を致    しけり。      牡丹餅でいきて苦労をせふよりも三日ころりで死ねば極楽〟     ◇吉原にわか p140   〝八月朔日、新吉原町    如例年、今日より俄興行之処、今日漸々二番出来、六日に相揃、見分有之、九日迄有之候処に、十日大    嵐にて相休、夫より雨天勝にて、九月廿一日千秋楽也〟     ◇京都暴風雨、洪水被害 p142   〝京都出水之事    七月廿一日未刻より廿二日辰刻迄大風雨、北山より伏見南都迄之間大荒れ致し、三条・五条の橋流落、    淀堤三ヶ所切落、凡壱丈九尺程満水致し、廿五日は通路不相成程之洪水に御座候〟     ◇江戸暴風雨、洪水 p143   〝嘉永五子年八月十日、大嵐    天保四年癸巳年八朔の大嵐よりこの方の大荒れなるよし。前夜通し大降りにて、今朝北風にて大降之処、    四ッ時頃風俄に南に替り、なまあたゝかき風吹来り、夫より大風大嵐となり、家根板は木の葉の如く降    来り、瓦を吹飛し、往来を舞ふ故に、是が為に疵をかふむるものいくばくと言事を知らず、古今珍らし    き珍事也、夕七ッ時より又々雨降出し、雷鳴致す也     (以下、被害状況あり、略)〟     ◇子供芝居 p146   〝八月十五日より、平川天神子供芝居  桜草紙主水(ヌシハ)白糸(シライト)〟     ◇押込強盗 p155   〝(九月十二日)其頃、人形町絵双紙屋上州屋重蔵・具足屋加兵衛、同夜に押込入候由〟    ◯『筆禍史』「時世策」p155    〝浮田一恵は土佐派の画人なり、京師の人姓は豊臣内藤允と称す、初めは名は公信、後ち可為と改む(中    略)常に門生に謂て曰く、画は小技と雖も、半ば教に関す徒に美花錦鳥を画て、俗眼を慰するは我徒に    非るなりと、一恵慷慨にして気節あり、嘉永癸丑米艦の来るや、江戸に在りて其子可成に謂て曰く、志    士国に報するの秋なり、然れども右族巨藩に依頼するに非ざれば必成らずと、乃ち長州藩に請て可成を    其の隊伍に編す、既にして幕府和を講じ米艦去る、一恵憤に勝へず、毎に画を乞ふ者あれば、神風夷艦    を覆すの図を作り以て之を与ふ、蓋し士気を振作せしめんとするなり、安政元年米艦再び来る、一恵可    成を遣はし其形勢を察せしめ、其地理を図り策する所あらんとす、其年皇城火災あり一恵書院の寄人に    斑し、御屏風を書き褒賞を賜はる、是時に当り外患日々に迫り国事甚だ非なり、乃ち当路者某に因り時    勢策一編を上る、天子之を嘉納し其名を問へば則御屏を画く者なりと、五年九月幕吏一恵の父子を獄に    繋き、尋て江戸に押送す、京師の人池内大学亦た踵て至る、一日幕吏同く之を詰す、一恵義を執り屈せ    ず、大学吐言曖昧たり一恵囚室に還り、大に怒て大学を責て曰く、汝ち士に非ずや、大丈夫寧ろ溝中の    鬼となるとも豈に節を屈す可んや、可成素と大学と友とし善し、乃ち可成に謂て曰く、汝速に大学と交    友を絶てよ、肯ざれば吾汝と絶たんと、君臣の大義を論ずる声室外に聞ゆ、六月十日父子釈されて京師    に帰る、一恵囚中瘡を病み遂に癒えずして歿す、年六十五、時に安政六年十一月十四日なり、文久二年    父子の罪名を免じ、明治二十四年従四位を賜る、可成後ち長州侯に禄せられ宮内省出仕と為るといふ、    新編先哲叢談、石亭雅談、扶桑画人伝、愛国叢談(大日本人名辞書)     右の外、備後福山藩の儒官門田重隣(樸斎)も亦此年外国の使節浦賀に来りて開港貿易を要求するに     当り、己が主阿部正弘の幕府老中たりしを機とし、屡々封書を上りて時勢の急務は攘夷に在ることを     論じたりしが、屡々上書せしを僭越の罪とし終に其職を免ぜられたりといふ〟    ☆「嘉永六年 癸丑」(1853)   (浮世絵)   ・此年、六月二十四日、柳橋の西なる料理店河内屋半次郎が楼上にて、狂歌師梅の屋秣翁が催せる書画会       の席にて一勇斎国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ、水滸伝中の人物九紋龍史進憤怒の像を画き、       衣類を脱ぎ絵の具にひたして彩色を施せりといふ。文化十四年葛飾北斎が名古屋にて画ける達磨       の大画と共に好一対の奇談といふべし       〈下記『筆禍史』「浮世又平名画奇特」参照〉   ・此年、七月、国芳『浮世又平名画奇特』といへる錦絵を画き、板元と共に過料銭申渡さる。即ち続々泰       平年表嘉永六年の條に「癸丑七月国芳筆の大津絵流布す、此絵は当御時世柄不容易の事共差含み       相認候判詞物のよし、依之売捌被差留筆者板元過料銭被申渡」とあり 〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕       〈下記『筆禍史』「浮世又平名画奇特」参照〉          ・正月、葛飾為斎、初代国貞(此の時一陽斎豊国と号す)、二代国貞(梅蝶楼と号す)、一勇斎国芳・玉       蘭斎貞秀・一猛斎芳虎の画ける『贈答百人一首』出版       清水芳玉女父子の画ける『本朝武芸百人一首』出版   ・三月、山形素真の画ける『狂歌調子笛』       柴田是真の画ける『狂歌本朝二十四孝』出版       