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浮世絵師総覧安永元年(明和九年)~九年(1772~1780)浮世絵年表一覧
 ☆「安永元年(十一月十六日改元)壬辰」(1772)   (浮世絵)   ・七月三日、佐脇嵩之歿す。行年六十六歳。(英一蝶門人にして一翠斎・果々観・東窓斎等の号あり)。    〔『【新撰】浮世絵年表』〕   ・七月六日、画人佐脇嵩之卒す(六十六歳。名道賢、称甚蔵。浅草誓願寺中称名院に葬す。初代英一蝶晩    年の門人にして、始めは一水と云へり。嵩谷はこれが門也))〔『増訂武江年表』〕   ・正月、守岡光信の挿画に成る『商人生業鑑』五巻出版。       淇風楼画凉なる者の画ける『当世たわけばなし』、其蝶といへる者の画ける『今様こけころも』       出版。以上二部いづれも浮世読本なり。   ・五月、越秀斎照俊の挿絵に成る『狂歌たからぶね』出版。〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・二月二十九日(中略)午の刻、目黒行人坂大円寺(天台)より出火して(中略)此の火事、長さ六里幅    一里、大小名藩邸寺院神社町屋の類夥しく、焼死者怪我人其の数を知らず。   ・吉原町仮宅、今戸橋場山の宿両国深川八幡前佃町へ出る。芳町の衍艶郎(カゲマジヤヤ)も仲町の仮宅へ出る。   ・四月、四谷内藤新宿駅舎再興御免あり。甲州道中人馬継立の所となりて繁昌せり     筠庭云ふ、内藤新宿の事、御免の仰せ下りしは二月二十四日なり。四月十五日、新宿遊女町見世開き     なり。新宿は享保五年故あつて廃せられたり。其の事くだくだしければ言はず。夫より五十三年を経     て、明和九年願ひ出るもの有りて、又古来の通りハタゴヤ五十二軒、飯盛女百五十人出来たりとぞ。   ・〔筠補〕四月中旬、鯨の片身なるが神奈川海より上る。肉爛れて臭気甚だしく、見物に出たる人皆熱を    煩ひしといふ。   ・大川中洲新地築立成就す。町屋は安永四年に至りて全く成れり(其の地は新大橋より南の方、酒井家白    須家菅沼家御屋敷前通り川岸凡そ三丁余り、坪数九千六百七十七坪余り、茶屋九十三軒有り。其の内、    四季庵と云ひしは北東の隅の料理屋にて、殊に大厦(タイカ)也しとぞ。湯屋は三軒あり。其の余の家数知    るべからず。安永四年より天明八年迄十四年の間也。この間中洲のみ賑ひ、両国橋前後の地至りて淋し    くなりしが、寛政已来元のごとくし。朱楽菅江が編の「大抵御覧」と云へる草紙に、中州の事をくはし    く記せり)。   ・八月、駿河国より両頭の亀出る。これは七月六日、武州荏原郡石河村の百姓孫左衛門といへる捕得しな    り。   ・此の冬、初麿といふ人、日暮里舟繋松に碑を立つ。北海入江貞文を選す。    〔以上七項『増訂武江年表』〕    ☆「安永二年 癸巳 三月閏」(1773)   (浮世絵)   ・正月、勝川春章の『絵本伊勢物語』『錦絵百人一首』、       北尾重政の『絵本子育艸』『絵本義経記』、       弄籟子なる者の画作『絵本江都二色』出版。   ・三月、英一蜂の画を刻せる『英筆百画』出版。   ・(11月)鳥居清長二十一歳、市村座の番附絵本『江戸容儀曳綱坂』を画く。    〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕
