◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
(( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)
〝浮世絵品目
浮世絵 惣名也
大和絵
漆〈ウルシ〉絵 金泥又は墨にてぬりし画に、上ににかはをかくるをいふ
一枚絵 紅絵 江戸画 吾妻錦画といふ
草双紙 赤本 青本 初萌黄色表紙なる故青本といふ。今は黄表紙なれども青本といふ。
唐紙〈カラカミ〉表紙もありし也
同合巻 草さうしはむかしより一冊五丁づゝの定なり。是を三冊つゝ二冊に綴ぢ、或は二冊つゝ三冊
に綴じたるを合巻といふ、半紙にすりて厚表紙の付しを上本と云
役者似顔絵 武者絵〈焦尾琴 浮世絵にいくさは見たり〔花の〕春〈は花〉序令〉
美人画 角力絵 〈名所〉山水〈油画に等しき山水画を中古迄浮絵と号しけるが、今此称なし〉
張交 子供遊 化物 判じ物 狂画
摺物絵 狂歌或は音曲弘会等のすり物也、或大小
切組灯籠画〈其外 切組絵〉替り画 たとふ入絵 〈廻りとうろう画 墨摺 かげゑ〉
読本 (六冊物)中本 百人一首 庭訓の類
掛もの-神仏-美人画 〔山水の浮絵〕 豆絵 〔替り絵〕
双六 歌かるた 十六むさし 目つけ絵
芝居番附 (同)画本 見せ物番附
団扇 鞘画(近頃すたれたり) 〔蔭画〕
画手本 藍摺画(近年の流行なり) 紅摺画 疱瘡小児玩
鳥羽絵〈月岑按るに〉鳥羽僧正の筆意に倣ふの号也、されど近世鳥羽絵と号するものは、手足を長く
画きて僧正の風にあらず、按に法眼周卜と名画苑に載る所の皇起山人全段の筆意に始る歟、
近年鳥羽絵すたれたり
肉筆類
菖蒲幟 絵馬額 神事行燈 羽子板 紙鳶 商人看板 芝居見せ物看板 扇地紙 影絵 焼絵 曲画
猪口ノ画 油画 からくり絵 うつしゑ〟
〈〈月岑按るに〉の書き入れが入っているところをみると、この「浮世絵品目」の記述は、斎藤月岑が写した石塚豊介子
本に既に備わっていたものと思われるが、月岑もこの括り方には同意しているのであろうから、とりあえず、幕末の江
戸人が捉えていた浮世絵の範疇と考えて差し支えあるまい。これを別に云えば、浮世絵師の仕事一覧と見てもよいので
あろう。この分類がどのような基準によってなされているのかわかりにくいところもあるが、今試みに再構成してみる。
まず「大和絵」とあるのは浮世絵が大和絵の系譜にあることを確認したものであろう。次ぎに版画と肉筆との大別し、
以下、形態と用途・画題・画材・画法等で分類しているようだ
◎形態
△版画:一枚絵-紅絵・江戸画・吾妻錦画
版本--草双紙(赤本、青本)・合巻・読本・中本(滑稽本、人情本)・絵本(芝居、画手本、豆絵)
往来物(百人一首・庭訓の類)
摺物--狂歌会・音曲弘会・大小(絵暦)・番付(芝居・見世物)
用途:掛け物(神仏像、美人画)・灯籠絵(切組み、廻り)・遊具(子供遊、双六、歌かるた、十六むさし、
目つけ絵)・団扇絵・疱瘡除け
△肉筆
用途:幟・額・行燈・看板(商売・芝居見せ物)・遊具(羽子板・紙鳶)・扇地紙用の絵・猪口用の絵
からくり絵・うつし絵・曲画
◎画題:役者似顔絵・武者絵・美人画・角力絵・名所山水(浮絵)・化け物・判じ物
◎画材:漆絵・紅絵・紅摺絵・藍摺絵
◎画法:浮絵・鳥羽絵・狂画・鞘絵・蔭絵・張交
榎本其角編俳諧集『焦尾琴』にある序命の付け句「浮世絵に軍(イクサ)はみたり春の花」を武者絵としている
〈浮世絵が江戸の生活の中に広く深く根を下ろしていたことをよく物語るリストである。芝居、遊郭、見世物関係はもち
ろん、祭礼といった晴の行事にも彩りを添える役割を担っていたし、日常の享楽に供する消耗品のような求めにも対応
していた。また識字層の拡大に対しては様々な板本を提供して娯楽・教養面での需要を掘り起こしていったし、多様な
趣味の世界には摺物を流通させて感興を添えていた。これら浮世絵の多くは、何かの説明であったり何かを効果的にす
るためのものであったりと、いわば実用性を担わされているのだが、時に天才的な職人が出現して、その実用を超え、