松川半山・浦川公左・菊川竹渓・暁鐘成等の画ける『西国三十三ヶ所名所図会』出版     〈浮世絵年間〉   ・此年、国芳『難病療治』の錦絵を画き発売禁止されしといふ〟   ・(十月)此頃飛脚国の産ニて角觝浦風が弟予に白真弓肥太右衛門といへる角力取、長ハ高からず、六尺    幾寸とか、身の重さ四十幾貫目と云、錦絵にも出、此節地本屋のつるし絵、地球輿図地閃さまハー皆か    な書也、又大筒の絵共外読売類の板行二、甲胃著用之図、蒸気船の図、東条が刻して罪を得し伊豆七島    の図も翻刻して売れ共答もなし、アメリカへ九リアークムス杯が肖像とて、之も知れぬ絵共多く辻売有    〔『きゝのまに/\』〕     (一般)   ・正月、三座芝居入替顔見せ狂言今春に延ぶる〟   ・三月十日より六十日の間、本所回向院に於いて、去年催しける三州矢作光明寺天満宮開帳あり(牛若丸    と浄るり姫の木像あり。近年の作とおぼし)   ・春より夏へかけて浅草寺奥山曲馬の芝居行はる(座頭は渡辺芳三郎なり)〟   ・四月、深川仲町に於いて、阿蘭陀渡りチャルゴロと号し、函中自然と色々の音を出すの器、また漢交茶    釜と号して、火気なくして熱湯となるの器をして看せものとす。この茶釜は文化頃にもありし物なり   ・(五月)伊勢町に於いて、一丈七尺の大烏賊を見せ物とす(目方五十貫目の余なり。上総国海浜より得    たるところといふ)   ・六月三日、北亜墨利加合衆国華盛頓(ワシントン)使節(正使マツテウ☆セロベルリ)の船大小四艘、相州浦    賀の要津に舶し貿易を乞ふ。これに依りて諸家警固厳重にして、数艘の番船海上に充満し、旌旗(セイキ)    を翻へして昼夜に懈(オコタ)らず。しかるに同月九日、浦賀の鎮台戸田井戸の両侯、同州久里浜にして其    の呈書を受納ありしかば、同十二日纜(トモヅナ)を解きて沿海を発せり。江府の貴賤、始めには仔細を弁    ぜずして恐怖して寝食を安んぜず、老人婦幼をして郊外遠陬(エンスウ)に退かしめしもありしが、平穏にし    て不為(フイ)に属し、諸人安堵の思ひをなせり。是れより後、魯西亜、英吉利、仏蘭西等次第に来舶して、    書簡を呈し貿易を庶幾(シヨキ)す。後、数度応接ありて、乞ふ所に任せて仮の条約をもて貿易を許し給へ    り。此の後数度通航する事勝計すべからず。其の顛末を記せるものは牛に汗し棟に充つべし。依りてこ    こには委しくせず、「泰平のねむりをさますじやうきせん(蒸気船)たつた四はいで夜も寝られず」又    或(上)卿の御戯(喜撰)のよしにて「日のもとやまだちやるめるもふかぬまにとけて帰りしあめりか    (亜墨利加)のふね」〟   ・六月二十四日、柳橋の西なる拍戸(リヨウリヤ)河内屋半次郎が楼上にて、狂歌師梅の屋秣翁が催しける書画    会の席にて、浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ「水滸伝」の豪傑九紋龍史進憤怒の像を    画く。衣類を脱ぎ、絵の具にひたして着色を施せり。其の闊達磊落(ライラク)思ふべし   ・七月又九月に至りて〈本所回向院にて伊勢国分の阿弥陀如来〉開帳あり(境内に燈心にて大なる虎の形    と豊干禅師の形を造りて見せ物とす。細工人浪花松寿軒なり。又竹田縫之助が作の木偶(デク)もあまた    見せたり。外に昆布をもて二十四孝の偶人(ニンギヨウ)をつくりし見せもの出たり。両国橋の東詰に「見立    女六歌仙」と題し、女の偶人をつくりて見する。京師の大石眼龍斎吉弘といふ人の作なり。其の容貌活    けるが如し。これ近年行はるゝ活人形、江戸に於いて行はるの始めなるべし)   ・(十一月)浦風門人白真弓(シラマユミ)肥太右衛門といふ角觝人(スモウトリ)出る。二十一歳、身の丈六尺八寸余、    目方四十貫五百目、飛騨国木谷村の産といふ   ・十一月、三座芝居役者入替り春に延びる。飾り物なし   ・〔無補〕十一月二十八日、浅草天王橋に於いて、常陸国破賀村幸七妹たか、叔父の助太刀にて兄の讐(ア    ダ)与右衛門を討つ〔以上十一項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・本石町四丁目裏通りに、東海道五十三次見立の料理といふものをはじむ。祥風亭と云ふ。程なく廃れた    り〔『増訂武江年表』〕    ◯『藤岡屋日記 第五巻』「【嘉永六己丑年/自正月三月迄】日記(藤岡屋由蔵記)   ◇開帳 p196   〝嘉永六己丑年 諸国所々開帳    王子権現 霊仏霊宝等并鎮守稲荷大明神  二月二十日より六十日間開帳  金輪寺知事    鎮守天満宮并霊宝等  三州矢作 光明寺 三月二日より六十日之間、本所回向院に於て令開帳もの也    【安国論製作】日蓮大菩薩并霊仏霊宝、熊王稲荷大明神 相州鎌倉松葉ヶ谷 安国寺                        三月六日より六十日之間、於浅草新寺町本蔵寺開帳    伊勢国津 国府阿弥陀如来并霊宝等    大宝院執事                        五月十日より六十日之間、於本所回向院令開帳もの也    雲中出現黄金尊像 目赤不動明王     駒込浅嘉町 別当 南谷寺                        