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浮世絵師総覧元禄元年(貞享五年・1688)~十六年(1703)浮世絵年表一覧
 ☆「元禄元年(九月三十日改元)戊辰」(1688)   〈浮世絵年間〉   ・此年、吉田半兵衛の挿画にて西鶴の『日本永代蔵』出版。其他半兵衛の挿画にては、『庭訓往来』『こ    よみくさ』『衣更着物語』等あり。〔『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「元禄二年 己巳 正月閏」(1689)   (浮世絵)   ・正月、菱川師宣の『異形仙人絵本』三冊       石川流宣の画作『江戸図鑑綱目』二巻(流宣は名は俊之、別号流舟又画俳軒等あり。(晩年躍鴬       軒と号せり。)通称伊左衛門。画は蓋し師宣に学びたるべく、本書には図量作者と署し、梅華堂       義雪の如く地形の図引の如く想像さるれども、流宣は純浮世絵師にして当時一枚絵なんどもある       が如し)〔『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「元禄三年 庚午」(1690)   (浮世絵)   ・正月、師宣の図に成れる『東海道分間絵図』五帖、   ・三月、菱川師宣図するところの『江戸惣鹿子名所大全』六冊出版。   ・四月、石川流宣の画作なる浮世草子『枝珊瑚珠』五冊出版。   ・七月、蒔絵師源三郎・吉田半兵衛等の筆に成れる『人倫訓蒙図会』七冊出版    〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、鳥居清元、市村座の看板を画く。   ・此年、師宣の挿画にて土佐少椽の正本『義経記』あり 〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「元禄四年 辛未 八月閏」(1691)   〈一般年間〉   ・俳優水木辰之助鎗踊(ヤリオドリ)所作(シヨサ)行はる。(「五元集」、辰之助に申し遣はす。すゝはきや諸人    がまねる鎗踊 其角)〔『増訂武江年表』〕     (浮世絵)    ・正月、石川流宣図にて磯貝舟也の『日本賀濃子』十四冊出版   ・五月、師宣の挿画に成る『餘景作り庭の図』再版。又『十二月の品定』出版       又吉田半兵衛の挿画に成る『なぐさみ草』       海田相保の画に成れる『西行四季物語』出版 〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕   ・十月、「百人男」一件落着〈下記『筆禍史』「百人男」参照〉    ◯『筆禍史』「百人男」   〝『御仕置裁許帳』に曰く       〔江戸〕南大工町二丁目新道 徳右衛門店    山口宗倫     此者戸田山城守殿より御断に付穿鑿の儀有之、当月十一日揚り屋入置候処、牢内にて相煩候に付養生     の内、去廿日預置候へ共、同廿一召寄揚り屋に入、右之者人の噂を色々書立、百人男と記し其上行跡     不宜重々不届成故、同十月死罪            呉服町一丁目            松枝小兵衛            右同町長右衛門店          柳屋又八郎            同町茂右衛門店           笹本次良右衛門            本所三文字屋々敷又市店       桑原和翁     右四人之者共山口宗倫儀に付、穿鑿之内揚り座敷     右四人之者共山口宗倫と常々出合、人の噂を書記候節の指加り候様に相関候、不届成るに不未十月廿     二日、日本橋より五里四方追放       元禄四年未十月      此『百人男』の一件に就ては、異説紛々として、殆ど其真偽を判定すべからざる程なり    右の中にある「和翁」といへるは、菱川和翁(或は和央)といひし多賀朝湖、後に英一蝶と改名したる    者なりと云ひ、然して又『百人男』を一に『百人女臈』と書きて、山口宗倫などには関係なく、英一蝶、    仏師民部、村田半兵衛等三人のわざなりとし、又更に英一蝶が伊豆の三宅島(或は大島、或は八丈島)    に配流されたるは、『百人女臈』の事にあらずして、綱吉将軍の寵婦お伝の方に擬せし朝妻舟の図を画    