絵それ自体に価値を求めうる絵画として自立性をもった浮世絵をも生み出してきた。浮世絵の頂点を極めたとされる春
信、清長、歌麿、写楽、北斎、広重、国芳等、彼らはこうした裾野の広い膨大な仕事の中から超越して、浮世絵を実用
から普遍的なものに昇華させた絵師たちなのである。彼らは画く事で生活費を稼ぐ町絵師だ。評判の取れる、売れる絵
を求めて、江戸人の嗜好を先取りするかたちで、画法・画題・画材を追求し続けた。そしてその結果が世界にも類例の
ない浮世絵絵画をもたらしたのである。今やその稀な浮世絵は世界の絵画史の中にきちんと位置づけられたいる。した
がって浮世絵をその芸術面から研究評価することはいうまでもなく大切である。しかしそれだけでよいだろうか。この
「浮世絵品目」を見ると、明治以前の江戸人の浮世絵に対する視野が随分広いことがわかる。その多くは江戸人の生活
に直結している。つまり浮世絵は江戸の文化に独特な彩りを添えているのである。したがってそうした文化史的な視点
で浮世絵を見ることもまた必要なのではないか。2010/02/17記
後年、明治の鏑木清方は、浮世絵という言葉を嫌って、浮世絵が日常生活と深い関連を有することから、「社会画」と
称し、また「生活芸術」というジャンルを立ててその筆頭に置いたことがある。(注1)「浮世絵」という名称は嫌って
も、江戸の浮世絵が切り開いた日常生活面における多用な広がりを、明治の清方もまた目の当たりにしていたのである。
現代は、浮世絵を西洋からの芸術観でみるあまり、斎藤月岑や鏑木清方には見えていた多様な浮世絵の世界を、むしろ
視野を狭くして見ているのではないだろうか。2013/07/23追記〉
(注1)本HP「その他-明治以降の浮世絵記事」鏑木清方の記事参照。
(「☆ 浮世絵」の項『鏑木清方文集』「制作余談」)
「私達は浮世絵といはれるのが厭で、社会画といふ名を付けて自ら慰めて居た」
(「☆ 生活美術」の項『明治の東京』「明治の生活美術」)
「明治の生活美術を語るに、まず、これら風俗画と、清親一派の風景画が最初に思い泛(ウ)かぶ」
(これら風俗画として、清方は芳年の「東京料理頗(スコブル)別品(ベツピン)」や「美人七陽華」をあげる)
☆ 明治二十五年(1892)
◯「読売新聞」(明治25年12月19日記事)〈( )は原文のよみがな。なお原文の漢字はすべてよみがな付き〉
〝歌川派の十元祖
此程歌川派の画工が三代目豊国の建碑に付て集会せし折、同派の画工中、世に元祖と称せらるゝものを
数(かぞへ)て、碑の裏に彫まんとし、いろ/\取調べて左の十人を得たり。尤も此十人ハ強ち発明者と
いふにハあらねど、其人の世に於て盛大となりたれバ斯くハ定めしなりと云ふ
凧絵の元祖 歌川国次 猪口絵 元祖 歌川国得
刺子半纏同 同 国麿 はめ絵 同 同 国清
びら絵 同 同 国幸 輸出扇面絵同 同 国久・国孝
新聞挿絵同 同 芳幾 かはり絵 同 同 芳ふじ
さがし絵同 同 国益 道具絵 同 同 国利
以上十人の内、芳幾・国利を除くの外、何れも故人をなりたるが中にも、国久・国孝両人が合同して絵
がける扇面絵の如きハ扇一面に人物五十乃至五百を列ねしものにして、頻りに欧米人の賞賛を受け、今
尚其遺物の花鳥絵行はるゝも、前者に比すれバ其出来雲泥の相違なりとて、海外の商売する者ハ太(い
た)く夫(か)の両人を尊び居れる由〟
〈浮世絵師の画業は、観賞用の役者絵・美人画・風景画といった華やかな領域にとどまらず、大人や子供の視覚に多彩
な彩りを添える宣伝や情報用の挿絵、そして遊具や生活必需品に対する絵付など、市民の日常奥深くしかも多岐にわ
たっていた。明治二十五年頃はというと、あれほど盛んだった合巻などの版本製作も皆無になり、浮世絵師の仕事領
域は次第に減少の一途をたどっていたが、こうした日用品への絵付けのような量産型の画業面では、まだまだ浮世絵
師に対する需要は旺盛だった。それが明治三十年代にはいり、写真製版など西洋伝来の印刷コストが下がり始めるや、
これらの世界の需要も機械にとって代わられることになっていく〉