二月二十日より六十日之間、於自坊令拝者也〟     ◇大相撲 p232   〝二月十六日、於両国回向院境内、勧進相撲興行、鏡岩・小柳大関にて、勧進元伊勢海村右衛門    (晴天十日興行、雨天及び幕府の行事等重なり、四月四日に千秋楽)     この降でさてもいせひはなきの海こふも天気がむら右衛門とは     伊勢の海あこぎに銭は取のせで跡の始末がさんだんの場所〟        ◇三人賊の錦絵 p237   〝二月廿五日     昼過より南風出、曇り、大南風ニ成、夜ニ入益々大風烈、四ッ時拍子木廻候也                            浅草地内雷神門内左り角      錦絵板元                         とんだりや羽根助     今日売出しにて、鬼神お松、石川五右衛門・児来也、三人の賊を画、三幅対と題号し、三板(枚)続ニ    て金入ニ致し、代料壱匁五分ヅゝにて四匁五分ニて売出し候処、大評判にて、懸り名主福島三郎右衛門    より察斗ニ而、廿八日ニ板木取上ゲ也。       三賊で唯取様に思ひしが         飛んだりやでも羽根がもげ助     右羽根助ハ板摺の職人ニ而、名前計出し、実の板元は三軒有之。                        浅草並木町                            湊屋小兵衛                        長谷川町新道                           住吉屋政五郎                        日本橋品川町                                魚屋金治郎     右三人、三月廿日手鎖也〟    〈嘉永五年十一月「【見立】三幅対」三代目歌川豊国画・彫竹・摺松宗、「雪・石川五右衛門・市川小団次」「月・児     来也・市川団十郎」「花・鬼神於松・板東しうか」が出版されている。板木を没収されたこの「三幅対」は、改めを     経ない非合法出版をも請け負うと言われる板摺(板木屋=彫師)とんだりや羽根助が名目上の板元になって、江戸で     は禁じられていた金入りの豪華版を作り、小売り値四匁五分(当時の銭相場がどれくらいか分からないが、今機械的     に天保の改革時に定められた1両=60匁=6800文で、計算してみると、510文になる。で売り出した。天保十三年十     一月の御触書では「彩色七八扁摺限り、値段一枚十六文以上之品無用」とあるから、この三枚続き510文(一枚170     文)は飛び抜けて高価である。二月二十五日から板木没収の二十八日まで実質三日、どれくらい売れたのだろう。参     考までに、この年の国芳画「浮世又平名画奇特」は「七月十八日配り候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃     より大売れニて、毎日千六百枚宛摺出し、益々大売なれば」とある。この「三幅対」も同様に千六百枚とすると、一     日だけで銭27万2000文、これを金換算すると、実に四十両である。二日で八十両にもなる。板木を取り上げられるま     で、どれだけ摺ってどれだけ売り抜けられるか、それに勝負をかけているのだろう。この「三幅対」の絵師は誰であ     ろうか、やはり三代目豊国ではないだろうか〉     〝 東海道五十三次、同合之宿、木曾街道、役者三十六哥仙、同十二支、同十二ヶ月、同江戸名所、同東    都会席図絵、其外右之類都合八十両(枚カ)是も同時ニ御手入ニ相成候。     右絵を大奉書へ極上摺ニ致し、極上品ニ而、価壱枚ニ付銀二匁、中品壱匁五分、並壱匁宛ニ売出し大    評判ニ付、掛り名主村松源六より右之板元十六人計、板木を取上ゲられ、於本町亀の尾ニ、絵双紙掛名    主立会ニて、右板木を削り摺絵も取上ゲ裁切候よし。       東海で召連者に出逢しが         皆幽霊できへて行けり     右之如く人気悪しく、奢り増長贅沢致し候、当時の風俗ニ移り候、是を著述〟    〈大奉書を使い極上摺の極上品が一枚銀二匁(機械的に1両=60匁=6500文で換算すると約217文)、中品一枚が一匁     五分(約163文)、並一枚一匁(約108文)とこれもかなり高価     「東海道五十三次」は誰のどの「東海道五十三次」か未詳     「同合之宿」も未詳。     「木曾街道」は一勇斎国芳画「木曾街道六十九次」か     「役者三十六哥仙」は三代豊国画「見立三十六歌仙」か     「同十二支」は一勇斎国芳画「見立十二月支」か     「同十二ヶ月」は一勇斎国芳狂画「【身振】十二月」か     「同江戸名所」は三代豊国画「江戸名所図会」(役者絵)か     「同東都会席図会」は三代豊国画・初代広重画(コマ絵)「【東都】高名会席尽」か〉     ◇役者似顔絵出回る p238   〝嘉永六丑年三月、当時世の有様    去春より鉄棒の音ちやんから/\にて、商内もなく仕事もなくてちやんからになり、其上かんから太鼓    の流行にて、弥々身上かんからとなり仕舞候所に、当春に相なり上野の花も咲初て、毎日栄当/\の見    物出候処、今度不忍弁天の池へ新土手出来致し候とて、池の浚に相懸り候処、池の主おこり候に哉、毎    