きしがためなりと云ひ、又或はさにあらず一蝶が当時、(犬公方時代)禁制の殺生をなせしがためなり    など、其異説紛々として、いづれをも信じ難く、『近世逸人画史』の著者などは「一蝶は元禄中故あり    て配流せらる、其罪を知らず、区々の説あれども取るに足らず」と云へり    予は『墨水消夏録』『近世江都著聞集』『川岡雑筆』『江戸真砂六十帖』『浮世絵類考』等の雑説を排    して、『一蝶流謫考』に引用せる小宮山昌世の『龍渓小説』の一部分を採りて、左の如く断案を附せん    とす    『百人男』の一件は、『御仕置裁許帳』に拠れる前掲の記録を事実として、其『百人男』の内容は、当    時要路の役人たりし者及び其他市井の雑人を、小倉百人一首に擬して批評したるものにして、其中に幕    府の忌諱に触れたる廉ありしものと見、右の中にある桑原和央は英一蝶の前名にして、彼は追放処分を    受けたる後赦免となりしか、又は内密にて江戸に帰り、再び多賀朝湖と称して画作の外、遊里に入浸り    て野ダイコを本業の如くにし、終に仏師民部、村田半兵衛等と共に、井伊伯耆守直朝、本庄安芸守資俊、    六角越前守広治(以上三名藩翰譜続編に拠る)等、所謂馬鹿殿様に遊蕩をそのゝかせし罪にて(「そゝ     のかせし」の誤植か)、元禄十一年伊豆の三宅島に配流されたるものと見るなり     〔頭注〕英一蝶 『龍渓小説』の一節といへる記事は左の如し、    (以下、『龍渓小説』の「百人男」一件の記事を引く。同記事は、本TP「浮世絵師総覧」「英一蝶」の項目中、     『一蝶流謫考』所収の『竜渓小説』の一部分にあたる
   『竜渓小説』「一蝶流謫」       『竜渓小説』での和翁は「百人男」の件で死罪になっている。とすると、和翁と一蝶は別人ということになるのだが、     このことに関して、宮武外骨の頭注記事は次ぎのように続ける)      英一蝶が和央或は和翁といひし事は他書に二三の証拠もあるに、一蝶の蝶古(朝湖)と和翁を別人と見    しは、誤聞なること明なり、加之、和翁が死罪となりしにあらざる事は下に載せる古記録にて知るべし    諸説混同して紛々たるも、和翁の一蝶が此一件に関係ありしがためならんか 〔『筆禍史』「百人男」〕    ☆「元禄五年 壬申」(1692)   (一般)   ・六月二十八日、俳師其角三囲社辺に雨乞ひの句を吟ず(「奇跡考」に、挙一堂の記を引きて、ことし天    下旱魃にして田面水なし。其角雨乞ひの句を作り、須臾(スユ)にして雨降るといへり。其の草(ソウ)、当社    に伝へてあり)〔『増訂武江年表』〕     (浮世絵)   ・正月、宮崎友禅の画ける『余情ひなかた』出版。   ・九月、中村栄成の画ける『定家卿名所百首』二冊出版 〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此頃、吉田半兵衛歿せりといふも詳ならず   ・此頃より友禅染始まれりといふ   ・此年の絵入本には菱川師房の画ける『女重宝記』五冊、又『貞徳永代記』五冊。『善光寺如来縁起』四    冊。中村栄成の『用文章綱目』三冊等あり 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「元禄六年 癸酉」(1693)   (浮世絵)   ・正月、水木辰之助・萩野左馬等の肖像を挿絵とせる『雨夜三盃機嫌』二巻出版    又鳥居清信画にて『四場居(シバヰ)百人一首』を出版せるに、此書俳優を小倉の撰に擬せしより、時の    書物奉行のとがめを蒙り、絶版され、版元は追放されたり。〈下記『筆禍史』「古今四場居百人一首」参照〉   ・八月十五日、英一蝶入牢   ・十月、原図掃部助久国の『真如堂縁起』を友竹之を写して出版せり。友竹は蓋し菱川師宣なるべし    〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    ◯『筆禍史』「古今四場居百人一首」p31   〝此書は浮世絵版画の祖菱川師宣に私淑せし鳥居清信筆にして、稀代の珍本なり。