Top
浮世絵年表
浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
元和元年(慶長二十年・1615)~九年(1623)
浮世絵年表一覧
☆「元和元年(七月十三日改元)乙卯 六月閏」(1615)
(浮世絵)
・此年五月、大阪落城に際し、其の顛末を
瓦版
に印刷し、一枚摺として市中を売り歩けりといふ。
〔『【新撰】浮世絵年表』〕
(一般)
・六月十五日、山王御祭礼、出し練り物始めて御城内へ入る
〔『増訂武江年表』〕
〈一般年間〉
・太田姫稲荷社建立(するが台)
〔『増訂武江年表』〕
☆「元和二年 丙辰」(1616)
〈一般年間〉
・神田明神社、神田橋内より湯島へ移る ・筑土明神、牛込御門外より今の所へうつる ・朝鮮人来聘
〈元和三年の誤り〉
〔以上三項『増訂武江年表』〕
☆「元和三年 丁巳」(1617)
〈一般年間〉
・神田山知恩寺幡随意院、下谷池の端へうつる(万治二年今の地へうつる)
〔『増訂武江年表』〕
・朝鮮人来聘(正使呉允謙・副使朴榟・従事官李景稷)
〔『江戸時代の朝鮮通信使』p32(李進熙著・講談社学術文庫・1992刊)〕
☆「元和四年 戊午 三月閏」(1618)
〈一般年間〉
・庄司甚右衛門(小田原産、初名甚内)、官許を得て、遊女屋を一ッに集め、花街を葺屋町の末にいとな む。翌年(元和三年)十一月、普請成りて、舗(ミセ)を開き商売をはじめ、
吉原
町と号す。(「そゞろ物 語」に云ふ。此の町繁昌する故、草の仮屋を破り、西より東より北より南へ町割をなす。先本町と号し、 京町、江戸町、伏見町、さかい町、大坂町、墨町、新町などゝ名付け、家居美々敷(ビビシ)く軒をなら べ、板葺に作りたり。さて又本町を中にこめて、其のめぐりに揚屋(アゲヤ)町と号し、幾筋とも数しらず、 横町をわり、能歌舞妓の舞台を立てをき、毎日ぶがくをなして、是れを見せける。其の外勧進舞、蜘(ク モ)舞)、獅子舞、角力、浄瑠璃いろ/\さまざまのあそびして興じける云々
〈吉原官許が元和三年、翌四年十一月営業開始。風俗見聞集「そゞろ物語」は三浦浄心著・寛永十八年(1641)刊〉
・目白不動堂御再建。十一面観世音を安んじて、東豊山新長谷寺とあらたむ(中興開山秀算僧正なり)
〔以上二項『増訂武江年表』〕
☆「元和五年 己未」(1819)
〈一般年間〉
・長谷川豊前と云ふもの、西久保八幡宮境内にて時の鐘草創。後延宝中芝切通しへ移る
〔『増訂武江年表』〕
☆「元和六年 庚申 十二月閏」(1620)
〈一般年間〉
・浅草御蔵始めて建つ。 ・日本堤を築かせらるゝ所なり。日本六十余州の諸侯御手伝ひにて出来候故に、しか名づくる共、或ひは 日数六十余日にて出来候故とも云ひて、詳ならず ・朝鮮より金魚渡る
〔以上三項『増訂武江年表』〕
☆「元和七年 辛酉」(1621)
(一般)
・九月二十二日、小堀遠州侯上京。 ・十二月十三日、織田有楽斎卒す(七十歳。住居の町を元数寄屋町と云ふ。今にあり。有楽斎住居ありし 故也)
〔以上二項『増訂武江年表』〕
☆「元和八年 壬戌」(1622)
(一般)
・十一月、源通村卿関東御下向あり。御紀行を「関東海道記」とてあり
〔『増訂武江年表』〕
〈一般年間〉
・当年、日光御参詣あり
〔『増訂武江年表』〕
☆「元和九年 癸亥 八月閏」(1623)
(一般)
・正月、明の福建漳郡竜邑徐勲、浅草寺に観音堂の三字を書して額を掲る
〔『増訂武江年表』〕
〈一般年間〉
・芝増上寺山門御再建
〔『増訂武江年表』〕
☆「元和年間記事」
(一般)
・
女歌舞妓
を禁ぜられ、男歌舞妓となる(女かぶきといふは遊女なり。勝れたるを称して和尚とよべり。 男かぶきになりては、美少年を選びて舞はしむ) 筠庭云ふ、女歌舞妓やみて
若衆歌舞妓
となる。男かぶきと云ふ名目見えず
〔『増訂武江年表』〕
(浮世絵)
・『花街漫録』下の巻に
懐月堂安慶
の画ける遊女の図を載せ、説明して、このうつし絵は寛文の頃、茗荷 屋奥州といへる遊女のすがたにて懐月堂といふ人の筆なりといひ、又懐月堂を註して、元和中浅草に住 ゐける人にて御府内浮世絵師のはじめなりいへり 天童按ずるに懐月堂の伝諸説区々にして詳ならず。固より一人にあらずして代々懐月堂と称して、懐月 堂末葉などと署せる者さへあり、其内に
安度・安慶
など最も秀でたる者の如きも、『花街漫録』にいへ る如く、果して元和頃に懐月堂ありしや否やは疑あり。余は宝永・正徳頃の懐月堂の肉筆を見、下りて 享保の俳署に懐月堂と署せるを見たれども、元和頃に溯りての者は未だ見ず
〔『【新撰】浮世絵年表』〕