日/\の雨天、こまり候者は上野野(ママ)茶やと、相撲勧進元の伊勢海村右衛門、右之者共ぴつ/\と苦    しがり居り候より心付にて、爰に木曾の薮原より江戸表へ罷出候相模屋栄左衞門といへる櫛屋、当時堺    町に住宅致し候処に、此者お六すき櫛の出来そこなひのぴつ/\となるより思ひ付て、さくら笛と名付、    一本四文と売出し候処に、はやるまいものか、皆々ぴつ/\と苦しがり居候時節なれば、天に口なし人    を以いわしむるの道理にて、子供等是を求て人の耳元へ来り、ぴつ/\と吹て苦るしがらせ悦ぶは、去    年かんしやく玉にて人に肝を潰させ楽が如し、上の御政道も御尤至極なり、冨士講が差留られ、木魚講    がはびこり、此方は浅草観音の御花講にて、東叡山宮様の御支配にて、念仏だからいゝおかひ(ママ)とい    ふかけ声を高らかに張上げ、大木魚の布団を天鵞絨縮緬にて拵へ、是へ金糸にて縫を致し、二重に敷重    ね、信心は脇のけにて、是見よがしと大行にたゝき歩行、又師匠の花見も段々と仰山に相成、娘子供は    振袖の揃ひ、世話人は黒羽弐重の小袖に茶宇の袴を着し、大拍子木をたゝき、先へ縮緬染抜の幟を押立    て、祭礼年番之附祭り気取りにて、甚敷は種々さま/\の姿にやつし、途中道々茶番狂言を致し歩行、    往来を妨げ候故に、是も差留られ、又錦絵も役者は差留られ候処、右名前を不書候ても釣す事はならず    候処に、少々緩み、去年東海道宿々に見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評    判と相成、板元は大銭もふけ致し候所、益々増長致し、右画を大奉書へ金摺に致し、壱枚にて価二匁宛    に商ひ候より御手入に相成、板木を削れら候仕儀に相成候、右之通り万事が兎角上みへさからへ(ママ)候    故、天道是をにくませ給ひて、降通し吹通しも、尤の事也。      節季候は霜をも待ず早く出て有顔見せる春に延けり     さくら笛    何廼家桜顔見    うか/\といきたかい有初さくら、今年も春のうらゝかに、日あしものびて糸遊の、曳や霞の花見まく、    花がそふか桜が呼哉、招きまねかれする中に コレハ笛で御座イ ヲイ笛屋さん、なぜ是をさくら笛と    言やす、ハイさくらが吹ますから、コレ/\花見の中で桜が吹とはわりい、花に風はさはりだろう、    イエ/\、竹細工の宇九比寿笛は梅が香こぼさず、桜が吹ても花は散りません、はてなあ。      さくら咲桜の山のさくら笛風哉いとはで吹れこそすれ〟     ◇大鯉の見世物 p245   〝五月三日、大鯉の見世物出候也    常陸国河内郡牛久町牛沼にて取候由にて、三尺の大鯉八丁堀へ持来り、金拾五両にて売らんと申候所に、    見せ物師十両に付候得共、売不申由、評判有之候処に、是は鰒の皮にて細工物之由、いかにも飛龍とな    るべき鯉のかく数年を経て広大に相成候者のおち候は不思議と存候所、右鯉の評判故に頓知の者工夫し    致し、銭儲に拵へ候よし      鉄砲と異名をうけし鰒の皮こひで浮名のたつはうしぬま〟     ◇大烏賊の見世物 p245   〝(五月)上総国金谷浜大烏賊、長サ壱丈七尺程、目方五十貫目     (見料十二文)    右大烏賊は上総より魚河岸へ持来候得共、余り大き過候間買入無之、問屋にて安々に引取置候義に、見    物師是を聞付参して、金二両二分に買取、見世物に出し候よし〟     ◇山椒魚の見世物 p245   〝(五月)山椒魚は生て居り候に付、五両にて買取、見世物に出し候よし〟     「【嘉永六癸丑年/四月より六月まで】日記」   ◇出版取締り p291   〝【江戸砂子】細撰記    是は□(ママ)・歌読・誹諧・狂歌・筆学・講釈・咄家・料理茶屋・菓子之外、食類吉原細見に拵へ候本也。     丑の春改正    作者は誹諧師白樹らで、八丁堀栄吉と申者、本を拵へ、江戸中名前を出し候者より入銀二百文取、本出    来致し、一冊宛配り、四両五分宛取候也。    右種を売本に致し候板元甚左衞門・信のや富五郎、重板は釜藤名代にて、実は品川や久助板元也。    四月廿五日、本板取上げ、懸り名主福島三郎右衛門、北御番所懸り、二十七日、初呼出し、板元手鎖、    伊勢屋宇助・品川屋久助・家主預け也。    四月二十五日、白樹・栄吉・釜藤、出奔也〟     ◇女髪結教諭 p297   (五月、再び女髪結流行。天保十一年のお触れに従えば、逮捕・吟味・処罰すべきところ、内偵の結果、    何れも生活困窮者であることが判明。