現今存在するものにし    て世に知らるゝは、東京松廼舎主人こと安田善之助所蔵と、予の所蔵との二部あるのみ、同氏所蔵本の    奥書に曰く     この書は元禄六年夏五月の開板にして、はじめは芝居百人一首と題号しゝが、河原者をやんことなき     小倉の撰に擬してものせるよし、尤憚あるよし、時の書物奉行脇部甚太夫より沙汰ありけば、四場居     色競と改題したり、此書に序跋もまた発開の年号を記さゞるにても、もとありけむを、此ゆゑに削り     たるなるべし、されどなほ体裁をかへざりければにや、更に町奉行能勢出雲守より発売を禁ぜられし、     梓主平兵衛といへるは軽追放に処せられぬ、かくて製本僅に数十部に満ずして、世に稀有の冊子にて     ありき、亡友豊芥子さしも奇冊珍本の秘蔵多かりし人ながら、此書ばかりはその名を聞くのみなりと     かたられき、おのれも年頃いかで見まほしかりしを、明治十年の頃、これも今はなき友なる元木魁望     子が秘蔵さるよし、ゆくりなく聞きでて、漸くにしておのがものとはなりぬるを、こたび文殊庵紫香     君の、強てといはれつるに、いなみがたうて、終に望みたまふにまかせ参らしつ      明治十七年甲申菊月 かくいふもとの持ぬし   関根 只誠    これに拠って、其絶版となりし理由を知るべし、出版者は軽追放の刑に処せられたれども、著画者は其    署名をせざりしがためか、何等の咎めを受る事もなかりしが如し    其記事体裁は左の如く、当時の名優一百人の評判記にして、市村竹之丞、中村伝九郎、市川団十郎、生    島新五郎、上村吉弥、猿若山左衛門、坊主小兵衛、森田勘弥等も其中に加はりあり、是等の記事は山東    京伝の『近世奇跡考』、烏亭焉馬の『歌舞伎年代記』其他にも考証として引用されたり     但し原本は縦九寸横六寸余の大冊なれども茲には写真にて宿刻せるものを出す
   『古今四場居色競百人一首』 童戯堂四囀、恋雀亭四染作・鳥居清信画    (東京大学付属図書館・電子版「霞亭文庫」)     〔頭注〕古今しばゐ百人一首    此書の挿画は鳥居清信壮年の筆なり、後世鳥居風と称さるる特殊の筆意に変化せざりし前のものなれば、    一見菱川派の画なるが如し    予の蔵本には十二枚に渉れる数名の序跋ありて、改題『古今四場居色競』の序跋も添へり、其一に于時    癸酉正月日(元禄六年)とあり    絶版即ち発売禁止となりし理由として『此花』第一枝に掲出したる一條は、全く予の誤見なりしこと関    根翁の記にて知れり    元木魁望子は烏亭焉馬の蔵本なりしを所持されたるならんか、安田氏は先年吉田文淵堂主人の手を経て、    大久保紫香氏の蔵本を百金にて購ひたるなりと聞く、その珍本なることを察すべし     安田氏の蔵本は先年の大地震にて烏有にきせり、予の蔵本は七円にて購入せしを、大正二年百二十円     にて売却せしが、今年春東京帝国大学図書館が購入せし渡辺霞亭の蔵本中に右の品なり、評価一千円     なりし〟    ☆「元禄七年 甲戌 五月閏」(1694)   (一般)   ・〝十一月、新吉原大門口へ高札を建てらる 〔『増訂武江年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・菱川師宣歿す。行年七十七歳。   ・此年、古山師重画の『鹿の巻筆』絶版の刑に処せられ、版木は焼棄せられし上、著者鹿野武左衛門は伊       豆の大島に流されしといふ       〈下記『筆禍史』「鹿の巻筆」参照〉   ・此年、師宣の『大和墨』三巻。石川流宣の作『正直ばなし』五冊 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    ◯『筆禍史』「鹿の巻筆」p35   〝此の書は落語家鹿野武左衛門の著作にして古山師重の挿画あり。貞享三年出版なりしが、其九年後即ち    元禄七年に至り、版木焼棄の上、著者武左衛門は伊豆の大島に流刑となりしなり。