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浮世絵師総覧文久元年(万延二年)~三年(1861~1863)浮世絵年表一覧
 ☆「文久元年(二月十九日改元)辛酉」(1861)   (浮世絵)   ・三月五日、一勇斎国芳歿す。行年六十五歳。(国芳は初代豊国の門人なり。江戸神田に生れ、姓は井草、         俗称孫三郎、一勇斎又朝桜楼とも号し、歌川派中玉蘭斎貞秀と共に武者絵に堪能なり)         〔『【新撰】浮世絵年表』〕   ・三月四日、浮世絵師歌川国芳死す(六十五歳、称孫三郎、一勇斎又朝桜楼と号す。初代豊国の門人にし    て、文化の末より板本のさし画を画き、天保の頃より錦絵其の外多く画きて行はれたり)    〔『増訂武江年表』〕        ・正月、二代広重の『絵本江戸土産』八編       一孟斎芳虎の画ける『万国人物図会』出版   ・四月、松川半山の画ける『宇治川両岸一覧』       葛飾為斎の『花鳥山水図式』二編出版〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉    ・此年、京都の浮世絵師西川祐春の画ける『南北太平記図会』三編出版せり    〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・正月より、浅草寺奥山に於いて、秋山平十郎作加藤清正虎狩の活人形、竹田縫之助が作のからくり人形    を見せものとす。活人形は次第にたくみになりたれど、珍らしからねば見物少し    ・二月、両国橋西詰に於いて曲馬興行、見物多し    ・三月三日より四月十二日迄、西新井村惣持寺弘法大師開帳(参詣群集し、奉納物あまたあり)    ・三月三日より六十日の間、回向院に於いて、武州多摩郡高雄山権現開帳    ・三月朔日より四月十八日まで、小石川西岸寺円光大師鏡御影開帳    ・三月十二日より六十日の間、牛込横寺町円福寺にて、駿州岩本実相寺祖師開帳     ・六月十五日より十七日迄、入谷長松寺にて朝顔の会あり。七月浅草寺奥山にもこれあり     ・八月、浅草に於いて異獣と見する。犬の大きさにて角あり。黒毛地に垂る。名を「チヤウエイ」と云ひ、    蛮語にあらずとぞ    ・九月、団子坂藪下辺菊の造物は、忠臣蔵狂言の人形なり    ・九月十五日、神田明神祭礼、恒例の痛り神輿、車楽、附祭等出す    ・十月十日、湯島天満宮祭礼、産子町々車楽邌物等出て、九日には群集せしが、当日雨天にて渡らず    ・今年も根津千駄木藪下の辺、菊の造物多く出来て日々遊観の人多し。巣鴨染井の造菊は、前巻にいへる    如く文化九年の秋より始まり、江城の尊卑日毎に群行してこれを賞しける頃、先考に誘はれてこのわた    見めぐらひしも、明治戊寅の年に及びてはや六十七年の昔となりぬ。夫より後も大かた年々にこれを造    りて此の里の名物とはなりぬ。然るに、造り菊は鄙俗の物として見ざる人あれど、此の時節丹楓(カエデ)    の佳境を繹(タズネ)るの外に花なき頃にして、東京の中央より道を阻つる事も遠からざれば此の辺に徘徊    し、団子坂に名を得し河漏麪(ソバヤ)に一樽を傾け、はるかの野径を眺望し、或ひは此の辺の拍戸(リヨウリヤ)    に酔を催し、衆人とゝもに連牆の芸花園(ウエキヤ)に入り、庭中をながめ、菊の花壇盆種の草木多かるを賞    し、一日逍遙して夕照の斜(ナナメ)なるを惜しむ輩も鮮(スクナ)からず。真にこれ仲秋の一楽事なり    ・秋の頃、異国より渡りし一匹、同〈十月〉十四日より麹町十三丁目裏続き福聚院境内にて見せ物とす。    大さ五尺余あり(前の豹にくらぶれば甚だ巨大なり。見物来る毎に帷(トバリ)をかかげて、見するなり。    其の後橋場におゐて見せけるなり)    ・〔無補〕十一月二十四日、吉原普請落成。仮宅引払付   ・〔無補〕十二月二十五日、石塚豊芥子歿す(六十三歳)    〔以上十五項『増訂武江年表』〕    ☆「文久二年 壬戌 八月閏」(1862)   (浮世絵)   ・正月、五雲亭貞秀の画ける『横浜開港見聞誌』二冊出版   ・六月、二代広重の『広重画譜』出版   ・九月、松川半山・梅川東居の画ける『再撰花洛名勝図絵』八冊出版    〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・正月、両国橋西詰に駱駝と号して見せ物出づ。