情状酌量して、白洲にての教諭のみとする)     ◇木魚講処罰 p301・305    (五月七日、伊勢国津、国府阿弥陀如来到着)   〝富士講十九組迎に出候得共、鈴を不持、行衣も着せず候故、別条無之、木魚講中は残らず出候処、大木    魚に敷風団羅紗天鵞絨、呉羅服の類へ金糸にて縫模様に高金を掛、仰山に致し、勇みすゝみ、ヱヽヲヽ    イと言懸声のきやり念仏にて、喧嘩買ふと押歩行候故に、右講中之内、五組召捕に相成候〟    (出迎えした木魚講の連中に、五月廿九日、過料三貫文・手 鎖・叱りの処罰下る)   〝極楽の弥陀の迎ひの木魚が地獄の底へ落されるとは    つまらなひ目に遭たのは木魚講 かふも厳しひ弥陀の御迎ひ    木魚は大はたきなる御花講 かふもなみだの出たる三ぞん    とふ/\から弥陀の土産にあやめ草    蝶々に皆われけり御花講    縁仏をとなへ地獄へ呼出され    木魚のやふな金玉釣上り〟     ◇見世物 p306    (五月十日より、回向院において、伊勢国津、国府阿弥陀如来開帳)   〝境内見世物之次第    一 伊勢音頭一刀持     一 猩々    一 廿四孝海草細工     一 灯心細工    一 竹田縫殿介、怪談細工  一 中嶋庄五郎歌舞伎芝居 御壱人前百八文    一 豊年踊り        一 水からくり〟     ◇アメリカ船浦賀来航 p464    「海防全書 上」    〝(アメリカ合衆国・ワシントンの軍船四艘、浦賀に来航)    日本浦賀ぇ六月三日八ッ時に渡来、アメリカ王より日本大王ぇ使節之趣、是迄漂流船と違ひ、船ぇ役人    方は勿論、夫役船抔更に寄せ付不申、九日御奉行様、四家様拝謁申上候に付、書翰御受取に相成、其節    上陸人四百人計御坐候間、調練仕候処、一同目を驚し候よし。      毛唐人は抔と茶にして上喜撰 夜はうかされてねむられもせず      阿部川は評判程にうまくなし 上喜せんにはわるひ御茶うけ      日本を茶にして来たる上喜撰 安部川餅へみそをつけたり      異国船伊豆の軍と皆岩見 浦賀しつたる事にてはなし      江戸の町女唐人出来た故 浦賀の沖へアメリカが来る      唐人は早く帰つてよかつたねへ又来る迄は御間ダもあり〟    〈「泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず」の上喜撰は、高級宇治茶の銘柄。阿部川は当時の老中・     阿部伊勢守正弘。岩見は浦賀奉行・井戸岩見守弘道〉      「【嘉永六己丑年/七月より九月迄】日記」   ◇徳川十二代将軍家慶逝去 p345   〝嘉永六己丑年七月廿二日巳下刻、公方様薨御、御寿六十一歳、従一位左大臣、征夷大将軍〟   〝内々六月廿日辰中刻、薨御也、同廿三日、御棺一重に入、廿四日、御棺、桧、桐二重に入、吹上御庭内    ぇ仮埋め奉り、上ぇ仮御殿建候也〟            ◇浮世又平名画奇特 p352   〝 嘉永六癸丑年七月     浮世又平大津絵のはんじもの、一勇斎国芳筆をふるひ、大評判に預りましたる次第を御ろうじろ。     右は此節、異国船浦賀渡来之騒動、其上ニ御他界の混雑被持込、世上物騒、右一件を書候ニは有之間    敷候得共、当時世上人気悪敷、上を敬ふ事を不知、そしり侮り、下をして、かミの愁ひを喜ぶごときや    から多き所ニ、恐多き御方ニ引当、種々様々ニ評を附、判段(断)致申候ニ付、如斯大評判ニ相成候。       浮世又平名画寄(ママ)特 二枚続       国芳画、板元 浅草新寺町、越村屋平助     右絵売出し、七月十八日配り候所、種々の評判ニ相成売れ出し、八月朔日頃より大売れニて、毎日千    六百枚宛摺出し、益々大売なれば、       一軒で当り芝居ハゑちむらや         からき浮世の時に逢ふ津絵     右画組ハ、三芝居役者ニ見立     一 浮世又平  市川左団次     一 鬼の念仏  嵐  音八     一 福禄寿   板東佐十郎     一 藤娘    中村 愛蔵     一 鷹匠若衆  中村翫太郎     一 赤坂奴   中村 鶴蔵     一 猿ニ鯰   中山文五郎     一 大黒    嵐 冠五郎     一 かミなり  浅尾 奥山     一 弁慶    中山 市蔵     一 座頭    市川広五郎        鬼のやふになりて集し奉加帳 せふきのいでて跡はおだぶつ     右大津絵之評、荒増左之通             水戸の御隠居       浮世又平  市川左団次         めっぱふな当りはづれのあぶな芸 又も浮世に出てさわがせる     一 評、水戸前黄門斉昭卿、御幼名敬三郎殿とて、部屋住之節は瘂の如く聾ニ成居、家督之後、急に       発明ニなり、余り利口過て我儘ニなり、増長致し、国中の堂宮を潰し、釣鐘を大筒ニ鋳直し、軍       を催し騒ぎ(ママ)故ニ押込隠居となり、其後、御免ニて、又々今度引出され、浮世ニ又出て、世を       平らげるから浮世又平だ             十二代の親玉       鬼の念仏  嵐 音八         一生の皆行条(状カ)は敵役 能くいわれずにおわり念仏     一 評、鬼と言物ハ、世界ニ無之ものゝ由、寛政五年癸丑の御生れ、鬼門ハ丑寅之間ニて、牛の角ニ、       虎皮の脚半致し、いかれる赤き顔ハ、是亦鬼也、奉加帳ハ西丸御普請上納金、折角帳面ニ記せしを、       残らず割返せしハ、隠居の差差(衍)略なりとて、撞木振上ヶて□□□(ママ)で居る、又傘壱本背負し       ハ、天が下をしろしめしたる尊き御身も、死出の旅路ハ道連もなく、たゞ傘壱本ニ付雨露を凌ぎ、       泪をこぼし、急に気がつひて後生心が出たから、是が鬼の念仏だ             十三代目       福禄寿   板東佐十郎         疳症だ抔とわらひし見物も いよ坂三津が再来の芸     一 