其事件の顛末は諸書    旧記に散見するところなれども、関根正直氏の記されたる『落語源流談』及び『徳川政府出版法規抄録』    には、諸記を総括して簡明に記述しあり、乃ち左の如し     元禄六年四月下旬、或所の馬もの語りしには、本年ソロリコロリと呼べる悪疫流行す、之を除けんに     は南天の実と梅干を煎じて呑めよと、且「病除の方書」とて一小冊を発兌せし者あり、奇を好むは人     情の習、一犬虚を吠え万犬が実を伝えて、江戸の人々大に驚怖し、南天の実と梅干を買ふほどに、其     価常よりも二十倍し、唯此事のみかまびすく(*「かまびすしく」の誤記か)、世業の手につかず、     これに依て六月十八日、月番の町奉行能勢出雲守より布告に曰く      一、頃日馬物言候由申触候、個様の儀申出し不届に候、何者申出候や、一町切に順々話し次者先々      段々書上げべく候、初めて申出候者有之候はゞ何方の馬物言候や書付致し早々可申出、殊に薬の方      組迄申触候由、何れの医書に有之候や、一町切に人別探偵書付可差出候、隠し置候はゞ曲事たるべ      く候間、有体に可申出もの也     斯く厳重に触しかば、各町に於て探索せしに、此事の起りは、俳優見習の齋藤甚五兵衛といふ者、堺     町市村座にて市川団十郎の乗りし馬となりしに、甚五兵衛贔屓の者見物に来りしかば、甚五兵衛馬の     まゝにて応答せりといふ落語を、当時の落語家鹿野武左衛門といへる者作りて、鹿の巻筆と名(づ)     けし書に筆しに基き、神田須田町八百屋総右衛門并に浪人筑紫園右衛門申し合せ付会の説をなし、梅     干呪方の書物等を以て、金銀を欺き取りし事ども露顕せしかば、関係の数人入牢の末、翌元禄七年三     月、筑紫園右衛門は首謀なれば、江戸中引廻しの上斬罪となり、八百屋総右衛門は流罪のところ牢死     せり、落語家武左衛門は右の妖言及び詐欺一件に毫も関係あるにあらねど、畢竟するに、妖言の種と     なるべき、由なし事を版行し、それがため人心を狂惑せしめし科によりて、同年三月二十六日、伊豆     の大島へ流され、板木元弥吉といへるは追放となり、刻板は焼捨となる、武左衛門は大島にて六ヶ年     謫居せしが、元禄十二年四月赦免になりて江戸に帰れり、然れども身体疲労のため同年八月歿す、歳     五十一    予が曩日『鹿の巻筆』全部を翻刻発行せし時、其例言中にも右の顛末を摘記し、且つ最後に左の如き評    言を附せり     詐欺漢が落語本を見て、奸策を案出したりと云ひしとて、其奸策に何等の関係なき滑稽落語の作者及     び版元をも罰するは、古来法典の一原則とせる「遠因は罰せず」と云ふに背反したる愚盲の苛虐と云     ふべきなり     〔頭注〕馬がものいふ物語    『鹿の巻筆』にある馬がものいふ落語といへるは、左の如き事なり       堺町馬の顔見せ     市村芝居へ去る霜月いり出る齋藤甚五兵衛といふ役者、前方は米がしにて刻煙草売なり、とつと軽口     器量もよき男なれば、とかく役者よかるべしと人もいふ我も思ふなれば、竹之丞太夫元へつてを頼み     出けり、明日より顔見せに出るといふて、米がしの若き者共頼み申けるは、初めてなるに、何卒花を     出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人言合てせいろう四十、また一間の台に唐辛を     積みて上に三尺程の造り物のたこ載せ、甚五兵衛殿へとはり紙して芝居の前に積みけるぞおびたゞし、     甚五兵衛大きに喜び、さて/\おそらくは伊藤庄太夫とわたくし花が一番なり、とてもの事に見物に     御出と申ければ、大勢見物にまいりける、されども初めての役者なれば、人らしき芸はならず、切狂     言の馬になりて、それも頭は働くなれば、尻の方になり、かの馬出るより此馬が甚五兵衛といふほど     に、芝居一とうに、いよ馬殿/\と暫くは鳴も静まらずほめけり、甚五兵衛すこ/\ともならずおも     ひ、いゝん/\と云ながら舞台中を跳ね廻つた    といふ一笑語なり、これにて流刑六年とは、時代の罪ともいへず、実に気の毒の事なりける〟
   『鹿の巻筆』「馬がものいふ落語」 鹿野武左衛門作・古山師重画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ☆「元禄八年 乙亥」(1695)   (浮世絵)   ・正月、菱川師宣の遺書『和国百女』三冊。他に『本朝貞女物語』五冊出版   ・三月、居初つな女の書画になる『女実語教』二冊出版   ・四月、菱川師宣の遺書『風流姿絵百人一首』三冊出版 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「元禄九年 丙子」(1695)   (浮世絵)   ・正月、菱川師宣の『倭国名所鑑』再版   ・四月、師宣風の挿画にて『光悦歌仙やまと抄』二冊出版。