真の駱駝には非ずとぞ    ・二月十八日より六十日の間、浅草寺町正覚寺にて、中山法華寺鬼子母神開帳    ・二月二十五日より、六十日間、湯島天満宮開帳(本社土蔵造にて此のたび壮麗の美作成れり)奉納小庭    偶人等、又圬者(カベヌリ)の細工にて牛と兎の作物等をさむ奇巧なり。詣人多し    ・二月二十八日より六十日の間、南品川海晏寺観世音、鮫洲明神、舟玉明神、并びに境内弁財天開帳。境    内に芝居興行あり     ・〔無補〕是の月(二月)、小人島出生の親子三人渡来せりとて、矮人(コビト)を見世物とす(人徳四十八    歳、身の丈一尺五寸、妻野女三十二歳、身の丈一尺四寸五分、其の子節徳五歳、身の丈六寸余なり。一    枚絵に出る)    ・三月、浅草寺奥山(艮隅)に仮屋を建て、早竹虎吉再び出る(独楽廻し、軽業、手妻あり)    ・(三月)千駄木辺の芸花園(ウエキヤ)の庭中に、色々の樹木の葉を以て人物其の外の形を造りて見する(各    五節句の趣向なり)    ・六月十五日、山王権現祭礼、車楽邌物等例の通り催し、御城内へも入りけるが、幕府其の外の御覧なし       ・八月より、市谷谷町安養寺境内に、早竹虎吉軽蹻(カルワザ)幻技(テヅマ)独楽廻しの芝居興行    ・深川猿江に水月庵といふ蕎麦屋できる。構への内に大なる池ありて風趣ありしが、七年程にして廃れた    り      ・十月、巣鴨駒込千駄木辺、菊の造物出来る(里見八犬士、二十四孝其の外なり)    ・十一月十四日、暮六時過ぎ、吉原京町一丁目裏屋より出火して、一廓残らず焼亡せり。僑居は七百日の    間、深川黒江町、仲町、山本町、本所一ッ目にてゆるされたり    ・十二月より浅草寺奥山に於いて、怪談活偶人(イキニンギヨウ)見せ物出る(秋山平一郎作、ぜんまい機関竹田    縫之助細工也)〔以上十三項『増訂武江年表』〕      ☆「文久三年 癸亥」(1863)   (浮世絵)   ・正月、二代広重の画ける『諸職画通』二冊       松川半山の画ける『澱川両岸一覧』四冊出版。       一恵斎芳幾の画ける『粋興奇人伝』出版。(芳幾は国芳の門人にして、此年二十一歳なり)       〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月十三日、幕府御上洛御発興ありて、六月十六日還輿あり(東海道陸地通御なり)     〈帰路は海路を帰還〉   ・二月十八日より六十日の間、雑司谷鬼子母神開帳(本堂修復成りしにより、開帳ありしかど詣人少し)    ・二月、両国橋西詰にて駱駝を見せものとす。天保に渡りしよりちいさし    ・四月、両国橋西詰にて、異国渡来の牝を見せものとす。灰毛九尺計(バカリ)あり(三歳とぞ)    ・夏、谷中本行寺境内に幼児集りて相撲の技を催しけるが、次第に長じ、後には何方となく(素人の子供    なり)輻輳して、互いに贏輸(カチマケ)を争ひしかば、其の父母もこれに泥(ナズ)み、美麗なる褌襠(マワシ)    を拵へ、土俵をも築かしめたり。下谷常在寺、本郷真光寺その外所々の寺院塁地等にて催しける。秋に    いたりても猶盛なり(但し、木戸銭桟敷代等は更に受くる事なし)    ・六月の頃より、中渋谷村(宮益町裏)千代田稲荷社はやり出し、日毎に貴賤男女歩を運びしかば、此の    あたりには酒肆茶店を列ね、花を染めたる一様の暖簾をかけ、諸商人出て賑はひける。冬にいたり詣人    やゝ減じたり    ・七月十九日より六十日の間、深川浄心寺にて、甲州身延山祖師七面宮開帳(詣人例より少かりし)    ・九月十五日、神田明神祭礼執行なし。(来々丑年に延びる)   ・十一月、猿若町三座芝居顔見せ狂言なし   ・十二月二十七日、今年再度幕府の御上洛あり。翌年六月二十日還御あり〔以上十項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・此の頃、藪潜(ヤブクグ)りと号し、紙捻(コヨリ)を以て編みたる陣笠、又袋物屋にて大き成る胴乱、毛皮の    大巾着商ふ。又鉄扇行はる    ・此の頃、葡萄鼠といへる染色はやり、女子等此の色を用ふ    ・西洋ブリッキを以て製したる雑器を售ふ    ・西洋画写真絵等、追々行はる〔以上四項『増訂武江年表』〕    ☆「文久年間記事」   (『増訂武江年表』年間記事なし))