評、文政七申年の御生れ、生得利口成ど、御病気故ニ首を振てきやつ/\と欠歩行、故ニ軍配団       扇之印ニ九棒にハ少しなひ、中が赤ひといふ、今迄ハ馬鹿の様ニ思われ、急ニ利口ニなり、万事       行届き過るから、大黒が今からそんなに利口振てハならぬと、頭を押へて居る、御末子成共、只       一人り残り給ひ、御家督をふまへ、天下を知らし召、故に福禄寿だ             新下御台所 又、姉の小路共       藤娘    中村 愛蔵        奥様が御局さまか知らねども 御贔屓きゆへに時に愛蔵     一 評、御縁組ハ、何れ五摂家、御紋ハ下り藤、今迄のハ弱かつたが、今度のハ達者だと、藤を振廻       して居ル、是急ニ不時の御下りだからふじ娘だ、又姉さまハ是迄用ひられ、大姉へだとかき廻し       た所が、不時ニ御目通り差扣ニ下ゲられ、難義する故ニふじ娘だ             一ッ橋七郎麿       鷹匠の若衆 中村翫太郎         たかを手に押へてくゝり袴とハ れ先例のかんたろう也     一 着物の印が七郎丸ニて、始終の〆くゝり袴をかんで、鷹野ニ出ても一ッ橋を飛こへ欠廻る、すこ       やかな御若衆だ、又着物の前ニ四ッの筋在、前を合せるから、しじう仕合せだろう             水戸ニアメリカ       猿ニなまず 中山文五郎         穏やかに帰してやるが大兄い いやとぬかせバ神風が吹     一 日本国をゆるがす異国の大なまずを、御国の鹿島の要石で押へて居ル、又申の御事ハ西丸様ニて、       日本をゆるがす異国人を瓢箪の大筒ニて押へ、ぬらくらしても瓢箪でなまづだ             大筒稽古ニアメリカ人       雷     浅尾 奥山         かみなりでおこしおこし(衍字)ぶつきりのアメリカの とけてながるゝ日の本のとく     一 評、大筒の音ハ雷の如く諸人を驚かし、碇ニて浅深をはかるも人にいやがられる敵役、億(臆)病       者ハいつそ奥山へ逃て行ふと言から、異国船の上へぴつしやり落て、雷火で焼ころせバ、是がほ       んのかミなりだ。             紀州       赤坂奴   中村 鶴蔵         鎗の所作外に二人りとなき奴 大手を振てりきミ振り込     一 評、御先祖の是ハ有徳の君ときく、千代万代も栄ふべし、外ニ又とハなき血筋、壱本鎗の御道具       を、振てふり込西の国、入れバかさなる二重橋、昇り詰たる奴だこなり、又是を福山共言、余り       一人でやりすごし、はだしに成て逃るといふ。             御内証の御方ニ長岡       大黒    嵐 冠五郎         御表にあるは大黒柱にて 御内仏にも奥の大黒     一 評、福禄寿のあたまへ替紋の階子を懸て登り、其様ニ今から利口振てハわるひと頭を押へて居る、       自分もうへを見ぬ様にとて頭巾を冠り居る、是ぞゆるがぬ御棚の大黒、表向は跡へさがつて居ても、       内証ニて奥向を取締り、守護するから、内仏の大黒さまだ。             芝ニ上野       弁慶橋   中山 市蔵         三井寺へ行ふとハうぬ太いやつ 上への方よりなげし大かね         同役の早半鐘をやめにして 芝は大かね上野じん/\     一 評、是ニもとづき弁慶が、三井から上の方へ、大かねをひつかつぎ行んとせしが、かへろう/\       と言ゆへ、夫□みとなげた所が三縁山、いよ/\大かね増上寺、真に徳が付ましたと、りきミち       らせしかげ弁慶。             福山ニ筒井       座頭    市川広五郎         総領となる一ッ目のちからより 肥前のはても見ぬ人明鏡         水にあわぬ御茶の出花や阿部伊勢茶 これハ肥前の銘茶嬉し野     一 評、御役始メにハ、浜松の嵐ニかわるいせの神かぜ抔と誉そやし、段々の御出世ニて、格式と御       加増ニて頂上致し、夫より皆々憎ミ嫉ミ出せしハ、当世の人気ニて、能言者一人もなし、乍然御       歳若ニて諸人の上ニ立勤候事、中々及ぶ事ニあらず、人ハめくらの様に言が、急度目の明た座頭       だ。       又、筒井ハ先祖から日和見の順慶と言が、日の岡峠の出張ニも、うかつに敗軍せず、当代になり       ても長崎奉行も在勤致し、町奉行も相手の榊原主計頭ハ、評判能て大目付ぇ投られ、筒井ハ評判       なくして、町奉行の大役を永く勤め、今西丸御留守居へ押こまれても、なくてならぬ人と見へて、       聖堂へ引出され、異国夷す文字さへも読あきらめるから、是はめくらでハない、目明の座頭だ〟
