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浮世絵師総覧文政元年(文化十五年・1818)~十二年(1829)浮世絵年表一覧
 ☆「文政元年(四月二十二日改元)戊寅」(1818)   (浮世絵)   ・十月二十一日、司馬江漢歿す。(江漢名は峻、春波楼と号す。初め鈴木春信の門人となりて春重と称し    浮世絵を画き、又二代春信とも称せりといふ。後長崎に至りて西洋画を学び盛んに油絵を画けり。又銅    版画を製作す。亜欧堂田善は実に其門人なりといふ。著書には西洋画談、西遊旅譚、長崎見聞志、春波    楼筆記、和蘭通舶、泰西諸国銭考等あり)      ・正月、北斎の『秀画一覧』。       豊国・国貞・辰斎・戴一・国丸・国安・春亭・武清・玉山等の挿画ある『以代美満寿』、       北渓の画ける『東海道岐岨街道狂歌合』出版。   ・二月、北斎と大阪の立好斎と共に画ける『萍水奇画』出版。   ・三月、歌川国直の画ける『歌舞妓雑談』出版。   ・九月、葛飾戴斗の画ける『和語陰隲文絵抄』出版。    〈『以代美満寿』は立川焉馬の著作で五世市川団十郎追善狂歌集。挿画の玉山は岡田玉山か。また「日本古典籍総合目     録」はこの俳諧絵画本『萍水奇画』の暮雨巷帯梅の著作とする。この葛飾戴斗は二世戴斗〉     〈浮世絵年間〉   ・此年、葛飾北斎伊勢より紀州に入り、それより京阪地方を遊歴せり     (一般)   ・三月八日、画人谷文一卒す(三十二歳、号痴斎、文晁の男也。浅草源空寺に葬す)〔『増訂武江年表』〕   ・五月五日より十日まで、葺屋町都伝内芝居にて、寿狂言興行    〔『増訂武江年表』。下記『きゝのまに/\』記事参照〕   ・五月十四日、相模浦賀へ諳厄利亜(アングリア)船来る。塩、味噌等賜りて同月二十一日出帆。   ・八月より十月まで、回向院いて、紀州道成寺観世音開帳(霊宝に清姫が鬼女になりし時の角といふもの    ををがませたり)     筠庭云ふ、此の時道成寺縁起絵巻物出、借り得て写したるものあり。世に伝ふ、よきうつしすくなし。   ・十月六日、念仏行者徳本上人寂、小石川一行院に葬す(六十一齢と云ふ。上人は紀州日高郡志賀谷久志    村の産、田伏某の男なり。四歳の時隣家の小児俄に病みて失せけるより無情を感じ、念仏三昧して二十    七歳の時出家し、難行を修して衆人を化導す。近年の碩徳にして其の行状人の知る所なれば略す)      わがいほり草履の上に笠の下杖をはしらすとすみぞめのそで  行者徳本   ・「江戸名家墓所一覧」刊行(中古よりの江戸名家没卒年月墓所を集む。本郷六丁目の書肆伊世屋平次郎    号老樗軒の編にして、捜索尤も勤たり。惜しむべし、板木今伝はらずと聞へし)   ・十月二十一日、司馬江漢峻卒す(七十二歳、不言道人と号す。江戸にて西洋画をなし行はる。文もあり    し人にて長崎の紀行をあらはし、「西遊旅譚」と号し刊行せり)     筠庭云ふ、司馬江漢、はじめ町絵師なりしが、長崎へ行き蘭画を学び、江漢と改名して江戸に顕はる。     文才もあり、「西遊旅譚」は鯨を猟る事尤もくはしくかきたり。いつの頃にか、仏国暦象編の作者に、     その著編の事をいひけるは、今漢土も我が国にも、暦法は西洋の法を御用ひなるに、天竺の暦の事を     いはるゝは如何とて、彼是論じたりとぞ。彼の作者もこれを恐れて、東叡山にたより首尾よく刊成る     よし聞きて、江漢またこれを恐れ、いづちへかうせたり。程へて又出たりといへり。度々出没したる     こそおかしけれ。〔以上五項『増訂武江年表』〕    ◯『藤岡屋日記 第一巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇当年開帳 p212   〝上野尾天満宮 根津権現山内            三月朔日より三十日之間開帳    【女人済度】弘法大師 葛西寺島 蓮花寺      三月三日より六十日之間    川上薬師 本所二ッ目 万徳山弥勒寺        三月五日より六十日之間    目黒不動明王 別当 滝泉寺            三月十五日より十五日之間開帳    毘沙門天王 麻布広尾 多聞山天現寺        三月十七日より三十日之間    子安地蔵尊 麻布日ヶ窪 龍興寺          四月二日より六十日之間、深川八幡にて    開運子安観世音 鶴見子生山 東福寺        四月朔日より六十日之間、木下川浄見寺に於て    子安聖観世音 本所押上 長行山大雲寺       三月十七日より六十日之間    寅薬師如来 麹町九丁目 石雲山常仙寺       四月八日より六十日之間    京北野自坊天満宮 目代 春林方          八月廿五日より六十日之間、                             浅草寺境内念仏堂にて開帳有之    子養育薬師如来 多磨郡新井村           八月八日より十五日之間、内拝    道成寺千手観世音 紀州日高郡 巻 道成寺     八月十日より六十日之間、回向院にて    日法上人作高祖日蓮大菩薩 甲州小室 徳栄山妙法寺 四月八日より六十日之間、深川浄心寺にて開帳    日親上人作高祖日蓮大菩薩 相州上町 海近山広宣寺    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥108(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝葺屋町桐長桐座とかく不繁昌なりしかば、市川団之助病中ながら、三ッ人形所作事などして興行はせし    が、願ひ置たる年限まで続きかね、去年都伝内と名題替り、当年五月普請出来て、寿狂言の外、新狂言    八百屋お七が事を菊五郎粂三郎抔にて見物多かり    ☆「文政二年 己卯 四月閏」(1819)   (浮世絵)   ・二月十一日、画工北尾重政卒す(八十一歳、紅翠斎花藍と号す。根岸に住せり。浮世絵中の高手なり。    筠庭云ふ、紅翠斎は手跡はよくて、江戸暦の板下はこの人也。また住吉町髪の油屋松本の出し看板も其    の書也。画は門人も能手多し)〔『増訂武江年表』〕   ・二月、北尾重政歿す。行年八十二歳。或はいふ文政三年八十三歳にて歿せりと。(重政は幼名を太郎吉    といひ、通称を佐助・久五郎等と呼び、紅翠斎・花藍・酔放散人・恒酔夫等の号あり。江戸横山町の書    肆須原屋三郎兵衛の子にして、もと紀州の人なり。重政はひとり絵画のみならずして又書を能くし、当    時の江戸暦の版下は実に重政の一手に成れりといふ)〔『【新撰】浮世絵年表』〕   ・七月二十六日、浮世絵師勝川春英死す(五十八歳、号九徳斎、東本願寺中善照寺に葬す。牛島長命寺に    碑あり。六樹園の文也)       筠庭云ふ、勝川春英は春章につゞきたる上手なり。操芝居看板はいつも春英が書きたり。見物ほめざ     るはなかりき。又其の頃三芝居茶屋より、暑中に得意に贈りものとする団扇の画、おかしき思ひ付を     筆かろく書けるは、他の画師及ぶものあるべからず。又三馬が作芝居の楽屋中の事を書けるもの、大     本にてあり。其の絵春英なり。太刀打ちたての処、人物裸に書きたる活動、いとよく書きなしたり。     〔『増訂武江年表』〕     〈三馬作『戯場訓蒙図彙』(春英・豊国画)は享和三年(1803)の刊行〉   ・十月二十六日、勝川春英歿す。享年五十八歳。(春英は、春章の高弟にして俳優の似顔を能くし又武者    を能くせり。本姓磯田、通称久次郎、九徳斎と号せり)〔『【新撰】浮世絵年表』〕     ・正月、『北斎漫画』九編より十一編出版。   ・四月、『北斎画式』、又北斎の『画本早引』二年出版       北渓の画ける『狂歌五十人一首』出版。   ・十月、合川珉和の『通神画譜』出版。〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、大阪の一田正七郎といへる者、籠にて人物鳥獣草花の類を作り、浅草奥山にて見せ物とす。此籠    細工の見せ物は、其後天保七年に至り両国回向院にて嵯峨の釈迦開帳の際亀井町の籠細工の見せ物を出    だせり。其のいづれのなりしか浮世絵に画きたるあり。蓋しこれより度々ありし事なるべければ確とは    断じがたし。〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月十一日、小田原より木食の沙門(名観正)、湯島円満寺へ着し、加持を施し光明真言を授く。貴賤    群集夥し。   ・二月二十五日より、亀戸天満宮法性坊社開帳(三月二十一日、境内にて神田青木某、百畳敷の大きさの    紙へ龍の字を書す)。   ・夏より痢病行はる。死亡のもの多し(此の節の病を俗にコロリと云ふ、これを避くる守り也とて、探幽    が戯画百鬼夜行の内ぬれ女の図を写し、神社姫と号して流布せしを、尊ぶものありしなり)   ・五月十一日、画人清水曲阿卒す(七十三歳、名冕、称連)   ・七月八日、詩人柏木如亭卒す(五十七歳、名昶、称門作)     筠庭云ふ、人もはやる時あるものと見へたり。如亭は上方へ行かざる前には名も聞えたり。其の後は     なきが如し。画家には如圭なども然り。     再発してあらはれしは、大岡成寛、春木南湖などあり。されど雲峯は勤仕によりて画を廃したる間に、     文晁は盛りにして大家となれり。初めは文晁成寛孟熈伯仲の間にいはれしものなりしが、其の内にも     馬孟熈すぐれたり。南湖は増山雪斎公の命にて、費晴湖に画を学ばしむ。山水家なるの後に、狂ふて     さま/\書きたる皆わろし。   ・此の秋、浪花より下りし一田正太郎といふ者、籠にて人物鳥獣草花の類を作りしを、浅草奥山にて見せ    物とす。遠近の見物夥し。狂歌      観音の加護にてはやるかご細工皆人ごとにほめざるはなし     筠庭云ふ、文政二年の春、難波天王寺に、九丈六尺の釈尊涅槃像を竹籠にて作れるが、殊の外はやり     て、其の秋細工人江戸に来り、大なる関羽の坐像、并びに其の外のさま/\小さきものども作りて、     浅草寺の境内に見せものとす。思ふに先の細工の取りくづしたる竹を用ひしなるべし。此の見せもの     終りて、江戸の細工人どもさま/\大造(オオヅクリ)なるものをみせたり。此の翌年頃、彼の大坂籠細工、     上野山下にも作りもの出したれども、これは最早見物評判なし 〔以上六項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・両国橋西詰に、籠細工にて大なる酒顛童子(シユテンドウジ)の形を作り見せ物とす(江戸亀井町笊かご師の    細工なり。始め天竺の僧うたゝね枕と題して、涅槃の釈迦如来を作りしが、嵯峨釈迦開帳の折なればと    て、酒てん童子に改めし也)。向ふ両国にてもギヤマンの燈籠并びに蘭船の造り物抔も見せたり。是よ    りこの方大造の見せ物出る。   ・此の節葺屋町河岸に大坂下り谷川定吉手品興行、うかれの蝶とて扇にて蝶をつかふ。一蝶斎は是れを学    びしなり。〔以上二項『増訂武江年表』〕   ・当たり前といふ俗言を、あた坊と云ことはやり、童謡も、あたぼでゲイ極(キマ)りといへり、小娘又若き    娘のかんざしにあたぼのかんざしはやる。是は銀にて大なる丸き紋を付たる簪なり、これらはあたを濁    りてあだと心得たるなり、あだとはもとはかなき事なるを、俗には今様の洒落なる物とするより、かゝ    る物も出くる也 〔『きゝのまに/\』〕  ◯『藤岡屋日記 第一巻』p228(藤岡屋由蔵記)   ◇当年開帳 p228    亀戸天満宮并法性坊 神主菅原        二月廿五日より六十日之間開帳    道了大権現 小田原関本 最乗寺       同月廿五日より渋谷笄橋長谷寺にて    白髭大明神 本所寺島 別当白髭山西蔵院   三月十三日より三十日之間開扉    江島三社弁財天 惣別当 岩本院       三月三日より六十日之間、深川八幡境内に於て開帳    厄除弘法大師 西新井 別当 遍照院    日法上人作日蓮大菩薩 上総藻原常在山妙光寺 三月九日より六十日之間、                          浅草田甫幸龍寺に於て廿二年目にて開帳    高祖日蓮大菩薩 浅草田甫 妙祐山幸龍寺   六月廿八日より六十日之間開帳    十一面観世音 房州 補陀落山真言宗那古寺  三月十日より六十日之間、回向院にて    嵯峨釈迦如来 五台山清涼寺         六月十五日より六十日之間、回向院六度目之開帳也    ☆「文政三年 甲辰」(1820)   (浮世絵)   ・八月三日、勝川春亭歿す。行年五十一歳。(春亭は春英の門人なり。通称山口長十郎、松高斎と号せり    武者絵・役者絵を善くせり。焉馬の歌舞伎年代記の挿画は春亭努力の作なり)   ・九月二十日、窪俊満歿す。行年六十四歳。(俊満は北尾重政の門人なり。又狂歌を宿屋飯盛に学びて狂    名を南陀伽紫蘭と称せり。又文才あり青本を作り同じく南陀伽紫蘭と署せり。通称安兵衛、尚左堂・黄    山堂等の号あり。本姓窪田を修して窪と称せり。尚左堂の号は左筆なりしを以て号せるなるべし。    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕   ・大坂の画工二世玉山、江戸に来り、為朝の絵を書たる額を納む【下地板わろく程なく裂たり】画は中江    藍江が風に出来し也。〔『きゝのまに/\』〕             ・正月、安藤広重の処女作『音曲情糸道』出版。東里山人の作なり。広重時に二十四歳なり。       勝川春亭の画ける『戯場百人一首』出版。   ・五月、『北斎麁画』出版。   ・八月、歌川貞房の画ける『見世ものがたり』出版。   ・十月、北渓の画ける『新居狂歌合』出版。〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・正月元日、挿花師本松斎一得卒す(百三歳、浅草常林寺の故住なり。其の伝、三囲(ミネグリ)いなり境内    の碑文に見えたり)   ・正月二十四日、二十五日、亀戸天満宮鴬更(ウソカエ)の神事始まる(去年大坂天満の社にて、太宰府の例に    習ふて此の事を始む。当社にも今年よりはじむ)   ・正月二十八日、烏亭焉馬亀井戸にて落語会を開く。    〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕   ・二月頃、いつもあ若いといふ事はやる、西城にて御痘瘡ありしかば御側の者皆赤き服を着たり、いつも    御赤いといひしより始るとぞ、御医者部屋にて言出せし由、然らばこれの御若といふことのざれこと也。    (中略)    また木挽町芝居ほめ詞に、いつもお赤い酒きげんと云り、此ほめ詞当時のはやりことをいひし也。   ・二月中旬、深川沖に鯨あがる、大さ六間計と云。      ・三月、両国西広小路曲馬みせもの女美人のよし、薬研堀の家主酒狂の上にて、右女の口を吸候由、然    る処曲馬の男女大勢にて大屋を打擲致し、誤り証文出候、右に付見世物六七日休のよし。     一 右曲馬の女、浅草観音奥山にて清水保之丞殿御同道御成、五月六日也、其節曲馬貝細工の見世       物も御覧有之べき由にて、見世物入口に御用という札を立有之。   ・三月九日、品川にて「ゴンド鯨」二頭仕留める。大の方は長さ三間五尺、小の方は弐間三尺の由。   ・六月朔より回向院にて善光寺如来開帳にて、両国橋辺みせ物種々出、みな大造なる物どもなり、同時浅    草寺奥山にみせ物の小屋満たり、余り多きにや、後は見物人まれなり、其内見事なりしは、貝細工にて    看板はいと大なる盆石也、みせ物の内、糸瓜細工の小屋より火出て、数多の細工もの一片の煙となれり。    〔以上五項『きゝのまに/\』〕     〈一般年間〉   ・不忍池の南西の端に土手を築く(中に細流を隔てゝ、所々へ小橋を架したり)茶屋料理屋など建て列ね、    桜を栽へて春の頃はわけて賑ひけるが、天保に至りて取り払ひせらる。   ・今年正月より秋にいたり、寺地或ひは両国橋詰へ大造の看せ物出る。おのれが見る所を左にしるす     針金細工 (両国広小路へ出る。細工人胡蝶、「難波なるかごの細工にまけまじとたくみ出したる           江戸のはりがね」)      麦藁細工 (同所へ出る)        虎遊び  (同所へ出、虎の造物)     雨乞小町 (浅草奥山へ出、ゼンマイ仕掛、東陽斎常山作)     笊籠細工 (東両国、鯉滝登)      茶番細工(浅草奥山へ出、人形多し。細工人堤深川斎)     麦藁張細工(同所へ出、七丈余りの青龍刀、十二支の額、其の外北斎の下絵にて見事なり。大森の職           人これをつくる)     貝細工  (同所へ出、貝細工大塚看造、人形細工末吉石舟)     七小町人形(同所へ出る。二代目原舟月作)籠細工  (同所へ出る、松民斎作)     丸竹細工 (回向院内へ出る)      削掛白沢の造物 (回向院内へ出、三田高伊作)     貝細工  (回向院内へ出、細工人満亭一等宝亭平輔)     ギヤマン象頭山景(東両国へ出る、細工人大坂武楽斎)     文覚上人荒行(回向院へ出る、細工人惣助、弥三郎、泉五、茂定)     瀬戸物細工(回向院へ出る、細工人亀祐周平)     時雨桜  (同所へ出、ゼンマイ人形、細工人大坂金橘堂)     絲瓜細工 (浅草奥山へ出、江上仙吉作、此の小屋より出火して造物悉く皆灰燼となれり)     瀬戸物細工(同所へ出、細工人大坂富永軒)     三宝の牛 (両国向へ出、生キ牛也。頭に玉の如き物三つ有り)     大盆石  (浅草奥山に出る、大坂井上宗菊作)      筠庭云ふ、浅草寺奥山に出たる計りも夥しき見世物なり。かゝる事も又あるまじとぞ思はるゝ。其      の中にすぐれてよかりしは、貝細工なりき。あまりに処々に出て、後には見物人なくなれり。   ・此の頃さいのさいのと云ふ童謡流行。〔以上三項『増訂武江年表』〕       ◯『藤岡屋日記 第一巻』p243(藤岡屋由蔵記)   ◇当年開帳 p243     熊野十二所権現 別当成願寺         三月朔日より六十日之間    千駄ヶ谷八幡宮 高雲山瑞円寺        三月朔日より六十日之間    上野清水観世音               三月朔日より六十日之間    親鸞聖人植髪像 栗田御殿          三月朔日より六十日之間、浅草報恩寺にて開帳有之    祐天大僧正真影 目黒祐天寺         三月十六日より十五日之間    鮫洲正観世音  南品川鮫頭海晏寺      四月朔日より六十日之間    富士山北表口御室浅間宮 神主小佐野越後   四月朔日より目黒不動境内に於て    宝蔵安置日蓮大菩薩 甲州身延山久遠寺    三月十一日より六十日之間                           深川浄心寺に於て、天明八申年より三十三年目開帳    三国伝来阿弥陀如来 信州川中島南面山善光寺 六月朔日より六十日之間開帳、五度目也    ☆「文政四年 辛巳」(1821)   (浮世絵)   ・清水為斎生る。(北斎の門人なり。明治十三年歿す。行年六十歳)   ・四月十三日、書画鑑定家として有名なる菅原洞斎歿す。行年五十歳。   ・六月、江戸に駱駝二頭来る。閏八月九日より両国広小路にて見世物となせり。『駱駝考』といへる著書       出版の外、錦絵に多く画かる。〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕      ・正月、北渓の挿画ある『狂歌読人名寄細見』、岳亭春信の画ける『狂歌読本詠咏奇譚』出版。   ・八月、速水春暁斎の画ける『男山放生会図録』出版。〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、北渓・英山・沖一峨・岳亭・千春等の画ける『新曲撰狂歌集』出版。   ・此年より、勝川春扇、二代春好と称す。〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月中旬より風邪流行(筠庭云ふ、此の時流行風邪をダンボ風といふ。ダンボザンといふ童謡行はれし    故なり。「うんすんと車に似たるだんぼ風押す人もありひく人もあり」)   ・四月十三日、画并びに鑑定家菅原洞斎卒す(五十歳、浅草寺町白泉寺に葬す)   ・六月、長崎より百児斉亜(ハルシヤ)国の産駱駝二頭を渡す、閏八月九日より西両国広小路に出して見世物と    す(蛮名カメエル又トロメテリスと云ふとぞ。予、此の時真物(シンブツ)を看て、「和漢三才図会」橘守    国等が絵本にあらはす所の虚なる事を知る。背に肉峯ありて鞍のごとしといへる説によりて、二つの肉    峯を画けり、肉峯は一つにしてしかも高し。足は三つの節ありて三つに折る。高さ九尺長二間、牡八歳    牝七歳といへり。後に北国へ牽き行きて見せ物とせしが、寒気にふれて斃れたりと聞えり。堤它山とい    ふ人「駱駝考」一巻を著はし梓に行へり)      くびは鶴背中は亀の甲に似て千秋らくだ万歳らくだ        加茂季鷹     三十二銅にて見せしかば、      押あふて見るより見ぬがらくだらふ百のおあしが三つにをれては  村田了阿     筠庭云ふ、此の見世物出てより後、物の大にして鈍なるやうなるをらくだと云ふ、その詞今にのこれ     り。又雑木を焼きたる堅からぬ大なる炭を名附けて、らくだ炭と云ひて行はれしが、当嘉永四年の春     は此の炭稀なり。此の頃人用ゐざる故出さぬ成るべし。〔以上三項『増訂武江年表』〕     〈「閏八月九日より」以下の記事は文政七年(1824)〉   ・六月、一中浄るり数種を新刻して、都羽二重拍扇と題号す、近年吉原にて嘉六と云幇間、一中節を再興    して行はる。〔『きゝのまに/\』〕   ・七月二十六日、書家董堂敬義卒す(六十四斎、称中井嘉右衛門、小笠、宜松、蠅虎等の別号あり。西門    跡浄見寺二葬す)     筠庭云ふ、敬義はそのかみ腹殻秋人(ハラカラアキンド)といへる狂歌師なり。一とせ夏日団扇に、定(サダ)く     らうござるに暗の与一兵衛、ひとりで行くはあぶなからん平と云ふ狂歌して書きたるを多く人におく     れり。その後万象亭世の中の狂歌を集めて、吉原細見の体(テイ)に作りし中に、江戸町河岸といふを反     吐(ヘド)狂歌の部と有りて、其の中に団扇屋定九郎と書きたるは彼が事なり。   ・九月十二日、塙撿校保己一卒す(七十六歳、号水母子、萩原宗固の門人、国学に名有りし事人の知る    所也)〔以上二項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・春より葺屋町河岸に唐人踊見せ物出、カン/\ノウといふ事を唄ふ故、カン/\踊り共いへり、蛇皮線    に合す、又銅鼓ホラを鳴して大蛇を使ふ、西俗奇聞の絵の如し、大に流行す、後に両国橋広小路又深川    富が岡にも出、小児等多く学びて躍れり、其頃浜町山伏井戸辺に太田波之丞と云御家人有、此踊を好み    て拍子踊る音絶ず、余りなる戯なりといひしが、其屋敷長屋に売女を抱置事四五人なり、忽露顕して改    易となる。   ・亀戸天満宮より吉書初に用ゆべき筆をを出す事を始む、其由板行にして弘るに、昔より年の暮に出す御    筆なれど、宮居に遠き人の為に、文政四年より毎年十二月朔より晦日迄出すといへり。    〔以上二項『きゝのまに/\』〕    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p263(藤岡屋由蔵記)   ◇当年開帳 p263   〝聖如意輪観世音 音羽町 神齢山護国寺     二月十八日より五十日之間開帳    真先稲荷大明神 神主             二月十五日より六十日之間   【江の島下の宮】大弁財天女 別当下之坊     三月三日より百日之間    高尾山飯綱大権現 別当薬王院         三月朔日より六十日之間、四谷新宿大宗寺にて    出世弁財天 芝増上寺山内 宝樹院       四月朔日より六十日之間    胎蔵界大日如来 湯殿山本地 法蓮寺      四月朔日より六十日之間、回向院にて    高祖日蓮大菩薩 鎌倉松葉ヶ谷 妙法寺     三月十一日より六十日之間、浅草玉泉寺にて開帳   【蒙古退治】御籏曼荼羅 本所押上 天松山最教寺 四月八日より六十日之間、開帳    成田山不動明王 成田山神護新勝寺       三月十五日より六十日之間、深川八幡にて    ☆「文政五年 壬午 正月閏」(1822)   (浮世絵)   ・五月七日、亜欧堂田善歿す。享年七十五歳、或はいふ七十三歳と。(田善は永田善吉の略称なり。亜欧    堂と号す。岩代国須賀川の人にして、司馬江漢に就いて西洋画を学び、盛んに銅版画を製作せり)    〔『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉    ・春より葺屋町河岸に於いて唐人踊の見世物を出す。カンカン踊りといふ。為に歌川国安の画にて『看々    踊きんらの唐金』といへる合巻五巻二冊出版さる。蘭麝台薫の作なり。其他一枚物(錦絵)にも多く出    たり。   ・此年、岳亭定岡の画ける『狂歌三十六歌仙』『狂歌水滸伝』『狂歌評判記』出版。    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月六日、戯作者式亭三馬卒す(四十七歳、本町二丁目住。号本町庵、遊戯道人、称菊池太輔)    筠庭云ふ、三馬一たび芝神明町書肆万屋太治右衛門が養子となりしが、程なく出でゝ後本町に舗を開く。   ・四月四日、内田玄対卒す(七十四歳、名瑛、筠庭云ふ、「玄対画譜」を「林麓画観」とかいひし。林麓    は号なるべし)〔以上二項『増訂武江年表』〕   ・五月廿五日より両国広小路におゐて、日本一小人【大坂下り】岩本梅吉、年三十六才、立せい壱尺七寸、    顔の大きさ人並、両の手は勿論、両足にて紙細工・織もの・はさみ細工、又々音曲打はやし等能覚へ、    大坂表にて御目に懸候処、大入繁昌仕り、古今珍敷者故、此者御当地へ呼下し、御当所において晴天百    日の間御覧に入候。   ・七月廿九日より山下にて、大坂下りの籠細工人・一田正太郎、富士の牧狩りを見世物に出す。    〔以上二項『藤岡屋日記 第一巻』。籠細工記事は下記参照〕     〈一般年間〉   ・投扇の戯世に行はれしが辻々に見世をかまへ、賭をなして甲乙を争ひしかば、八月にいたりて停めらる〟   ・春より葺屋町河岸において唐人踊の見世物を出す(カン/\踊と云ふ、踊の末に大なる蛇の作り物を遣    ふ)。世に行はれて両国深川等へも出す。諸人これを真似たり(再び云ふ、この踊は大坂より始まりた    るよし也。蛇を遣ふ事は「清俗紀聞」の図中に拠れるところなりと云ふ。      かん/\とてる日にそだつひる顔はつるつてとんと庭をはふ/\  蜀山人      かん/\の氷も今朝は解そめてきはきで匂ふ窓の梅がえ      同     筠庭云ふ、かん/\踊り見世物、先づ一人出て棒をつかうことあり。次に蛇をつかひ次に踊りなり。     大坂にて見せたるなれど、其の地より始まりしにはあらず。此の時用ひたる胡弓は、竹にて作りたる     柄杓やうなる提琴にはあらず。木にて作りたるなり。胴は片面のみ皮をはりたるなり。摩(コス)るには     細竹に松脂を粉にしたるをふりかけて用ふ。馬尾を用ひたり(声云ふ、カン/\踊は長崎より始まれ     り)   ・秋、山下に笑布袋(ワライホテイ)といへる見世物出る(場中色々の造り物有り。奥に一つの堂有り、内に布袋    のいねぶりたる像あり、面部腹手足ちりめんにて張る。側にて呼びおこせば驚きて目を覚し、夫より団    扇を持ちて踊る。目のはたらき屈伸人に異ならず。末に口を開いて大いに笑ふ事あり)。   ・十返舎一九が作の「道中膝栗毛」、享和二年初編を初兌(ハツダ)せしよりこのかた世に行はれて、今年迄    に四十六巻を著はし全く備はる。此の余四編の綴足(ツヅリタシ)続々編を合せて五十六巻なり    〔以上四項『増訂武江年表』〕     ◯『藤岡屋日記 第一巻』p303(藤岡屋由蔵記)   ◇籠細工 一田正太郎 p304    〝文政五午年七月廿九日より山下にて、大坂下りかご細工一世一代、細工人一田正太郎    泰平富士野牧狩之籠細工    (中略)    建久の頃、勇猛の人物、或は禽獣草木の類迄残らず透抜きに致し御覧に入れ候     頼朝公七尺・仁田四郎一丈八尺・五郎丸七尺五寸・騎馬武者三十一人七尺宛・鎧武者六十人六尺宛     雑兵千三百人五尺宛・馬三十一疋八尺五寸宛・猪しゝ大壱疋二丈八尺・同小三十一疋八尺五寸ヅヽ・     犬五疋四尺ヅヽ・熊三十五疋五尺ヅヽ・猿百疋三尺・きつね二十五疋三尺ヅヽ・草木しな/\・     川津股野一丈三尺・玉もの前七尺五寸・玄翁和尚七尺・五郎八尺・朝比奈七尺五寸・定盤御七尺五     寸【頼朝三尺五寸牛若三尺】・十郎八尺・とら七尺・海老四丈五尺・ふぐ七尺、ねぎ一丈・越後じし     七尺・生花十二席・鳥類品々〟    ☆「文政六年 癸未」(1823)   (浮世絵)   ・七月十日、京都の浮世絵師速水春暁斎歿す。行年六十余歳。(春暁斎、名は恒章、俗称彦五郎、実録体         の読本を多く画作せり)   ・十一月十二日、高島千春歿す。行年八十三歳。〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     ・正月、北斎の『一筆画譜』『今様櫛煙管雛形』、       柳川重山の『絵本ふぢはかま』、       速水春暁斎の『絵本堪忍記』、       辰斎の画ける『狂歌駅路鈴』出版。   ・三月、歌川国貞の画ける『江戸紫訥子頭巾』出版。   ・八月、蹄斎北馬の画ける『狂歌隅田川名所図会』、       八島一老の『一老画譜』出版。   ・九月、八島岳亭の画ける『鹿島名所図会』出版〟〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕       〈浮世絵年間〉     なし     (一般)   ・二月八日、俳人谷素外歿す。行年七十五歳。(一陽井と号す。重政・豊国等の俳諧の師なり)    〔以上『【新撰】浮世絵年表』〕   ・三月、浅草田圃鷲大明神開帳。   ・三月十七日、十八日、浅草三社権現祭礼(四十余年目にて出る。都鄙群集す)先規の通り神輿乗船あり。    産子町々出し練物等花麗を争へり   ・三月二十一日より、川崎平間寺大師開帳   ・三月二十八日より四月十二日迄、王子稲荷明神開帳    ・四月六日、太(ママ)田南畝翁卒す(七十五歳、名覃、称直二郎、狂歌をよくし初名四方赤良といふ。蜀山    人、遠桜山人、杏花園等の数号あり。戯作の書数十部あり。世の知る所故贅(ゼイ)せず。