蓋し光悦の二字は角書なり    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此頃、元祖市川団十郎鍾馗に扮す。浮世絵師その容を画き板行して市中に売る、価五文なり。是より一    枚絵と称するものを種々発行して、正徳の頃まで専ら行はる 〔『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「元禄十年 丁丑 二月閏」(1697)   (浮世絵)   ・正月、鳥井庄兵衛の画ける『本朝二十四孝』三巻。杉村次兵衛の画ける『御成敗式目絵抄本』出版    〔『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉    ・此頃より漸く鳥居清信の画ける狂言本世に出づ   ・此年には『恵方男勢梅宿』『参会名古屋』『浅黄裕黒小袖』『兵根元曾我』の如きもの出づ    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「元禄十一年 戊寅」(1698)   (浮世絵)   ・正月、石川流宣の『日本鹿子』十二冊出版   ・二月、菱川師房の挿画と覚しき『壺の石文』十三巻出版。   ・十二月、英一蝶、『朝妻舟』を画きしを以て流謫せらるといふ 〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    〈下記『瀬田問答』記事参照〉     〈浮世絵年間〉    ・此年、石川流宣の画作の浮世草子『好色俗むらさき』出版       鳥居清信の画ける狂言本『関東小録』『雲絶間名残月』『源平雷伝記』等出版    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     ◯『瀬田問答』〔燕石〕①348(大田覃・瀬名貞雄問答・天明五年~寛政二年成立)   〝直政按、一蝶三宅島へ被流候は、元禄十一寅十二月なり、時四十六なり、表徳和央、呉服町一丁目新道    に住す、宝永六丑九月九日御赦免、夫より深川に住す〟    〈この記述は南畝のものでなく、「直政」なる人が後年書き入れたものであろう。この時は多賀潮湖と称す〉    ◯『筆禍史』「太閤記」p39   〝徳川家康が譎作権謀を以て、豊臣家を亡ぼし、而して自己が大将軍職に就きし事は、家康子孫の脳裏に    も、其忘恩破徳の暴挙たるを認識せるがため、それだけ、豊臣家の事蹟を衆人に普知せしむるを欲せず、    随つて其戦況伝記の出版をも禁止するの暴圧手段を執りしなり、『無聲雑簒』に曰く     元禄十一年の春、江戸書肆鱗形屋より太閤記七巻を刊行せし処、其年八月、松平伊豆守掛にて、版元     は御咎の上、絶板を命ぜらる、これ太閤記絶板の濫觴なり   〔頭注〕太閤記の冊数及び刊年    『日本小説年表』太閤記三冊、元禄十六年、鱗形屋板、版出後直に絶板を命ぜらる、とある三巻は七巻、     十六年は十一年の誤なるべし    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は『日本小説年表』に従い元禄十六年の刊行とする〉
   『太閤記』 画工未詳〔『筆禍史』所収〕    ☆「元禄十二年 己卯 九月閏」(1699)   (浮世絵)   ・正月、大森善清風の画にて『平家物語』の枕本出版       鳥居清信の画ける狂言本『一心女雷神』『五頭大伴魔形』出版。〔『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「元禄十三年 庚辰」(1700)   (浮世絵)   ・三月、鳥居清信の画本『風流四方屏風』二冊出版。   ・四月、鳥居清信の画本『娼妓画帳(ケイセイエホン)』出版。(此書未だ見ざれども寸錦雑綴によりて記せり       或説に風流四方屏風の事なるべしとあれど、一は三月、一は四月なれば別本なるべし)     〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年出版の『野郎舞姿記評林』に東坡軒といへる浮世絵師の存せるあるを記せり   ・此頃より狂言本漸く多くなりて此年に『和国御翠殿』『薄雪今中将姫』『景政雷問答』(以上鳥居清信    画)〔『【新撰】浮世絵年表』〕     〈一般年間〉   ・護国寺にて城州嵯峨清凉寺釈迦如来開帳(四月二十七日下向ありし由なれば、五月より開帳始まりしな    るべし。