※底本 …『無可有郷』詩瀑山人(鈴木桃野)著・天保年間記(『随筆百花苑』第七巻所収 p381)
〝浮世絵評
浮世画の名人は、よく其時の風俗を写すをよしとす。然れども画の名ありてより此かた、筆意といふこ
とを言ふ故に、蘭画のごときものは品を下して画に齢せず。是におゐて祖僲、応挙の輩写生より筆意を
加へて両全の謀をなす。ひとり肖像似顔に至りて、苟もよく似たらんものを名人とす。筆意になんかあ
らん。扨草画の筆意とは何事をいふや。筆のあたり、あまりスヂを引きたるよふにならぬことを云ふな
らん。是また(ママ)なり。筆力遒勁といふは何ごとぞ。早くかきてたわミなきをいふなり。是また俗説な
り。古人の筆意といふは、筆に無理なく、順逆ありて、其間柔らかく円転するをいふ。要するに筆に走
られず、筆をはしらすることなり。然るときハ物の形おもふ侭に出来、細毫末に至りても、其形ち分り
よくはたらきて出来る。譬へば人のはなを画くとき、はな筋より小鼻に至る迄のこゝろもちなり。画を
学ぶ人各こゝろへあらん。此に具説せず。筆力遒勁ハハ(ママ)鍾馗の衣紋など破筆を用ひたるが、縦横に
黒色濃淡あるをいふ人おほし。豈然らんや。よく筆を提へて手のふるひなき人の、上下左右に筆を用ひ
しこそ遒勁ならん。古人の王覇の論こゝより起る。唐画を学びし人各するところなり。然れども近時の
唐画和絵におとりて、覇のミあるをしりて、王道あることをしらず。只山水家などにていふ人あるのミ。
予が論ずる所は浮世絵なれば、右の論(画に王道覇道のありしこと)益なしといへども、筆意の説論ぜ
ざるべからざるものあり。北斎似をかゝず、あたはざるにあらず。せざるなり。国貞山水花鳥をなさ
ず、あたはざるにあらず、是またせざる也。これ王道ならざる故なり。此二人覇気の甚しきもの故、下
してやすきにつく事能はず、おもふまゝに、おのれが長をずる所は各古今一人なり。其餘名人多しとい
へども、みな王覇をかねて而して漸なるゆゑに、何にても出来ると雖も、彼二人長ずるところの如くな
らず。世北斎筆意よし国貞形似よしといふ。皆誤りなり。北斎の画ところ山水花鳥人物みな如此、筆者
(ママ)ならざるべからず。是を哥川家にて絵かゝばあしからん。国貞の画く俳優人物、その餘の機械また
如此。筆意ならざるべからず。是を北斎流にて画けばあしゝ、ゆゑに各相容れず、一流を立ること其宜
しきを得たり。然るに柳川重信、哥川国直の徒相混じて用ゆ。愈其至らざるを見る。予その人に為に一
言して迷ひを解かんと欲す。北斎の画を見るときは、人其筆の曲を見てよろこばしむ。繪よふはいかな
るものなりとも構ふことなし。人物の形は只奇なるをよしとし、人物鳥獣の形ちも其理なきことをかき
て、人を驚かす。何ぞ其人物鳥獣に相似たるを期とせんや。往々鬼魅魍魎を画く、此其長ずる所なり。
其画くところの人物鳥獣生動のもの少しも心ありて働くものなし。みな作り物なり。其働く様はみな北
斎絲を引き心を入て働かすなり。その物々の心にあらず。故に見て奇なり。国貞が絵は、似がほ美人其
餘春本の仕組といへども、皆世人の目にありて、只他人のかゝざるを恨みて居たる所を、其侭画くあり、
たま/\未見ざることを画くといへども、人々心の内にかくあらんと思ひ、夢などにて見るやうなるこ
となり。故に見る人其心を忖度されたるに驚きて、筆意などのことに及ぶに暇あらず。然ども筆意無理
多ければ、人人往々其見るに邪魔なるを覚ゆることならん。国貞な<ママ>し。また筆のきゝたる者にあら
ずして何ぞや。況や春本は作者の用意を汲取、邪正男女老若此人々の五情を備へざれば本本に當らず。
就中柳亭の芝居がゝりは、狂言の筋のみにあらず、役者の身振りを専らとす。故に役わり其人を得ざれ
ば趣向面白からず。国貞其意をしり、此人此役をするときは、如此ならんと、心の思ふ処を計りて画く
ゆへに、人みたることもなき古人なども、成程如此ならんと思ふ。これは長ずる所なり。如此論じて而
して後初て平等ならんかし〟