   「浮世又平名画奇特」一勇斎国芳画(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)     ◇芝居絵売れず p378    (九月二十一日から興行予定の中村座「花野嵯峨猫またざうし」、同月十五日番付を市中に配る)   〝右狂言大評判に付、錦絵九番出候也。    一 座頭塗込  三枚続 二番      【蔦吉/角久】    一 同大蔵幽霊 同   三番  照降町  ゑびすや                    神明町  いせ忠                    南鍋町  浜田や    一 碁打    三枚続 壱番  石打   井筒屋    一 猫又    同   壱番  銀座   清水屋    一 大猫    二枚続 壱番  両国   大平    一 猫画    同   壱番  神明町  泉市      〆九番也。    右は同日名前書直し売候様申渡有之候得共、腰折致し、一向に売れ不申候よし〟      〈「早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム」には、外題を「花野嵯峨猫☆稿」として、延べ三十八点が収録されて     いる。すべて豊国三代の作画である。この芝居は興行直前、佐賀の鍋島家から当家を恥辱するものと訴えられて、上     演禁止になった。鍋島家のこの告発は頗る評判が悪い。佐倉宗吾狂言に対する堀田家の姿勢と比較して次のように言     う〉     〝去年、小団次、佐倉宗吾にて大当り之節に、堀田家にては、家老始め申候は、今度の狂言は当家軽き者    迄いましめの狂言也、軽き者は学問にては遠回し也、芝居は勧善懲悪の早学問也、天下の御百姓を麁略    に致時は、主人之御名迄出候也、向後のみせしめ也、皆々見物致し候様申渡され候よし。    鍋島家にて、狂言差止候とは、雲泥の相違なり〟     ◇合巻「猫又草紙」p378   〝一 嵯峨の奥猫又草紙      作者花笠文京、二代目国貞画、板元南鍋町二丁目浜田屋徳兵衛    右種本は、五扁迄書有之候由、初扁びらは九月十日頃に処々へ張出し置、芝居初日に配り候積りにて相    待居り候処に、是も同時に御差止に相成候、大金もふけ致し候積り之処、差止られ、金子三十両計損致    し候由、右に付、落首、      浜徳もしけをくらつて損になり    然る処に、右合巻、名題書替に致し、嵯嶺奥(サガノヲク)猫魔太話と直し候て、初扁、十月十日配りに相成    候〟     「【嘉永六年癸丑年/十月より極月迄】日記」   ◇将軍宣下 p422   〝将軍宣下に付、今巳上刻、御白書院ぇ出御〟    〈徳川家定、十三代将軍に就任〉     ◇助高屋高助死絵 p452   〝(十二月廿二日、二代目助高屋高助の葬送記事あり、略)     右高助義、霜月三日ニ名古屋ニ而病気発し、去十五日ニ病死致候処、三日病気付候節、江戸へ知らせ    来り候ニ付、其日より追善売歩行候よし、右追善ニは、       磐正院高賀俳翁信士【助高屋高助/行年五十三】     名残り狂言、忠臣蔵ニて、大星由良之助之役。         辞世 如月や西へ/\へと行千鳥     右追善絵、板元湯嶋円満寺前板木屋太吉、三番出候、外ニ由良之助切腹之処出候得共、是ハ板元知れ    ず。     右追善絵、残らず霜月十九日ニ配り、同廿一日ニ懸り名主鈴木市郎右衛門取上ル也。     右追善絵取上ゲニ相成候ニ付、古き狂言ニて改書候絵を三番出す也、刈萱道心高野山之段二番、川津    三郎赤沢山之段一番出ル也、是ハ構ひなし〟     ◯『筆禍史』「浮世又平名画奇特」p157   〝『武江年表』嘉永六年の條に「六月廿四日柳橋の西なる柏戸(料理屋)河内屋半次郎が楼上にて狂歌師    梅の屋秣翁が催しける書画会の席にて浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ三十畳程の渋紙へ水滸伝の豪傑九紋    龍史進憤怒の像を画く衣類を脱ぎ絵の具にひたして着色を施せり其闊達磊落思ふべし」とあるに、其翌    月には所謂お咎の筆禍ありたり、『続々泰平年表』嘉永六年の條に「癸丑七月国芳筆の大津絵流布す此    絵は当御時世柄不容易の事共差含み相認候判詞物のよし依之売捌被差留筆者板元過料銭被申候」とあり、    其詳細は記載せずといへども、大津絵とは『浮世又平名画奇特』と題せる二枚続の錦絵なるべし、此絵    には一勇斎国芳の署名と共に、天保十三年制定の名主月番の認印もある間に「丑六」とあり、丑六とは    嘉永六年癸丑の六月なること明確にして、年号も符合し居り、又図案は浮世又平が筆を執りて画きたる    雷公、鷹匠、藤娘、鬼、弁慶、奴、等が紙面を抜出て活動する画様なれば、「国芳筆の大津絵流布す」    といへる大津絵なるべし    時代懸隔のために、其画の寓意のある点を判断すること能はざれども、『浮世絵』第三号の所載に拠れ    ば、若衆に「かん」とあるは疳性公方の渾名ありし十三代将軍家定のこと、藤娘は大奥のきれ者藤の枝、    外方は老中    牧野忠雅、赤坂奴は紀州侯、鯰は若年寄鳥居忠挙、座頭は老中阿部正弘、弁慶は芝増上寺のことなりな    どとありて、同じく寓意の点は解し難しとせり、右の註は此錦絵の後に墨摺一度のものありて一々略註    を附けしものありしに拠るといへり     数年前に発行せし『帝国画報』に「歌川国芳は大津絵の狂画を描きて発行せしが、当時を誹るものと     して発売を禁ぜられたり、此に掲ぐる大津絵はそれならんか、但しは故らに我顔を覆はせたるは、其     後の諷刺的作ならんか、とにかくに、国芳の大津絵は世に珍らしければ、茲に紹介す」とありて、画     