白山本然寺に    葬す)     筠庭云ふ、南畝また緇林楼の号あ。あまりに博雅の聞へ高きにや、一たび星雲の望みありて勤仕せし     が、おもひの如くならず、又もとの身持に帰れり。紀定麿は兄弟なり。狂歌をやめて精勤しければ立     身したり(声云ふ、定丸は甥なり。弟にあらず)   ・四月十七日より三日の間、中村勘三郎寛永の初興行より、二百年目の寿狂言興行   ・五月より回向院にて、摂州四天王寺太子開帳(五十年目の開帳なり)   ・六月二日、狂歌師烏亭焉馬死す(七十余歳、称和介、号談洲楼)〔以上八項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・是の春より芝宇田川町に、若鶴白滝といふ二軒の茶屋出来、若鶴の娘十八、九、白滝は三十計(バカリ)    のいづれも美婦なり。外二、三人宛相応の女を抱へ入れ、次第に繁昌し、留守居其の外富人入込み、裏    に二十間余の座敷をこしらへ、隣に料理屋も二軒出来て肴をはこぶ。後いかゞはしき風聞有りて召捕ら    れ、二軒とも取払ひ申付られたり。〔以上『増訂武江年表』〕    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇大田南畝逝去 p312   〝文政六癸未年四月六日    大田南畝翁卒、七拾五、名覃、通称直次郎、後改七左衞門、狂歌をよくし、初四方赤良と云、蜀山人、    遠桜山人、杏花園、寝惚先生の数号あり、戯作の書数十部あり、世の知る所なり、白山本然寺葬す、先    生自ら戒名を、杏華園心逸日休居士と考へ置しとなり。    右は三月廿八日の作なりと、又辞世の句とて、     酔世(スイセイ)将(ト)夢死(ムシ) 七十五居諸(ヰシヨ)     有酒市鋪(シホ)近(チカシ)   盤餐(ハンサン)比目魚(ヒモクギヨ)     時鳥鳴つる片身初鰹春と夏との入相のかね〟    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥114(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝新吉原に三浦屋といふ家出来たりと云〟    ☆「文政七年 甲申 八月閏」(1824)   (浮世絵)   ・三月二十一日、画人鍬形蕙斎卒す(名紹真、北尾重政が門人にして、始めは北尾政美といへり。一枚絵    草紙のるゐ多く画けり。略画式をあらはして世に行はれ、又京の黄華山が「花洛一覧図」にならひて、    江戸一覧の図を工夫し梓に上(ノボ)せ、神田の社へも江戸の類をさゝげたり。其の男を赤子といふ。     筠庭云ふ、蕙歳はもと竈河岸畳屋の子也。薙髪して紹真を改名、越後侯の絵師と成る。於玉ヶ池に住     す。〔『増訂武江年表』〕        ・正月、大阪の暁鐘成の画ける『澱川両岸勝景図会』。       北斎の画ける『教訓仮名式目』出版。   ・五月、岳亭の画ける『狂歌奇人譚』出版。   ・十月、北馬の画ける『狂歌武蔵野百首』出版。   ・十一月、北渓の画ける『扶桑名所狂歌集』出版。〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕       〈浮世絵年間〉     なし     (一般)   ・三月十三日より、浅草慶印寺にて、京妙満寺祖師開帳。并びに同寺所蔵紀州道成寺の鐘、清正公朝鮮よ    り持参の大曼荼羅等拝せしむ。   ・三月下旬より、山下にて五重塔をせり上る見せ物出る(其の高さ二丈余といへども、中へ組み込みてせ    り上る故、土中は聊か掘りたるのみ。其の九輪小屋を貫き大路より見ゆる〟   ・四月三日、暮六時、吉原京町二丁目より出火、廓中焼亡(仮宅は花川戸町、山の宿、瓦丁、深川、大新    地、小新地、仲町、表櫓、裏やぐら、据つぎ等なり)〟   ・四月中旬より、薩摩座操芝居久しく絶えたるを再興す〟   ・七月二十六日、画人片桐処翁卒す(六十一歳、号蘭石)〟   ・今年夏、京より花隠といふ画工下る(桜花を画に妙を得たりと云ふ。数種の形状を心にこめて画く。桜    の外はかく事なし〟〔以上六項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉    なし    ◯『藤岡屋日記 第一巻』(藤岡屋由蔵記)     ◇見世物 p334   〝三月下旬より    東叡山山下にて五重塔をせり上る見せ物出る、其高さ二丈余といへども、中へ組込てせり上る故、土中    は聊か堀たるのみ、其九輪小屋つらぬき大路より見ゆる也〟          ◇駱駝 p343   〝文政七甲申秋    (両国橋西広小路に於て駱駝の見世物)去年紅毛国より長崎表ぇ持渡候也、おだやかにして、喰物、大    根・蕪菜・さつまいも等のよし、三十二文宛にて見物夥敷群集すなり〟
   「駱駝之図」 国安画 山東京山撰 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)      〈この「駱駝之図」には〝文政四年辛巳六月阿蘭陀人持渡駱駝之図〟とあって、長崎への渡来は文政四年。画中に〝文     政七甲酉年閏八月上旬より江戸大に流行〟の朱書きがある。また「古典籍総合データベース」には国安画・江南亭唐     立撰の「駱駝之図」もあり、こちらの朱書きには〝文政七年庚申年初秋江戸に来り壬八月より両国に於て見せもの〟     とある〉     ◇敵討ち p345   〝文政七甲申十月十日    四ッ谷塩町敵討     上野緑野郡倉賀野宿在、安久津村百姓 才市養子 宇市 申十八    (四ッ谷塩町にて、親の敵安兵衛を討つ)〟     ◇両頭蛇 p344   〝十一月廿四日    (本所竪川の川浚い中に捕獲)〟    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥120(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝閏八月九日より百児亜国の産、駱駝牡牝を両国広小路にて観せ物とす、草紙戯作一枚絵、小児玩物の類    に作り、狂歌も色々有き、余も此獣を見て一絶を賦す、痴(ママ)長頸脚歩何遅、漫道沙場負重馳、性癖従    来多畏怯、風候水脉非真知、又処々にて見せし後、北国へ引行しが、斃れしとぞ〟    〈長崎に渡ったのは文政四年(1821)六月の事〉   〝俳優市川門之助死【舟にて涼みに出しが、蟹を食て中りしとぞ】〟    ☆「文政八年 乙酉」(1825)   (浮世絵)   ・正月七日、浮世絵師歌川豊国死す(五十七歳。聖坂功運寺に葬す。称熊吉、一陽斎と号す。歌川豊春の    門人にして一家をなし、享和以来世に行はれたり。門人数多有り。柳島法性寺の碑蔭に見えたり)。     筠庭云ふ、豊国はじめ一向はやらず、芝辺に住みける故赤羽根金比羅に立願日参し、満限の日何にか     有りけん、絵を書きて、神明前の草子屋泉市が所に行きて、これを錦絵にして賜へ、写料は受不申と     頼みしが、不便におもひて板本これを刊行せしに、相応に售れたりしかば、随分出精して書かれよと     て、次々に絵を出し、それより漸々に行はれたり。この故にはやり盛りても、泉市が方をば粗略にせ     ざりしとなり。流行(ハヤ)りし頃は中橋通横町に三笑亭可楽が隣家に居れり。〔『増訂武江年表』〕     ・正月、沼田月斎の『絵本今川状』出版。   ・二月、北馬の画ける『狂歌波の花』出版。   ・冬、八島岳亭の挿画に成れる『狂歌吉原形四季細見』出版。   ・又、文政六年の春成りたる岡田玉山の『伊勢物語図会』此の秋出版せり。   ・此年七月、前年歿せる北尾紹真の絶筆にして且つ第一等の傑作『今様職人尽歌合』二冊出版、歌の判者         は六樹園と真顔なり。   ・此年、東南西北雲の画ける読本『復讐奇談五人振袖』出版。       一楊斎正信の画ける『鳥辺山調べのいとみち』出版。       柳園種春の画ける『現過思廼柵』出版。   ・此年、二代豊国たる国重の挿画になる合巻『女風俗吾妻鑑』出版〟〔以上七項『【新撰】浮世絵年表』〕      〈浮世絵年間〉    なし      (一般)   ・四月始めより、藤八五文奇妙と呼びて癪の薬を售(アキナ)ふもの街を歩行(深き菅笠をかぶり胸当を掛け    る)   ・五月二十六日、浄るり語り清元延寿斎死す(清元姓の元祖なり。延寿の名は二代目也)   ・十二月十九日夜五半時、葺屋町操芝居より出火、両座芝居焼く。元大坂町、甚左衛門町、住吉町、人形    町の辺類焼す。〔以上三項『増訂武江年表』〕       〈一般年間〉   ・ビヤボンと号し鉄にて作りたる笛行はる。小児の玩とす(一に津軽笛といふ)〟   ・是の春、両国広小路にて出雲の神事舞興行。   ・「東都近郊図」板行(一枚摺、中田惟然撰)〔以上三項『増訂武江年表』〕    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p350(藤岡屋由蔵記)     ◇歌川豊国逝去 p349   〝正月七日    浮世絵師歌川豊国死、五十七、三田聖坂巧雲寺ニ葬す。称熊吉、一陽斎と号す、哥川豊春門人にして一    家をなし、享和以来世に行れたり、門人数多有之、柳島法性寺の碑陰に見へたり〟
   「初代歌川豊国」 五渡亭国貞画 (文化デジタルライブラリー「歌舞伎事典」)     ◇ビヤボン p350   〝此節(二月頃)世上にて琵琶音といへる鉄にて拵し笛、流行致すなり。     琵琶ぼんと吹は出羽どん/\と金がもの言ふ今の世の中    此節の流行唄に、持揚てさせもしや何の事はないと言事はやるなり    右琵琶音の笛とさせもせと言事、御停止之御触、町中ぇ出るなり〟    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥120(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝津軽笛といふ鉄にて作りたる笛を小児玩ぶ事流行、其鳴音ビヤボンと聞ゆ、之に依て笛の名とす、     落書 ビヤボンを吹けば出羽殿(デハドン)/\と金が物いふ今の世の中    後に今の笛を止めらるゝは、此落書によれる歟〟   〝四月初より藤八五文と呼て積聚の薬を売もの、三度飛脚の菅笠きて胸当して歩行〟   〝五月廿六日、浄るり語清元延寿斎死、乗物町河岸にて刃にて突かれたりと云【延寿の名は二世なれども、    清元と一派になりし祖なり】其由しれず、其頃沙汰ある賊の所為か、夏より秋かけて刃物持てありく盗    賊有、町々夜番繁かりしかば賊のさた止む〟   〝両国広小路に、神事舞見せ物出る〟   〝此頃小児の玩物に松風こまと云もの有、独楽といへども笛也、竹にて作り糸を付て両端を引鳴す、音シ    ウ/\と云、(図あり)大さ定りなし、此糸の輪に指をかけて、糸をためめて左右へ引張ば、シウ/\    と鳴る故に、小児はしう/\ごまともいふ、こまとは将棋のこま抔いふ駒の意也、或はスベタ駒ともい    ふとか〟    ◯『【新撰】浮世絵年表』p200(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   〝正月七日、初代豊国歿す。行年五十八歳。(初代豊国は倉橋五郎兵衛といへる木版彫刻師の子にして、         父は歌川豊春の知人なりしより、幼時より豊春の門に遊び、同門豊広と共に浮世絵界に名声         を博することに至りしなり。俳優似顔絵は其得意とするところなれども、前半生の読本等の         挿絵も亦豊国独特の妙を有し、師の豊春よりは遙に門人も多く〝、歌川派を盛んならしめた         るも豊国一人の力多かりしなり。一陽斎と号せり)    ☆「文政九年 丙戌」(1826)   (浮世絵)   ・正月、国貞の画ける『三芝居役者細見』。       岳亭の画ける『略画職人尽』。       北渓の画ける『額面狂歌集』。       歌川国直の画ける『狂歌百将図伝』出版。   ・四月、北渓の画ける『狂歌鼎足集』。   ・六月、暁鐘成の画作『世話千字文絵抄』。       北渓・国貞・北馬・国直・辰斎・北斎等の画ける『狂歌の集』。       鍬形紹意(北尾政美の子赤子と称せり)の挿画になる『松屋叢考』出版。       〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・前年文政八年より冬にかけて疱瘡流行せしかば、渓斎英泉の画ける『疱瘡軽口ばなし後編子宝山』(軽    口ばなしは享和三年の出版にて貞之の画なり)といへる紅摺の絵草紙出版せり、世に疱瘡絵と称するも    のこれなり。   ・此年、二代豊国、歌川豊国と署名しての挿画ある合巻『尾上松緑百物語』出版〟    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月、回向院にて、相州箱根荒人神開帳   ・二月、浅草唯念寺にて、下野高田山如来開帳。   ・三月九日、儒師亀田鵬斎翁卒す(七十五歳、名興、称文右衛門、善身堂と号す。下谷金杉に住す)   ・七月、遊女玉菊百年忌。   ・十月二日、狩野素川章信卒す。〔以上五項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉    なし    ◯『藤岡屋日記 第一巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇近藤重蔵 百姓殺害一件 p374   〝文政九戌年十月六日     近藤重蔵、渋谷新富士にて百姓切殺し一件 落着     遠島        近藤富蔵 二十四     分部左京亮へ御預ヶ 近藤重蔵 五十六     (以下略)    (落首)新ふじのそばで近藤手打にし        蕎麦切が是きり近藤仕舞なり        近藤もこんどは運の月かげや其身もなすむ重蔵がとが〟        〈本HP「浮世絵事典」の「富士」参照〉    ◯『増訂武江年表』2p76(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝今年遊女玉菊が百年の忌に当たれりとて、浅草新堀永見寺に墳墓を営む(石碑に菊顔玉露享保十二年六    月二十五)と鐫(セン)せり。玉菊が事は前にもいふ如く、角町中万字屋勘兵衛が抱(カカエ)の遊女にして、    享保十一年三月二十九日二十五歳にしてみまかれり。浅草新寺町光感寺へ葬りける事は「袖さうし」其    の余の冊子どもに明らかに見えたり。永見寺は万字屋が菩提所なれば、墳墓を営みしよしなれども相違    の年月の記し、戒名も跡にてまうけたる物と見ゆ)     筠庭云ふ、百年忌中といふは誤りなり。荻野梅塢といへる者、玉菊が墓所を或るものをそゝのかして     繕ひ、碑を立てけるはこの前年なり。其の文に今文政八年乙酉五月十九日は、玉菊がうせし日より百     歳に余り二十とせの年過ぎてこゝに建つるなり。山崎久作といふもの、この「玉菊考」あり。さて今     世に吉原燈籠といふ事は、玉菊より起れりといふが、普通の説なれども誤りなるべし。また玉菊拳相     撲の手覆といふもの、京伝が「奇跡考」に出たるを、「玉菊考」にも真と心得たり、これ又大なる誤     りなり。それらの事繁ければこゝに記しがたし。