     「江戸容儀曳綱坂」鳥居清長画(早稲田大学 演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション「絵本番付」)     〈浮世絵年間〉   ・此年より投扇の戯れ遊び行はれ投扇庵好之なるもの『投扇式』といへる一冊物を撰み、泉花堂三蝶之に    画きて出版せり。   ・此年、春重と署名して画ける『俗談口拍子』といへる冊子あるが、蓋し二代春信たる司馬江漢曩に春重    と称したりしが、或は司馬江漢同人なるべし。江漢此時二十七歳なり。〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕    〈この『英筆百画』(英一蜂画・鈴木鄰松補画)は宝暦八年版の再刊本。また、『投扇式』(「日本古典籍総合目録」     は『投扇興図式』)の作者・泉花堂三蝶は、洒落本『草木芝居化物退治』の安永九年序に〝本名十六兵衛〟、そして     挿絵に〝十六兵衛自画〟とある人だが、この作品以外に挿絵を画いてはいないようだ〉     (一般)   ・「墓所一覧」に、画人宋紫石今年終り、東本願寺中徳本寺へ葬る由記せり。然るに「厳島扁額縮本」に、    安永七年戊戌五月、宋紫石六十三歳にて孔雀を画きたる額を載せたり。よつて徳本寺へ至りて尋ねしに、    石碑あり忌日他慥(タシカ)ならず。又、同寺中宗恩寺に其の家の墓碑あれども、ともに詳かならず。    〔『増訂武江年表』〕    〈宋紫石の忌日は天明六年(1786)三月十一11日〉    ☆「安永三年 甲午」(1774)   (浮世絵)   ・三月十八日、建部凉袋(ママ)卒す(五十六歳、牛島弘福寺に葬す。画并びに俳諧を善くす。寒葉斎と号す)     筠庭云ふ、凉袋とあるは誤りなり。建部綾岱もと真淵に従ひしかど、其の説を非として「詞草小苑」     抔の書を著はしたり。固より俳諧をよくし、世に片歌を起さんとて「片歌道のはじめ」、同「二夜問     答」其の他何くれと著述したれども、終に行はれず。又絵をよくして「寒葉斎画譜」を著はす。加藤     千蔭の跋文あり。千蔭も画を此の人に学びしにや、先生とたゝへたり。されど千蔭は画をよくせず。     綾岱が画は唐絵の流なり。又戯作もあり、「西山物語」「本朝水滸伝」などの類なり。上方(カミガタ)     の人誰やらの随筆に、謝蕪村と此の人の事をいひて、蕪村はもの知らぬ不学もの、放蕩にて家産を破     り、俳諧師とはなれり。画も綾岱に及ばず抔いへりしかど、蕪村が画は時好に叶ひて世に称せられ、     綾岱は不遇いて用ひられず。恨みなるべし。〔『増訂武江年表』〕     ・正月、鳥山石燕の『彩色烏山彦』二冊出版(本画彩画と角画ありて彩色摺なり。其彩色は世にいふフキ       ボカシなりといふ。安間貞翁の話として武江年表に載せあれども、フキボカシは疑はし。明和四       年版の大阪の画工北尾雪坑斎の画ける『彩色画選』はフキボカシの彩色なり。それ等とは大いに       趣きを異にし、普通の彩色摺なり)       北尾重政の『絵本よつのとき』       酔茶亭といへる者の絵本『文武智勇海』出版。   ・十月、大阪の画工山本越鳥斎の『画図珍選』出版。〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕      〈浮世絵年間〉    ・画人鳥山石燕豊房、「鳥山彦(トリヤマビコ)」と云へる絵本二巻を著はす。フキボカシの彩色摺を工夫せし    は此の本を始めとする由、安間貞翁の話也(石燕は周信の門人なり。板刻の画本多し)。   ・此の時代橘の珉江と云へる絵師、もとは縫箔師なりしが、摺込の彩色を工夫し、「職人部類」と云へる    絵本をあらはし、其の外俳諧の点式など製して行はれしが、やがて廃れたり。   ・石燕社中の子興『俳諧午のいさみ』に画く。〔以上三項『増訂武江年表』〕     (一般)   ・四月頃、両国に放屁男(ヘヒリオトコ)見世物に出づ、霧降咲男と云ふ。大評判。平賀鳩渓「放屁論」と云ふ草    紙を作る。咲男は錦画にも出づ。   ・大川橋始めて掛る(俗に吾妻橋と云ふ)。十月十七日渡り始め。〔以上二項『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   ・投扇の戯行はれ、貴賤是れを弄(モテアソ)べり。〔『増訂武江年表』〕    ☆「安永四年 乙未 十二月閏」(1775)   (浮世絵)   ・正月、鳥居清長の画に成る『風流者者附』出版。(清長此時二十四歳。蓋し処女作に非ず)。       鈴木春信の『教訓いろは歌』       勝川春章の『錦百人一首あづま織』       下河辺拾水の『児童教訓伊呂波歌』出版。   ・四月、下河辺拾水の『花葉百人一首』出版。〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、葛飾北斎十五歳にして洒落本『楽女好子』を彫刻せりといふ。   ・此年、北尾重政門人三治郎十五斎画と署して、栄邑堂より発刊、黄表紙の笑話あり、題簽烏有に帰し書    名分らず。〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈一般年間〉   ・大川中洲築立地へ家居建て続き、町名を三股富永町と号し、川辺に葦簀囲ひの茶店をかけ並べ、夏月納    涼殊に繁く、絃歌昼夜に喧(カシマ)し。   ・投壺の技行はる(京よりはやりしと見えたり。大内熊耳の門人田江南といへる人、投壺の礼を研尋し其    の法を伝ふ。「投壺指揮」「投壺矢勢図解」等梓行せり)。   〝薩州より来りし鼇猪(ゴウチヨ)(ヤマアラシ)という獣、神田紺屋町田村元雄が家に在りしが、後浅草寺    境内にて見世物とす。猪の大きさにて、背に長き骨数百本あり。怒る時は此骨逆立て、恐ろしき響きを    なす。     筠庭云ふ、山あらしは豪猪なり鼇字は非なり。又猪字によりて、大きさも其の如しといへるも非なり。     大きさは兎程にして刺毛あり。背の長骨数百といふは甚だ誤れり。頭は小さく体は円し。刺毛象牙の     様にて光あり。末の尖りたる処、黒みあり。逆立つときガラガラと鳴ると云ふ。この見世物恐らくは     偽物なるべし。其の頃(安永元年八月)、豪猪を薩州より執政田沼主殿頭へ献ず。上覧にも入りしと     なり。そを程もなく見せ物にすべき様なし。   ・安永中(筠云ふ、安永四年)鳥山𢮦挍(ケンギヨウ)遊里に赴き、遊女瀬川を身受けし、巨万の金銀を費やせ    り(此の𢮦挍、諸人に金銀を貸して高利を貪りしゆゑ、つひに罪科に処せられしと聞けり)。    〔以上三項『増訂武江年表』〕    ☆「安永五年 丙申」(1776)   (浮世絵)   ・正月、北尾政美の挿画として処女作といはるゝ青本『天狗初庚申』出版。       鳥山石燕の『画図百鬼夜行』、       北尾重政勝川春章の合作『青楼美人合姿鏡』三巻。       北尾重政の『絵本千々武山』、       下河辺拾水の『絵本武者大仏桜』等出版。   ・三月より秋の初めまで痲疹大いにはやりて人多く死す。為に際物として鳥居清長の画にて『童痲疹(ワラン    ベハシカ)のあと』といへる二冊物の本出づ。   ・三月、桜井桂月の『画則』五巻出版。(桜井桂月は雪舟十三世の裔と称し、浮世絵にはあらず)。    〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    〈「日本古典籍総合目録」は『天狗初庚申』の画工を勝川春旭とする。また、桜井桂月を桜井雪館の別称とする〉     〈一般年間〉   ・此の夏遊冶(ユウヤ)の少年、木綿のひとへ物をはれとし好む。藍がへしといふ染めなり。大丸屋にのみこ    れあり。模様剣先嘉房菊、これは本町壱丁目奈良屋の隠居が仇名なり。其の好みにて出来たる菊の小紋    なり。   ・夏より、堺町楽屋新道に女の力持ち出る。もとは大根畑の娼妓なりとぞ。「力婦伝」と云ふ草紙出る。   ・柳橋若竹屋と云ふ船宿の妻、一産に三女を生ず(名を梅松さくといふ。さくは桜の縮語なりといふもを    かし。小唄に作りて街頭に歌ひけるとなり)。〔以上三項『増訂武江年表』〕    ☆「安永六年 丁酉」(1777)   (浮世絵)   ・正月、鳥山石燕の『水滸画潜覧』といへる水滸伝の画本、       湖龍斎の挿画に成れる浮世読本『偏銕挺論』出版。       大阪の浮世絵師竹原春朝斎の挿画に成れる『狂歌寝さめの花』出版。   ・七月、墨江武禅・高嵩谷・流光斎・蔀関月・桂宗信の挿絵に成る『狂歌ならびの岡』出版。    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕    〈『狂歌ならびの岡』を「日本古典籍総合目録」は『狂歌奈良飛乃岡』(仙果亭嘉栗編)とする〉     〈浮世絵年間〉   ・此年、葛飾北斎十八歳にして当時の浮世絵師の大家勝川春章の門に入る。   ・此年の洒落本『当世穴知鳥』に久豊といへる浮世絵師の画けるあり。〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕    〈「日本古典籍総合目録」によると、久豊画は『当世穴知鳥』(松寿軒東朝作)のみ〉   ・当年、絵草紙鱗形屋新板、恋川春町の画作、又喜三二作大いに行はる、「桃太郎後日咄」「花見帰嗚呼    怪哉」など殊に評判あり。〔『増訂武江年表』〕     〈一般年間〉   〝是の年、愛宕下薬師堂の水茶屋桜川おせんといふ美婦名高し。世人仙台路考といふ。    〔『増訂武江年表』〕    ☆「安永七年 戊戌 七月閏」(1778)   (浮世絵)   ・正月、鳥山石燕の『絵事比肩』       勝川春章の『絵本威武貴山』       高橋其計の『絵本続舞台扇』       英一蝶の画を鈴木𥻘松の纂輯模刻せる『群蝶画英』等出版。   ・六月、石川幸元の画ける『俳諧鏡の花』出版。   ・九月、山川昭俊の画に成る『狂歌無心抄』出版。〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕      ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永七年(1778)三月一日記)    〝今年新刻草双紙三幅対紫曽我と云本、久留米侯・松江隠侯・溝口隠侯を作りし故板を削られ、当時世     に流行を留られし由、幸ヒ八百所持ゆへ取寄せ見る〟     〈『三幅対紫曽我』は恋川春町自作・画。久留米侯は藩主・有馬頼徸。松江隠侯は出雲松江藩六代藩主・松平宗衍      (南海公)。溝口隠侯とは越後国新発田藩七代藩主・溝口直温。この三侯を曾我物の三幅対(秩父重忠・工藤祐経      ・曽我十郎祐成)に擬えたもの。工藤祐経が「年来の勤功によりて、是れまで家格になき、一臈別当仰せ付けられ      ければ」とあるところなど、有馬頼徸が「国鶴下賜」を三度受け伊達・島津に並ぶ大藩になったことなどを連想さ      せるのであろう。