様は前記の『浮世絵又平名画奇特』と略ぼ同様にして只抜けからの画紙散乱し、其中の一葉が画者の     顔を覆へるが如し差あるのみのものを掲出しありたり、但し版元及び彫工を異にし、発行年月の記入     はなきものなりし     〔頭注〕大津絵考    これは既に先輩の諸説紛々として其判定に苦しむ所なるが、吃の又平、浮世又平、浮世又兵衛、岩佐又    兵衛、此四名を同一人物と見て、大津絵をかきしは、此又平なりとする説あれども、我輩は大津絵かき    の又平と浮世又兵衛とは別人なりとするなり、岩佐又兵衛が時世粧を画きしが故に、浮世又兵衛と呼ば    れたるにて大津絵かきの又平が浮世又兵衛にあらざる事は、其画風の大に相違せるにても知らるゝなり、    又其人格閲歴の上に於ても大に相違せるが如し、尚大津絵かきの名は又平といふにてあらざりしならん    と思はるゝ程なり    名画の誉れといへる演劇の吃又などは、妄誕の戯作たること無論なるが、其根元は支那小説に出で、そ    れに浮世絵の名画師岩佐又兵衛を付会せしなるべし〟
   「浮世又平名画奇特」一勇斎国芳画(山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム 浮世絵)    ◯『筆禍史』「当代全盛高名附」p160   〝吉原細見に擬して、当時名高き江戸市内の儒者和学者俳諧師狂歌師等をはじめ諸芸人に至るまで数百人    名を列配し、其名の上に娼妓の如き位印を附けたる一小冊なり、末尾に「嘉永六年癸丑之義、玉屋面四    郎蔵板」とあり    これは吉原の細見に擬して、嘉永六年に出版した『当代全盛高名附』の一葉を原版のまゝ模刻したので    ある、曲亭馬琴、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦、初代歌川豊国、葛飾北斎、渓斎英泉等の如き大家没    後の文壇が、如何に寂寞たりしかを知るに足るであろう。    因みにいふ、右『当代全盛高名附』の作者及び版元は、吉原細見の版元より故障を申込まれ「細見株を    持てる我々に無断で、細見まがひの書冊を出版するとは、不埒至極である」との厳談を受け、結局あや    まり証文を入れて、書冊は絶版とする事で、漸く示談が附いたとの伝説がある、今日は他人の出版物に    擬した滑稽的の著作は勿論、其正真物に似せたイカサマ物を出版しても、咎められない事になつて居る    が、旧幕時代には右の伝説の如き事実があつたらしい(此花)        【吾妻】錦   浮世屋画工部     豊国 にかほ     国芳 むしや   国貞  国麿  かむろ     広重 めいしよ  国盛  清重  やく者     清満 かんばん  国綱  芳員  にがを     春亭 (未詳)  芳宗  芳雪  むしや     貞秀 つうらん  芳艶  広近  めい(所?)     国輝 むしや   清亢  春徳  けしき     芳虎       芳藤  春草  をんな               芳玉  房種  草そうし              直政  芳豊  うちわゑ                      すごろく                      かんばん                     やりて                      (未詳)〟      〈「日本古典籍総合目録」はこの『当代全盛高名附』の統一書名を『江戸細撰記』としている。この豊国は三代目。     「武者」の国芳、「名所」の広重、ここまではよく引用されるところ。「看板」の清満は初名清峯を名乗った二     代目。春亭の得意分野は判読できず未詳。勝川春章の門人・勝川春亭は文政三年(1820)の没。また嘉永三年起筆     の『古画備考』には勝川春亭の他に「春亭【武者一番、弟子ニ上手無シ、天保十年死】」とあるが、没年からし     て、この春亭でもない。『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」にも見当たらず不明である。貞秀の「つ     うらん」は全体を見渡すという意味の「通覧」か〉        〔頭注〕東京流行細見記    此『当代全盛高名附』に似たる明治元年の冬、玉家如山といへる人出版せり、題号は『東京流行細見記』    といへり、著述屋としては     春水(二世)  魯文  有人     梅彦  応賀  秀賀  雲峰     文彦  定岡  露香  春笑     琴路  念魚  種丸  京雀     おろか    を出し、又浮世屋絵工部としては     貞秀  芳虎  芳幾  芳年     国周  国輝  国貞(二世)     国明  芳春  芳盛  芳藤     房種  重次  重清  国久     広重(三世)  一豊  国歳     芳富  芳延  国時  国玉     芳豊  芳信  艶長  幾丸     年晴  周延  年次    を出せり〟
   『当代全盛高名附』〔『筆禍史』所収〕    ☆「嘉永年間記事」    ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・明治十一年成稿)    (「嘉永年間記事」なし)