「嬉遊笑覧」を見てしるべし〟    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥121(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝相州箱根荒人神、回向院にて開帳、此時にや、籠細工見せ物境内に出、中は富士の牧狩、看板は時宗朝    比奈草摺引にて有しが、殊の外見事にて、是迄一田正七以来籠細工多かりしが、この様なるは初てなり、    さまで大きからぬ人形、顔手足みな籠にて形よく作りたり、是は岩井町の笊造りの作にて、彩色は橋本    町の油屋庄兵衛が二男吉之助なり【此者一度堤等琳が養子となりしとか】、此後祭礼の引物を造り、又    浅草寺奥山に見せ物出し、看板に金時山姥を作れり、是は今様に出来て一入よく、長き間見せたりき〟    ☆「文政十年 丁亥 六月」(1827)   (浮世絵)   ・六月、勝川春好歿す。(春好は勝川春章の門人にして俳優似顔画を善くし、師の春章と共に壺形の印章       を用ひたるより小壺と称せらる。四十余歳にして中風病に罹りしより左筆となり、晩年は振はず       して終れり、門人春扇亦後に春好と称せり)
  ・正月、広重の画ける『洒落口(ヂグチ)の種本』及び合巻『宝船桂帆柱』出版。蓋し地口の種本は表紙の       画のみ広重画なり。時に広重三十一歳なり。       英泉の門人英斎泉寿の画ける『武者絵早学』。       岳亭の画ける『紫草』。       長谷川雪旦の画ける『江戸名所花暦』。       柳川重信の画ける『狂歌人物誌』。       速水春暁斎の画ける『絵本堪忍記』出版。   ・八月、葛飾戴斗の画ける『万職図考』出版。   ・十一月、戴斗の画ける『校本庭訓往来』出版。〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕      〈浮世絵年間〉   ・此年、肥前国生れにて大空武左衛門といへる大男江戸に来る、時に二十三歳。身の丈七尺五寸、体重三       十五貫目、錦絵に画きたるあり。蹄斎北馬の俳句に、大空のしぐれ飴屋の傘借らん、いへるあり。       此の武左衛門を詠めるなり〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・正月三日、夜九ッ過ぎ、葺屋町より出火、両座歌舞妓并びに操両芝居、堺町、芳町、人形町通り片側、    大坂町、甚左衞門町にて鎮まる。    ・三月九日、西窪光明寺主雲室卒す(七十五齢、山水を画くに巧みなり。又詩をよくす)   ・三月十日より、浅草寺観世音開帳。   ・三月、牛御前開帳。   ・三月、深川八幡宮開帳。   ・九月、神田明神祭礼、御雇祭止み附祭十六箇所に成る。一箇所より一品づゝを出す(曳物三、踊台七、       練物六と定む。引万度と称する物此の時より止む)〔以上六項『増訂武江年表』〕      〈一般年間〉   ・肥前国上益郡矢部庄田所村産、大空武左衛門といへる大男江戸へ来る(今年二十三歳、丈七尺五寸、量    三十五貫目、手平(テノヒラ)一尺二寸、足丁一尺三寸五分といへり。「大空のしぐれ飴やの傘借らむ」画人    北馬)   ・角觝人(スモウトリ)阿武松緑之助、稲妻富五郎横綱免許。〔以上三項『増訂武江年表』〕    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇大空武左衞門 p391   〝五月    肥後国益城郡矢部庄田所村産、大空武左衛門といへる大男、江戸に来る也。     今年廿三才     身丈六尺五寸   量三十五〆目     手平一尺八寸   足長一尺三寸五分      大空のしぐれ飴やの傘借らむ   画人北馬
   「大空武左衞門肖像」 渡辺花山原画・亀屋文宝模写 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥124(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝町々女芸者の類召捕はる〟    ◯『筆禍史』「阿漕物語後編」p112   〝『阿漕物語』の前編四巻は文化六年式亭三馬の著なり、勢洲阿漕ヶ浦の争乱を基としたる小説にして、    例の平次等と共に忠臣孝子烈婦等を描出したるものなるが、此後編は其あとを継げる為永春水の著なり、    『国書解題子に曰く     阿漕物語後編(六巻)式亭三馬の阿漕物語の続編なり、即ち三馬が前帙の例言に「這の書編述未だ稿     を畢らず、全部八巻、先づ半を裂て世に広くす、後帙四本、開市を俟て高覧あらば、余が幸甚しから     ん」と記せるが、其の後其の志を果さずして病没したりければ、其の遺意を受けて門人狂訓亭三鷺     (為永春水)之れを補定し、歌川国安画図の業に与りて、一書を成せる所なり、文政九年丙戌秋七月     の序あり、全編六巻十齣より成れり、但し本書は頗る当時の子女の嗜好に適し、大に其名を博したる     が、風俗壌乱故を以て罰せられ、書は悉く絶版せられたり    如何なる刑罰を受けたるかは未詳なり、又此書絶版と成し事も右の記事にて見るのみ    さて風俗壌乱とは那辺の記事なるかと、試みに通覧すれども、此処ぞと云ふべき点もなし、     (*以下、記事の引用あり、略)    著者春水が後年の『春色梅暦』に筆せるが如き誨淫卑猥の個所はなかりし、之を当時幕府が風教上に害    ありとして絶版を命じたりとは思はれず、或は『東鑑』に拠れる鎌倉時代の物語といふと雖も、実は仮    托にして、近き諷喩の意あるものと認めしにもありしならんか〟
   『阿古義物語』後輯 狂訓亭楚満人(為永春水)作・歌川国安画 〔『筆禍史』所収〕     〈宮武外骨は『阿古義物語』後輯の刊行年を文政十年とするが、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は文政九年    刊とする〉    ☆「文政十一年 戊子」(1828)   (浮世絵)   ・五月二十三日、歌川豊広歿す。歳六十四歳。(豊広は歌川豊春の門人として豊国と共にその高弟たり。           芝片門前町に住し、通称岡島藤次郎、一柳斎と号せり。俳優似顔を画かずして美人画を           善くせり。豊国は市井の美人を善くするに反し、豊広は士分の美人を画くに巧みなりき、           豊国とは同門なれども共に常に中違勝ちなりしを、式亭三馬嘗て『一対男時花歌川』と           いへる合巻物を作し、豊広と豊国とに挿絵を画かせて仲直りの労を取りし事あり。書名           の一対男は即ち歌川派の画工としてその流行といひ豊広と豊国とが一対の男なりといふ           意なり。豊国は門人に国貞と国芳を出だせるに豊広は広重を出だせり。又子息に豊清あ           りしも早世せり)〔『【新撰】浮世絵年表』〕   ・十一月二十一日、等覚院抱一上人逝去あり(六十八齢と聞えし。名輝真、号文詮、鴬邨雨花庵といふ。    尾形光琳の画風を慕ひ給ひて一派を弘めたまへり)     筠庭云ふ、抱一上人そのかみ狂歌をよみて尻焼猿人といふ)〔『増訂武江年表』〕     ・正月、渓斎英泉の画ける『画本錦之囊』『絵本勇見袋』。       国貞・貞景・北渓等の画ける『狂歌四季訓蒙図彙』。       歌川国安の画ける『四十八手最手鏡』出版。   ・三月、歌川国丸・国直等の画ける『活金剛伝』。       国安の画ける『相撲金剛伝』出版。(相撲の書三部まで出版ありしを見れば、此頃相撲道の盛ん       なりし事推して知るべし)   ・四月、北渓の『絵本庭訓往来』初編出版。〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕      〈浮世絵年間〉   ・此年、岳亭定岡の画作読本『俊傑神稲水滸伝』初編出版せり。〔『【新撰】浮世絵年表』〕         (一般)   ・六月十五日、山王御祭礼附祭、今年より二十箇所づつに成る(一ヶ所より一品づゝを出す)   ・七月八日、狩野伊川院法印栄信卒す(五十四歳)〔以上二項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く。〔『増訂武江年表』〕     ◯『藤岡屋日記 第一巻』(藤岡屋由蔵記)   ◇曾我狂言 p399   〝当春木挽町の芝居曾我狂言に、尾上菊五郎にて工藤の役、伜松助、五郎時致の役不出来にて     梅幸さんひとり(ママ)みたき木挽町一だいのめひわく〟        ◇大空武左衞門 p399   〝正月    当春肥後国熊本の産大空武左衛門廿三才ニて、身丈七尺余、但やせ形ちニて、たとわゞ日陰の木の如し、    頭少し小サシ。    去ル年秋の頃、細川家御屋敷へ来り居、去冬当春角力場へも不出、土俵入角力も取不申、錦絵ニ多く出    ル也。    手の形を押たる図出ル也、尤大き成者ニて、往来馬上の人とあたま同じ様なり。      大小      九州の肥後二むまれて江戸十二       四らぬ人七きおほおと小なり〟
   「大空武左衛門」 渓斎英泉画 (山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)     ◇相撲・阿武松緑之助、横綱昇進   〝文政十一子年三月角力に、阿武松緑之助、横綱注連を張、日の下開山となる。    是、谷風・小野川此方初ての横綱也、雷電も谷風を憚りて横綱を掛ず、然るを長州にて八百両程も出し    て横綱に致すなり〟
   「阿武松緑之助」 五渡亭国貞画 (香山磐根氏「相撲錦絵の世界」)    ☆「文政十二年 己丑」(1829)   (浮世絵)   ・七月二日、細田栄之歿す。行年七十三歳。(栄之は幕府の勘定奉行細田丹波守三世の裔、弾正時行の子         にして、名は時富治部卿と称せり。禄は五百石を賜はりし家柄の出なり。初め画を狩野栄川         院典信に学び、後一流の浮世絵画家となれり。号は鳥文斎、版画よりは肉筆画に富み、多く         美人殊に遊女を画けり)〔『【新撰】浮世絵年表』〕      ・正月、北斎の『忠義水滸画伝』。       国貞の『三都俳優水滸伝』出版。   ・四月、大石真虎・歌芳(ママ)・英泉等の画ける『神事行燈』三編。       北渓の『三才月百首』出版。   ・五月、北渓の画ける『本朝狂歌英雄集』『狂歌桂花集』出版。〔以上四項『【新撰】浮世絵年表』〕    〈『神事行燈』の画工「歌芳」は二編を担当した歌川国芳〉     〈浮世絵年間〉   ・此年、歌川国貞の挿画に成る曲亭馬琴作『近世説美少年録』第一集出版。    〔『【新撰】浮世絵年表』〕       (一般)   ・正月、今年の大小元禄十年に同じ、よつて其角が大庭を云々の句を吟じて便利をなしける。   ・三月、鶴が岡八幡宮、永代寺にて開帳(開帳中大火に付、四月七日迄閉帳、其の後再開帳あり)    ・三月二十一日、(江戸大火。芝居三座焼失)武家形類焼夥しく、南北凡そ一里余東西二十余町、焼死溺    死の輩千九百余人と聞けり。   ・六月六日、狂歌堂真顔卒す(七十七歳、小川嘉兵衛。筠庭云ふ、狂歌堂真顔はじめ庵をつくりて、狂歌    の判をしけるとき「狂歌堂もとは汁粉を売りしかば格別あんはうまく出来たり」)   ・七月、一朱銀通用始まる。    ・十月、狂歌師神田庵厚麿終ふ(神田鍋町に住す。「月花とうかれ出たる夜あるきのけさとぢらるゝ雪の    のあしかき」)〔以上六項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉    なし    ◯『藤岡屋日記 第一巻』p413(藤岡屋由蔵記)     ◇当年開帳      武蔵国玉川大明神   茅場町薬師にて    鎌倉鶴岡八幡宮    深川八幡にて     右開帳、大火也。    当年九月伊勢両宮御遷宮之高札、日本橋ぇ建る也〟    ◯『真佐喜のかつら』〔未刊随筆〕⑧311(青葱堂冬圃著・嘉永~安政頃成立)   〝唐藍は蘭名をヘロリンといふ、この絵の具摺物に用ひはじめしは、文政十二年よりなり、予ある時大岡    雲峯が宅に遊びし時、雲峯の言たる、摺ものには藍紙また藍蝋をのみ用るなれど、ヘロリンを用るは利    あるべしといふに【予が出生は江西四谷にて地本問屋を業とすれば也】聊か乞ひ得てすり物に用ひみる    に、藍紙の色などは光沢の能き事格別なる故、狂歌、俳諧の摺物は悉く是を用ひぬ〟    ☆「文政年間記事」   (浮世絵)   ・文政の始めより、大坂の石田玉山が弟子岡田玉山修徳、江戸へ下りて神田紺屋町に住ひけるが、或る日    家を出て後帰らず。常に着たる垢付きし衣服の儘(ママ)にて、路費も貯へずして出たり。其の妻もありて    きん隣のものと倶(トモ)に尋ぬれども行方知れず。其の絵も次第に行はれ、且つ好人物にてありし、惜し    むべし(筠庭云ふ、後の玉山はもと中江藍江が弟子とか。江戸に来て神田明神に為朝の像を図したる額    を納む。下た地わろきにやひわれたりと見ゆ)〔『増訂武江年表』〕      (一般)   ・深川永代寺、鉄砲洲稲荷内、茅場町薬師境内等に石を積みて富士山を造る。   ・盆種の松葉蘭(マツバラン)、万年青(オモト)行はれ、数金を以て売買す。又南天燭の異品を弄ぶ。(千駄木植    木屋勇蔵、盆種の松を造る事工(タクミ)なり。又南天燭の異品をも造り始む)     筠庭云ふ、数金のみならず、小林多兵衛といふ人は、歌よみにて盆種を好み、松葉蘭の異品を得ても     てあそびしを、花戸これを望みて数拾金にもとむ。歌城これを得て蔵書の文庫を造れり。   ・藍摺の法帖流行(筠庭云ふ、藍摺の法帖とはヘル打の石摺をいふにや。ヘルレンスは藍色なり。その国    どもには藍なし。漢土にも舶来を用ゐなるべし)   ・太布の汗手拭はやり出す(寛永の比の草紙に、こはきものといふ件(クダリ)に、太布の手ぬぐひとあり、    昔もありしものなり。筠庭云ふ、此の草紙の太布とあるは地ふとの布にて今いふ太布にあらず)   ・浅草平右衛門町に住し(後深川六間町へうつる、相沢嘉六といふ者、色々の奇巧を案じ造り出す。其の    内四人を以てから臼十六を舂しむるの器、又自在機と号し、居ながらにして機織る器は奇巧なれども行    はれず(から臼は四隣をさはがし自在機は価貴きゆゑ行はれず)煙草を刻む器と、組糸を簡易に作るの    二器は今に行はれたり(筠庭云ふ、烟草を刻む器もとより上方は江戸の地切の如きはなし。皆油を引き    て仕掛ある器にて刻めり。其の器とは異なるか)   ・白き盆提灯切子燈籠廃れ、彩色の草花を画ける提灯行はる(筠庭云ふ、岐阜提灯も他色を用ゐず、ぬる    のみにて画をかけるを好めり)   ・和国橋のほとり新材木町に、二十三屋といへる櫛やあり。いつの頃よりか唐櫛(トウグシ)といふ物を作り    て商ひ始めける。二十三屋とよびける。この家久しく相続しけるが、文政にいたり絶えたり。   ・白金(シロガネ)三鈷坂の山中庵、雑司谷の向耕亭は古き料理やなりしが、これも文政中に絶えたり。   ・晴雨計といへる小さき木偶(デク)を商ふ。手はかるかやのぢくを以て製す。雨降時は自然に持ちたる傘    をさす。   ・神事の挑灯に草画の巴を画く事、霊巌島浜町のちやうちんやより始まりて、草画の輪宝草書の万字も次    第に出来たり。   ・一中節浄るり再びはやり出す。   ・目黒石古坂梅やしき出来る。〔以上十二項『増訂武江年表』〕