この草双紙は三侯を批判したものではない。しかし戯作の趣向対象としたこと自体不埒というこ      とで絶板になったのであろう〉     〈浮世絵年間〉   ・此年、北尾政演十八歳の画として処女作『おはな半七開帳利益札遊合』あり。蓋し青本なり。   ・此年、勝川春常の画ける青本数多あり。世人誤りて春章と目す。   ・此年、浦辺源曹・谷久和・芳川友幸・蘭徳斎春童等数々の小説に画く。〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕    〈浦辺源曹は大阪の読本作家伊丹椿園〉     (一般)   ・相撲興行の日数、昔は晴天八日成りしが、今年三月二十八日より、深川八幡境内において興行ありしよ    り、十日と成りし由「我衣」に見えたり。   ・六月朔日より、閏七月まで、回向院にて信州善光寺弥陀如来開帳(此の時、開帳繁昌して諸人群れをな    す。暁七時頃より棹の先に提灯多くともしつれて、高声に念仏を唱へて参詣する者多し。平賀鳩渓、烏    亭焉馬が求めによりて工夫をなし、小さき黒牛の背に六字の名号をあらはし、見せものに出して利を得    たりといふ。又鯰江源三郎、古沢甚平といふもの細工にて、飛んだ霊宝と号し、あらぬ物を見立て、仏    菩薩などの類に作りたる見せもの、鬼娘と云へる見せものなど、いづれも見物多く賑ひしとぞ)     筠庭云ふ、此の時、鬼娘は橋向ふにも似せもの出来て、是れもはやる。「飛んだ霊宝略縁起」は焉馬     述。この見世物はやりて、両国に三ヶ所、山下に二ヶ所出来たり。平賀源内が作「実生(ミバエ)源氏金     王(コンノウ)桜」といふ浄るりに両国鬼娘のみせ物を作りたり。この開帳の朝参りは頓(トミ)に禁ぜられた     り。〔以上二項『増訂武江年表』〕    ☆「安永八年 己亥」(1779)   (浮世絵)   ・正月、鳥山石燕の『続百鬼』       石川豊信の『絵本教訓種』       湖龍斎の画に成る『役者手鑑』       下河辺拾水の『画本瀧の流』。       橘保国の『絵本詠物選』等出版。〔『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉   ・此年、喜多川歌麿豊章と署して『寿々はらゐ』『おきみやげ』等の洒落本に画く。    〔『【新撰】浮世絵年表』〕     (一般)   ・十二月十八日、平賀鳩渓卒す(名国倫、称源内。号風来山人。橋場総泉寺に葬す。一書に安永九子年二    月とも云ふ)     筠庭云ふ、平賀源内、いかなる故有りてか、米屋の悴を殺害したりとのみは、人の知れる所なり。詳     かなることは聞えず。昔日友人山崎氏の許にて、其の子細の書付を見しことありしかど、今記憶せず。     此の書付所持の人あるべし。発狂せしものゝやうに思はれたり。されば天然の終りにはあらじ。    〔『増訂武江年表』〕    ☆「安永九年 庚子」(1780)   (浮世絵)   ・正月、北尾重政の『絵本武徳鑑』『和漢詞徳抄』       下河辺拾水の『絵本雨宿り』出版。       朋誠堂喜三二の著『富留久知喜』に恋川春町画きて出版せるあり。   ・九月、竹原春朝斎の挿画に成れる『都名所図絵』出版。これ名所図絵といへるものの嚆矢なり。   ・十一月、大阪の耳鳥斎の『絵本水や空』出版。〔以上三項『【新撰】浮世絵年表』〕     〈浮世絵年間〉    ・此年、勝川春朗の画ける青本『一生徳兵衛三の伝』『めぐろ比翼塚』出版。蓋し北斎の処女作なり。   ・此年、窪俊満二十四歳、南陀伽紫蘭の名を以て、『玉菊灯籠弁』に画けるあり。    