日数は八十日間の也。此の本尊江戸始めての開帳にして、貴賤群集夥しかりしかとぞ。     廻らはまはれふるまひ水の下向道 其角)   ・水木辰之助、山村長太夫が芝居にて、七変化の所作をはじむ(誠云ふ、山村座にあらず市村座なり)    〔以上二項『増訂武江年表』〕    ☆「元禄十四年 辛巳」(1701)   (浮世絵)   ・六月、大阪の植木庄蔵の挿画に成れる『摂陽群談』十七巻出版。〔『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、狂言本には鳥居清信の画とおぼしき『傾城王昭君』『頼政万年暦』『傾城三鱗形』『三世道成寺』    東あり 〔『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「元禄十五年 壬午 八月閏」(1702)   (浮世絵)    ・正月、大森善清の画本『しだれ柳』二巻出版。版元は京都の金屋平右衛門なり       伊藤勘兵衛の挿画に成れる『伊勢物語』二冊出版   ・四月二十八日、鳥居清元歿す。歳五十八。(鳥居清元は鳥居家の元祖にして彦兵衛と称し、元大阪に住    し役者にして而も芝居の看板を画き、又浄瑠璃を語ることも善くせる如く、貞享四年家族と共に江戸に    移り、浪花町に住し専ら芝居の看板を画きて生業とせりといふ)〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「元禄十六年 癸未」(1703)     (浮世絵)   ・狂言本には清信の画ける『小栗かなめ石』『小栗十二段』『傾城浅間曾我』『成田山分身不動』等あり    〔『【新撰】浮世絵年表』〕    ◯『筆禍史』「太閤記」p39   〝徳川家康が譎作権謀を以て、豊臣家を亡ぼし、而して自己が大将軍職に就きし事は、家康子孫の脳裏に    も、其忘恩破徳の暴挙たるを認識せるがため、それだけ、豊臣家の事蹟を衆人に普知せしむるを欲せず、    随つて其戦況伝記の出版をも禁止するの暴圧手段を執りしなり、『無聲雑簒』に曰く     元禄十一年の春、江戸書肆鱗形屋より太閤記七巻を刊行せし処、其年八月、松平伊豆守掛にて、版元     は御咎の上、絶板を命ぜらる、これ太閤記絶板の濫觴なり   〔頭注〕太閤記の冊数及び刊年    『日本小説年表』太閤記三冊、元禄十六年、鱗形屋板、版出後直に絶板を命ぜらる、とある三巻は七巻、     十六年は十一年の誤なるべし    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は『日本小説年表』に従い元禄十六年の刊行とする〉
   『太閤記』 画工未詳〔『筆禍史』所収〕    ☆「元禄年間」(1688~1704)   (浮世絵)   ・浮世絵師 橘町菱川吉兵衛、同吉左衛門、古山太郎兵衛、石川伊左衛門、杉村治兵衛、石川流宣、鳥井    (ママ)清信、菱川作之条。   ・菱川が浮世絵はことに行はれたり。宮川長春も此の時代の浮世絵師にて、元禄宝永の頃行はれたり。   ・一蝶が作の朝妻船、しのゝめ一名かやつり草、などいふ小唄流行 〔以上三項『増訂武江年表』〕      ・此期間は菱川師宣漸く老境に入り、宮川長春・奥村政信等は未だ幼年にして、版画には菱川師重・同じ    く師房・鳥居清信等ありて、絵入本に画き、肉筆としては、英一蝶・小川破笠等の市井の風俗画をもの    せるあるのみ、顧みれば元禄時代は文学・美術等如何なる方面にも黄金時代と想はるゝ割合には浮世絵    としては少しく物足らぬ時代なり 〔『【新撰】浮世絵年表』〕     ・草双紙(赤本)出版(全2点)    画工名未詳 『ひいな文章草紙』・『名人ぞろへ』〔「日本古典籍総合目録」〕     (一般)   ・吉原の遊女八朔に白無垢を着する事、元禄中江戸町壱丁目巴屋源右衛門が抱へ高橋といへる太夫、その    頃瘧(オコリ)をわづらひ居けるが、馴染の客来りし時、臥せ居ける白むくの儘にして、揚屋入りしける容    の艶なりしより、是てを真似て八朔には一般に白むくを着る事になりし由、「花街大全」にいへり。    〔『増訂武江年表』〕    〈「花街大全」は未詳〉