〔以上二項『【新撰】浮世絵年表』〕    ☆「安永年間記事」(1772-1780)   (浮世絵)   ・浮世絵師、鳥居清長(彩色摺鈴木春信の頃より次第に巧みに成りしを、清長が工夫おり殊に美麗に成り    たり)、尚左堂、春潮、恋川春町(倉橋寿平)、歌川豊春(一竜斎)等行はる。〔『増訂武江年表』〕     〈浮世絵年間〉   ◎草双紙(黒本)出版(1点)    鳥居清満画 『こく性や合戦』〔「日本古典籍総合目録」〕     (一般)   ・安永十年、俳人提亭の撰したる「種おろし」と云ふ句集に載る所の、其の時代のはやり物目録、左に略    記する     菓子屋(下谷広小路金沢、本町鈴木越後、同鳥飼、本郷ましや、飯田町とらや、泉町とらや、         飯田町壺屋)     大仏餅(浅草並木、下谷車坂)   軽焼(誓願寺前めうが屋)     蕎麦切(馬道正直、駒形正直、新吉原釣瓶(ツルベ)、深川州崎笊そば、浅草道好庵、堺町福山、         牛島長命寺、雑司ヶ谷藪の内)     船切(麹町ひやうたん屋)     楊枝(ヨウジ)茶筌(チヤセン)五倍子(ゴバイシ)酒中花(浅草境内柳屋其の外)     料理茶屋(深川竹市、同州崎升屋、塩浜大紋や、芝口春日野、深川八幡宮二軒茶屋)     しつぽく(神田佐柄木町山藤、大橋新地楽庵)   田楽(デンガク)(真崎の甲子屋)     (目黒桐屋、雑司ヶ谷川口屋)   生簀鯉(イケスゴイ)(庵崎葛西太郎、須崎大黒屋孫四郎)     麩の焼(かうじ町橘屋惣助)   隅田川諸白(並木山屋)   (芝伊皿子)     御所おこし(御くら前玉屋)   (中ばしおまんずし)   蕎麦切豆腐(木挽町)     あは雪なら茶(回向院前、車坂下亀や)   煎餅(てりふり町翁、吉原きぬた、やげん堀羽衣)     浅草餅(浅草寺境内)     いくよ餅(両国)、此の外あまたあり。末に花鳥の名所、釣の名所をも記せり      筠庭云ふ、此の内飴屋に芝三官飴なし。又生簀鯉の条下に、武蔵屋権左もなきはいかにぞや。   ・相撲取り、谷風梶之助、小野川喜三郎、釈迦嶽雲右衛門等行はる(安永の頃は。大かた深川永代寺にて    勧進角力興行あり)。   ・狂歌師平秩東作、蜀山人、手柄岡持、唐衣橘洲     筠庭、蜀山人は晩年の号なり。此の処などには書くべからず。四方赤良(ヨモノアカラ)としるすべきなり。        ・俳人松露庵鳥酔、「四時游観録」といふ両面摺をあらはす。江戸花暦(ハナゴヨミ)是れに始まるか。   ・浅草寺境内石地蔵尊(因果地蔵といふ)流行。其の後奥山三途川姥像祈願の者多し。   ・婦女の鬢(ビン)さし始まる。   ・裸人形腰折れといふもの造り始む(小石川伝通院大黒天はやり出しける頃、門前の表町角に辰巳屋惣兵    衛といへるもの、田楽菜飯の店を出して行はる。この惣兵衛生質(カタギ)強きをふせぎ弱きを助け、頗る    侠気のものなりしが、若年より神楽やうの真似をして道化踊りをなし、山王神田いづれの祭礼にも出て    踊る。或ひは女のかづらをかぶり小原女となり、巫女の真似をなしてをどり、或ひは諸侯藩中の鎮守の    祭に強ひて召されけれど、金銀は給はれどもうけず。文化の半ばの頃、神田祭礼の時、七十余歳にて出    しの上に登りて踊りしをおのれも看たり。其の頃、七十余歳にして終れり。(再び按ずるに、惣兵衛は    文政四年十月終れり。小石川慈照院に葬す)。   ・山王神田祭礼の時、花万度(ハナマンド)をかつぎ出る事を止められしかば、地車を添へて曳万度と号す。   ・安永中越後の産にて友世といへる大女力持ち、所々へ見せ物出たり。〔以上九項『増訂武江年表』〕